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子育て奮戦記



娘が小学校を卒業
我が家のありふれた年末年始
家族旅行IN奈良
48歳の誕生日
赤旗まつり
消防写生会優秀賞
息子の中学生活
息子が小学校を卒業

47回目の誕生日

誕生日プレゼント

授業参観


娘が小学校を卒業

写真 下の子はかわいそうだと、常々思う。なににつけても、上の子と比較されて見られてしまうからだ。上の子の場合は親にとって最初の子どもなので、一つひとつが新鮮に感じられ、やることなすことに感動をおぼえる。しかし下の子の場合は、すでに上の子で体験ずみのため感動とはならず、逆に“上の子の時はこうだった、ああだった”と、客観的に見てしまう。たとえそれが下の子にとって、人生の節目の出来事であったとしても。

 晴天に恵まれた3月25日(火)、我が家の2人の子どものうちの下の子(娘)が、小学校を卒業した。式典会場の体育館の来賓席に座る私からは、我が娘はよく見える。なにしろ、クラスの最前列にいるのだから。思い起こせば6年前の入学式、娘はクラスの先頭を男の子と手をつなぎながら入場。椅子に腰掛けた娘は足が床に届かず、両足をブランブランさせていた。6年後の卒業式ではしっかりと両足を床につけ、キリッとした目つきで前を向いている。しかし、来賓席の私のほうは、けっして見ようとはしない。恥ずかしいからであろう。娘が最前列にいる理由はただ一つ。入学式と同じく、「前へならえ」すると、前に人がいないからだ。ただし、本人の名誉のために述べておくと、卒業式の入場は先頭ではなかった。この6年の間に、先頭の位置を他者に譲ることに成功したからだ。しかし、4列ずつに並ぶ今回の形式では、先頭から2番目の背の低さでは、最前列に位置することとなった。

写真 2年前の兄の時と同様に、卒業生一人ひとりが、壇上のマイクの前で一言を発する場面を迎えた。何を話すかは特に決まりがないらしく、将来、何になりたいとか、中学生になったら何をしたいとか、どんな大人になりたいとか、それぞれがさまざまであった。さて、我が娘の番を迎えた。2年前の兄は「絵を描くのが好きなので、中学生になったら美術部に入る」と述べたが、娘の一言は将来の仕事であった。「私は、大きくなったら、保育士になりたいです」。―― 2年前の兄の時は「えっ!」となったが、今度の娘の場合は平然と受け止めることができた。私のほうに先入観が一切なかったからである。一方で、なぜ保育士なのだろうか、との疑念も生じなかった。通常ならば、あらかじめ聞かされている場合を除けば、“なぜ?”となるのであろうが。そこには、壇上での一言を兄の時に経験し、ゆったりとした気分で聞き入れる余裕があったのと、突拍子もない仕事内容ではなかったからであろう。ただし、その仕事内容が、あまりにも身近に存在するものであったため、拍子抜けした面もなきにしろあらず。もう少し、高いところにあるものを夢見てくれても良かったのではないかと思ったりもするのだが。

 兄の時と同様に、「旅立ちの日に」が歌われた。この歌なしには卒業式は迎えられないといえるほどに。ただ、私としては、「あおげばとおとし」が登場しないのが寂しい。卒業式となれば、「あおげはとおとし」は定番のイメージなのだから。

 兄も娘も、小学校5年・6年の2年間を、西川先生が担任を務めてくれた。兄と娘では性格がずいぶん異なるので、両方を見ていた西川先生は、どのように2人を見比べていただろうか。聞きそびれたままで、卒業式を迎えてしまった。教師は何年かで転任していく。新年度を迎えた時に、西川先生は兄妹が通った小学校に、引き続きいてくれるのだろうか。私が卒業したわけでもないのに、そんなことを考えると、寂しくもある。3月25日、学校の桜は一斉に開きはじめた。

(2008年3月31日付)

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我が家のありふれた年末年始
写真 「民族大移動」とはよく言ったものである。正月を間近に控えた日本列島は、高速道路も列車も飛行機も、日本民族大移動で“すし詰め”状態となる。その中に混ざって我が一家も、正月をカミさんの実家で過ごすために年末に羽田飛行場から飛び立った。

