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農家の後継者不足
今年の夏は、例年以上に暑い日々が続いている。郷里・福井の夏は、気温のわりに過ごしやすい所だと思っていたが、今年の夏は違っていた。やはり「地球温暖化」の影響だろうか。
「温暖化」が叫ばれるなか、農地・緑地の保全は今以上に求められる。ところが農家の後継者不足のなか、小金井市でも農地を手放さざるを得ない事態が生まれている。マンションや駐車場に変わり、暑い夏の要因になっている。
父親が亡くなり、実家では来年の米づくりの是非が議論されている。残された家族では到底、田んぼに手が回らないというのが理由。手間暇のわりに得られるモノが少ないというのも背景にある。しかも、減反まで押し付けられて。
農業で食べて行ける国づくりが求められる。大企業製品の輸出利益とひきかえに日本農業を犠牲にする政府の姿勢に、あらためて怒りを覚える。
教科書採択
7月29日に開かれた市教育委員会では、来年度から使用される小学校と小中学校特別支援学級の教科書採択が行なわれた。
小学校で使用される教科書は11。多い教科で9社、少ない教科では2社の教科書の中から1社ずつを選ばなければならない。教育委員5人のうち、教育長と委員長を除く3人の意見で物事が決まっていく。
世界中で紛争が続く中、子どもたちに平和の尊さを伝えていく役割が教育には求められている。社会科の教科書採択では、その観点から委員の意見に耳を傾けた。しかし、「わかりやすい」「見やすい」などの意見は飛び交うものの、どういう視点で教えていくかの論点は聞かれなかった。
今年も8月を迎えた。6日には広島で、9日には長崎で平和祈念式典が開かれる。多くの犠牲のうえに、今日の平和があることを伝えていくことは、大人の使命である。
父親の死
顔にかけられた白い布をめくると、穏やかな顔で親父は眠っていた。「いま帰ったぞ」と声をかけても、言葉はかえって来ない。かたわらでは親父の兄弟たちが喪主を囲み、葬儀の手筈などを協議している。
6月22日(日)午前0時10分、静まり返った我が家に電話が鳴り響いた。親父の危篤を知らせる実家の嫁さん(弟のカミさん)からのもの。「明日までは持つと思う」と電話の向こう側の声。「危篤」と言われても、この時間帯ではどうすることもできない。電車の動く朝まで待つしかない。“眠らなければ。身体を休めなければ・・・・”。しかし眠れるわけがない。“早かったなぁ・・・・”と布団のなかで私はつぶやく。つい一週間前、ベッドに身体を起こしている親父に会ってきたばかりではないか。
とにかく、朝になったら出かける用意をしなければ・・・・と、身体を休めることだけを考え、布団の中で時間を過ごす。午前3時10分、電話が再び鳴った。言わずと知れた「死」を告げるもの。ほどなく携帯電話に、埼玉に住む弟からのメールが届いた。「死に目に立ち会えず残念。一昨日逢って、弱々しくも頷いてくれたのが嬉しい思い出になった」。4時過ぎには、実家の弟からメールが届く。「死に際は苦しい顔を見せなかったよ。息が途切れ途切れになりながら、自然な感じで止まりました。もうすぐ、家へ親父を連れて行きます」。
予期せぬ早い死の知らせに、朝を迎えたからといって、すぐに家を飛び出すわけにはいかなかった。予定していた仕事のキャンセルや一定期間、留守にすることへの手筈。なによりも6月議会真っ只中での善後策に追われた。その結果、午前7時40分にようやく自宅を出ることとなった。しかも単身で。残された家族は、翌23日(月)発となった。
福井へ向かう車中は以外と冷静だったように思う。父親の死でありながら、父親との思い出をあれこれ巡るわけでもなく、悲しみに打ちひしがれるわけでもなく。たぶん、早晩、父親が死ぬことを予測していたからであろう。一週間前の福井からの帰途のほうが、確実に辛かった。車中では、司馬遼太郎の「歳月」という小説を読み、車窓を流れる景色を眺めていた。一睡もしていないのに、うたた寝程度しかしなかったように思う。
親父は1931年(昭和6年)5月12日、福井県池田町に8人兄弟の5番目として生まれた。尋常小学校卒業後、福井県内で山仕事に従事し、戦後、山仕事を求めて広島県へ移り、実父が死去するまで広島の山奥でキコリの仕事をしていた。親父が生前、語ったところでは、広島にいるとき原爆病院(現:広島赤十字・原爆病院)の峠三吉を見舞ったことがあるとのこと。十代の頃から文学の世界に接近していた親父は、詩人・峠三吉を見舞う機会に恵まれたのであろう。親父は、作家・中野重治の推薦で日本共産党に入党した。
実父が死去(1957年10月7日)し、郷里に帰っていたところへ、福井県今立町の見知らぬ女性との見合いが持ち上がった。その女性は、幼少の頃に母親が死去(自殺)し、父親は家を出たまま東京で暮らしているという。女性と一緒に暮らしているのは、余命短い祖母だという。双方、初面識の見合いを一回行なっただけで、1958年3月20日、婿入りという形で挙式(婿入りのため、姓が「畑中」から「板倉」に変わる)。新郎26歳、新婦18歳。挙式を見届けるかのように、同年5月10日、女性の祖母が胃ガンで死去。翌年の1959年2月20日、私(真也)が誕生した。今年、2008年は親父とおふくろの金婚式である。
「納棺」というものがある。通夜を迎えるその日の午後、葬儀屋が来て、柩に遺体を納めるというものである。実家に詰めかけていた親父の兄弟やこの家の住人、子どもたちが見守る中、親父は白装束に着替えて旅立つ準備をして、柩の中に入れられた。納棺の最中に、朝方東京を発った私のカミさんと娘(中学1年)が到着した。しかし息子(中学3年)は期末試験の初日と重なったため、高校受験の年ということもあって、一人、東京に残った。やがて親父は、近所のお寺(南林寺)に運ばれた。このお寺で通夜と葬儀を行なう。
通夜と葬儀の手筈をすすめながら、私の頭の中は、一人東京に残った息子が気になった。なにしろ初めてのことなのだから。夕食のことや、一人で夜を迎えること、翌朝起きれるかなど・・・・。幸いにして、近所に心温まる人がおり、翌朝は預けておいた玄関のカギで家に入り、息子をたたき起こしてくれるという。おまけに、朝食まで用意してくれるというのだ。この人のおかげで、息子は23日〜25日の三日間の期末テストを無事終えることができた。
23日(月)の通夜には、大勢の村人が参列した。一様に、親父が死んだことを驚き、入院していたことすら知らなかった人も多くいた。通夜と葬儀を地元のお寺で行なうことは、おふくろが求めていた。「この村に婿としてやって来て、共産党ということであれこれ言われ、それでも村の一員として頑張ってきたのだから、葬儀は、村人が足を運びやすい地元の寺で行ないたい」。24日(火)の午前中の葬儀も、多くの村人が顔を見せた。
葬儀を終え、寺から火葬場へと遺体を移すための「出棺」を迎えた。出棺の際には遺族・親族が中心となって、柩の中の遺体の周りに菊などの花を入れる場面を迎える。おふくろや弟夫婦、親父の兄弟、カミさん、我が娘などが次々に花を入れていく。けれども、私は柩に近づくことができなかった。親父の顔を見ることができなかった。ただの一輪も入れることなく背を向けて、目頭をハンカチでぬぐうのがやっとだった。火葬場は車で30分余のところ。火葬に付される前の最期のお別れのときになって、ようやく私は親父の顔を見ることができた。
骨拾いは、私と埼玉に住む弟夫婦、それに実家の中学2年の女の子と我が娘(中学1年)の計5人。親父のことを知っている火葬場の人が焼け残った骨の説明をしてくれた。女の子2人は怯えることもなく、説明を聞き、骨を骨壺に入れていた。山仕事をしていただけに、骨はしっかりと残っていた。
“男どもがいる間に”ということで、兄弟3人と弟のカミさん交えて、親父の遺品(がらくた)整理にとりかかった。貧乏性な親父は、捨てればよいものでさえも後生大事に保管するクセがあり、出るわ出るわ、社会人として私が東京に出て行く30年余も前に見た覚えのある“がらくた"が次々と。おまけに、車庫の隅には使えなくなった石油ストーブが4〜5個も積まれている。山のように“がらくた"は出てきたものの、“お宝"は何一つなく、「お兄さん、形見になにか持って帰っては?」とこの家の嫁さんに言われたが、“がらくた"では持って帰る気にもならずじまい。しかし、埼玉に住む弟は、その中から形見となる品を探し当て、私から見ると“がらくた"にしか思えないモノをバッグに詰めていた。その中には親父の手作りの算盤があり、それを持って行かれたこの家の嫁は「あ〜あ、あの算盤は子どもたちのおもちゃになっていたのに・・・・」と残念がっていた。一方、埼玉の弟のカミさんは、“がらくた"の中に、ダンナの高校時代の顔写真が貼られた学生手帳を発見し、ダンナに見つからないように、学生手帳を何冊か、フトコロに忍ばせた。こうして、葬儀さめやらぬうちから遺品整理が強行され、大量の“がらくた"は、越前市の清掃センター(一部事務組合が運営)に親父が愛用していたトラックで2回に分けて運ばれた。処理手数料は10sで60円!。信じられぬ安さ。仮に1トン持ち込んでも、6千円で片づく。あの世で親父は、無慈悲な家族や子どもたちに対して、涙しているであろう。
私には心残りが二つあった。一つは、長男の私に親父は言い残したいことがあったのではないか。31年前の3月末、高校を卒業した私は「5年間」の約束で東京へ飛び出した。しかし約束を覆し、今日まで東京で暮らし続けている。この間、次弟も埼玉へ飛び出し、結局は三男の末弟が家を継ぐこととなった。親父は私が東京に残ったことに対して、涙を流して悲しんでいたという。親父よ、私に言い残しておきたいことがあったのではないのか?。もう一つは、6月中旬に病院へ親父を見舞ったときに、親父と会話を果たせなかったこと。年に一度、8月の盆休みだけの帰省だったので、最期の会話は昨年の8月となる。話をしたかった。会話をしたかった。そのことが心残りとして、6月中旬の帰省以降、悔やまれていた。ところが葬儀の後、末弟から意外なことを聞いた。6月15日(日)に私が病院に見舞った際に、私が親父に対して「どうしたんじゃ?」と問うたときに親父は「ガタガタじゃ」と応えたという。私には入れ歯をはずした親父の言葉が理解できなかったのだが・・・・。会話ができていた。私が見舞いにきていることを理解できていた。うれしかった。とにかく、うれしかった。
「このたびは・・・・」と、葬儀が終わって半月たつ今日でも、知人から声をかけられる。声をかけられるたびに、在りし日の親父のことが思い出される。77歳・喜寿といえば今日では若い部類であろう。入院して1カ月もたたないうちにこの世から消えた親父に対して「早すぎる」という言葉は当然かもしれない。けれども私は自分に言い聞かせている。「順番なのだから」と。我が家族のなかで歳をとった順に天に召されていく、親父にその時が来たというだけにすぎないのだと。もうすぐ8月がくる。盆に里帰りしても親父はもういない。
余命
生業は森林伐採業、冬になると狩猟で野山を駆けずり回る男が、いま、病室で身体を休めている。学校を卒業してから年老いて病気になるまで、その男は山とともに暮らし、妻をめとるまでは広島の地でキコリ同然の生活を送っていた。26歳の時、父親が死に、郷里に舞い戻っていた折に見合いをし、終生をこの地におくこととなった。
6月15日(日)夕方、病室の扉を開けると、その男の妻は「忙しいのに遠くからきてもらって悪いね」と、私を迎え入れた。その男はリクライニングベッドに横たわり、身体のいたるところに計測用の器具を付けられ、鼻には酸素の管をさし、栄養剤とモルヒネの点滴を受けていた。
