新型コロナウイルス惨禍
珍しく娘からメールが届いた。またもや何かのおねだりかと、メールを開く。「家にさ、トイレットペーバーとティッシュってある?。あるなら少し送っていただきたいのだが‥」。おねだりには違いなかったが、深刻であった。買い置きが一切ないという。
知人の話によると、インターネットの新聞デジタル記事で、トイレットペーパー買いだめ騒ぎが近隣諸国で発生し、日本でもこのような事態になるのではと報道された翌日、スーパーなどに買い物客が殺到し、瞬く間に店頭から品物が消えてしまったとのこと。
近所のコープとうきょうといなげやに行ってみた。トイレットペーパー、ティッシュはおろか、キッチンタオルやポケットティッシュさえも棚からすっかり消えている。米やレトルト食品、パン、缶詰なども品薄状態となっていた。さながら、9年前の東日本大震災直後を見ているようである。
マスクが品薄になるのは当然であろう。花粉が飛び交い、加えて新型コロナウイルスである。しかし、トイレットペーパーは理解しがたい。ティッシュも例年、花粉が飛び交うこの時期に多く使用されることはあっても、店頭から消えるなどということはかつてなかった。赤痢が蔓延しているのであれば、わかる気もするのだが。
生産が続く限り、トイレットペーバーなどの品物がなくなることはありえないことは、冷静に考えればわかることである。今日の事態は、日本人の知的水準が問われるものとなった。
米やレトルト食品、パン、缶詰が品薄になるのは理由がある。2日(月)から全国ほとんどの小・中学校、高校が休校させられたことから学校給食が中止になり、昼食を家で食べるか弁当を持たせざるをえなくなり、米やおかず、あるいはそれに代わるものが必要となったからである。安倍首相の助走なしのいきなりの「休校」発表が、米不足の事態を招いてしまったのである。
とりあえず、我が家のトイレットペーパー2個とティッシュ2箱を娘に送った。しばらくすれば、店頭にはいつものように、あるべきものがあるべき場所に当然のように置かれている光景が取り戻されるであろう。それまでの辛抱である。
娘に品物を送ったあとに、一抹の不安が横切った。娘は一人暮らしである。一方、こちらは二人暮らし。送ったあとの残りのトイレットペーバー、ティッシュで何日、しのげるだろうか。今日も、いなげやに顔を出す。見事なまでに、ない。知人いわく「開店する1時間前から並ばないと、手に入らない」。
店頭に普段のように品物が置かれている状況になるのが先か、はたまた紙がなくてトイレで右往左往するのが先になるのか‥‥。脳裏に子どもの頃のわが家の光景が浮かぶ。郷里・越前のわが家は、おつりがくる、いわゆるポットン便所であった。当時、トイレットペーバーなどはなく、傍らには古新聞が置かれていた。もちろん天下の「赤旗」である。それを手で揉んで柔らかくして使用したものである。ついに、その再来か?。わが家のカウントダウンがいよいよ始まった。
還暦祝い
還暦を迎えた日から一カ月余過ぎた3月末、還暦祝いなるものをいただいた。カミさんが金を出し、モノは娘が選んだらしい。場所は、新宿歌舞伎町。都内で離れて暮らす娘と夕食をともにするというので、私にもお声がかかったという次第。
歌舞伎町って、こんなに人が多かったっけ?、と20代の頃にしょっちゅう足を運んでいた場所にとまどいを感じる。日本語ではない言葉があちこちで飛び交う通りを、夕食会場めがけて歩く。ときおり「お兄さん、×××ランドはいかがですか」「裏ビデオありますよ」と声をかけてくる。夜の歌舞伎町は、女の子一人ではとても歩ける場所ではないな、と思う。
迷いながらも会場に到達。ビルの4階にある夕食会場には、仕事帰りと思われる若いグループが何組も。金額も手頃なのであろう。事前に予約しないと満席になる、とカミさんが言う。迷わなければ、新宿駅東口から徒歩5分くらい。一人では歩けないと思われるこの場所に、20代前半の我が子がやってきた。職場の仲間と、このあたりで飲み会をよくやると言う。不安に思うのは親だけなのかもしれない。
「×××ランドはいかがですか」「裏ビデオありますよ」と来る途中に声をかけられたとカミさんに言うと、「裏ビデオって何?」と聞かれた。説明が面倒なので「ビデオを裏から見るんだろ」と答えた。カミさんはそれ以上、何も聞かなかったが、娘の口元が笑った。
ひさしぶりに会う娘に、親はあれこれ聞く。「手取りはいくらもらっているんだ」「仕事はどんな具合か」「5月の連休はどれくらい休めるのか」などなど。娘は初めは一つひとつ答えていたが、そのうち面倒になったのであろう。「あ〜、うるさい。ご飯を食べようよ」。元気であれば、それで良い、と父親は思う。
娘が私の前に手提げ袋を差し出した。「還暦おめでとう」。ネクタイとネクタイピンだという。お父さんがもっているスーツに合わせた、とのこと。「必ず使ってやってね」とカミさん。家に帰ってから広げてみる。ほう、これが娘の見立てか‥‥。
こんな立派なもの使えるだろうか。使うのがもったいないな、とも思う。少し太ったという娘。直視するにはまぶしい年頃になっていた。
拝啓 親父殿
拝啓、親父殿。いかがお過ごしでしょうか。今年の東京の梅雨は気温の差が激しく、変化に付いていくのに四苦八苦しています。早々に紫陽花が咲き、すでに終わりの時を迎えようとしています。この分では、今年の夏は早くやってくるのではないでしょうか。そちらはどのような按配でしょうか。
息子は、みちのくでの仕事が2年目に入り、連載記事を担うまでに育てられています。東京で読まれる紙面に、たまに息子の名を見つけることがあり、カミさんともども喜んでいます。親としては、たいへんありがたいことです。5月の連休前に、カミさんと2人で息子のところへ行く機会を得ました。息子のアパートは一人で暮らすには十分すぎるほどに広く、部屋の中は私に似て、そんなに散らかってはいませんでした。しかし忙しすぎるのか、アパートでの生活感はあまりみられません。外食中心の生活だと思います。とにかく身体だけが心配です。
娘はこの春から社会人になり、親元を離れて暮らしています。携帯電話があるので、メールをすれば文字で返ってはきますが、向こうから先にくることはありません。かといって、こちらから電話をかけるほどの用事もないので、音信不通状態です。あ、そうでしたね。親父には「メール」そのものがなんのことなのか、ちんぷんかんぷんですよね。職場までは電車で一時間30分かかると言っていました。ちゃんとやっているのか、睡眠はしっかりとれているのかなど、気にかかることばかりです。娘が使っていた部屋は、娘が出て行った時のままに散らかっています。誰に似たのかと、隣で寝ているカミさんを見てしまいます。
おふくろは郷里で達者に暮らしています。小さいときから人一倍苦労してきた人なので、その分、多くの楽しみを味わってほしいと思います。弟夫婦の揉め事につきあいながらも内孫に囲まれて、それなりに幸せに暮らしています。目も耳も頭脳もしっかりしています。親父もたまには会いに行ってください。きっとよろこんでくれると思います。