 我が一家が飛行機を体験するのは、年末の帰省時のみ。夏は私の実家・福井へ帰省するので、交通手段は東海道新幹線となる。「飛行機は本当は利用したくない」とカミさんは言う。なにしろ一家4人の往復費用が20万円を超えてしまうのだから。「新幹線を利用したい」とカミさんは言うが、子どもたちはノーを突きつける。一つは、新幹線だと時間がかかり、疲れてしまうから。もう一つは、飛行機に乗りたいからである。私はどちらでも良いのだが、新幹線の場合は指定券取得の任務が私に課せられるので、できれば飛行機であってほしい。

カミさんの実家は四国の香川県。とは言っても、徳島の鳴門に近いので、最寄りの空港は徳島空港となる。今回は、夜に到着するという従来のパターンではなく、昼前に徳島空港に降り立った。

 「四国は暖かい」というのが、帰省のたびに味わう印象であったが、この年末は違っていた。「ただいまの徳島空港の気温は8℃となっています」との機内アナウンスどおり、徳島空港は寒かった。それでも陽が差し、いくぶんかは暖かい。太陽が高いうちから徳島空港に降り立つことはなかったため、バスで徳島駅に到着後、市内見物となった。最初に向かったのは城山の徳島城跡。しかし、風が吹き、寒かったため、城跡到着後、すぐにUターン。「眉山に行きたい」との息子の要求を受け入れ、駅の反対側の眉山に向かった。標高280mほどの「眉山」は映画の舞台となったらしく、山頂へ向かうロープウェイに乗車した途端、息子は「この場面が映画に出ていた」と自慢。年末だというのに、何組かのカップルや私たちのような家族連れが山頂を訪れていた。

 山頂は寒い!。風が強く、雪まで降ってきた。山頂から西の方角は四国の山々。雪国育ちの私にはすぐにわかる「あれは雪雲。雪が降っている」。一方、北東側の徳島市内は陽が差している。山をへだてて、天気が分かれているのだ。お腹が空いたが、山頂のレストランは休館。徳島の「小泉八雲」と呼ばれたポルトガル人を紹介する「モラエス館」も休館。映画「眉山」を紹介した山頂の立て看板も読む気力が失せ、我々は足早にロープウェイで下山となった。ロープウェイ麓(ふもと)の乗車場所は「阿波踊り会館」入口であるが、阿波踊り会館もこの日は休館。踏んだりけったりの眉山であった。

 年末といえば紅白歌合戦。しかし毎年思うのだが、知らない歌手や曲が続々登場する。歌番組を見る機会がないといえばそれまでだが、裏を返せば、爆発的に流行る歌が少なくなっていることでもある。子どもたちがこの番組を見るので、私も必然的に全部見ることとなった。今回の紅白歌合戦で最も印象に残ったのは、「コブクロ」の「蕾」。司会役の笑福亭鶴瓶さんのアシストの影響もあるだろうが、曲とその歌唱力には大きな感動をおぼえた。レコード大賞受賞も納得のいくところ。

 「紅白」が終われば、いよいよ「初詣」。除夜のカネが鳴り響くなか、我々は歩いて15分ほどの「田ノ口薬師」へ出かけた。帰省時の冷え冷えとした寒さとは異なり、夜中ではあるが思ったほど寒くはなく、吐く息も白くはならない。並ぶことなく、お参りができた。この「田ノ口薬師」は長野の善光寺のように、寺の真下に真っ暗な通路があり、そこを通れば御利益があるということで、お参りした人が次から次へと通路に消えていく。当然に我々も中へと入った。通路の距離は短く、すぐに表に出るのだが、中に入った小さい子などは、不安な声をあげていた。寺の境内を出るときは、カミさんはいつものように夜店でモノを買う。その一口が身を肥やすのである。“身は力”とはよく言ったもの・・・・“知は力”だったっけ?。

 寒かった四国も正月に入ると、普段の気候に戻った。カミさんの実家は山にも海岸にも近く、周辺を田んぼや畑が覆い、近くを走る国道11号線に沿ってJR高徳線が高松と徳島を結んでいる。私とカミさんは3泊4日の帰省をのんびり過ごし、子どもだけを残して一足先に仕事が待つ東京に戻った。一方、カミさんの老親は、置いていかれた孫2人の世話に追われる日々となった。前回から、子どもだけで引き続き実家に残るようになっているのである。子どもたちが要求したもので、昨年夏の福井の帰省でも、親が東京に戻ったあとも、子どもは数日、福井に残るようになっている。「もう、たいへんじゃわ」とは、カミさんの老親の後日談。けれども本心は、うれしいようでもある。

