プロフィール
議会報告
活動日誌
市政報告
エッセイ(随想)
なんでも相談室
地域の活動
子育て奮戦記
趣味のページ
草野球
音楽
リンク集

メール

趣味のページ
今でも時々ギターを弾きます

インデックスページへ

音楽

ブラスバンド部
 私は、中学1年生になるとともに、中学校のブラスバンド部に入部しました。キッカケは、いまにして思えば、「人生のイタズラ」としかいいようがありません。
 中学1年生の私は、女子も驚く「ボーイズソプラノ」。音楽の時間には、女子と同じパートを歌えるほど。当然、私は、合唱部への入部を希望しました。ところが、合唱部は在籍部員が全員、女子。「恥ずかしい」の思いから、同じ音楽部門のブラスバンド部へ入ってしまったのです。「もったいない」と、今にして思うのですが(何が「もったいない」のかは、このページをご覧になっているあなたと同じ感覚だと思います)。
 最初の楽器は、小太鼓。お腹のところに太鼓をぶら下げて、叩くというもの。しかし、私には致命的な欠陥がありました。小太鼓は、右手と左手が交互に太鼓を叩く楽器ですが、叩いているうちに右手と左手が一緒になってしまうのです。つまり、交互にならなくなってしまうのです。
 しかし、さすがは顧問の先生。私の致命的な欠陥に適した楽器を用意。それは、シンバル。両手にそれぞれシンバルを持ち、両手が合わさって、はじめて役に立つという楽器。この楽器のおかげで、この地域では、「板倉をおいて、シンバル奏者なし」とまで言われたかどうか・・・。
 2年生からは、ホルンに転向。カタツムリに似た格好の楽器。ホルンは中学校卒業まで続きました。なぜ、ホルンになったのかといえば、ホルン奏者が不足していたため。シンバルの方は、新1年生が就任しました。ようするに、だれでもシンバルはつとまるということ。
 誰に強要されたわけでもなく、すすんでブラスバンド部に入部し、3年間続いたことは、その後の私の人生に大きな影響を与えたと思っています。


ブラスバンドその2
 高校に進学した私は、入学後ほどなく、ミュージックバンド部に入部。部員は20人弱で、ドラム、エレキギター、エレキベース、キーボードを備え、そのかわりに、木管楽器は一切置いてない、歌謡曲やポピュラー、映画音楽を専門に演奏するクラブでした。
 中学時代にホルンを吹いていたということから、マウスピースが似ている(?)トランペットをあてがわれ、校舎の隅のプレハブ小屋で、騒音にも似た練習がスタート。床はコンクリート、壁は鉄板、小さな窓が2カ所、広さは30畳ほど。そんな中でドラムやエレキ、トランペット、トロンボーン、サックスが入り乱れ、自分の出している音が正しいのかどうかもよく分からない状況。それでも、みんなで曲目を仕上げていく流れが楽しくて、3年間、トランペットを続けることになりました。
 ミュージックバンド部の活躍の場は、毎週月曜日の体育館での全校朝礼の校歌の伴奏、体育祭での行進曲伴奏、文化祭での全校生徒やお客さんを前にした1時間余にのぼる演奏会、そして、毎年夏に市の公会堂で自主的に開催する演奏会。学校はズル休みをしても、練習には出かけていくほどに、充実したクラブ活動でした。
 中学時代から高校時代と、実に6年間、楽器演奏のクラブに入って行った要因は何だろうか?と、今になって考えてみても、これといったものは見いだせずにいます。特に勉強したわけでもないのに楽譜を読むことができ、たまたま、中学1年の時に合唱部でなくブラスバンド部に入り、なぜか6年間、続いてしまう・・・。しいて言えば、一つの曲目をみんなの協同で仕上げていく喜びと、アンサンブルのたのしみであろうか、と。いずれにしても、音楽が好きだったということは、紛れもない事実です。


ブラスバンドその2
20代の頃のコンサートの写真
 初めてギターを手にしたのは、高校2年の時。所属していたミュージックバンド部室に、部員が持ち込んだアコースティックギターが置かれていて、見よう見まねでギターコードを覚え、コードに合わせてフォークソングなどを口ずさむようになったのがキッカケ。
 そして、19歳の時に中古のギターを購入。おりしも、職場の労働組合青年部の役員になっていたこともあり、地域青年が集うための催し物としての「うたう会」を役員の一員として準備。「うたう会」では、ギター伴奏をつとめるようになりました。
 また、「日本のうたごえ祭典」に、合唱の一員だけでなく、ギター伴奏としても出場。他の地域の「うたごえ喫茶」に、ギター伴奏で呼ばれたり、友人の結婚式で、仲間とギターバンドを組んで演奏するなど・・・。ギターが上手いわけでもないのに、どういうわけか周囲がそうさせていました。
 少々、楽譜の読み書きができる私は、歌も自分で作り、ときには人前で披露も。自信満々で歌ったにもかかわらず、なぜかアンコールは一度もありませんでした。
 市議会議員になって、ギターの箱を開けることもほとんどなくなり、たまに求められてギター伴奏に就いても、コードを押さえる指が硬く、コードの形すら忘れるような状況となっています。いずれ我が子が、物置の隅に置かれた薄汚れたギターの箱に注目し、あの頃の私と同じ道を歩むものと、親は勝手に思うのです。


ページのトップへ インデックスページへ