子どもたちが家を出て、カミさんと2人暮らしになりました。それぞれが仕事に追われ、会話はあまりありませんが、一応は毎日、顔を合わせています。いまのところ別れ話は出ていませんが、このまま行けるという確証もありません。年始に届く友人からの賀状には「別れた」「捨てられた」の文字が見受けられ、明日は我が身と気を引き締めています。親父もそんな時があったのではないでしょうか。
時間に追われる日々を送るなかで、いつまで走り続けなければならないのだろうかと、フト考えることがあります。もしかしたら、倒れるまで走り続けることになるのではないかとも思ったりします。もう少し時間に余裕がほしいと思うこの頃です。すでに59歳。来年は還暦です。私もそんな歳になったんだなぁと、我ながら驚いています。しだいに身体にガタがきはじめています。
思い出すのは笑っている時の顔です。夢枕どころか、夢にも現れることがなくなっています。いったいどちらに行かれているのでしょうか。たまにはお会いしたいものですね。
早いもので、10年になります。子どもたちの成長を見ていただくことができなかったことが残念です。白髪が増えてきました。腹も人並みに出てきました。近頃はとみに、顔が親父に似てきました。少なくとも親父の歳までは生きなければと思っています。旅立たれて丸10年。今日6月22日は、あなたの命日です。
初任給
「初任給」という文字が新聞などに登場する。この春、大学や高校を卒業して就職した人が、初めての給料を4月末に手にした話題が記されているからであろう。私の初任給は41年前にさかのぼる。当時は銀行振込ではなく、茶封筒に入った現金を直接、手渡たされていた。金額がどれくらいだったかは全く記憶にないが、初めて手にした給料袋のなかに聖徳太子や福沢諭吉をいくつも見た時のことは、おぼろげながらも覚えている。給料袋を落とさないように、奪われないようにと、脇目もふらずに帰ったことだと想像する。
しかし、今も当時も印刷業の給料は低い。幸いにも会社の寮で生活していたことから、なんとかその給料で一ヶ月を過ごすことができたが、アパート暮らしでは到底、やってはいけなかっただろうと思う。だから、NHKの朝の連続テレビ小説「ひよっこ」のような親元への仕送りなどというわけにはいかない。いかに一ヶ月をやりくりするかで精一杯だったと記憶する。
入社してしばらくすると、交代制勤務のローテーションに組み入れられた。夜勤に入ると夜勤手当が付き、残業をすると残業代も出る。夕方から勤務の場合は会社が夕食を出してくれるので、その分、食事代が浮く。そのため、そのあたりから徐々にフトコロに余裕が出るようになった。
ならば仕送りをするのかといえば、そうはならなかった。銀行口座をつくり、わずかずつではあるが貯金をしはじめ、ラジカセやステレオなどの電化製品をローンを組んで買うことも覚えた。洋服を買った記憶は数えるほどしかない。いつも着たきり雀だったように思う。貯めた金は夏と冬に実家に帰省するたびごとに減少し、またせっせと貯めていくという繰り返しだったように記憶する。
寮生活は3年で終わった。寮を出ないと、新入社員の入る部屋が確保できないからである。風呂なし2Kの木造アパートであるにもかかわらず、3万1千円の家賃だった。たしか給料手取りは10万円を少し超えた程度だったのではないだろうか。給料日近くになると財布の中身が悲しいほどに寂しくなり、とても心細かったのをハッキリと覚えている。
「初任給」という文字を新聞で見つけ、そんなことを思い出すのは、娘がこの春、就職し、しかもアパート暮らしを始めたからではないだろうか。
親が東京を不在にしていた連休の前半、娘が小金井市の実家に足を運んだ。自分の部屋のこまごまとしたモノを整理するためである。娘がやってきたその日の夜、私たち親は帰宅した。娘はすでに自分のアパートに戻っており、行き違いになっていた。
電気を付け、居間に行くと、小箱2つとメモが置いてあった。娘の筆跡である。メモには次のように記されていた。「初任給で買いました!!。左がお父さん(こげ茶)で右がお母さん(ベージュ)です。よかったら使って下さい。今までどーも!!」。
箱を開けると、そこには腕時計があった。カミさんは「見てごらん。腕時計だよ」と手にとってはしゃいでいたが、私は腕時計を目にしたとたん、申し訳ないという思いが湧き出てきた。どれくらいの買い物だったかはわからない。しかし入社したての給料である。けっしてゆとりの持てる給料ではなかったはずである。娘は決めていたのであろう。初任給が出たら両親に何かプレゼントをしようと。台所には娘が食べたと思われるカップ面の残骸が、ひっそりと置かれていた。
翌日から、私とカミさんの左手首には、娘が初任給で買った腕時計が巻かれていた。
夫婦二人暮らし
近頃は、子どもが小さい時のことをよく思い出す。私たち夫婦はお互いに忙しく、十分に子どもに接することができずに日々を送ってきたからであろうか。カミさんは帰宅が遅い。時には夜中になることもある。かたや議会が長引けば、私も帰りが遅くなる。夕食はスーパーで弁当を買い自宅で一緒に食べて、議会へと駆けつけた。どちらかが帰るまで、子どもたちはテレビ漬け。風呂に入れてやれないこともあった。子どもたちに申し訳ないと思いながら、夫婦は駆けずり回っていたのである。
そんな子どもたちが、いまは我が家にいない。息子は2年前に東京を離れた。娘も就職が決まり、すでに家を飛び出している。そんなわけで、夫婦だけの生活に突入してしまった。
娘が家を出て夫婦二人暮らしになったときに、それまでは考えにもおよばないことが起きた。家の中が静かになったのである。娘がいるときはテレビの音が聞こえ、娘の高笑いが家中に響いていた。しかしいまは、その高笑いが消え、静まり返っているのである。もちろん、私やカミさんだってテレビは見る。しかし、あの高笑いには到底及ばない、ささやかな笑いである。娘の高笑いを聴きたいと、近頃はとくに思うようになった。
“付かず離れず”が私の考え方である。子どもたちには、その考えで接してきた。だからといって放っておくわけではない。絶えず子どもの顔色を見ながら、日々を過ごしてきた。手出し口出ししなくてもいいと思われるものは子どもたちの裁量に任せ、これはちょっと言っておかなければならないなと思うことは、子どもたちの顔色を見ながら述べてきた。カミさんは、私の子どもに対する指導・言い方に不満を持ち、もっと真正面から問題点を指摘すべきと私にぶつけてきたが、子どもの頃の私自身の気持ちを振り返りつつ、子どもたちの思いもそれなりに理解できることから、やんわりと私は子どもたちに伝えてきた。そんな接し方が正しかったかどうかはわからないが、2人の子どもは大学まで進み、自分で仕事先を見つけて独立していった。
“付かず離れず”はカミさんとの距離も同じである。仕事に追われるカミさんは、帰宅時間が決まっていない。帰宅してからもノートや資料・書籍に目をやり、録画しておいた番組を見ている。一方、私も仕事に追われ、一日中、双方がパソコン画面とにらめっこということさえある。だから“付かず離れず”というよりは、お互いに忙しく、“付くことさえままならぬ。夫婦なので離れることもない(だろう)”という具合である。けれども、それがお互いに、よい精神状態を作り出しているようにも思えるのである。