 正月の楽しみは仕事に追われることなく、ゆったりとテレビを見られることと、昼間でもアルコールを飲めること、そして知人からの年に一度の便りが届くことである。好きなスポーツ番組をテレビに映しながらビールを飲み、年賀状を眺めてあれこれ思いめぐらすのも、この時期ならではのこと。お互いが同じだけの年齢を重ね、それぞれに人生を歩んでいるにもかかわらず、年賀状を眺める脳裏には、共に頑張っていたあの頃の状態のままの友が映し出されている。年賀状はありがたいものだ。その年賀状に一言いいたい。せめて近況くらいは載せてほしいと思う。なかには、子どもの写真だけ載せて、自身の近況は一言も書いてないものもある。受け取る側としては、子どもの写真よりも、自身の写真や近況を知りたいのだ。できればパートナーの顔も見てみたい。

 正月明けには毎年、福井の実家から宅急便が届く。中身は餅と猪肉。餅は実家でついており、美味である。猪肉は親父が福井の山中で仕留め、自ら解体し、1sくらいの固まりにして送ってくる。今回はこの肉の固まりが10個も届けられた。冷凍庫に入りきれないので、届けられたその日から里子に出すハメとなった。シシ鍋は肉鍋の王様であるが、たくさん送られても、これまた大変である。我が家ではすでにカレー、肉じゃがに猪肉が登場している。私が福井で暮らしていた子どもの頃は、冬は毎日、猪、ウサギ、きじ、やまどりなどの肉が食卓に登場し、冷凍庫を開けるとそれらの肉の固まりが所狭しと詰まっていた。「うらやましい」と知人は言うが、毎日ではかなわない。そのかわり、私は東京に来るまで一度も、牛肉を食べたことはなかった。

 穏やかな正月はあっと言う間に過ぎ、いつものあわただしい日常に舞い戻った。けれども食卓には福井と香川の両方から届いた餅が今日も顔を見せ、猪肉はデンと冷凍庫に居すわっている。当分、食事のほうは日常の状態に戻りそうにない。ただし、アルコールは正月が終わるとともに消え失せた。一方、カミさんの体型は“身は力”となっている。

※写真は、眉山山頂の石碑

(2008年1月9日付)

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家族旅行IN奈良
写真 ゴールデンウィークを使って、一泊の家族旅行に出かけました。「子どもたちが親と一緒に出かけてくれる時期は、あっと言う間」の知人の声にうながされ、2年前から始めた年に一度の家族旅行は、2年前が京都、昨年が山梨県の河口湖、そして今回は奈良。カミさんも私も、土壇場にならないと仕事が休めるかどうかわからないため、一週間前に見通しがつくありさま。「奈良に行きたい」との子どもの要求に応え宿探しとなったものの、ようやく探し当てた宿は大阪の野田でした。「大阪のホテルが唯一、空いていた」とカミさんから告げられ、「え〜、遠い」と叫ぶ私。しかし大阪と奈良の間は意外と近いことを、出かけてみて知りました。

 5月4日(金)午前8時10分、我が家を出発。バスで最寄りの駅に向かい、そこからJR中央線で東京駅へ。指定席は売り切れなので、30分は並ぶ覚悟で新幹線ホームへ。ところがホームはガラガラ。楽勝で「のぞみ号」自由席の禁煙車両に座ることができました。

 奈良は京都からでも大阪からでも、電車で同じくらいの距離。11時47分に京都を下りた我々は、近鉄京都線に乗車。約50分で近鉄奈良駅に到着しました。時刻は午後1時になるかならないか。家を出て5時間もかからないうちに奈良に到着してしまいました。

 天候は薄曇り。暑くもなく寒くもなく。最初に向かったのは興福寺。子どもたちのお目当ては「鹿」。一帯が奈良公園なので鹿があちこちに放し飼いにされ、人間とも仲良くシャッターに収まっています。鹿煎餅を買った子どもたちは、行く先々で鹿と戯れていました。

写真 興福寺の次は東大寺。南大門を前にして建ち並ぶ土産物屋通りには、浅草寺の仲見世顔負けの観光客でごったがえしています。「奈良へ行ったら、まずは大仏」と言うように、東大寺はすごい観光客でした。