男の妻は私が来たことを告げるために、夫の身体を揺すり、眠りから目覚めさせようとしている。「いいよ。自然に起きるまで待つよ」と述べ、私はすすめられた椅子に座った。病人は思ったよりも元気そうなので、一安心。しかし、その男は、私がいた40分ほどの間をほとんど夢のなかで過ごし、私がいることには気付かずじまい。
翌日(16日)の朝9時、私は再度、病室を訪れた。病人は前日とは異なり、酸素マスクをあてられていた。「呼吸の回数が少なくなっているので」と看護士の説明。けれども当人は酸素マスクをたびたびはずし、マスクを邪魔者扱い。病人とはいえ、足も手もしっかり動くため、布団をはね上げ、身体に付けられた器具を取り除こうとする。その都度、計器の警告音が鳴り、看護士が病室に入ってくる。
昼前、病人が目覚めた。病人の妻は私がいることを大きな声で耳元で伝える。しかし、その目はあらぬ方向に向けられ、私を直視しない。「私が誰だかわかるか?」と聞いても、何の反応も示さない。私は「市議会議員・板倉真也」の名刺を取り出し、男の目の前に掲げた。しかし、男は名刺をじーっと見つめたまま、身じろぎもしない。「モルヒネの影響で幻覚があり、自分がいま、どこにいるのかもわからないのでは」と妻が述べる。その男はときおり、何事かをしゃべる。しかし入れ歯がはずされていることもあって、なんのことかはさっぱり不明。妻に向けられた言葉なのか、それとも私に向けられた言葉なのか、はたまた幻覚の中でのことなのか。カメラを向けると、ファインダーからのぞく男の容姿は元気だった頃に戻った感じ。しかし、視線は定まってはいない。
男との会話を果たせず、私への眼差しを受けることもなく、午後3時を迎えた。小金井市の6月議会まっただなか、これ以上、この地にとどまるわけにもいかない。私は帰る旨を男の妻に伝えた。「もう帰るんか」と立ち上がった私の背に言葉がとぶ。不安と寂しさをごちゃまぜにしたその言葉が、重くのしかかる。
病室の向かい側はナースステーションとなっている。そこにその男の主治医がいた。病人は「今年いっぱいもつかどうか」が、3月末に示された診断書であった。私は主治医に御礼を述べ、「今年いっぱいですか?」と問うた。「いえ・・・・」「秋頃?」「・・・・今月いっぱいもつかどうかです」「6月ですが・・・・」「(頷く)」。
バスの時間が合わないために、病院の玄関からJR福井駅まで、私は実に40分も歩くハメとなった。空は快晴。梅雨の晴れ間である。福井駅までの40分、そして北陸線、新幹線と、東京に向かう私の背中には、重い十字架が背負わされた。この男の一番最初の子どもになって49年。長いようでもあり、あっさりと過ぎたようでもある。
頑固一点張りの男が、金婚式を迎えた今年、人生に幕を下ろそうとしている。次に私がこの地に来るときは、喪服を抱えているのだろうか。
年金天引き
「高齢者いじめはとどまるところを知らない。所得税に加えて介護保険料が年金から天引きされ、4月からは後期高齢者医療保険料が天引き、10月からは国保税が天引きされ、来年10月には住民税までもが引かれる。
かつては物価スライド制で、物価の上昇に応じて年金額が増えたものが、いまでは逆に減り続ける一方。本人の意向を聞かずに天引きするやり方に、怒りが広がるのは当然のこと。「生命もいずれは、天引きされるのでは」との声まで。
6月から、75歳以上の運転者に「もみじマーク」表示が義務化された。違反の場合、減点一点と反則金等が課せられる。後期高齢者医療保険料の徴収で打撃を被り、今度はマークの義務化。「まるで邪魔者扱いだ」とは知人の弁。
小林多喜二の「蟹工船」のように、立ち上がることで明日は見える。いまこそ怒りを集めよう。
暫定
一時的なものを「暫定」と呼ぶ。その「暫定」が1日から復活した。前日まではリッターあたり125円でガソリンを入れることができたが、一夜明けるとリッター160円。35円もの値上がりだ。
おりしもゴールデンウイーク直前。4月の最終日に家族からは「今日のうちにガソリンを入れておいたら」とアドバイスを受けたが、すべてのガソリンスタンドが長蛇の列。しかも、昼過ぎには「売り切れ」の看板が貼りだされてしまった。
「暫定」は一時的なものを言う。「暫定」が切れ、ガソリンが安くなった4月のみが、私には「暫定」に思えてしようがない。「ガソリンが安いままだと車を利用する人が増える」と福田首相は述べるが、ではなぜ、道路をつくり続けるのか?。逆に、車を利用したくなるではないか。
連休中、行楽地は車の列が続いた。ささやかな夢まで奪う「暫定」復活で、高いガソリンに悲鳴をあげながら。あと何十年「暫定」は続くやら。
新入生
桜の花びらが舞うなかを、子どもたちが通学路を歩む。小学校の通学路に位置する我が家からは、黄色いランドセルに隠れるように、あどけなさの残る新1年生が学校へと向かう姿が目に映る。
第四小学校の新入生は81人。かろうじて3クラスになったが、もし80人だったら、40人ずつの2クラスになっており、先生も慌てたことだろう。一方、南中学校の新入生は126人。1年から3年まで4クラスずつとなり、やがてくる体育祭は、学年縦断の4クラス対抗の熱戦が期待される。
1980年以来、1クラス「40人」基準が続いている。しかし、東京都以外の道府県では2002年以降、独自に少人数学級に踏み出し、ゆきとどいた授業めざして努力している。石原都知事は、子どもたちの教育より、銀行経営のほうが大事らしい。
我が娘も先日、中学の門をくぐった。春本番である。しかし、あどけなさはいまだに残る。
誕生日プレゼントと娘の思惑
もはや、この歳になって「おめでとう」と言われても、返す言葉は何も浮かばない。40歳を過ぎてから、月日の経つのがなんと速いことか。気がつけば、50歳の手前。「おじさん」と近所の子どもたちから声かけられても、何の違和感も抱かなくなってきている。昔は「おじさんではない。お兄さんでしょ!」と言い返したものだが、気力さえなくなってしまった。
恒例の、子どもたちからの誕生日プレゼントが寄せられた。といっても、小学6年生の娘のみで、中学2年生の息子は、父親の誕生日など眼中にない。中学生の男の子には、父親はうるさい存在でしかないのだ。プレゼントをくれた娘も、はたしていつまで父親の誕生日を気にしていてくれるか。しかし、だからといって、気にしていてくれないと困るというものでもないのだが・・・・。プレゼントをくれればくれたで、いろいろ考えめぐらしてしまい、くれなければ、べつにそれで悩むわけでもない。ようするに、もうどうでもよい49歳という、中途半端な歳なのだ。
娘がくれたプレゼントは、手袋と小物入れとハンカチとカードケース。娘には悪いが、あまり意味が込められたというものではない様子。わかりやすく言えば、手っとり早く買った品物というところ。年に一度の行事の一環として、駅前のデパートに行って買い込んできたという風である。
ただし、娘の行動の底流には、目前に迫る我が身の誕生日への期待が横たわっている。父親にプレゼントを渡しておけば、自身の誕生日には、それ以上のモノが返ってくるだろうという、底のしれた魂胆が。よって、父親の誕生日からほどなく迎える自身の誕生日を終生抱える娘は、自身の誕生日のプレゼントをアテにするかぎり、父親へのプレゼント購入という使命を負い続けることとなる。たとえ父親が、父親自身の誕生日の到来を快く思っていなくとも。
一方、息子は幸運である。誕生日を年末に持つ彼は、クリスマスプレゼントをもらい、誕生日プレゼントをもらい、帰省先の母親の実家のおじいちゃん、おばあちゃんに祝ってもらい、年が明けるとお年玉をもらう。まさしく彼にとって、年末から年明けにかけてはゴールデンウィークなのである。しかも冬休みの真っ只中である。2歳年下の妹とは、天と地ほどに恵まれているのである。
うれしくもない49歳という誕生日プレゼントをもらってしまった私は、目前に控えた娘の誕生日プレゼントをどうするか、悩む日々に突入した。「行事の一環として、駅前のデパートで手っとり早く」とはいかないのだから。議会の準備とプレゼントの中身で、悩むこの頃である。
道路特定財源
「道路特定財源」が国会の大きな焦点になっている。道路整備のために10年間で59兆円確保し、ガソリン税の暫定税率・リットルあたり25円を10年間延長して、道路特定財源につぎ込むというもの。「道路整備」といいながら、国土交通省職員の野球グローブや卓球ラケットの購入費にも充てられ、特定財源の必要性が疑問視されている。
道路特定財源は、地方自治体の道路整備以外の事業にも交付されている。そのうちの一つが2006年度からスタートした「まちづくり交付金」。駅前開発事業などの「都市再生事業」に充てられ、小金井市は2010年度までの5年間で24億円を予定。そのうちの4割が、道路特定財源だという。
暫定税率によってリットル 150円の高いガソリンを買わされ、一方でゼネコンのための大型公共事業に財源が充てられる……。国民の暮らしそっちのけで使い道を特定する、こんな冷たい政治はまっぴらだ。いまこそ怒りを行動に。
成人式
成人の日の14日、小金井市でも成人式が開かれた。小金井市の新成人は1,373人(男762人、女611人)、そのうち半数の685人(男364人、女321人)が会場の中央大学附属高校講堂に集まった。
昨今、荒れた成人式がマスコミをにぎわせているが、小金井市の成人式は心配することもなく、挨拶に立った市長、市議会議長の「大人としての責任を持とう」の呼びかけにも元気な反応が返るほど。
一方、十二分に大人になったはずの国会議員のなかで、自らの言動に責任を持たない人が出てくるのは始末が悪い。政府の新テロ特措法に真正面から反対を掲げていたはずの民主党・小沢党首は、法案の採決時に国会議員としての最重要任務を放棄。党首みずから党の方針に反する態度をとった。
新成人が夢を大きく膨らませながら意気揚々と歩んでいく先に、またしても戦争の影がまとわりつかぬように、日本共産党は平和憲法を守りぬく責務を果たし続ける。
年の瀬
近所の「野川」
年の瀬を迎え、厳しい冬が迫ってきた。今年はとくに厳しそう。物価がジワリジワリと上がっているからだ。
深刻なのは、灯油とガソリン。灯油18L一缶が 1,800円!。「L百円」時代に突入した。一昔前のガソリンの値段である。そのガソリン。バイクに満タンに入れてもらい、請求された金額を聞いて耳を疑った。L 154円だという。バイクで行くより電車で出かけたほうが安いのではないかと、思うほど。
政府・経済界は、消費税増税の大合唱。福祉のために使うというが、庶民から金を取り上げ庶民のために使うというのでは、経済界は腹は痛まない。
巷ではジングルベルが鳴り響く。我が家の子どもは世相に関係なく、法外なプレゼントを要求。消費税増税がくる前に、我が家の家計が傾きそう。親の方こそ、プレゼントをもらいたいくらいだ。サンタよ、いずこに。
(「しんぶん小金井」2007年12月16日付から)
エプロン哀歌
「熟年離婚」が世間をにぎわしている。離婚したら、亭主の退職金の半分が妻のものになるという法律もできたとかで、世の男性は戦々恐々となっている。家と会社の往復だけの働きバチ男性にとって、妻に三行半(みくだりはん)を突きつけられでもしたら、明日からの人生は真っ暗である。まず、子どもたちは妻の側に付く。子どもたちの養育費を月々、払わねばならない。しかも、台所はすべて妻に任せていたので、メシの作り方一つ、わからない。仮に現在住んでいる家をあてがわれても、家の掃除さえままならないし、第一、どこになにがあるかさえわからない。ということで、美形と称される私でさえも、棄てられないように買い物に出かけ、台所にも立つのである。