娘は三月終盤から仕事に就く。だから家を飛び出したとはいえ、フトコロ具合は厳しい。先日「金がない」のメールが届き、雪の降る春分の日に新宿駅東口の喫茶店でおちあった。食べたいものを注文させ、当座の生活費を握らせたが、喫茶店の中は娘と同年代の女性ばかり。その女性陣が一斉に私の顔を見た。
違う、違うぞ。これは違うぞ。叫び声が喉元まで出かかった。私は彼女たちに言いたい。「援助交際ではないのだ!」。
息子が帰省
6月下旬から続いた政治選は細身の我が肉体を容赦なく責めたて、投票時間終了と同時に都知事「当確」をNHKが報道する事態を目の当たりにした段階で、疲労がいっきに全身を襲った。日焼けした顔を見て「焼けましたね」と誰からも声をかけられるが、もっとこんがりと焼けるまでに頑張る必要があったのではないか、とも思う。
こんがりといかないまでも、「焼けましたね」と言われるくらいの顔になった頃に、突然、息子が帰って来た。都知事選も終盤を迎えた7月27日のことである。その日の昼、息子からメールが届いた。たった一言「今日帰る」。
なんだろう、東京に用事でもできたのだろうか。熊本で使い物にならなくなり、お払い箱になったのだろうか。それとも身体の具合でも悪くなったのだろうか。たった一言「今日帰る」に、親はあれこれ思いめぐらす。
「今日帰る」と言われても、東京は選挙真っ只中である。家の掃除はおろか、迎える準備さえもとることができない。そのため、3カ月前に家を出たときと変わらぬ、散らかし放題の我が家へ息子は舞い戻ってきた。
夏休みだという。インターネットで確かめると、息子は前日の26日、全国高校野球選手権・熊本大会の決勝戦を取材し、優勝した秀岳館高校野球部の記事を27日付新聞に載せている。決勝戦が終わったので、一区切りというのであろう。しかし、この時期に夏休みとは、どういうことなのか。どうやら、地区大会が終了してから全国大会がはじまる8月7日までの間に、各自が交代で夏休みをとるようにしているようである。
3カ月ぶりに姿を見せた息子は、私以上に真っ黒の顔をしていた。高校野球の地区予選を毎回、スタンドで取材していたからである。「野球は全然、楽しくなかった」と話す。そりゃあそうだろう。高校野球を観戦するのではなく、炎天下のスタンドで取材するわけだから。よくも身体がもったもんだと言いたいくらいである。
息子は1週間、我が家にいた。夏休みはもう少し続くという。ずいぶん長い夏休みだ思われるかもしれないが、土曜・日曜・祝日関係なく取材を行ない、休日は月にわずか。朝出社したら夜の11時頃まで職場にいるというのだから、夏休みくらいは長くしてもらわないと、心も身体もついていかないというものである。ただし、人さまと異なる時期に夏休みというものはいかがなものか。
帰省した息子は、友人と会うことを楽しみにしていた。しかし、友人の多くは社会人。息子は夏休みであっても、相手側はそうではない。友人と会えない日は、一日中、家のなかでブラブラするしかしようがないのである。
それでも、息子と時間をあわせることのできた友人の何人かは、息子と行動をともにした。温泉地へ泊まり掛けのお供をした者もいれば、海水浴へ一緒に出かけた者、仕事を終えてから息子と会ってくれた者などなど。だから、帰省した一週間のうちの半分は、家にいなかったと思う。
友人に会えずに家でブラブラする息子は、とても記事を書いている人間には見えない。苦虫をつぶしたような顔をして、3か月前と同じような姿でそこにいる。これまでも、そこにいたかのように。
次に帰省するのは、正月休みになるという。その際も「今日帰る」のメール一本で、ふらっと帰ってくるのだろうか。おちおち出かけてはいられないなと、親は思うのである。
しあわせもの
息子の書いた記事がネット検索で現れる。短いものもあれば、比較的長文のものも。4月24日の夕方、九州へと巣立ち、それから数日とたたないうちにネット上に署名記事が出現。いまでは、2〜3日おきに現地の新聞やデジタル記事に登場する。
つい先日は、我が家に配られた朝刊の社会面に息子の名前を見つけた。ネット検索によると、同じ記事が大阪本社でも採用されている。カミさんも私も心踊る思いである。周囲は「息子の自慢話」と取り合わないが、私は心から自慢したい。「これが私の息子だ」と。
テレビでは連日、熊本の様子が映し出される。被災地の現状、住民の暮らし、天候など。それを見ながら、“ああ、今日も熊本は変わりはないな”と穏やかになる。このような境遇に置かれた親は、きっとしあわせものなのだろう。
ところで、我が家には大学3年の娘がいる。息子とは2歳離れている。息子が我が家にいた時は、娘は兄にいつも怒られていた。「テレビばかり見るな。静かに勉強しろ!」。ところがその兄が家を出た。監視役の兄がいなくなったことから娘は自由の身となり、とたんに奔放な日常を送るようになった。好きな時間に見たいテレビを見て、授業がない日は昼近くまで布団の中に。アルバイトはかけもちで行ない、午前様もしょっちゅう。重石(おもし)がとれた娘は、大学生活をじつにのびのびと過ごしている。
「少しは注意したら」とカミさんが言う。しかし私は考える。老後に頼りになるのはカミさんか?、それとも娘か?。ちまたを見ると、後者に軍配があがる。しかも世間では「熟年離婚」などという恐るべきものが猛威を振るっている。大抵は、男性が捨てられている。捨てられた男ほどミジメなものはない。だから思う。カミさんよりも娘が大事。今度カネが入ったら、娘の好きなモノを買ってあげよう。
息子が家を出て1カ月半、いま一番しあわせなのは、娘なのかもしれない。
熊本から届いた画像
手元に、熊本での我が息子を写した画像がある。カミさんが知人からいただいてきたその画像は、他紙の記者と談笑している画像である。カミさんいわく、「熊本市内のメーデーのもの」。背景に聞き覚えのある医療関係の宣伝カーがあることから、300人が集まった5月1日のものだということがわかる。
5月1日といえば、息子が博多から熊本へと移動した日である。画像に写る腕時計の針は午後2時20分。つまり、移動したその日にメーデーの取材を行ない、デモ行進の解散地点あたりで、この画像が撮られたということになる。息子の手には取材用のノートが握られ、首からはキャップをはずしたままのカメラがぶらさがっている。
この画像をカミさんから見せられた時の最初の感覚は、「おぉ!、頑張っているな。なかなか楽しそうではないか」であった。しかし、長く画像を見ているうちに、その感覚は少しずつ変わって行った。
疲れているようだな。辛いんじゃないのかな。休みはもらえているのかな。寂しいんじゃないのかな・・・。親の前ではけっして見せたことのない、くったくのない笑顔がそこにはあったが、その顔には疲れの色がまぎれもなく覗いていた。