 東大寺を後にした我々が次に向かったのは春日大社。しかし、ここまでの間に、そうとうな時間を費やしていたため、春日大社は入口まで行ってUターン。この夜、大阪の千里中央(豊中市)に住むカミさんの兄夫婦宅に招かれているため、あまり遅くまで奈良にとどまることができないのです。春日大社を後にした我々は、若草山に方向転換。急勾配の芝山をフウフウ言いながら登り、奈良の街を一望しました。

 兄夫婦宅で豪勢な夕食をご馳走になり、大阪の野田のホテルに入ったのは午後10時30分過ぎ。じつはこのホテル、チェックインの条件が「午後10時から」という、この時期ならではの特別仕込み。そのかわり夕食は付かないという代物。結果的には、兄夫婦宅にも行くことができたので、好都合ではありました。

 翌5日(土)。前日の天気予報では「大阪は雨」にもかかわらず、ホテルの窓から見た空は、晴れ。朝食を済ませた一行は、朝8時40分にホテルを出発。「大坂城に行きたい」とのかねてからの子どもの願いに応え、環状線「大坂城公園」で下車。駅を下りると若い女性がたくさん群がっていました。近くの大坂城ホールでこの日、人気グループのコンサートがあるらしく、「チケットを譲ってください」との紙を掲げた女の子があちこちに立っていました。

写真 大坂城には昼過ぎまで滞在。一行はふたたび奈良へ。「薬師寺が見たい」と言うので、「西ノ京駅」下車。薬師寺の次は法隆寺に行く予定でしたが、下の子(小学6年の娘)が奈良公園に行きたいとぐずりはじめ、薬師寺を終えた一行は再度、近鉄奈良駅に直行。するとカミさんが春日大社へどうしても行きたいと言うので、奈良公園内を春日大社へテクテクと。春日大社の途中からは今度は上の子(中学2年の息子)がぐずりはじめました。「オレは法隆寺へ行きたかったんだ」と。娘もカミさんも息子も「あそこへ行きたい、いや、こっちだ」とわがまま放題。そんな時は動物が癒してくれるもの。鹿煎餅を買い、周りをウロウロしている鹿に、子どもとカミさんをなだめてもらうことにしました。

 帰路の新幹線も当然に自由席。私の頭の中は「いかに新幹線で座って帰るか」。肉体が重すぎて動きの鈍いカミさんの「ちょっと〜、急がないでよ」の怒りの声を尻目に、あらかじめ調べておいた大阪始発の新幹線を狙って、ホームへ急ぎ足。すでに何人も並んでいましたが、始発というだけあって、発車時間の15分前であったにもかかわらず、午後7時27分発の「のぞみ」にゆうゆう座ることができました。家に帰着したのは午後11時10分。一泊でも十分に楽しめる奈良の旅でした。

 奈良の感想を一言。奈良は京都と異なり、見どころが拠点に集中しているため、短時間で多くのスポットを観ることができます。今回出かけた興福寺も東大寺も春日大社も若草山も、近鉄奈良駅から徒歩で十分に行ける距離。しかも、奈良公園内であるため、鹿がいたるところにいます。家族連れにはうってつけの場所といえるでしょう。しかも、東京からも、そんなには遠くありません。難点は、いくつもの場所に歩いて行くことができるということは、「歩き疲れる」ということ。京都の場合はスポットがあちこちに点在しているため、バスなどの交通手段を使うことになりますが、奈良の場合は、近鉄奈良駅周辺はパスなどに乗っても交通渋滞が激しくて、時間が余計にかかってしまうことになります。したがって、多くの距離を歩くことを前提にしないプランを建てるべきかと思います。「次回は斑鳩の里と飛鳥に行きたい」と子どもとカミさんの言葉。カネとヒマがあればネ。

(2007年5月7日付)

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48歳の誕生日
写真 2月20日、48歳の誕生日を迎えた。学校から帰って来た子どもたちが「誕生日おめでとう」と言ってくれたが、この歳になって、うれしくもない。そればかりか年々、体力の減退におののいているのが実情。

 「この歳になって」と記してはみたが、このかた誕生日を迎えて、うれしいなどと思ったことは、おそらく一度もなかったのではないか。あえて「うれしい」と思ったときがあったとすれば、大人の仲間入りをした20歳の誕生日と、付き合っていた彼女がお祝いをしてくれた時期の誕生日くらいであろうか。あと2年もすれば50の大台になるかと思うと、誕生日を迎えるのがおっくうになる。高齢者へのカウントダウンだ。