台所に立つときには必ずエプロンを着ける。現在使用しているエプロンは二代目。本当は47歳の誕生日に子どもたちがくれた三代目がいたのだが、子どもたちが家庭科授業で使用するとかで、学校に出かけたままである。そのため、二代目エプロンは交代要員もないままにフル回転で働き、ずいぶんと汚れてしまった。交代要員を確保し、ひさしくお世話になっていない洗濯機に入れてあげることが必要になっている。
そんなとき、小金井市の新日本婦人の会のバザーで掘り出し物を見つけた。一つはカエルのイラストが入った緑色、もう一つは「ふるさとキャラバン」の紹介が入った黒色。二つ合わせて150円なので、「いい買い物をしたネ」と言われてもいいくらいである。新日本婦人の会のお馴染みの面々は「男女同権」の考えが根付いている人ばかりだから、私がエプロンを買っても、いぶかしげに見ることはない。「あんたも台所に立ちなさいよ」という目で、私を見ているにちがいない。
台所に立っているときに、玄関のピンポンが鳴るときがある。いそぎ玄関に出て行くので、エプロン姿のままである。しかし、玄関の外にいる人は新日本婦人の会の面々とは違って、私の姿を見るなり“ギョッ!”とする人ばかり。「奥さんに逃げられたのですか?」とはさすがに口に出しては言わないが、宅配の男性や宗教普及の方々の目は、疑い深そうに私を見つめる。だから私は「今日は私が料理当番でしてネ」と、つい、ウソを言ってしまう。「棄てられないようにしているんです」とは言えないのである。
エプロンをバザーで買うだけでも、こんなにあれこれ思いめぐらさなければならない日本の現状は、まだまだ男女同権にはほど遠いということではないだろうか。同時に、私の意識の中にも、男女同権が根付いていないことの証左でもあるかもしれない。
JR西明石駅窓口の温情措置
人は今回の対応を「超法規的温情措置」と呼ぶ。しかし、利用者側から見れば、利用者本位の当然の措置と考えるであろう。JR西日本「西明石駅」窓口の職員が下した今回の措置は、どのように判断するにせよ、小金井市議会史上における珍事件として語り継がれていくことは間違いない。
この事件は11月13日(火)。小金井市議会の行財政改革調査特別委員会が新幹線下車後、JR西明石駅の新幹線出口改札を通過するときに起きた。乗車券と座席指定券、特急券の計3枚を出口改札機械に入れ込んだ時のこと。と、ここで新幹線の座席指定に乗車されたことのある人ならば、“ちょっと待てよ”となるであろう。なぜ券が3枚もあるのか? ────そう。この事件は「券が3枚ある」ということから起きた出来事であった。
我々一行が手にした切符は、(1)「武蔵小金井−岡山」の乗車券、(2)「東京−岡山」の新幹線特急券、(3)「東京−西明石」の新幹線座席指定券、の3枚。この3枚を使って、西明石駅で「途中下車」しようというのである。当然に、西明石駅で下車することはできる。しかし、新幹線の出口改札機械から再び現れ出た切符は、「武蔵小金井−岡山」の乗車券のみであった。つまり、本日の最終目的地、「岡山駅」までの新幹線特急券は改札機械に収容されてしまったのである。これでは、岡山駅まで乗車券のみで行かなければならない。同行の市議会事務局職員は「西明石駅から岡山駅までを在来線で行けば、2時間はかかる」と説明。一同、騒然となった。
改札口から20m離れた駅構内に、出迎えの明石市役所職員をポツンと待たせながら、西明石駅職員とのやりとりが開始された。我々の主張はただ一つ「岡山駅までの新幹線特急券を返してほしい」。一方、駅職員は「西明石駅を下車したことによって、この時点で、この先(岡山駅)までの新幹線特急券は無効となる」。乗車券は途中下車でも有効だが、特急券は無効になるというのだ。何度かの押し問答が繰り返されたがラチがあかず、しぶしぶ一行は明石市役所職員のもとに向かった。
焦ったのは、同行の小金井市議会事務局職員。「西明石駅から岡山駅までを、2時間もかけるわけにはいかない。あとあと、かたりぐさにされてしまう」。駅職員と押し問答を繰り返すかたわら、小金井市議会事務局に電話し指示を仰ぐ。なにしろ、一連の切符は彼が購入したのではなく、旅行代理店から取り寄せたもの。彼にすれば、青天の霹靂である。何ら解決の糸口がつかめないまま、明石市立図書館の視察に移る。彼の頭には、西明石駅から岡山駅までの行路をどうするかしかなくなってしまった。結局、小金井市議会事務局が下した方法は、再度交渉し、やむを得ない場合は西明石駅から岡山駅までの新幹線特急券を購入すること。西明石駅職員側の軍門にくだることも止むなしとなった。
明石市立図書館の視察を終え、再び西明石駅へ。集合時間を決め、議員が駅構内に散ったのを見届けた市議会事務局職員と、視察に加わった小金井市の図書館長、企画政策課長補佐は駅窓口におもむき、交渉に移った。市議会事務局職員の手には、一行の西明石駅から岡山駅までの新幹線座席指定券が握りしめられていた。ようするに旅行代理店は、「東京−西明石」の新幹線座席指定券の他に、「西明石−岡山」の座席指定券を手配し、乗車券と特急券を岡山駅までの通し券にしていたのである。しかし、ここで思わぬことが勃発した。「西明石−岡山の座席指定券は無効です」と駅側は主張するのである。彼等が言うには「座席指定券は特急券があってこそ効力を発生するのであり、その特急券は西明石駅を下車したことで消滅し、その時点で、その先の座席指定権利は無効となる」。指定席券に明記された新幹線はまだ到着していないのに、無効だというのである。もちろん、このやりとり場面に私は立ち会っていない。その後のさまざまな情報をもとに記しているので、いくらか差異があるかもしれないが、その程度は許容範囲と思っていただきたい。集合時間が近づき、散っていた議員が改札口前に集結してきた。しかし、駅窓口では小金井市の3人の職員が駅職員と交渉を続けている。そこへ集結した議員が入れ代わり立ち代わり様子を見に行く。それらの情報は、人一倍好奇心旺盛な市議会議員側に逐一、報告された。
小金井市職員3人の交渉は、20分は続いたであろう。その熱意が状況を一変させた。まず、「無効」となったはずの「西明石駅から岡山駅までの特急分」が復活し、続いて、同じく「無効」とされた「西明石駅から岡山駅までの座席指定券」も有効扱いとなった。ただし、「東京駅から岡山駅までの新幹線特急券」をそのまま有効とするわけにはいかないので(なにしろ、途中下車したのだから)、「東京−西明石」と「西明石−岡山」とで特急券を分けて購入したとみなす措置がとられた。その措置に符合する追加料金が取られたが、ようするに、「東京−岡山」の特急券の金額と、「東京−西明石」「西明石−岡山」とで特急券を分けて購入した金額との差額を徴収されたということ。「追加料金」と記したが、最初から旅行代理店が正常な購入の仕方をしていれば、同じ金額がかかるわけであり、追徴金という性格ではない。券が発行されたのは、座席指定の新幹線が到着する3分前であった。市職員から券を受け取り、走りながら階段を駆け上がり、ホームにたどり着いたときにはすでに新幹線はホーム手前に来ていた。
さて、この時に西明石駅の新幹線入口改札を通るときに手にした券も3枚であった。(1)「武蔵小金井−岡山」の乗車券、(2)「西明石−岡山」の新幹線指定席券、(3)「西明石−岡山」の新幹線特急券。(1)と(2)は旅行代理店が手配した券。(3)は西明石駅が発行した券である。岡山駅で(3)の券は改札機械の中に消えてしまったのではっきりとは覚えていないが、「指定券あり」と記されていたように記憶している。通常は、(2)と(3)は一枚の券に統合されているのである。
夜、一行は夕食のあと、二次会、三次会へとくり出した。しかし、疲れ果てた市職員は二次会終了とともにホテルへと消えて行った。市議会事務局職員はこの日、寝不足であった。前夜10時に床に就き、午前4時に目が覚めた。二度寝をすると寝坊するのではないかとの恐怖から、彼は午前4時に目が覚めて以降、テレビを見るなどして出勤時間を待つのである。しかも彼は、議会視察に議会事務局責任者として同行するのが、わずか2度目。1度目の視察団よりも人数が多く、口うるさい議員が今回の視察団にはそろっている。そこへ、今回の出来事である。しかし彼の奮闘で、難事を見事切り抜けることができた。彼は一生、今回の出来事を忘れないであろう。同時に、旅行代理店に対しては、いつまでも心に思うものが残るであろう。 ※写真は、問題発祥の地「西明石駅」
トップダウンの三宅島バイクレース
石原都知事が三宅島の復興イベントとして打ち上げた「三宅村オートバイレース」が16、17日に開かれ、マスメディアが続々と島に押し寄せている。小金井市はこのイベントに合わせて「観戦ツアー」を計画。しかし予定の30名を大きく下回る2名の応募しかなく、市長も参加を見送る事態に。
安全性を無視したバイクレースに対しては、国内バイクメーカーが協力を辞退。レースを主管する予定だった「日本モーターサイクルスポーツ協会」も協力しないことを決めるなど、石原知事がトップダウンで決めたイベントは、出だしから八方ふさがりの状態である。
私には、鳥たちが憩い、しかも高齢者が多い島でのバイクレースという発想がどうしても理解できない。バイクの轟音が鳴り響けば、島が驚きと悲鳴をあげるからだ。トップダウンで決められたイベントは、三宅村がカヤの外に置かれている。村の主体性を無視して、どこが「支援」と言えるだろうか。
(「しんぶん小金井」2007年11月18日付より)
信州・青木村
「長野県の青木村に行こう」と誘われ、知人にプランをすべて任せて洗面用具と下着類を詰め込んだだけのバッグ片手に電車に飛び乗った私の頭の中には、「青木村」がどんなところなのかの知識はまったく入ってはいなかった。「秋の長野県に行く」というそれだけで、一泊二日の小旅行は充分に私を楽しませるに足るものであるのだから。当然に、青木村を事前に調べておくことも、長野県のどのあたりに位置するのかさえも、一切、手を付けてはいなかった。新幹線の車窓に映る景色を眺めながら、長野にひさびさに出かける歓びで胸はいっぱいであった。
10月23日(火)午前10時50分、好天の上田駅に下り立った我々6人を出迎えてくれたのは、青木村在住で前青木村議会議員の堀内さん夫妻。我々の一人が旧知の間柄ということで、事前に連絡を取り合っていたものである。堀内さんの車に乗車し、堀内奥さんの道案内で千曲川沿いを走りながら、最初に向かったのは海野宿。パンフレットによると「1625年に北国街道の宿駅として開設され、集落は中世における東信濃随一の豪族・海野氏の城下町であった所」。約650mの街道の両脇に家並みが続き、街道の真ん中に用水が流れている。1986年に「日本の道百選」のひとつに選ばれ、1987年には「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けているだけに、街並みはおもわず見入ってしまうほど。驚いたことに、この海野宿の中を貫いている街道を自動車が走ることができるのである。道路の案内板に沿って車を走らせていたら、海野宿の中に車ごと入っていたという具合。海野宿で食べたざる蕎麦は、実に美味であった。
今回の小旅行でもっとも関心があったのは「無言館」。存在は知っていたものの、これまでに訪れることがなく、「ぜひ一度は見てきたほうがいいよ」と周囲から言われてきただけに、無言館の前に立ったときには見とれる状態であった。