画像を見て以降、先月24日に武蔵小金井駅を後にした息子のことが、つきまとうようになった。カミさんの説明によると、記者たちのいる方へ息子の方から近寄り、声をかけてきたという。その記者の腕には、我が家で見慣れた新聞名の腕章が巻かれていた。
一人遠くへ送り出され、しかも震度3〜4という地震がひんぱんに襲い、知り合いもないなかで、息子は心置きなく接することのできる相手を欲していたのではないか。安心できるモノが欲しかったのではないか。そんなことを考えはじめると、画像に写る息子の姿がとても孤独に見えてくるのである。
おそらくそれは、私の杞憂にすぎない。息子は前を、明日を夢見て、この地を歩いているのであろう。あの頃の私のように。
郷里の武生駅を、親父の「がんばってこい」を背にして東京へと飛び出して39年。あの時の親父の心境が、少しずつわかりだしたこの頃である。
息子の巣立ち
大学を卒業した息子が新聞記者の卵になった。4月は本社で研修業務。とはいっても、ノートパソコンと一眼レフのデジタルカメラ、携帯電話が貸与され、朝、家を出ると夜中にならないと帰ってこない。帰って来てからも、パソコンの前でなにやら文書を作っている。かろうじて日曜日だけは休日のようである。
今年の2月中旬に、赴任先が示された。東京近郊であれば、たまには顔を見ることもできると親は期待していたが、飛行機で行った方がはるかに有利な場所となった。3月に入り息子は単身、住居探しへと出かけ、城に隣接するマンションの一室を押さえてきた。「部屋からは城がよく見える。マンションがあるところは観光地のまっただなか。職場までは歩いて15分程度」だという。3月と4月の2回に分けて、そのお城や城下町をNHKの「ブラタモリ」が放映していた。いいところに住むんだなと、親はわがことのようにワクワクする。
私は、息子が新聞記者の道に入るとは夢にも思っていなかった。高校の部活(演劇部)の延長線上に、役者もしくは制作する側に身を置くものと思っていた。大学もその範疇から選択したはずである。少なくとも、ブラウン管やスクリーンの世界に一歩、足を踏み入れるものと思っていた。だから、この仕事は予想外である。一方、カミさんはそうでもないようで、同一業に就いた息子の一挙手一投足が気になってしょうがない。息子とカミさんのバトルが連日のように、繰り返される。息子が家に早く帰りたくない気持ちがわかるというものである。
4月14日夜から断続的に発生している熊本地震は、全国を驚愕におとしいれた。阿蘇神社が崩落し、熊本城の天守閣も大きく破損。石垣も崩れ落ちてしまった。加藤清正が築城した難攻不落の名城であっても、直下地震には勝てなかったのである。
マグニチュード7.3の激震は我が家をも直撃した。息子が借りているマンションはどうなっているのか。運び込んだテレビや冷蔵庫、洗濯機は生きているのか。交通手段はどうなっているんだ!。マンションの建つ場所は、直下地震がひんぱんに襲う恐怖の場所である。
4月24日午後5時40分、息子は大きいリュックを背中と胸に結わえ、両手にはパソコンとカメラを握りしめて、武蔵小金井駅をあとにした。「がんばってこいよ」の声を背中に浴びた息子は、これからスタートする新天地での生活に踊っているようである。残された親は、巣立っていく息子を頼もしく思うとともに、手から離れた寂しさを味わっている。
息子は、平常時であれば行くことはなかったであろう博多市内の部署に1週間の予定で身を寄せる。その後は現地の様子を見ながら、当初の赴任地・熊本総局に入り込む。初めての赴任先が被災地のまっただなかになろうとは、彼とて思いもよらなかったに違いない。彼の背中は、「よーし。やってやろうじゃないか」と語っていた。半年ほどしたら一度、東京に戻ってくる機会があるという。どのように成長しているのか、楽しみである。
虫
我が子は虫が大の苦手である。家のなかで飛んでいるものを見かけようものなら、娘は悲鳴を上げて逃げまどい、息子は蠅叩きや殺虫剤をふりかざし、消え去るまで執拗に追いすがる。傍らでそれを見ながら、なにを慌てているのかと、私は自分の子どもの頃を思う。
私が生まれ育った場所は山沿いにあり、畑と田んぼが村の大半を占めている。家のすぐ後ろは山、家は茅葺き屋根。家のなかに囲炉裏と手押しポンプがあり、風呂は薪で沸かしていた。春になれば虫が家のなかに入り込み、冬以外はあたりまえの光景となる。
家では犬と猫を飼っていた。犬は鎖でつながれているが、猫は往来自由である。その猫がある夏の昼に、なにやらくわえて戻ってきた。よくみるとモグラである。しかもうごめいている。ふとした弾みで床に落ちたモグラは、一目散に床下に消えていった。ネズミを追っかけて家のなかを走り回ることもしばしば。鳴き叫ぶセミをくわえて戻ってくることも何度かあった。
虫が部屋の明かりめざして飛び込んでくることもある。ある夏の夜のこと。開けっ放しの窓から、比較的大きめの黒いモノが飛び込んできた。羽根をばたつかせている。お、これはかぶと虫か?と両手で挟み打ちすると、ゲッ!、ゴキブリではないか。そうなのである。ゴキブリも立派に飛ぶのである。コガネムシやカメムシは実家では常連となっていた。
秋ともなれば家の中はにぎやかになる。老朽化した茅葺き屋根の家は隙間が多い。どこからともなく秋の昆虫が部屋に入り込み、夜を徹して「スイッチョン、スイッチョン」「ギー、ギー」「ガチャガチャ、ガチャガチャ」「コロコロ、コロコロ」と騒ぎ立てる。指揮者不在の合奏のなかで我が家は眠りに落ちる。朝陽がのぼる。襖や柱の下、そして枕元には、合奏をかなでた虫たちが息絶えてころがっていた。
高校卒業までそんななかで暮らしてきた者にとって、たった1匹程度の虫で騒ぎ立てる我が子を見ると、こいつらは田舎で暮らすことはぜったいに不可能だと確信するのである。
虫といえば、こんな出来事があった。20歳台の前半の頃、職場の先輩たちと長野県の善光寺に行ったときのことである。善光寺の参道で虫よけのゴマを焚いており、そこで人々はゴマの煙をせっせと頭につけていた。こうすれば一年間、無病息災、ムシがつかないのだという。なるほど、ムシがつかないのか。田舎でムシに囲まれた生活を送った私は、東京での暮らしはムシからなるべく遠ざかりたいものだと思い、煙を頭だけではなく、全身へと振りまいた。やった−!。これでムシともオサラバだ。
効果はてきめんであった。以来数年、ムシは付かず、近寄ることもなく、29歳になるまでムシは付かなかった。しかも付いたムシはいまだに我が家に居座り、飯をつくれ、洗濯をしろ、掃除はどうしたなどと命令する。私はこのムシをカミさんと呼んでいるが、このカミさんが実に怖い。この世の中で4番目に怖い。「地震、雷、火事、カミさん」というではないか。
我が子に言いたい。虫を嫌ってはいけない。寄ってくるうちがハナだ、と。そしてキッパリと言いたい。「善光寺のゴマだけは浴びるな。魔物を呼び込むおそるべき威力があるぞ」。
息子のDNA
最初に生まれた子どものことは、けっこう覚えているものである。夜中に陣痛が始まり、“おしるし”(カミさんがそのように言っていた)があり、カミさんに叩き起こされ、車で立川市内の病院にカミさんを連れていった時の、天空に満月が煌々と輝いていたこと。昼過ぎにようやく生まれ、産院室から透明の容器に入れられて出てきた息子は、両手両足を容器いっぱいに突き出して泣いていたこと。キューピー人形のようなまん丸の顔をしていたことなどである。