 さて、誕生日の夜。我が家の食卓にはバースデーケーキがのっかった。太いローソクが4本、細いローソクが8本。それに子どもが火をつけて、カミさんの「たんたんたんたん誕生日♪・・・・」の「美声」にのせて一気に火を吹き消す。周囲の面々はどうかわからないが、本人は完全にピエロである。ケーキを4等分して食べ、食べ終わったあとは何もなかったかのように普段の生活が始まった。

 昨年に引き続き、子どもたちが合同でプレゼントを買ってくれた。今年は、ネクタイとベルト。特段、考えて買ったようにも思えず、その後、ネクタイとベルトの活用状況についての質問は寄せられていない。

 昨年はエプロンがプレゼントだった。しっかり台所仕事をやれとの、子どもたちを介してのカミさんの指令だと思うが、そのエプロンが我が身につけられた期間はごく短く、すぐに子どもたちの学校の家庭科授業のために、家の中から姿を消した。そして私は、あいもかわらず、従来の汚れたエプロンで台所に追われている。そのうちにネクタイとベルトも我が家から消え失せ、これまで着用していたよれよれのネクタイとひび割れたベルトが、ふたたび我が身にまとわれることになるのではないだろうか。鏡に映し出される48歳の我が身は、あわれである。

(2007年3月5日付)

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赤旗まつり
写真 4年ぶりの「赤旗まつり」が11月3日(金)から5日(日)まで、東京都江東区の夢の島公園で開かれ、3日は単身で、4日は小学5年の娘を連れて参加した。「赤旗まつり」で楽しみにしているのは中央舞台の文化行事。いまをときめく“売れっ子”が出演するわけではないが、舞台と客席が一体感をつくりだす雰囲気がたまらない。今年は、韓国のコーラスグループ「サム・トゥッ・ソリ」と、ロックバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」(写真参照)のステージを楽しんだ。

 あわせて、各地の物産店を歩くのがおもしろい。必ず立ち寄るのが「岩魚の塩焼き」と「越前おろし蕎麦」。「五平もち」や「稲庭うどん」も捨てがたいが、そこにたどり着くまでに腹一杯になってしまうのが惜しい。ところが今回は「越前おろし蕎麦」が見当たらなかった。会場のあちこちに物産店があるので見落としたのかもしれないが、これを食べずに終わったのが心残りである。

写真  食べるだけでなく、買い物も楽しんだ。安いかどうかはわからないが、「市場価格の半額以下」などという店頭の貼り紙を見ると、つい見入ってしまう。浅草で店を構えているという触れ込みの物産店では、羊皮のポシェットバッグを900円で購入。大バザール会場では2本で1,000円のネクタイを購入した。我が子はまだ小学5年ということもあってか飾り物に興味を示し、腕に巻くオシャレ品などを購入。同じような女の子が何人も、その店には立ち寄っていた。

 最終日の5日(日)は仕事があったために参加できなかったが、好天に恵まれた三日間のうちでも最高の天気。この日はカミさんが子ども2人を連れて参加し、中央舞台には一度も立ち寄らずに、もっぱら買い物などに集中。息子(中学1年)はスポーツ広場の「ビームライフル」に挑戦し、娘は似顔絵(写真参照)を書いてもらった。そのかたわら、カミさんはモノを食べ続けた。

三日間で20万人が参加した「赤旗まつり」も終わり、いよいよ来年は一斉地方選挙と参院選挙。まつり気分を一掃し、ハチマキを引き締めるこの頃である。

(2006年11月8日付)

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消防写生会優秀賞
写真  中学1年の息子が賞状を持って帰った。東京消防庁主催の「第56回はたらく消防の写生会 ポスターの部」で表彰されたらしい。息子が在籍する南中学校からは8人が表彰され、息子は最優秀賞に次ぐ優秀賞。8人とも南中学校美術部に在籍する部員で、美術部員がポスターの部に応募することになった様子。 息子のポスターは8月の中旬に市役所1階ロビーに展示された。しかし、私は帰省と党の研修会のために、ついぞ見ることができなかった。市役所の職員からは「板倉さんの息子さんの作品が展示されてましたよ。なかなか素晴らしかったですよ」と言われたが、見てないために、頭をかくしかなかった。