無言館は、太平洋戦争で戦没した画学生の遺作を収蔵・展示する施設で、1997年にオープン。「『無言館』という名前には、絵が私たちに『無言』であるだけではなく、私たちのほうも画学生さんたちの絵にむかって『無言』であるという意味も含まれている」と設立者の窪島誠一郎氏は本に記しているが、私には“大好きな絵をいつまでもかき続けていたいのに、戦場で銃剣を握らざるを得なくされた学生たちの、言葉に発することのできない悔しい思いが込められた場所”という思いをひしひしと感じた。平日にもかかわらず、無言館にはたくさんの人々が訪れていた。
無言館から車で少し走ったところに「前山寺」という寺がある。「ここには“未完成の完成塔”と呼ばれる三重の塔がありますよ」と堀内奥さん。塔に窓がついていないから“未完成”らしいのだが、私には立派な完成塔に感じられた。秋だというのに、ツツジが咲いていたのには驚いた。前山寺の山門横には「信濃デッサン館」がたたずんでいたが、行程時間に余裕がないために、建物をかたわらに見ながら寺をあとにした。
この地の冠たる温泉は「別所温泉」。温泉の地名をあまり知らない私でさえも、その名は知っているのだから、日本中にその名をとどろかせているにちがいない。この温泉地の中に山本宣治の石碑があるという。山本宣治は戦前の労働農民党の衆院議員で、治安維持法の改悪に反対して帝国議会で孤軍奮闘し、1923年3月、右翼のテロに倒された。石碑は想像を超えて大きく、山を背にして凛然と構えていた。と、ここまで記してきたが、まだ本題の青木村には車は到達していない。太陽の日が徐々に山陰に迫ろうとしている。一行は案内を引き受けてくださった青木村の堀内さん宅をおじゃますることとなった。
堀内さん宅は古道「東山道」の街道沿いにあり、江戸時代はお代官様が住んでいた場所だという。居宅は2階建てで、屋根には太陽光発電のソーラーパネルが取り付けられている。居宅の他に白壁の蔵があり、もう一つ、いまにも朽ちそうな木造の農作業用の建物があった。居宅の中に入ると、居間のド真ん中にデンとストーブが置かれていた。薪ストーブのように思われる。仲間の一人が「あれはレコードプレーヤーですか?」と言ったので、一同は“この人もついに、ここまできたか”と彼の頭を眺めながら哀れんだが、そういえば私の実家にも昔、このようなレコードプレーヤーがあったなと、思い起こした。一階の天井が低い。「昔、おカイコをやっていたんですか?」と、仲間の一人が指摘。火が入っていない掘ごたつに足を投げ出しながら、カイコの話や、この地域の苦労話などで話は尽きず。ホームスティの受け入れを始めたというので、宿泊場所となっている2階も見せてもらった。
さて、堀内さんにいつまでも甘えていてはいけない。一行は、堀内さんのワゴン車を借りて、道案内なしで宿泊地の田沢温泉に向かうこととなった。田沢温泉は青木村のなかにあり、かつて、島崎藤村が湯治をかねて宿泊していたということで知られているらしい・・・・。道案内なし。運転手は私。運転に自信はあるが、ナビゲーターに自信はない。地図を見ながら、まずはスタート。しばらく走って「方向が逆じゃないの?」と言う声が。それならばとUターン。で、しばらく走って「どうも違うような・・・・」の声が。で、またUターン。なんやかんやで、なんとか田沢温泉に到着し、「富士屋ホテル」に入った。
青木村は、江戸時代に百姓一揆が5回も起きている地だという。「5回」というのが多いのか少ないのかの判断は私にはつかないが、「江戸時代の百姓一揆を、全国的な統計数字で見ると、国別の第一位は信濃で、信濃の中で藩別第一位は上田藩である。その上田藩の領地の中で、特に百姓一揆が多く起こったところとして注目されるのが、現在の青木村に入っている村々なのである」と青木村教育委員会のパンフレットは紹介している。そして、この青木村の中に、義民をまつった祠(ほこら)があるというのだ。「義民」とは何か?。パンフレットでは次のように記している。「(一揆の)最初の音頭とりとなったり、発頭人となることは、大きな犠牲を伴うことであった。それを死も覚悟の上で、発頭人を引請け、事が成功し要求が通ったあとでも、人身御供の形で処刑されたのが義民にほかならない」。つまり、大多数の村人の利益を勝ち取るために、自らは一揆の首謀者として人身御供(ひとみごくう)になり犠牲になっていった人を、村人があがめまつったのが「義民の祠」となって今日まで残されているのである。この青木村で最初の「全国義民サミット」が開かれ、昨年の秋には節目となる10回目のサミットが開かれている。
その青木村。10月の下旬ともなると、朝晩の冷えること。ホテルではすでに暖房が焚かれ、寝るときも暖房を付けたまま布団にもぐる状況。でも、富士屋ホテルの夜の露天風呂は最高であった。雲ひとつない夜空にまん丸の月が輝き、仕事を催促する電話もここまでは追っては来ない。男性陣4人は夜の9時30分に全員、熟睡に入った。
翌24日(水)朝、ホテルから見る村は山にガスがかかっていて、いかにも寒そう。朝9時、堀内さんが迎えにきた。堀内さんの仲間で、以前、日本共産党の村議会議員を務めていたという初老の人と富士屋ホテル内で合流。この初老の人、ホテルの待合室で血圧測定器を片手に、ホテルの従業員の血圧を次々に計っていた。私たちはこの初老の人を「診療所の人が出張でやってきて、ここで診察を行なっている」と勝手に推測。コーヒー片手にかたわらで見ながら、“どちらがお医者さんかわからないね”と、初老の人を患者さんに、従業員をお医者さんに置き換えて眺めていた。だから、堀内さんから紹介されたときには正直、驚いた。初老の人は現在、医療生協の仕事をしているという。
堀内さんの案内で村の教育委員会へ出向き、義民資料展示室を見学後、義民の祠や石碑・墓などを見て回った。このころには空は一斉に晴れ渡り、上着がいらないくらいの陽気に。義民関係の史跡を回ったあとは、堀内さん宅の前庭で、例の初老の人から義民の歴史の講義を受講。昼食を山で食べるというので、長靴を借りて車で山へ向かった。なんと、堀内さんは自身が所有する山を持っている。その山に入って、昼食前にきのこ取りまで体験してしまった。
堀内さんの本職は農業。どれくらい農地や山林を持っているかは知らないが、20羽くらいの鶏を飼い、山に向かう畑地には羊2頭を放し飼いにしている。家の裏側には小さな水田を開拓し、憲法九条の文字を浮かび上がらせた稲を実らせている。他にも水田や麦田を持っており、夫婦と娘さんの3人で農業に精を出している。「娘の一人が一緒に農業をやってくれている」と述べる奥さんの顔はとてもうれしそう。その娘さんも山の昼食にかけつけてくれた。
青木村のおしまいに、国宝の大法寺三重塔を見学した。鎌倉時代末期の建立で、長野県に残る三重塔では最も古く、奈良や京都の三重塔にも匹敵する名塔と称される。“見返りの塔”とも呼ばれ、東山道を往く旅人が何度も振り返って名残り惜しんだという。
堀内さんに見送られ、上田駅の構内に消えた私たちは、一泊二日の好天の青木村に大満足。充実しきった二日間を振り返りながら、大宮駅までの一時間を爆睡した。
102歳で死んだ知人の歴史
9月初め、彼女は家族に囲まれながらその生涯に幕を下ろした。享年102歳、実に一世紀を生き抜いた。彼女との付き合いは15年前から。私が市議会議員選挙に初挑戦するために訪れてからのこと。15年前とはいっても、すでに彼女はその時点で87歳になっていた。
15年前の彼女は腰は曲がっていたが、杖をつきながら街を歩き、私に出会うとニコッと笑いながら言葉をかけてくれた。彼女の趣味は絵画。油絵だったか水彩画だったかは忘れたが、アンデパンダン展に出展し、娘さんと一緒に個展なども開いていた。彼女の絵で印象に残っているものに、彼女のダンナさまを描いたものがあった。書斎で頬杖をつきながら考え事をしている姿を正面からとらえた絵である。
彼女のダンナさまは、私が彼女と知り合った時にはすでにこの世の人ではなく、在りし日の姿は写真でしかお目にかかったことはない。そのダンナさまは、1944年の「横浜事件」で検挙され、1945年8月に釈放されるまで獄中生活を送っている。
戦前、この夫婦は、著名な文筆家・蔵原惟人(くらはらこれひと)を自宅の2階にかくまったことがあった。蔵原惟人の願いを受け入れ、中央線の荻窪駅と西荻窪駅の中間に位置する2階建ての大きな家を彼をかくまうために借り、自分たちは1階に住み、2階を彼にあてがった。蔵原惟人がこの家にころがりこんだのは1929年12月初旬。翌年7月1日に蔵原惟人が東京を脱出するまで、この家は蔵原惟人の「かくれ家」となった。
蔵原惟人が2階に住んでいた半年間、この2階にはいろんな人が訪れた。「一九二八年三月十五日」「党生活者」「蟹工船」の作者である小林多喜二もその一人である。「多喜二は紺の絣の着物を着ていて、とてもかわいい坊ちゃんでしたわよ」と、彼女が私に語ってくれたことがある。特高警察に連行され、その日のうちにかえらぬ人となった小林多喜二を生前、自宅に招き入れたことのある人物が、どれほどいたであろうか。私は彼女に、「その時のことを書き記しておいてほしい」と頼んだことがあるが、日の目を見ずに他界したことは心残りである。
蔵原惟人を2階にかくまっていた期間、この家にはもう一人、住人がいた。この夫婦の2歳になる娘である。この娘は、ころがりこんだ蔵原惟人にとてもなついたらしく、彼を追いかけて、しょっちゅう2階へと上がっていった。その頃のエピソードが、ダンナさまが書いた本に次のように記されている。「キーちゃんは僕がお風呂にはいると風呂場の前に坐ってじっと見ているんだよ。とてもエッチな赤ちゃんだった。あんまりじっと見ているのでこっちが困ってしまうんだ」。これはいうまでもなく、蔵原惟人の言葉である。「キーちゃん」と呼ばれるエッチな娘は、彼女が102歳でこの世を去るまで共に生活を送り、彼女が過ごしていた家に、現在も元気で暮らしている。
彼女が100歳を迎えた時、私は党の仲間とともに彼女の自宅を訪問し、100歳の誕生日を祝った。その頃の彼女は外へ出歩くこともなく、自宅のベッドで過ごす日々を送っていたため、訪問者もほとんどなく、地元の共産党の市議会議員がだれだかもすっかり記憶から失せる状況となっていた。だから、私や私の仲間が訪問する段になって、娘の「キーちゃん」は彼女に、私がどういう人物であり、どんな風体なのかをしっかりと語り、彼女が不安がらないように努めた。そしていよいよ、ひさしぶりのご対面。彼女は初めて私を見るという感じであったが、彼女の開口一番がおもしろい。「わ〜、こんなにいい男だとは思わなかった」。このホームページを読まれているみなさん。事実です。
100歳のお祝いで訪問して以降、彼女とはついに会うことはなかった。100歳でありながら言葉も耳も頭脳もしっかりし、子どものようなかわいい笑顔と、かわいい声で迎えてくれたあの姿は、その時に撮影した記念写真で見るほかはなくなってしまった。戦前の苦悩の時代を歩んだ彼女から、もっといろんな話がきけていたらと思うこの頃である。
自民党総裁選挙
近所のガソリンスタンドから「閉店のお知らせ」が舞い込んだ。ガソリンだけでなく、自動車やバイクの点検・修理、自転車のパンク直しまで手がけ、長い間、慕われた店であった。
「地下のタンクが老朽化し、いまなら解体費用が出せるので」と言うが、規制緩和による無人ガソリンスタンドの進出が、経営を圧迫していることは否めない。
マスコミでは、自民党総裁選挙を連日報道し、候補者の言動を事細かに知らせる。けれども、彼らが口にする言葉には説得力が感じられないばかりか、どこに向かって言葉を発しているのかさえ、わからない。
ガソリンスタンドは、休みなく店を開けるようになった。しかし「構造改革」「規制緩和」を叫ぶ候補者の目には、この人たちの姿はけっして入りはしない。企業献金、政党助成金で労せず暮らしているからだ。国民不在の政治こそオサラバを。