わかたけ保育園の年長さんの時には、園児のお芝居で観客の親御さんを笑わせると同時に、こいつは将来がおもしろいと思わせる演技を披露したこと。第四小学校の入学式では、新入生のなかでただ一人、カミさんに付き添われながら体育館の式典に入場し泣いていたこと。学童保育所のキャンプの感想文に沢登の絵を描き、沢登の特徴を見事なまでに端的にあらわしていたこと。放課後は毎日のように、我が家は息子たちのたまり場になっていたこと、など。2年後に生まれた娘とは比べ物にならないほどに、私の脳裏に納められているのである。
その息子が何故か、中学生になると勉強に精を出すようになった。「勉強しろ」「宿題は終わったのか」と言った記憶はほとんどない。中学の卒業式では「答辞」を述べる一員となり、都立高校に学校推薦で入学。高校では演劇部の部長に推挙され、クラスでも中心的な存在になっていたようである。大学は“都の西北”へ入学。周囲からは「性格は父親似」「頭脳は母親似」と称されるようになるが、口が裂けても認めるわけにはいかない。言えることは、我が家では私のみが大学に行っていないという事実だけである。
今春、息子はジャーナリストの卵となる。マスコミの仕事に就くことを追い求めていたのだから、願いは成就したといえる。息子がマスコミの仕事を目指した背景には、カミさんの存在が大きいことは疑いがない。カミさんは仕事がら、スクリーンやブラウン管上の人々と接する機会が多く、家にも執筆の仕事を持ち込んでいる。小学校高学年の頃から息子は一人で映画館に出かけるようになり、高校生になるとカミさんと一緒に宿泊を伴う映画監督の講演会に出かけるようになった。そのころの将来の夢は「映画監督」。だから映画配給会社が一番の志望となり、関係する多くの諸氏を送り出している“都の西北”の文学部に入学したのだと想像する。しかし現実は厳しい。映画やテレビは極端に狭き門である。それならばと、ジャーナリストへウイングを広げたようである。
息子は、高校3年生の終わり頃から現在に至るまで、進学塾のアルバイトに就いている。昨夏の初め頃にカミさんから告げられたのだが、この進学塾のホームページ上に息子のブログが掲載されている。初めてそのブログを拝見した時、「こいつは、オレよりも文章がウワテなのではないか」と感じたものである。私には到底およばない知識や表現力をそなえていたからである。
ほらね、やっぱり「頭脳は母親似」とあなたは言うかもしれない。しかし、私のホームページを隅々までご覧になっている人は御存知のように、私は高校時代に新聞部と文芸部に籍を置き、記事をしたためてきた。生徒会の年度末の発行物には私の提出した作品がすべて掲載され、文章を書くことは苦ではないのである。だから、息子にDNAは引き継がれていると私は強く訴えたい。ところが私の唯一の応援団となるべき娘でさえも、斜めに私を見下ろす。「おじいちゃんのDNAがお兄ちゃんにいったんじゃないの」。「おじいちゃん」とは、小説家の中野重治と親交があり、若い頃には詩や短歌を書いていた私の父親のことである。かくして、周囲からも娘からも「頭脳は母親似」で包囲されているのが現実であった。
先日、軽井沢で大学生12人が死亡するスキーバスの転落事故がニュースで流れた。息子はこの冬も2度ばかり、スキーバスを利用している。人ごとではないと私もカミさんも思う。「規制緩和」で長距離バス事業への参入が容易となり、運行事業者としての適格性が疑わしい会社も多いと聞く。このような状況を許してしまった政治に強い怒りを感じる。息子が通う“都の西北”の3人も犠牲になった。そのうちの2人は「1年生の時からの友人」と息子は言う。
娘の成人式
おなごの成人式は金と手間ヒマがこんなにもかかるものかと思う。普段着で式典に加わればよいものを、振袖一式が必要だと上目づかいに訴え、カミさんはカミさんで、振袖姿を写真に納めたいからと、昨年の早いうちから写真屋で記念撮影。成人式の前夜には着付美容師を我が家に招き入れ、成人式当日は、まだ太陽が昇らないうちから私をたたき起こして、娘を美容院へ運ばさせる。2年前の息子の時とは、扱いが雲泥の差である。
会場の小金井市民交流センターには9時30分に集合だというので、着付けを終えたその足で、美容院から直に会場へ向かうこととなった。式典会場に向かう車の中で娘が言う。「開会挨拶をやることになった」。へ?・・・式典の舞台上でマイクの前に立つことを、親は会場に向かう途上で知るという始末である。
娘が成人式の実行委員に就いていることは知っていた。第四小学校の同窓生に誘われて実行委員になったのである。しかし、まさかマイクの前に立つことになろうとは。受付で渡たされた式典プログラムの「開会の辞」のところには娘の名前が記され、しかも「副実行委員長」という肩書まで付されていた。おいおい、いつのまに。
楽屋で市議会議員の林さんが式典プログラムを広げて、肘で私をつっつく。「ここに萌ちゃんの名前がありますよ」。他の議員からも声がかかる。「ここにある、この名前、板倉さんの娘さん?」。
舞台上の来賓席に座ると、舞台の反対側に娘が他の実行委員とともに立っている。緊張をほぐそうとしているのであろうか、なにやら身体を動かしている。いずれ市議会議員のメンバーには顔を知られるのである。ならばと娘を引っ張りだし、みんなに紹介させていただいた。生涯学習部長からは「いろいろお世話になります」と丁寧なご挨拶をいただいたが、こちらこそ、お世話になりますと言いたい。というよりも「ご迷惑をおかけしております」の方が合っているのではないだろうか。やがて開会のブザーが鳴り、緞帳が上がった。
会場には新成人と舞台上の来賓等含めて600人が集まっている。そのなかを司会者が「これより開会の辞を行ないます」と述べ、娘の名前を告げる。黄色の振袖に身を包んだ娘がぎこちない歩き方で登場し、演壇の前に立つ。大丈夫かなぁと親は思う。しかも会場の後ろの方には、どこの成人式でもいるように、大きな奇声をあげている新成人が陣取っている。それらを前にして娘はいきなり言った。「これより式典を行ないますので、みなさんご静粛に願います」。しかし、声は小さい。家のなかでカミさんにくちごたえしている時とは比べ物にならないほどに。その小さい声のまま、開会の辞は進んでいった。「緊張したようだな。声が小さかった」と帰宅した娘に言うと、「そりゃぁそうでしょ。600人を前にしたんだから」と言う。
どのような成り行きで副実行委員長に就き、開会の辞を担当することになったのかはわからないが、娘はエライと思う。普通だったら怖じ気づいたりして固辞するものだが、緊張することを承知で引き受けた娘はエライと思うのである。たとえその結果が「小さい声」であったにしても。
夕方から出かけた娘は、夜中になってようやく帰宅した。同窓生との飲み会、カラオケ、二次会へと繰り出したからである。一生で一度の成人式。このなかで娘は大きな成長の機会を得ることができたのではないかと、親心に思う。