 その息子が先日、写真立てを持って帰った。それは、息子が表彰された表彰状と、表彰された作品を写真に収めたもの。表彰された8人全員に贈られたという。そこで初めて息子の作品にお目にかかった。

 親の欲目であることはわかるが、「ホウ!」と感心させられた。これが、我が息子が描いた作品なのか・・・・。息子の描く絵については保育園の時から保育士さんに「大地くんの描く絵はなかなか良いですよ。その感性を大切に育ててくださいね」と言われていたものだ。とくに今日まで、親が息子の感性を育んできた覚えはないので、南中学校美術部の顧問の指導が、きっと素晴らしかったに違いないと、私は勝手に思っている。

 ところで、写真立てに収めて贈呈するとは、なんと粋なものではないか。私も小学校の時に、校内写生大会や町内小学校写生大会で表彰されたことがあるが、その時にもらったのはメダルであった。そのため、自分がどんな作品を描いたのか、今日では全く覚えていない。写真立てに作品が記録されていれば、大人になってもその時の思い出が鮮やかにえがきだされる。息子の作品の出来ばえよりも、消防庁の粋なはからいに、感服、感服。

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息子の中学生活
 息子が中学生になって1カ月を迎えようとしている。小学校の卒業式で公約した「美術部に入る」を実行し、宿題そっちのけで美術部と関係があるのかないのか、マンガ本のキャラクターをノートに描き写している。小学校の時はランドセルだったが、中学に入るとリュックに教科書を入れ、背負って登校している。私が中学の時は、手提げの黒カバンもしくは肩掛けの白いカバン以外はダメだったので、とまどっているのは親の方。中学校は我が家から徒歩で15分ほどのところにある。

 息子は私と違って、友だち付き合いが多い。小学校の卒業アルバムを見て知ったのだが、息子は「小学校生活で100人の友だちをつくる」ことを目的としていたのだそうだ。その成果かどうかはわからないが、小学校の高学年になると、学校の帰り時間に我が家に友だちを引き連れ、私が夕方帰宅して玄関の戸を開けると、同学年の男の子が4〜5人は家の中にいるという状況に限りなく出くわしている。しかも、顔ぶれが一定しないのが、おもしろい。ただ、我が家が条件の良い位置にあったことも幸いしている。なにしろ、小学校の坂を下り、橋をわたるとすぐに我が家がある。「坂を下る」「橋をわたる」といっても、小学校からは徒歩5分ほどであり、子どもたちの下校路に位置することが、子どもたちには格好の場になっていた様子。

 中学生活に入る直前の春休み、息子は友だち2人を我が家に呼び、夕飯を我が家で食べ、そのまま我が家にお泊まりをした。私が中学時代には思いもつかないことを、息子はやってのけるのである。また、一人で電車に乗って吉祥寺の映画館に映画を観に行き、あるときは、友だち3人とバスに乗って府中駅近くの映画館へ映画を観に行った。これも、私の中学時代には、あり得ない行動である。とは言っても、私が中学時代の実家は、とても友だちを呼べるようなつくりではなかったし、映画館も付近にはなく、映画を観るためには県庁所在地まで行かなければならないほどに遠く、とても映画を観れる環境ではなかったのだが。

 これから息子も私と同様に、ほのかな恋をし、ほのかな恋でも満足するような中学生活を送っていくのかと思うと、なんだかワクワクする。その前に、親とは口をきかない気難しい年頃になっていくのかもしれないが。            (2006年4月27日)

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息子が小学校を卒業
写真  3月24日(金)、息子(大地)が小学校を卒業した。来賓の一人として会場の前面に座る私の前で、卒業生86人(男43人、女43人)が一人ひとり壇上に上がり、卒業証書を受け取る。そして、それぞれが舞台ソデに据えられたマイクの前で、思い出や抱負を一言ずつ話すという趣向になっていた。

6年2組の我が子が緊張した面持ちで壇上にあがる。担任の先生が名を呼び、我が子は舞台正面で校長先生から卒業証書を受け取る。そしてマイクの前へ。“我が子は何を話すのだろうか”と期待しつつも、“私に似て恥ずかしがり屋だから、緊張して何も言えなくなるので”などと、私のほうがドキドキさえする。さて我が息子の一言、「僕は絵を描(か)くのがすきなので、中学校に入ったら美術部に入りたいです」には、ともに来賓で出席していた周囲の面々からは“ホゥ"の声が上がったが、私は“エッ?”となった。「ちょっと待て、中学に入ったら卓球部に入るって言ってたじゃないか」。この戸惑いの声が口をついたものだから、周囲からは“マァマァ、抑えて”との取り成す声が入った。