台風縦断と市教育委員会の対応
風速25m以上の暴風域を引っさげて、台風9号が7日(金)未明、関東地方を縦断した。台風直撃で小金井市でも、屋根瓦が吹き飛んだり樹木が倒れる被害が生まれ、小中学校や公民館の雨漏りが発生した。我が家は目に見える被害はなかったが、前日(6日)未明あたりからは、強い風で家全体が揺れる始末。雨戸がない住宅なので、窓ガラスに物があたって割れはしないかと、落ち着かなかった。
普段は気にもとめない気象情報に、子どもたちは耳をそばたてた。7日が登校になるのか休校になるのかが気になるからだ。もちろん、子どもは一致して「休校」を願っている。しかし、その結論は7日朝の空模様を待たねばならない。「台風よ、もっと歩みを遅く」と、子どもたちは願いつつ布団にもぐった。
7日朝、外は風雨ともに強い。しかし学校からの指示は「午前7時を過ぎても東京地方または多摩北部の暴風警報が解除されない場合は臨時休校とする」というもの。朝7時、家族全員でニュースを見る。気象情報は「東京23区に暴風警報」の報道。そこで我が家は“ハテ?”となった。「東京23区」という場合、これは学校の指示文書でいう「東京地方」に合致するのか?。
カミさんはまず、小金井市役所に電話した。この時間に応対するのは市役所本庁舎1階の施設管理部門。教育委員会につないでもらおうとしたが、この時間帯はまだ教育委員会は来ていないとのことで、つないでもらえなかった。この時間帯の市役所窓口であるはずの施設管理部門は、教育委員会から何の指示も情報も寄せられてはいない様子であった。次にカミさんは南中学校に電話した。電話の呼び出しコールが一定続いた後、電話に出た人は、「『多摩北部または東京地方』が判断基準なので、『東京23区』は該当しない」との説明。よって「登校」が確認された。ほどなくして、娘が通う第四小学校の連絡網が入り、「登校」が指示された。
学校によって、保護者への指示内容は異なっていた。「うちの子どもの学校は『朝、連絡網を回して、登校か休校かのお知らせを行なう』という指示内容だった」と同僚議員の言葉。一方、第一小学校は「2時間繰り下げて、授業開始」であった。「午前7時を過ぎても東京地方または多摩北部の暴風警報が解除されない場合は臨時休校とする」は、小金井市教育委員会が各学校に出した指示文書であるが、最終結果を電話連絡網で徹底する学校もあれば、授業開始を2時間繰り下げる学校も生まれ、また、南中学校のように、自宅のテレビなどで各家庭が登校なのか休校なのかを「自己判断しろ」というところも生まれた。
慌てたのはカミさん。なにしろ第四小学校の娘はこの日、社会科見学が授業に組み込まれており、「弁当持参」が義務付けられていたからだ。いそいで台所に立ち、弁当準備に追われた。
この日、南中学校では、以前から計画されていた保護者会が開かれた。「保護者会では、今回の南中学校の指示のあり方に苦情がいくつも寄せられた」と、カミさんの言葉。一方、南中学校の息子のクラスでは「2人ほど、遅れて学校に来た」とのこと。小金井市教育委員会の各学校への指導のあり方に問題があると感じるのは、私だけか?。
郷里の「猛暑」
この夏、観測史上最高の「40.9度」が埼玉県で観測された。記録がつくられた16日、「体温より高い気温など想像できない」と口にしながら、私は郷里・福井で夏休みを過ごしていた。
何度体験しても馴染むことのできない東京の夏から逃れようと、ほんの数日の郷里であったが、その郷里でさえも連日、35度前後に見舞われた。しかし、日本海側の夏は湿気が東京よりもはるかに少なく、「今年は暑い」との母親の言葉ではあったが、過ごしやすい数日を送ることができた。
連日の猛暑ではあるが、いずれは秋を迎える。迎えたとたんに猛暑だった夏を懐かしむのだから、都合のよいものである。その秋を迎える前に、暑い夏の締めくくりに市営グランドでは、37回目となる平和盆踊りが花開いた。平和憲法が脅かされる今日、平和を呼びかける取り組みは、さらなる炎が求められる。その炎は冬になってもけっして衰えることがないほどに。
梅雨明け
先月14日に梅雨入りした関東地方は、一カ月余が過ぎた今日でも、明ける気配を見せてはいない。過去30年の平均梅雨明けが7月20日前後というから、一週間余、遅れている。
昨年の梅雨明けは7月30日だった。昨年と同じであれば、政治決戦の結果が判明する日と重なり、暴走続く国政の梅雨明けも期待できる。
梅雨明けには、太平洋高気圧の奮起が欠かせない。梅雨前線を一気に押し上げ、すっきりした晴天を一日も早く仰ぎたいものだ。かたや国政では、どの勢力が太平洋高気圧になりうるのか、じっくり見定めることが求められる。前線を押し上げるはずの勢力が、気がついたら前線と同じ役割を果たし、国民に風雨を与えることがありうるからだ。
政治戦の梅雨空を一気に晴らす部隊は、なんといっても「たしかな野党」。汚れた金もヒモ付きの金も一切受け取らずに、くらし第一をめざしているからだ。7月15日、この党は85歳を迎えた。
パッチギ!
井筒和幸監督の「パッチギ!」がテレビで放映され、劇場で第二弾が公開された。いずれも日本に住む朝鮮の人たちの苦悩と懸命にくらす生きざまがテーマとなり、観終わった私をとりこにしている。
天皇制政府は戦時中、朝鮮や中国から70万人以上を強制連行し、貫井北町の陸軍技術研究所造成工事や各地の工場、炭鉱などで働かせるとともに、女性は戦地に送られ、従軍慰安婦を強制された。米下院委員会が日本政府に公式謝罪を求める決議を採択したが、安倍内閣がいかに否定しようとも、歴史の真実から目をそむけることはできない。
小金井市には外国人が2,300人以上、住んでいる。一番多いのは中国の人(1,007人)、二番目が朝鮮・韓国の人(429人)。一番近い国でありながら、国の責任者が歴史を歪める態度をとっているために、朝鮮半島の南北分断のように、ここにも「イムジン河」が流れている。
憲法九条
私が子どもの頃は、自衛隊が戦場に出かけることなど考えられなかった。ところが16年前の湾岸戦争で掃海艇をペルシャ湾に出航させ、翌年にはカンボジアに自衛隊を派遣。それから11年後の2003年には、戦場のイラクに武器を携えて出かけていった。しかし「交戦権の否認」を明記した憲法九条が、武器の使用を止めさせている。
民主党が本会議採決を認めたために国民投票法が成立し、3年後からは憲法改定が可能な状況になる。その民主党は、教育委員会を廃止せよと主張。国に直接、教育に介入させ、子どもたちに「愛国心」を教え込めとでもいうのだろうか。
先日、憲法ミュージカル「キジムナー」を観た。友軍であるはずの日本軍が県民に銃を向け、自決を強要。その歴史は、忘れてはならない教訓である。「憲法九条をなんとしても守りぬかねば」。決意新たに劇場をあとにした。
笠木 透
自民・公明政権が、今国会で憲法を変えるための手続き法案を成立させようとしているなか、4月30日の夜、都内の立川市で「ピースナインコンサート in 立川」と題した集いが開かれた。「ナイン」とは憲法9条のこと。「憲法9条の改悪を許さない」ことを、歌を通じてアピールするという取り組みである。
第一部は、三多摩のJR中央線沿線上で活動している音楽好きの市民団体が、平和を題材としたオリジナル曲を披露するというもの。出演団体は「くにたち音楽倶楽部」「真思惟(まーしい)」「まちのうたを唄う会」「くらしうた研究会」「わたしの九条を歌う会」「東京寺子屋」など。「わたしの九条を歌う会」には知人が参加しており、知人が作詩した「わたしの九条」に元 統一劇場の岡田京子さんが曲をつけ、当日、披露された(写真参照)。
第一部の出演者のなかで印象が強かったのは、「真思惟(まーしい)」。配られたパンフレットによれば、国立市在住のアマチュアフォークシンガーで、ライブハウスで演奏活動を続けているという。ギターの演奏力がよく、しかも歌唱力が群を抜いている。場馴れした感があり、聴くほうにも安心感を与える見事さであった。この人のステージは再度、聴いてみたいと思う内容であった。
第二部は、「笠木透と雑花塾」。「笠木透」は知る人ぞ知る「フィールドフォーク」の先駆者。1970年代から80年代にかけて京都を中心に活動していた「ザ・ナターシャー・セブン」に歌を提供していた人で、代表曲に「私の子どもたちへ」「わが大地のうた」「あなたが夜明けをつげる子どもたち」「私に人生といえるものがあるなら」など。
笠木透を初めて知ったのは、25年ほど前。当時所属していた労組青年婦人部のキャンプが岐阜県高山市で行なわれ、キャンプの室内イベントに笠木透が招かれ、彼のギター弾き語りを目の前で聞いたのが最初。どんな歌を歌ったのかは全く覚えていないが、とにかくユーモアたっぷりのお話しと歌だったということだけは記憶にある。
次にお目にかかったのは、20年ほど前。小金井市内に本拠地を構えていた統一劇場の地下練習場で、現在の小金井消防署の東隣りのビルの地下であった(現在は、このビルに「ふるさとキャラバン」が事務所を構えている)。その頃の笠木透は「フォークス」というバンドを組んでおり、私の記憶では、「ザ・ナターシャー・セブン」のメンバーであった坂庭省悟と城田純二がメンバーに入っていたように思う。当時、勤めていた職場の人から誘われてコンサートに出かけていったもの。うたった歌は「ザ・ナターシャー・セブン」の曲が中心だったように思う。とは言っても、笠木透が曲をつくっていたのだが。とにかく、その時のステージは素晴らしかった。小金井市の街中のビルの一室で聴いているのに、私の頭の中は故郷の福井の田舎で聴いている錯覚に陥ってしまったのだから。「フォークス」は長続きせず、1991年から彼はソロ活動に入った。
さて、4月30日の夜。笠木透と雑花塾は、お話しと歌を交えながら実に1時間30分も楽しませてくれた。歌った曲は「わが大地のうた」「あの日の授業」「あなたが夜明けをつげる子どもたち」「ホウセン花」「軟弱者」「君が明日に生きる子どもなら」「ピース・ナイン」。他にも歌ったと思うが、覚えているのは以上7曲。笠木透は曲の合間あいまに憲法九条の重要性と歴史を述べ、今日の憲法改悪の動きに対して警鐘を鳴らし続けた。
「ホウセン花」を初めて聴いた。内容は従軍慰安婦の問題。雑花塾メンバーのギター弾き語りの熱唱で、隣で聴いていた妻は涙ぐんでいた。「あの日の授業」は副題に「新しい憲法のはなし」とあるように、戦後、平和憲法ができたときに当時の文部省が1947年に発行した「あたらしい憲法のはなし」という冊子を手に、先生が授業で子どもたちに新憲法のはなしをしている様子を歌ったもの。すでにCDでこの歌は知っていたが、ナマの笠木透の野太い声は、すごい迫力であった。笠木透は今年70歳。ガラガラ声はひときわだが、壮年時代の伸びやかさは衰えた様子。笠木透がつくるような歌を他につくれる人が見当たらないなかで、彼にはいつまでも元気で活躍してほしいと願う。
この日のチケットは2千円。家族4人で参加したので8千円となったが、十分に満足できるステージであった。ステージ終了後、ロビーで彼のCDと書籍のサイン会があった。妻は相当に感動したのであろう。CDと書籍、歌集を購入。さっそくサインをもらっていた。「写真を撮ってもよろしいでしょうか?」と尋ねると、笠木透は「どうぞ」と快くOK。妻と何やら言葉を交わしながら、妻が購入した書籍や歌集にサインをしていた(写真参照)。
全国学力テスト