成人式は、親にとっても一つの区切りとなる。20年の月日を振り返り、ここまでなんとか育ててきたという思いである。マイクの前に立つ娘の姿は、まだまだ危なっかしいところが見て取れるが、“娘は自分の判断でこの場所に立っている”と、私は舞台の傍らから娘を誇らしげに見ていた。
娘
娘が生まれたのは、市議会定例会の真っ只中。質問原稿の作成などに追われ、病室へ足を運んだのは、生まれてから4日目であった。病気でもないことから、議会が落ち着いてから行けば良いと思っていたのだが、カミさんからは「冷たい人」と告げられた。
性別は誕生以前には把握していなかった。上の子の場合は事前に担当医師から「男の子」と知らされていたので男児の名前を決めておいたが、娘の場合には知らされていなかったことから、名前は生まれてから決める事態であった。
私はてっきり男の子が生まれると思っていた。カミさんからは「なぜ?」と言われたが、それなりに理由はあった。その理由とは、私の兄弟には女性はおらず、小さい時から犬と猫を飼っていたが、どちらもオスであり、唯一、オフクロだけが女性であったということ。それを聞いたカミさんは「アホ」と一蹴したが、私には立派な「理由」であった。いずれにしても、上の子に続いて「男の子」と決めこんでいた私は、上の子に負けない名前を付けようと、「宇宙」「天地」「地平線」「そら」「太陽」など、大きな夢を抱いて辞書に首ったけになっていた。ところが「女の子」の知らせ。「へっ?。なんにも考えていない」。
“女の子の場合はカミさんが名前を付ける”というのが、カミさんとの約束である。そのカミさんも準備はしていなかったようで、名前が決まったのは、市役所に届け出る間際であった。
娘は兄と異なり、生まれた時の体重はそう多くはなかった。兄の時よりもはるかに小さいために、「小さいなぁ」とつくづく思ったものである。それでも「小さく生んで大きく育てる」という言葉があるくらいなので、その後の娘の成長を見続けているが、いまだに「前へならえ」をすると、前から数えたほうが早い位置にいる。大きくなるにはもう少し時間が必要なのであろう。ちなみに私の生まれた時の体重は、娘よりもさらに少ない。いわゆる未熟児である。未熟児で生まれると実に損をする。いまだに「未熟者」と言われる。
娘は来年1月の成人式の対象者である。一カ月ほど前に、武蔵小金井駅南側の写真館で晴れ着姿の記念写真を撮った。孫にも衣装とはよく言ったものである。幸いにしてカミさんとは異なり、体型は普通である。友達にも恵まれ、勉強とアルバイトに励んでいる。「彼氏とかいるんじゃない?。心配じゃない?」と知人から言われるが、昨年12月のクリスマスイブの夜、娘も兄も、なぜか我が家にいた。理由は聞かないようにしている。大学を出たら一人で暮らすと言う。カミさんも私も、独身時代には東京で一人で暮らしていたので、娘の自由にさせたいと思う。
私は周囲には「娘に相手にされない」と吹聴しているが、「相手にされない」のは、私の「楽しいお話」の時である。カミさんも大学をでている。しかし私は高卒なので、家族のなかで私だけが大学を知らないし、一番、勉強が苦手である。ある日、帰宅すると、カミさんと兄・娘が英語の文法の話をしていた。何のことだかさっぱりわからない私は、「向こうから、桃が流れてくるってぇと」と小咄を一席、始めた。すかさず娘は「お父さん、白い鳥が飛んでいるよ」。悲しいかな。今日も娘のあざわらう声が響きわたる。
息子が新成人
1月13日(月)は成人の日。多くの自治体が成人式を執り行ない、小金井市も駅前の市民交流センターで成人式を実施した。昨年は雪に見舞われ、多くの新成人が寒さに震えながら、式典会場の扉が開くのを今か今かと待っていたが、今年は晴天。スーツ姿の男性や晴れ着姿の女性が、会場前の広場で「ひさしぶり〜」「元気だった〜?」「合いたかった〜」などと、同じ小中学校出身同士で固まって喜び合う姿があちこちに見られた。
小金井市の新成人は外国人含めて1221人。男性が639人(外国人16人)、女性が582人(外国人16人)とのこと。今年の1221人は昨年の1189人と比べて32人多いが、小金井市も年々、減少している感はいなめない。それでも千人を超える新成人がいる自治体は、活気がみなぎっていると言える。広場に集まる若者を見ると、頼もしくさえ思うのである。この1221人の新成人の中に、我が家の息子も加わっていた。
成人式を迎えるからといって特段、我が家で祝い事を行なったり、新たなモノを買い与えることなどはしていない。男性なので振袖などに着飾ることもなく、普段着ているスーツに身を包むくらいである。その点では、つつましい成人の日である。
昨今、「荒れる成人式」がマスコミを賑わしてきている。小金井市でも過去には、壇上に上がってきた新成人もいたが、最近は客席で少々騒ぐ若者はいても、式典に影響する事態は起きていない。だから、小金井市の場合には平穏な式典が毎年、執り行われているのである。
さて、今年の成人式。前述のように我が息子も会場内にいる。息子の同級生も出席しており、壇上に陣取る市議会議員の席からも、客席の何人かは、見知っている顔ぶれがあった。さて、今年の成人式はいかに。
実に静かであった。実行委員会のあいさつや新成人代表あいさつ、市長あいさつ、市議会議長あいさつと続いたが、し〜んとしている。ただ一度、ざわついた場面があったが、それは、小金井市のマスコット「こきんちゃん」の着ぐるみが登場した時だけである。「きゃ〜!かわいい〜」などの女性の声が飛び交い、笑い声、どよめきが会場を渦巻いたくらい。それ以外は静寂そのもの。議員席からは「借りてきた猫みたいで、静かすぎるのもどうだろうか」という声が囁かれるほどに。
30分ほどで第一部の式典は終了。第二部の貫井囃子の演奏や抽選会の時には、きっと若者らしい賑わいとなったに違いない。もし、第二部でさえも「借りてきた猫みたい」だったとしたら、小金井市の将来は心配である。「私の息子が式典に出席しているから、今年の成人式は式典らしいものになった」と、居合わせた林倫子議員に話したところ、「私の娘も式典に参加している」と一蹴された。
成人式の前夜、我が家はバタバタしていた。息子の小学校時代の同級生が泊まりにくるからである。掃除や寝具の手配にカミさんと私は追われ、そのおかげで、居間は綺麗に掃除され、整頓されることとなった。成人式の朝、宿泊した新成人の男性3人と息子は、寝不足の顔で成人式会場へと向かった。しかし、それで終わったわけではなかった。
成人式を終えると、旧友たちはそろって街なかへ繰り出す。昼食をとりながら思い出話や近況を語り合うのだが、新成人はそれだけでは、この日を満足できるものではない。夕方、我が家に息子たちが戻ってきて、夜、また出かけると言う。