 一週間前の中学校の卒業式でも、この日の我が子の卒業式でも、「旅立ちの日に」という歌がうたわれた。この歌は15年前に埼玉県秩父市の市立影森中学校の「3年生を送る会」で、先生たちが生徒への応援歌としてうたったもの。作詞は同校の校長先生、作曲は同校の音楽教諭。この15年の間に、瞬く間に全国に広がった歌である。折しも、この日、レコード店に注文しておいた「旅立ちの日に」を収録したトワ・エ・モアのCDが届いた。「白い光の中に・・・・」で始まるこの歌は、影森中学校の先生だけでなく、全国の先生の子どもたちに対する思いが込められた、感動の歌である。

 拍手に見送られ、卒業生一人ひとりが次々と卒業式会場から退場していく。最後に担任の先生が会場出口に整列をして、会場を埋めつくす保護者や来賓に深々と礼をすると、会場はいっそうの拍手に包まれた。私は、我が子をここまで育ててくれた恩師に向かって渾身の拍手を送った。ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・・。先生のおかげで、我が子は、この一年間、ただの一度も学校を休むことなく、元気に6年間の小学校生活を終えることができた。本当にありがとう。この日、小学校の桜は一斉に咲き始めた。(2006年3月27日)

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47回目の誕生日
写真  2月20日に、また齢をとってしまった。実に47回目。いつ頃からだろうか、地域の子どもたちから「おじさん」と言われるようになったのは。以前は「おじさんではない。『お兄さん』と言いなさい」と注文つけていたものだが、いまでは何の違和感もなく「おじさん」がとびかっている。

 20歳を迎えたときは「ついに20歳になった」と、少々の気負いも生まれ、30歳を迎えたときは「俺も、ついに30歳か」と、ため息。40歳が来てしまったときには、「おじさんになったのかなあ」と思いつつも、「いやいや、まだまだ青春」と、巷をぶらついた。そして47歳。頭の白髪が増え、腹の肉もたくましくなってきた。カミさんからは「そういえば、今日は誕生日だったね。おめでとう」と言われたが、おめでたくもない。それよりも、もっと早く帰宅し、家事をしてもらいたいものだと、思う。

 ところで子どもたち。小学校6年の息子(大地)と小学校4年の娘(萌)がおこづかいを出し合い、プレゼントをくれた。子どもたちが寝たあとに包みを開いてみると、包装紙の中からは紺色のエプロンが。思わず「アハハハ」と笑ってしまった。

 我が家は共働き。新聞記者のカミさんは帰りがいたって遅い。必然的に私が夕飯を担当する。着用するエプロンは以前は二つあったが、「赤旗まつり」で買ったものが長年の活躍で老いぼれて、いまでは一つきりとなっている。洗うに洗えず、エプロンの生地の色と少々色が合わなくなった部分もあり、たまりかねて子どもたちが用意したのであろう。しかし、3年前の腕時計とは異なり、複雑な心境である。このプレゼントは、子どもたちのみならず、「しっかり台所で仕事をせい!」とのカミさんの通告も含まれているのではないか・・。

 男女同権とはいうけれど、我が家は少なくとも「女尊男卑」ではないだろうか。高校を卒業して29年。体重はこの29年間で7〜8キロしか増えていない。一方、カミさんは子どもが生まれてこのかた、目に見えて横に広がっている。あまりに広がりすぎて、最近とみに帰宅が遅い。風圧をもろに受け、遅くなるそうな。誰が見ても健康優良児だ。

 さて、翌日の夜、息子と風呂に入り親子の会話が交わされた。「お母さんの誕生日にもエプロンを買ってあげれば、食事をもっと作ってくれるかもしれないよ」「無理だよ」「どうして?」「だって、お母さんが作ったのは○○○○○○もん」「オイオイ、そんなこと、お母さんには絶対に言うなよ。食事を作ってくれなくなるからな」。息子のセリフは、けっして活字にはできない、まさしく、“死をも恐れぬ勇気ある一言”であった。(2006年2月21日)