24日、中学校では43年ぶり、小学校では初めての全国学力テストが実施された。小学6年の娘の説明によると、名前の欄には何も記載せずに、名前のフリガナを書く欄に組と出席番号からなる数字を記載したという。1時間目は算数Aと国語A、2時間目は国語B、3時間目は算数B、4時間目はアンケートが行なわれ、持ち帰ったアンケート用紙を見ると、99項目もの質問が並んでいた。
懸念されるのは今後、学校別の成績公表や成績競い合いにつながっていくのではないかということ。学ぶための学校が、競争するための場とされてしまえば、学校は楽しくない場所に変わってしまう。
4月も終わりに近づき、黄色い安全カバーのランドセルを背負った新一年生も新しい環境に慣れてきた様子。友だちとじゃれ合いながら行き交う姿に、のびのびと育ってほしいと心から思う。
東京都の高齢者福祉
この8年の間に、東京都の高齢者福祉は大幅に切り捨てられた。1999年当時、無料のシルバーパスを受けていた小金井市民は6,122人。今日では全員が有料にされてしまった。マル福と呼ばれる医療費助成は当時、10,767人が受給していたが、今年6月で制度は廃止される。また、65歳から支給され、70歳からは月額5万5千円支給されていた寝たきり手当(老人福祉手当)は当時、1,099人がもらえていたが、今日ではすでに廃止されている。しかし市民の暮らしが豊かになったわけではない。
7年前から1割自己負担の介護保険制度が導入され、小泉内閣のもとで医療制度が大改悪された。国でも東京都でも「福祉は贅沢」とされ、次から次へと切り捨てられていくもとで、政治を暮らしの側に立たせることは待ったなしになっている。いまこそ政治を変える闘いの時だ。
稲葉市長の『市民参加』の内実
「市政の主役は市民」を巻頭に掲げ、「市民の望むところを市政に積極的にいかしていく」とうたった市民参加条例が施行されて3年。この条例にもとづき、市の重要政策となる「子どもの権利条例」素案が昨年3月、市民参加の策定委員会から市長に提出された。
ところが市長は「内容が私の意にそぐわない」からと、議会への条例提出をいまだに行なおうとはしていない。「子どもの権利ばかりをうたい、自己責任については不十分」というのがその理由。
その市長、1カ月後の燃やすゴミの受け入れを国分寺市以外は確定していない事態を、どう考えているのか。市民参加をうたいながら事態を明らかにせず、市民不在で候補地案を示すやり方に、市長の自己責任そのものが問われている。
「市民参加」を本物にするためにも、市政転換が必要。この3月を「熱き春」に切り替えて。
暖冬
細身の私でさえも、この冬は暖冬だと感じる。昨年は1月下旬には積雪があり、その前の年は大晦日にドカ雪が降った。しかし今年は今月20日に雪がチラついた以外は、雪を見ていない。そればかりか、氷の張った場面さえ見たかどうか。テレビでは草スキーさながらのゲレンデを映し、土の上で開催を待つ雪まつり会場を紹介している。
「地球温暖化」がいわれて久しい。気温が3℃上昇すれば洪水の恐れが増大し、海面が65p上昇すれば、日本全国の砂浜海岸の8割が侵食するという。家電製品を揃えれば、それだけで二酸化炭素を増大させるというのだから、さしずめ我が家は二酸化炭素のなかに住んでいるようなもの。
細身の私には暖冬はありがたい。しかし、確実に花を咲かせるためには、淀んだ水を浄化させなければならない。まずは都政。浄化槽には「吉田万三」が効果抜群だ。※写真は昨年12月初旬の「貫井神社」。
(2007年1月28日付「しんぶん小金井」より)
亥年
年の瀬の華やかさが消えて何年になろうか。 「いざなぎ景気を超えた」 というが、 ジングルベルも歳末大売出しも、 群がる人々の姿は過去の出来事。 昨年まではサンタへの要求書を掲げた我が子も、 ついに今年は貼りだしを諦めた。 子ども心に、 サンタに無理は言えないと悟ったものか。 しかしイブの夜、 私に対して要求書を突きつけた。
新年はイノシシ年。 干支のなかで最後に登場する動物だが、 これまでの11の動物のふがいなさを蹴散らすように、 猪突猛進、 悪政や格差社会を吹き飛ばしてもらいたい。 同時に、桜の開花の頃には、 東京都政に万の息吹を咲かせたい。
小金井市議会24人の中で、 イノシシ年は2人。 かつて市議会野球部でバッテリーを組んだ同士だが、 稲葉市政に対するスタンスは正反対を歩む。 新春、 都政のマウンドに立つ元足立区長もイノシシ男。 直球勝負が決め球だ。
(2006年12月31日付「しんぶん小金井」より)
豪遊出張
石原知事の豪華海外出張が明らかにされた。1人1泊26万円のホテルに夫婦同伴で宿泊。もちろん都民の税金。知事就任以来19回の海外出張を行なっているが、「都議選の応援が面倒くさいから」と出かけたケースも。
小金井市議会も公費を使った出張はある。常任委員会の場合、年1回1泊2日で、宿泊費用は「1人1万5千円以内(食費込み)」。行ける場所は「予算額の範囲」となるため、西は関西方面、北は東北までと限定される。当然に海外などありえないし、夫婦同伴などもってのほか。市税を充てるのだから、成果は確実に市政に反映させる。
所得格差が広がるなか、小金井市でも就学援助を受ける生徒が12%、生活保護世帯は5年間で2倍近くにのぼっている。豪遊で使う「1泊26万円」以下の月収で多くの都民が暮らしていることを、声を大にして叫びたい。
(「しんぶん小金井」2006年12月3日付より)
韓国人街
14年前まで私は、小金井(住居)と代々木(職場)の往復を繰り返していた。たまに新宿などへ出かけることはあったが、こんな場所があるなんて全く知らなかった。当時この場所が、今日ほどに集約されていたかは疑問なので、当時はそれほどに注目を集めるものではなかったかも知れないが・・・・。
11月19日(日)昼、何人かの友人とともに、JR新大久保駅近くにある「韓国人街」を訪れた。「職安通り」西側一帯のその場所は、韓国文字が街中にあふれ、韓国文字が並ぶ店先では韓国語と思われる言葉で店内を紹介する人がたむろする。おりしも前夜、NHKの「チャングムの誓い」が最終回を放映したばかり。建ち並ぶ店先には「チャングムの誓い」の登場人物のポスターなどが張りめぐらされ、サイン会が先日実施されたことなどが報じられている。
我々一行は「マニト」という韓国料理屋に入った。食べた料理の名称は覚えていないが、唐がらしがいずれの料理にも使われ、ほどよい辛さが舌先に残った。お店の人は4人。店長だという40歳くらいの男性は「私は日本人」だと述べているが、話している日本語は妙にアチラ風にぎこちない。店長いわく「私は根っからの関西人。2年前にここにきて店長になったが、日本の標準語で店員の韓国人と対応しているうちに韓国の言葉が入り交じり、日本の標準語もぎこちなくなってしまった」。「店を離れると関西弁に戻る」と言った店長は、ばりばりの関西弁で話しはじめてきた。と、その時、店員が何かを話しかけてきたら、いきなり関西弁が韓国語に変身した。
この一帯には120くらいの韓国店があるという。数年前の日韓共催のワールドカップサッカー以来、人気が出始め、「韓流ブーム」に乗って一躍、脚光を集めた様子。「ようやく、この一帯で、日本人店長として受け入れてもらえるようになった」と店長。それまでは、日本人というだけで、白い目で見られていたとのこと。「石原知事は、この込み入った一帯を高層ビル街にしようと考えているが、街の人気が上がってしまったために、手がつけられずにいる」と述べる姿からは、この街をこよなく愛している感じがひしひしと伝わってくる。「また来てください。おもしろい話がいっぱいありますから」。仕事のために、食事が終わった私は一足先に小金井へ。残った一行は、近くの「高麗博物館」へ出向いた
(2006年11月20日付)
国民保護計画
『目には目を』『歯には歯を』。暴力団まがいの議論が、政府内に横行している。核武装で相手を威嚇し「いざとなったらやり返す」式の行く手には、どんな世の中が待ち受けているのだろうか。
そのことを示したのが、小金井市が発表した国民保護計画。N(核)B(生物)C(化学)兵器による攻撃にも備えた心構えがうたわれ、化学防護服、放射線測定装置、汚染拡大を防止するための除染器具などを備蓄するとしている。
背筋が凍ったのは「被災住民に対する救援」。埋葬・火葬の文言が飛び交い、「死体収容所の開設、死体の搬送、収容及び処理等を行なう」と明記。「死体の洗浄・縫合・消毒」など、死体の処理方法まで記されている。
攻撃にいかに対処するかよりも、そんな世界にならないように平和外交を政府に求める計画こそ、真っ先にうたうべきではないだろうか。いまこそ憲法九条を高く掲げて。
(「しんぶん小金井」2006年11月5日付)
JR山田線
10月中旬、市議会総務企画委員会の行政視察で、岩手県の宮古市を訪れた。宮古市は陸中海岸に面しており、漁港としても、また津波状況をテレビで映し出す無人のテレビカメラが設置されている場所としても、知られている。場所的には、岩手県内東端の中心に位置している。
東北新幹線「はやて」を盛岡駅で下車した一行(議員8人、職員3人)は、宮古駅行きのJR山田線の2両編成ディーゼル車に乗車した。空は晴。各駅停車に等しいほどに多くの駅に止まる車両が山中に入るにつれ、周辺の木々の葉は見事な色づきに変わっていく。蛇行しながらも線路の下方に寄り添って流れる渓谷の澄んだ水面には、落ち葉がいくつも浮かんでいた。
圧巻は区界(くざかい)峠。周辺の木々は見事な紅葉。黄色や赤が痛いほどに目に飛び込んでくる。北側にそびえる岩神山(1103m)も惚れ惚れするほど。できうるならば、ここでしばらく停車してほしいくらいだ。カメラを持参していながら、これほどまでの景色を一枚も記録しなかったことが心残り。峠を超えた車両は、はずみをつけたように線路を下っていく。あわせて、線路下方に流れる渓谷の水面は、今度は車両が走る方向と同じ方向に流れを変えた。
宮古市は人口6万1千人。行政面積は696.82㎡。広大な場所に小金井市の人口の約半分ともなれば、駅前は当然に閑散としている。市役所は宮古湾を入ったところにあり、庁舎の中から湾内を眼下に見ることができる。視察の内容は別項にゆずるとして、市役所職員の話し言葉が、テレビでよく耳にする岩手訛りであったことが、オレは今、岩手にいるんだ!と実感させた。
視察を終えた一行は午後3時49分発の車両に乗るために宮古駅に舞い戻り、ホームで静かにたたずんでいる盛岡行きの車両に早めに乗り込もうと、改札口前にやってきた。ところが改札口に駅員がおらず、しかも進入禁止の看板が置かれている。どうやら、出発間際でないと改札を開けないらしい。しかたなく、駅員が来るのをいまかいまかと待った。さて発車10分前。いいかげんに来てほしいとイライラしはじめたところへ、改札口の近くで駅蕎麦を営んでいる女性がやってきて「改札口はあちらですよ」と指さした。さされた先は待合室の中。締め切られた待合室の一角がガラス戸になっていて、その戸が横に開けられ、そこが構内に入る改札口になっていた。我々が並んでいた改札口は構内から駅外に出るための改札口であり、ここでは、入口と出口の改札口は別々になっていたのだ。もし女性が教えてくれなかったら完全に乗り遅れていたし、永遠に乗れなかったかもしれない。
帰路のJR山田線は1両のみのディーゼル車。予定どおり午後3時49分、出発。陽はだいぶん西に傾き、行路で写真撮影できなかった区界峠付近は、通りすぎる頃には、おそらくは撮影できる明るさではないだろう。ふたたび、各駅停車かと疑うほどに多くの駅に止まりながら、車両は盛岡駅へと進んでいく。途中、「ひきめ」という駅に着いた。この地名には特別の思いがある。なぜなら、昨年7月に脳内出血のために他界したフォークグループ「NSP」の天野 滋 氏とともにNSPの一員として活動してきたメンバーの一人が、この「ひきめ」出身だからだ。NSPは岩手県一関市を中心に活動し、私の手元には、NSPの大部分のレコード・CDが置かれている。