夜10時、風呂に入ったばかりの私にカミさんが告げる。「いまから、何人か連れて来ると言っている。早く風呂から出て」。湯船につかって間もないカミさんからの言葉に、暖まる間もなく風呂から出て着替えを終えたところに、息子が旧友を連れて戻ってきた。男性3人、女性1人だったと思う。女性以外は知っている面々であり、前夜泊まった顔ぶれも含まれている。そのうち、何人かは我が家に宿泊したようだが、近所に家がある者もおり、宿泊した人数が果たして何人だったかはよくわからないでいる。我が家としては、若者に風邪をひかせてはならないということだけが、心配事だった。
息子にしろ娘にしろ、我が家に友達を連れてくることが多い。年に1〜2回は、それぞれの友達が我が家に泊まる。そのこともあって、私もカミさんも、気安く来れるような家庭づくりに心がけている。しかし、掃除もできてなく、しかも所狭しといろんなモノがころがっている我が家にあっては、泊まりにきた子どもたちはどう思うのだろうかと、逆に気になるところである。しかし「来てくれるうちがハナ。そんな時はあっというま」と知人は述べる。旧友を送り出した息子は、14日(火)の夕方、寒風のなかを元気よくアルバイトに出かけていった。
息子の大学生活
「大学」とは、どんなところなのだろうか。大学生になった息子を眺めながら、首を傾げることが多い。授業が少ないらしく、平日なのに大学に行かない曜日もあれば、午後から出かける曜日もある。授業がない時はアルバイトに精を出し、高校時代に通っていた進学塾でお世話になっている。持ち帰りの仕事があるらしく、パソコンで何やら文書をつくっている。
私立大学のために入学金が高く、年間授業料もべらぼうに高い。なのに夏休みが今月の終わり近くまであり、しかも授業時間数は他の学部に比べて少ない。ならば、なぜこんなに学費が高いのか。あまりにも不都合だと思う。学費分の授業を行なうべきである。
学内サークルは試行錯誤の末、高校時代の部活の延長線上に決め、高校時代の部活の仲間が同じ大学に進学したことから、その仲間を誘ってサークル活動に汗を流している。5月の連休やこの夏休みにはサークルの合宿に出かけ、はたからみると、大学生活は充実しているように見える。しかし授業時間数が少ないことから、本人いわく「勉強している感じがしない」という。高校時代は目指す大学に入りたい一心で勉強に没頭していたのが、希望する大学の学部に入ったにもかかわらず授業時間数が少ないのでは、拍子抜けするのも理解できるところ。ただし、3年・4年になると、途端に授業時間数は増えるらしい。
息子はこの夏休みを、実に愉快に過ごしている。バイトで稼いだお金で学友と京都に遊びに行き、宿泊費を抑えるために寺に宿泊。行路は夜行バス、帰路は「青春18フリー切符」とかいうものを使って、京都から7時間かけて東京に帰って来た。そして今は、カミさんの香川の実家に一人で泊まりに行っている。実にうらやましい大学生活である。
私は大学に行っていない。高校時代に大学受験を考えたこともあったが、2つの点から断念した。一つは、郷里の福井県には大学が少なく、選択肢があまりにも少なすぎた。かといって、県外の大学までは視野に入らなかった。もう一つは、大学入試の際のテストの答えの中身と、私が想定する答えの中身が異なるという事実に直面したこと。よって、あっさりと就職の道を選択した。ようするに、勉強が苦手だったということである。だから、大学生活を送る息子が実にうらやましい。
息子は高校時代に演劇部に所属し、大学は“都の西北"の文学部に在籍。そして、演劇部の延長線上のサークルに入った。この道程は、私が憧れる道である。いわば、私が歩いてみたい道のりである。私は、高校時代はブラスバンド部でトランペットを吹くかたわら、新聞部と文芸部に身を置き、執筆活動に精を出した。その経験が今日の私の立ち位置に生かされているが、あの頃に戻れるならば、大学に入り、今日の息子と同じ道のりを歩みたいと願うのである。気がつけば53歳。「紅顔の美少年」は「厚顔無恥」となり、あと20年もすれば、亡くなった親父と同様に「抗ガン剤」を打つ身になるのであろう。白髪が増え、腹も出た。加えて、家では誰も相手にしてくれない。
息子の姿形は、私の若いころの写真を見るがごとく似ている。性格も似ている。一転、似ていないのは「頭脳」である。他人いわく、「頭脳は母親似」「性格は父親似」。良かったのか悪かったのか・・・・。その答えは、息子自身のこれからの努力による。
駒64演劇部ファイナル公演『Black Pearl』
息子が卒業式を終えた高校に、3月30日(金)の午後、出かけた。息子が3年間過ごした都立駒場高校演劇部の、この3月に卒業した演劇部員の最終公演が行なわれるからである。つまり、わが息子も最終公演を行なう一員となっている。
とは言うものの、少々戸惑っている。なぜなら、3月10日に卒業式を終え、二度と校舎に足を踏み入れることはないと思っていたからである。だが、この高校の演劇部の伝統なのであろう。毎年、3月末日頃に、卒業していく演劇部員の最終公演が行なわれているようである。
最終公演は2日間。30日(金)が1ステージ、31日(土)が2ステージとなっており、合計3ステージの公演である。観客は在校生や卒業生、保護者、友人、知人など、誰でもOKという感じである。私が訪れた初日のステージはほぼ満席で、おそらくは100人近くいたのではないだろうか。観客を呼び込むための宣伝は当然に行なわれていたであろうが、満席になるほどに人が来るとは思ってもいなかった。もしかすると、意外と人気があるということなのか?。
公演のタイトルは「Black Pearl」(ブラック パール)。私立探偵に宝石泥棒の容疑がかけられてしまった────という設定からスタートする90分の長丁場である。役者は9人(男5人、女4人)。音響や照明などの裏方に回っている人もいる。いずれもこの3月に卒業した3年生の演劇部員である。わが息子は役者で登場。だが何故か、いつものパターンの役柄である。けっしてカッコいい役柄ではない。
90分はあっと言う間であった。中だるみすることなく、話の展開もテンポよく、実に充実した内容だった。では、何が良かったか。
第一に、ストーリーが素晴らしかった。息子に聞いたところ、他の演劇団体が扱っている、試されずみの題材らしい。なるほど、どうりで。
第二に、ストーリーの内容と場面展開のタイミングを、演じる9人がしっかりと把握し身につけていたということ。だからこそ、観客席も場面展開にしっかりとついていくことができ、一体感を味わうことができた。
第三に、主役の探偵(男性)とその助手(女性)が好演していた。男性は、その役がピタッとはまっていたと思うし、役者としての素質も十分にあると感じた。女性は、場面場面での顔の表情が見事であった。彼女の芝居は、1年半前の「サブリナはどこですか」でも拝見しているが、その時をはるかにしのぐ出来ばえであった。
第四に、このメンバーで「Black Pearl」を演じさせるために欠かせない演出担当者の存在である。ストーリーは試されずみのものであっても、そのストーリーを役者がしっかりと身につけ演じることができなければ、意味はなさない。今回の演出担当者は、昨年秋の文化祭でのクラス演劇「白雪姫にKiss」で演出を手がけた女性であった。こちらのほうも、試されずみの役どころであった。