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誕生日プレゼント
44才のプレゼント  2月20日(木)は私の44歳の誕生日。市議会議員になった10年前と比べて、ずいぶん「おじさん」になったナァと、44歳の誕生日を迎えたその日、しみじみと鏡を見る。そこへ、学童保育所から我が子2人が帰宅。やがて私は用事を済ませるために、バイクで外へ。そして、午後6時30分頃帰宅。ところが我が子がいない。近所の友だちの家にでも遊びに行ったんだな、と、勝手に推測。

 「ただいま」と2人が帰ってきたのは、それから15分経った頃。心なしか、落ち着きのない2人。やがて夕食の支度も整い、食事時間に。と、小学校3年生の息子が言った。「お父さん、誕生日おめでとう」。そして、私の前に紙袋を差し出す。なんだろう?と、紙袋を開けると、銀色の小さな箱。中からは、腕時計が出てきた。

 息子の言うところでは、午後6時頃、武蔵小金井駅北口の「長崎屋」に2人で行き、腕時計を買ったとのこと。お金は?の問いに、「お正月に、おばあちゃんからもらったお小遣いで買った」。

 「長崎屋」は我が家から大人の足でも、徒歩25分。途中、上り坂があり、車の往来の激しい道をいくつも横切らなければならない。しかも6時頃といえば、あたりは暗くなっている。そこを、息子だけでなく、クラスで一番チビの小学校1年生の妹と一緒にテクテクと片道25分余の道のりを「長崎屋」まで行き、しかも自分のお小遣いをつかってまで私の誕生日プレゼントを買ったかと思うと、ジ〜ンとくるものがあった。息子いわく「この腕時計は5千円より高かったけれど、お店の人が5千円にしてくれた」。普通なら、その際、おもちゃ売り場などに行って、自分の欲しいものも買ってくるものだけれど、彼らは、この腕時計のみ買ってきたという。私には、何十万円もする豪華な腕時計よりも、はるかに豪華な腕時計に見えた。

 2日後、私は「長崎屋」に行って、時計店の御主人に話をうかがった。「午後6時頃だったかな。男の子と女の子が来て、腕時計を見ているので話をきいたら、『お父さんの誕生日プレゼントを買いにきた』と。5千円しか持っていないというので、5千円にまけてあげました。誕生日プレゼントということで買いに来る小さなお子さんは、結構いますよ」。

 いま、私の左腕には、それまでつけていた2万円余の腕時計に代わって、5千円の腕時計が巻かれている。2万円余の腕時計に負けない確実な時を、しっかりと刻みながら。

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授業参観
 学校教育は、いつの世も、国の最大の課題となっています。授業内容にスムーズに乗って行ける児童もあれば、我が子のように、右往左往しながら、引きずられていく児童もいます。

 昨年4月から学校週5日制がスタートし、新学習指導要領をもとに、学校教育が進行。そんななか、先日(1月17日)、我が子が通う小学校の授業参観が行なわれました。すでに上の子は小学校3年生になっていますが、授業参観に出席するのは、私は初めてでした。

 まず、1年生の下の子(娘)の授業に出席。教科は算数で、「くり下がりのある引き算」。「13−9=4」(例)の答えの出し方や、「11( )=9」の( )のなかに何が入り、どのようにしてその答えを導き出すか、といった内容。

 時代を反映してか、小学校1年生は、静かに先生の話を聞くことができない。トイレに行く子もいる。そのため、先生はあの手この手で、子どもたちが授業に集中するように奮闘していた。

 つぎに小学校3年生の息子の授業に出席。理科の授業で「磁石の特徴について」を行なっていた。

 ここでは1年生と違って、生徒はそれなりに授業に集中していたが、先生の説明をすぐに理解できる子と、「う〜ん」と悩み込む子に分かれていた。どの子も理解できるようにと、先生の苦心がにじみでる授業風景であった。

 娘のクラスは28人の生徒数。息子のクラスは31人であった。これが国の基準である「40人」だったら、この狭い教室にどのように押し込むのだろうかと、考えさせられた。

 さて、どの親も気になるのが、我が子の授業態度。人より抜き出ているわけではないが、親が顔を覆いたくなるようなわけでもない。・・そんなわけで、私もまずは安堵顔。息子は、私の子どもの頃と同じ出来であった。

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