さて、車両は区界峠めざして登っていく。外はだいぶん暗くなり、小雨も降ってきた。車両は苦しそうにあえいでいる。と、その時、車内アナウンスが流れた。「雨と落ち葉のため線路がすべり、スピードが出せない状況となっています。ご了承ください」。区界駅一つ手前の「まつくさ駅」に向けて走っている最中の午後5時過ぎのアナウンス。外を見ると、お年寄りが歩くようなスピードで、たしかに雨で車輪がすべっているような振動が。途中何度も止まりそうになるほどの状況にもなった。何故か雨とは関係のないトンネル内でさえも、その状況は続いた。そのうえ気のせいか、エンジンが焼けるような臭いもする。
当然、車内はざわめきだした。盛岡駅で新幹線に乗り換える人は、新幹線が指定席であるがために、気が気でない。車両はわずかに1両。乗客は30人前後。そのうち8人は、日頃から口やかましい市議会議員。たとえ今夜が盛岡市宿泊であっても、車両の走り方を見ていると騒ぎたくもなる。若い男性車掌が顔面蒼白になりながら、車両の前後を何度も行き交う。我が市議会議員も他の乗客も、車掌に「どうなっているんだ!」と説明を求めはじめる。しかし車掌は、車内アナウンスのとおりに答えるのみ。携帯電話は「圏外」を示す。
午後5時35分、ようやく「まつくさ駅」着。そこで次なるアナウンスが流れる。「すべり止めの砂を積み込むために、しばらく停車します」。へ!? 砂の補充?・・・・。少なからず乗客がホームに降り立った。タバコを吸う人、車両の前面に行って、状況を確かめる人。降り立ったのも、ほんのわずか。車掌によって車内に戻された。そして少し車両を進行方向に動かして、また停車。「ただいまから、砂の補給のために停車いたします」。午後5時44分、「大変長らくお待たせしました。砂の補充が終わりましたので、運転を再開いたします」。車両は動きだした。そしてアナウンス、「まつくさ駅を38分遅れてのスタートです。ただいまから、乗車券の拝見にうかがいます」。
「乗車券の拝見にうかがいます」のアナウンスに私は、タイミングが悪い!と、前の席に座っている渡辺大三議員に言ったが、その私自身は、最初のアナウンスが流れた午後5時過ぎあたりから、この事態を楽しく見ていた。こんな経験はめったにないし、飛行機や船と違って、墜落や遭難する恐れもない。たしかに渡辺議員が言うように、車両が火を噴くのではないかとの思いはあったが、その時はその時とあっさりと考えていた。それにしても、小雨の中の峠に向かう登り坂ではあっても、わずかなレール幅の上に延々と落ち葉が着いているわけでもないし、なぜ、車輪がこんなことですべる状況になるというのだろうか。このことは、おそらく乗客の誰もが抱いた疑問であったろう。しかし、「砂を補充した」車両は、まつくさ駅以降はスピードを取り戻し、見違える走りを見せた。その走りは、かのJR福知山線の脱線事故をほうふつさせるほどに。
午後6時38分、予定より38分遅れて、終点の盛岡駅に到着した。「さすがに、砂の威力はすごいナ」と、我が市議会議員の会話。しかし、誰もが、砂を撒きながら走っていたとは思ってはいなかった。砂を積むところを見た者はいないし、この程度の小雨と落ち葉で車輪がすべるのであれば、この季節には、このような事態は毎度、起きることになる。第一、レール上に落ち葉などほとんど着いていないことを「まつくさ駅」で確認している面々は、今回のわけのわからない出来事に、さまざまな推測を立てるのみ。とにもかくにも、不思議なJR山田線は、後々まで語り継がれて行くことになるだろう。
(2006年10月19日付)
ゴミ非常事態宣言
1日付の「市報」で「ごみ非常事態宣言」が明記された。来年3月で二枚橋焼却場が全面停止するため。そして、燃やすごみ市民一人一日あたり「50g減量を」と呼びかけている。
すでに「市報」は6月15日付で、二枚橋焼却場が来年3月で廃止されることを述べており、「何故、今になって?」の感がぬぐえない。しかも「50g減量」は今月になって打ち出したもの。8月と9月号では「ごみの減量・分別が着実に進んでいます」と述べ、一人一日わずか「1gの減量」しか求めてはいなかった。7月15日付までは「51gの減量」を呼びかけていたにもかかわらず。
根源には、今頃になって事態の深刻さに気づく危機意識の欠如が横たわっている。駅前開発に熱中するあまり、6月議会での我が党の「全量処理困難」の指摘に、機敏に対応する感覚を失くしていたからだ。市長の責任は重大である。
(「しんぶん小金井」2006年10月8日付より)
敬老祝賀会
市の敬老会が17日に行なわれる。再開発のために取り壊された公会堂に代わって実施される中央大学附属高校での催しには、68歳以上の高齢者16,173人に案内が送付された。
あわせて小金井市は、喜寿(799人)・米寿(244人)・白寿(17人)・百歳以上(23人)の1,083人に今月末、記念品のギフト券を送付。そのうち百歳の5人に対しては、市長が直接訪問して記念品を手渡すという。
その市長が発表した「行革大綱」では来年度、前述の高齢者記念品支給事業を見直すとしている。「財政健全化」の名で「事業の役割を終えた」との判断から。市長は百歳の方々を前に、「記念品はこれでおしまいです。役割は終えました」とでも言うのだろうか。
10月8日、貫井坂下の自治会連合会は毎年恒例の敬老祝賀会を開く。年々増える参加者ではあっても、行革は考えず、心からの敬意を表して。
(「しんぶん小金井」2006年9月10日付より)
乳幼児医療費助成を就学前まで
「2005年の出生率1.25」が波紋を呼んでいる。人口が減るだけでなく、産業を支える労働力や社会保障制度の基盤さえも揺るがしかねないからだ。少し古いが、2003年の小金井市の出生率は1.08、東京都は0.9987。小金井市もまもなく1.0を切ってしまうのではないだろうか。」
この事実を示しながら、過日の市議会で「子育て世代の経済的負担を軽減するためにも、乳幼児医療費の無料化を就学前まで拡大せよ」と迫った。市長は従来の「負担能力に応じて負担していただく」を変更し、「年次計画を立てて、すすめていきたい」と述べるにいたった。背景には、三多摩で7市が無料となり、国分寺市も来年度には無料に踏み切るからだ。
日本共産党は3月議会に条例を5本、今議会には「乳幼児医療費の就学前までの無料化条例」を準備した。市民の声を代弁する当然の役割として。
(「しんぶん小金井」2006年6月18日付より。なお、関連する資料をPDFファイルで掲載します)
乳幼児医療費助成を就学前までPDF(127KB)
三宅島
三宅島へ先日、小金井市議会の一員として訪問した。4年半ぶりの島民帰島から1年3カ月を経た島は、観光受け入れ体制が急ピッチですすめられているものの、噴火の傷跡は生々しく残っている。「ガスマスクの常時携帯が義務づけられています」とのことであったが、島に足を踏み入れてみると臭いはさほどでもなく、誰一人としてガスマスクは付けていなかった。
村長や村議からは、島民の高齢化に対する懸念が口々に語られた。三宅村の高齢化率は三八・五%にものぼり、民宿の施設はあっても、高齢化で営業を再開しようとしない人が多い。それでも五月の連休時には、被災前の七割にまで観光客が回復し、釣りや野外活動でにぎわったとのこと。
観光回復と称して、島を走り回るバイク競技を主張する人もいるが、自然あふれる島に一人、また一人と訪れ、その輪を広げて行ってこそ、本当の観光回復につながるのではないだろうか。島はいま、釣りの宝庫である。
(「しんぶん小金井」2006年5月21日付より)
南中学校入学式
私が小金井市に住み着いた年の4月、市立南中学校が創立された。その南中が今年、創立30周年を迎える。一番歴史のある第一小学校が3年前に創立130周年を迎えたというから、実に百年以上もの差。それでもこの間、3,950人の生徒を南中学校は送り出している。
4月7日、入学式が行なわれ、134人の新入生が南中学校の門をくぐった。開校当時の新入生が163人というから、私立の中学校を選んだ生徒もいることを考えると、30年の間の生徒数に大差はないともいえる。卒業式前後に咲き始めた桜は入学式までしっかり枝にくらいつき、つい先頃まで小学生だった、あどけなさの残る新入生を温かく迎え入れている。
その南中へ今年、息子が門をくぐった。憲法と教育基本法の改悪が俎上にのぼるなか、平和のいしずえを守り抜かなければと、あらためて思う。
(「しんぶん小金井」2006年4月16日付より)
卒業式
「桜は入学式の頃」が通説だったように思う。けれども、最近は卒業式の頃にシーズンを迎えることも多く、「厳冬のほうがかえって早く咲く」と述べる者もいる。とはいっても、今春は到底、卒業式あたりというわけにはいくまい。その卒業式を十七日は市立中学校で、二四日には小学校で迎える。
早々に、地域の中学校から案内が届いた。「卒業証書授与式のご案内」。しかし手にして、ハテ?となった。なぜ「卒業式」ではないのだろうか。与える意味での「授与」と、門出としての「卒業」では、主役が入れ代わってしまうではないか。卒業式会場にこれまでは認められていた子どもたちの展示物が、今年の「授与式」では撤去される学校が出てくるとのことである。
二四日、我が子も小学校を巣立っていく。六年前の入学式の、あどけなさはみじんもなく。心を桜で満開にして。
(「しんぶん小金井」2006年3月19日付より)
郡山総一郎氏の目線
過日、フォトジャーナリストの郡山総一郎氏の講演を聴いた。シャッターをとおして、その国の姿を発信しつづける彼は、04年4月に2人の若者とともにイラクで誘拐されたが、以後も紛争の続く国々を訪れ、誰が一番、犠牲になっているかを告発し続けている。
彼が最も胸を痛めているのは、いまなお空爆がつづくイラクやアフガニスタンの人々。空爆の下でどれだけの命が犠牲になり、生き残った人々がどのような生活を強いられているのかは、まったく見えてはこない。「だから現場で見ることが大切なんです」と彼は言う。イラク攻撃が開始されてすでに3年。3万人を超えるイラク市民が犠牲になっている。
イラク攻撃が始まった3月は、東京大空襲の月でもある。8万5千人が死に、4万人余が負傷した61年前の大空襲。あの夜の東京も今日のイラクも、空爆を行なうのはアメリカである。空爆の下では多くの弱者が、尊い命を奪われている。
(「しんぶん小金井」2006年2月19日付より)

風化させてはならない
市営グランド北側の建物が取り壊される。戦時中に陸軍技術研究所の本部棟として建てられ、戦後は小金井第二小学校として使用。その後、市営競技場の管理棟として活用されてきた。老朽化とはいえ、歴史を反映した建物が消えていくのは残念である。
その小金井市が行なった「行政評価」では、憲法記念事業と非核平和推進事業を「廃止」「縮小」と明示した。折しも今年は憲法制定60年、昨年は被爆60年である。世界連邦平和都市宣言や非核平和都市宣言を行なった小金井市が、このような評価を行なうこと自体、許しがたい。戦争遺跡は消えても、過ちを二度と繰り返させない取り組みは燃やし続けよう。
小金井市は現在、市制50周年の二年後に向けて、記念誌発行の準備をすすめている。いままでまとめきれなかった戦前・戦中も加えながら。風化させないために。
(「しんぶん小金井」2006年1月22日付より)

耐震基準
小金井市に身を置いてから28年余が経過した。住みはじめた頃は植木畑や農地が広がり、静かなたたずまいをみせていた街中もいまでは2万2千6百もの建物でひしめきあっている。