大学入試に追われ、実質1カ月の練習期間だったという。なのに90分もの長丁場を、見事に彼らはやってのけた。息子も90分を精一杯、演じた。家で練習している様子はなく、よくもまあ、セリフを覚えきれるものだと感心する。
カミさんと娘(4月から高校2年生)は、31日の最終ステージを見た。カミさんも「素晴らしい出来ばえ」と称賛した。あの内容であれば、自信を持ってどこでも公演できるのではないかと思うし、わずか3ステージではもったいないとも思う。できれば、新1年生の歓迎公演も行なってほしいくらいである。
4月からは、それぞれがそれぞれの大学などに生活の場を移す。聞くところによると、卒業する演劇部員のうちの4人が、同じ大学だという。可能ならば、大学で4人が集まり、演劇チームをつくってほしい。欲を言えば、駒場高校のこの春卒業した演劇部員全員で演劇サークルを結成し、公演活動を展開してほしい。それほどまでに、このメンバーは息が合っていたと思うのである。
最後に、忘れてはならないのは、演劇部の後ろ楯として支えている顧問の先生の存在である。この先生(女性)は、息子の3年生時のクラスの担任でもあった。息子のことをよく理解し、最後まで面倒を見てくれた方である。心から御礼を言いたい。
この3年間、私自身も息子の高校生活につきあい、演劇部の仲間も何回か、我が家に泊まりにきてくれた。ドタバタしながらも彼らと日々を共有することができたことは、親としても愉快なことであった。きっと私自身が、彼らと別れることが寂しいのであろう。
息子の高校生活はこれで終わる。大学生となった息子を、この場で記すことになるかどうかは未定であるが、近況はなるだけ紹介していきたいと思う。高校生の息子を支えてくださったみなさま、ありがとうございました。
白雪姫にKiss 続々編
タイトルは「白雪姫にKiss」。昨年9月18日・19日の、息子が通う高校の文化祭でのクラス演劇を納めたDVDである。しかし、学校側が作成したものではなく、個人名がプリントされている。どうやら、クラス演劇の映像記録係が撮影したものを納めたらしい。
DVDは2枚組となっている。息子が1週間ほど前に持ち帰ったものである。1枚目のDVDには、クラス演劇本番の上演内容と本番までの足どり、そして本番終了後の後片付けまでを記録している。2枚目は、文化祭の前夜祭と前夜祭にいたるまでの足どり、舞台裏などが記録されている。いずれも見応え抜群の出来ばえで、いっきに見させてもらった。
息子がこの高校を選んだ理由を、私は知らない。中学3年の時にいくつかの高校見学に出かけ、この高校が気に入ったらしい。ただし、なぜ京王井の頭線の駒場東大前まで見学にきたのかは、いまだに不明である。息子はこの高校に学校推薦で入学した。入学早々演劇部の扉を開き、2年の時には部長に推挙され、その年の秋には高校演劇部の東京都大会に出場。3年秋の文化祭のクラス演劇でも中心的な役割を発揮した。
息子が演劇部の扉を開くとは夢にも思わなかった。中学時代は美術部だったからである。ましてや役者をつとめるなどとは思いも寄らず、DVDの映像を見ながら、クラスでの息子の立ち位置を不思議な思いで見続けた。
DVDは驚くべき出来ばえである。プロがまとめあげたと思われる。映像は夏頃からスタートしており、「白雪姫にKiss」の役者決めから台本読み、発生練習、役者の想像力を高める訓練、練習風景、大道具・小道具づくりなど、舞台裏や役作りを知る貴重な資料となっている。加えて、前夜祭の映像も、それに向けた練習風景も、じつに楽しい。非売品であることが不思議なくらいである。
3月に入り、息子の大学受験結果も出揃ってきた。志望校の出だしでつまずいた時は家中が暗い時を迎えたが、それでも意中の大学に入ることができたことから、息子の心には明るい日差しがさしている様子。あとは卒業式を迎えるのみ。しかし私は思う。この高校を卒業してほしくない。まだ3年生のままでいてほしい。まだこのクラスの中にいてほしい、と。
DVDの中の息子は、実に生き生きとしている。クラスの仲間に、こんなに愛されていたんだと、手にとる様に見える。しかも、このクラスは和気あいあいとしている。実にいい雰囲気をかもしだしているのである。このクラスをこれで、離ればなれにさせていいのか、卒業させていいのか?。DVDは、そのことを私に問いかけている。そしてそのことは、このDVDを制作したフモトさんも思っているのではないだろうか。「ねえ、みんな。もっと3年5組を楽しもうよ。都立駒場を楽しもうよ」と。
息子の高校生活はあっという間に過ぎていった。まもなく卒業式。4月からは都の西北に学ぶ場を移す。大学での息子は、どのように進展していくのであろうか。
我が家のカレンダーの1月14日のところに、赤マジックで丸印がつけてあった。「この丸印は何?」と13日の夜、息子に尋ねたところ、「センター試験」との応え。「どこのセンター試験?」と再度、尋ねた。「大学入試センター試験。13日と14日の2日間、行なわれる」と、息子は平然と言う。
「へ?」。私は目が点になった。大学入試センター試験は2月じゃないのか?。なぜ息子は前日にもかかわらず平然としているのだろうか?。なぜ13日しか丸印が付いていないのだろうか?。その疑問に息子は淡々と応えた。「オレが目指す×××大学は、センター試験で合否を判断するのではなく、2月に行なわれる大学の独自試験で判断する。×××大学の××部の試験教科は3教科で、センター試験の初日(13日)にその3教科が行なわれる。センター試験を受ける理由は、自分の実力を知りたいから。え?、なぜ2月17日にも丸印が付いているかって?。その日が×××大学の××部の入試だから」。
大学の入試の仕組みは、今と昔とでは異なっている。今は「大学入試センター試験」というものがある。しかし、「大学入試センター試験」の仕組みそのものを私はわかってはいない。加えて、「大地は2月下旬まで受験に追われる」と、カミさんが以前に述べていた言葉を、私は「センター試験が2月下旬に行なわれる」と解釈していた。そのことから、息子にすれば「今頃、何を言っているんだ?」式の愚かな質問をするハメになってしまった。
私の質問のあと、息子がカレンダーに丸印を追加し、注釈を書き込んだ。息子が目指す大学の××部以外にも、同大学の他の学部や別の大学も受験するらしく、2月のカレンダーにいくつかの丸印が記され、大学名と学部名が書き込まれた。「別の大学も受験するのか?」と問うと、「入試の度胸をつけるため」と言う。2月17日の「本命」を前に別の大学を受験して、入試の度胸をつけるというのである。息子も大変だなぁとつくづく思う。
息子が出かけた後、インターネットで「大学入試センター試験の仕組み」を検索してみた。仕組みを知らずにいることは、大学受験生の親としては失格だからである。しかし、検索して得た文章には、気になる文言が記されていた。「受験生は好きなだけ出願することができます。当然1つ受験するごとに受験料を支払います」。────入試に必要なカネは、いったいいくらになるんだ・・・?。
|