24年前に建築基準法が改定され、それ以前に建てられた建物は、新しく制定された耐震基準に合致するかどうかが問われるようになった。我が家を含めて、市内建物の25%が建築基準法改定以前に建てられているので、地震の時にはさぞかし揺れているのではないだろうか。
ところで近頃は、近年建てられたマンションでも揺れが激しいと聞く。場合によっては、オンボロ我が家よりも先に倒壊することもあるそうな。姉歯や木村は、とんでもない贈り物を年の瀬によこした。
あとわずかでクリスマス。我が子は今年も、サンタへの破格の要求書を貼りだそうとしている。フトコロは崩壊寸前だ。
(「しんぶん小金井」2005年12月18日付より)

校歌に刻まれた願い
21世紀は9・11テロを皮切りに、アフガニスタン、イラクへと戦禍が広がり、テロが頻発するようになった。戦争で明け暮れた20世紀を体験した世界中から、いまの時代を憂う声は高まるばかり。そうした時代だけに、平和を守り抜くための取り組みは欠かせない。憲法9条を守り、二度と戦争に加わらない国づくりをすすめていくことが大切だ。
先日、本町小学校の開校40周年記念式典に参列した。この学校の校歌には「平和」の歌詞があり、子どもたちに平和の尊さを伝えていこうとの作詞者の願いがみてとれる。調べてみると、市立小中学校14校のうち、校歌に「平和」が刻まれているのは小学校で4校(本町小学校、第一小学校、前原小学校、第三小学校)、中学校で2校(東中学校、緑中学校)となっている。
戦後60年、戦争を知らない政治家が憲法改定を声高に叫ぶなか、先駆者のつづった歌詞に、大きな重みを感じる。
(「しんぶん小金井」2005年10月23日付より)

敬老会
日本人の平均寿命は今日、女性が85.6歳で世界一、男性は78.7歳で二番目となっている。そのことを象徴するように、近所でも老人会や自治会で80歳を越えても現役で活躍される高齢者が増え、多くの経験や知識を地域に役立てる仕事に就いている。
市によると、小金井市の90歳以上は825人、うち女性が75%を占め、過日実施された市の敬老会でも女性の参加が目立った。
長寿は祝福されるものである。けれども日本社会の現状は長生きすればするほど肩身の狭い思いをさせられ、小泉内閣は少子高齢化社会に対応するためとの言い分で、医療や年金、介護の改悪を相次いで強行した。
過日の敬老会では、名司会でおなじみの玉置宏氏が出演。「一週間ぶりのごぶさたでした」で始まった彼のトークは、長年の経験・知識を存分に発揮する素晴らしいものであった。元気をもらった参加者は「1年ぶり」に会える来年めざして、晴天の秋空の下、帰路についた。
(「しんぶん小金井」2005年9月25日付より)

小学校の運動会
先週の日曜日、我が子が通う小学校の運動会を見学した。前夜からの緊張さめやらぬ我が子が、親の期待を一身に受けながら駆けっこに挑戦しつつも敗退する姿に、“遅いのはオレ譲りか”と今年もため息。
私が子どものころは、運動会は秋に行なわれていた。しかし「秋は文化行事などでスケジュールがとられるため、春に運動会を行なうところが増えてきている」とは市教育委員会。学校生活に慣れないうちに大きな行事に直面せざるを得ない新一年生にあっては、とまどう場面もあるという。
「オレが子どものころは、運動会どころではなかった」と、近所の初老は言う。戦争末期には小金井でも米軍の戦闘機やB29を迎え撃つ高射砲がとどろき、農工大めがけて米軍艦載機が機銃掃射をはなってきたからである。運動会も文化行事も心から楽しめる世の中。それを守り抜いてきたのが平和憲法だ。
(「しんぶん小金井」2005年6月5日付より)

特養待機者360人
「特別養護老人ホームの入所を待つ人が360人もいる。自宅で面倒を見ようと思っても、寝たきり状態では介護疲れで倒れてしまう。第一、働かなければ食べていけない。どうしたら良いのか」。この間、長期入院を余儀なくされている家族を抱える人の切実な訴えが相次いで寄せられる。
65歳以上の人が入院すると、3カ月で退院を迫られる。やむを得ず転院することになるが、そこもまた3カ月で打ち切られる。施設入所も自宅療養もできないなかで、入院費用だけはどんどんかさみ、「目の前のことを考えると真っ暗になる」と、悲痛な表情。
そんななか小金井市は、2005年度だけでも17億5千万円を市が負担する南口再開発に突き進む。「いま行なわなければ、駅前開発は二度とできない。100年の街づくり」を旗印に。しかし市民生活は百年どころか、一寸先も闇。くらしにこそ税金を。
(「しんぶん小金井」2005年1月30日付より)

鉄の雨
太平洋戦争時、日本国内で唯一地上戦が行なわれた沖縄では、県民の4人に1人が死んでいる。なかでも多くの死者を出した米軍による艦砲射撃は、珊瑚礁や山容が跡形なく打ち砕かれ、「鉄の雨」となって住民を襲った。
その米軍が今度は、イラク中部の都市ファルージャへの総攻撃を行なっている。人口30万の大都市を1万数千人の米軍が包囲し、一部のテロリストを潰すために大多数の民間人の頭上へ。
そのアメリカに対して日本政府は、武器輸出を解禁する方向を示した。「テロ対策のため」が、その理由。しかし、武器は人を殺すための道具。ファルージャで繰り返される米軍による無差別攻撃も、「テロ対策」が理由。罪もない住民の頭上に鉄の雨を降らせる殺戮に、日本の武器が使われることになるのだろうか。
沖縄戦では砲爆撃が3カ月以上続き、武器商人は笑みを浮かべた。
(「しんぶん小金井」2004年11月28日付より)

帰省
今年は台風の当たり年となっている。一つの台風が去ったかと思っていると、新たな台風接近の報道が飛び込む。太平洋高気圧が強いことが理由とされるが、地球温暖化の影響も隠しきれない。
台風10号の被害に見舞われた故郷・福井は、帰省した盆の頃には日頃見慣れた顔で迎えてくれた。それでも、土砂が押し寄せた場所には傷痕が残り、大小の石ころに覆われた畑が、いたるところに見られた。
「夜中にパーンという大きな雷の音が響き、朝からものすごい雨となった。川が土砂で埋まり、またたくまに道が川となった」。家族や近所の人の話は、百年に一度という豪雨の怖さをおしえている。
先週の日曜日は、市の防災訓練の日だった。しかし夜半からの雨による会場のグランド不良を理由に、訓練は中止となった。天候で左右される訓練で、良いのだろうか。
(「しんぶん小金井」2004年9月5日付より)

庚申塔
「庚申塔」と呼ばれる、石でつくられた造立物を見かける。中国の道教を由来とする信仰物の一つで、江戸時代に盛んに造られたという。市内にも10数年前までは17カ所残っていたというが、今日では都市化のなかで半減している。
貫井南町の、雨ざらしになっている庚申塔には「南ふちゅう」「西こくぶんじ」「北清戸」の文字が刻まれ、行商人や旅人の道案内をしていたことがわかる。時代は過ぎても、当時と同じ場所で正確な方角を示しつづけている。
ところで今、この国の指導者たちは道の真ん中に立って、国民を戦争の方角に道案内しつづけている。マスコミも国会の多数も、その方角しかないかのように歩調を合わせて。しかし、道案内は歴史の試練に耐えたものだけが、その任をになえる。造られてから200年余の貫井南町の庚申塔には及ばずとも、日本共産党の82年の歴史は、現代の「庚申塔」だ。2月、「しんぶん赤旗」は創刊76周年を迎えた。
(「しんぶん小金井」2004年2月15日付より)

クリスマス プレゼント
いま我が家には、子どもたちが組み立てた小さなクリスマスツリーがある。兄妹はさっそく、サンタさんへのおねだりを記し、イブが来るのを楽しみに待っている。
妹はまだ、誰がサンタなのかを知らない。サンタが誰なのかを知っている兄は、妹のしたためた「願いごと」を見て、「そんなのもらえるわけないヨ」と一蹴。傍らの親は、記された内容と財布の中身を見比べる。一方、兄の記した紙には、八つの「願いごと」が書いてある。“これがダメだったら、これ“と。サンタへの「願いごと」ならぬ、親への「要求書」そのもの。
小泉内閣は戦後初めて、自衛隊という名の軍隊を戦争継続地・イラクに送り出そうとしている。イラク国民へのプレゼントではなく、アメリカに忠誠を誓うための、ブッシュ政権へのプレゼントとして。かたや、イラク国民には「戦争拡大」の惨禍が待ち構える。イブを終え、安心して新年を迎えられる世界へ。派兵には断固反対!。
(「しんぶん小金井」2003年12月14日付より)

カイコ
小学4年の息子の「夏休み自由研究」のために、妻がカイコを持ち込んだ。とはいっても、飼い方など皆目わからない。図鑑をひっぱりだし古老に教わるなどして、どうにか繭ができ、羽化したものも出てきた。
小金井地域は明治から大正にかけて、養蚕の全盛期を迎えている。村の7割が養蚕農家、生糸は八王子〜横浜ルートでアメリカに輸出された。
カイコを飼うためには桑の葉が必要となる。小金井はかつて、畑面積の3割を桑畑が占め、我が家の場所も以前は桑畑であったというのに、いざ桑の葉探しとなると、容易ではなかった。
「自由研究」は、毎日の絵日記への記入が課せられる。そのため、お盆の実家へ、ふたのない箱に並べられたカイコが同席することになり、中央線・新幹線・北陸線と、カイコが人々の衆目を集めることとなった。
8月も下旬に入り、自由研究は幕を閉じようとしている。しかし、カイコは成長を続け、今後の処置に手をやいている。
(「しんぶん小金井」2003年8月24日付より)

「20年後になにしてる?」
「20年後になにしてる?」と聞かれたら、あなたは、どんな回答をしますか。さわらび学童保育所3年生の息子(大地)が家に持ち帰った、学童の卒所文集に載せる、学童3年生の一人ひとりのアンケート用紙に記されていた質問項目。
小学校3年生の頃、私は歌手を夢見ていました。小学校の時の私は、女の子も顔負けの「ボーイズソプラノ」。テレビから流れる歌手の歌を覚え、神社の境内で、遊び友達を前にして、得意気に歌っていたもの。ピンキーとキラーズの「恋の季節」や、いしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」など。ところが、中学2年生の時の「声変わり」時期に歌をうたいすぎて、気がついたら、「郷ひろみ」の声が「森進一」になっていました。もし、「郷ひろみ」のままだったら、今頃は違う世界にいたのではないでしょうか。
さて、我が息子、アンケートに記された回答は「あるばいと」。20年後といえば、29歳。その時に行なっていることが「あるばいと」では、私は泣いても泣ききれないヨ。ちなみに、息子が保育園の卒園時に回答した、「大きくなったら何になりたい?」の答えは、「コープとうきょうで働きたい」。彼は29歳の時には、コープとうきょうでアルバイトしているのでしょうか。
今の子どもは現実を反映して、夢が持てないのか、それともこれが精一杯の夢なのか、はたまた、親が親だから、こんな回答なのか・・。考えさせられる息子の回答でした。
(「おひさまメール投稿作品」2003年2月13日付から)

サンタクロース
子どもの頃、サンタクロースが、どこからか我が家にやってきて、プレゼントを運んでくれていると信じて疑わなかった。プレゼントが自分の求めていた物と違っていても、朝、目が覚めたときに枕元に置かれていたときの、あの感激は、いまでもハッキリとおぼえている。たとえそれが、兄弟全員、同じ「長靴に入ったお菓子」だったという不満はあったにしても。「サンタさんはね、みんなが寝てからプレゼントを持ってくるんだよ」。今も昔も、我が家では同じ会話が交わされている。
小泉内閣は、国民にとてつもない“ |