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草野球

「大器(?)晩成」投手
 3年前まで市議会には、議会の軟式野球部がありました。「ありました」という表現は不正確で、正確には「現在、休部状態」。その議会野球部で私は、小金井市議会野球部の投手をつとめ、三多摩地域の他の議会野球部との間で10数試合、市内の市民野球部との試合で2〜3試合、登板しました。
 私は、高校卒業後、渋谷区内の印刷会社に就職。会社内の職種ごとに軟式野球チームが存在し、野球が上手・下手にかかわらず、「若い」というだけでチームの一員に。野球が好きだった私は、喜んで一員に加わりました。ただし、高校時代、私は野球とは全く縁がなく、在籍していたブラスバンド(「ミュージックバンド」と称していた)の一員として、自校野球部の地区大会応援にスタンドで演奏・観戦するくらい。
 職場野球部でのデビューは「ライト」守備。その後、「肩が強い」を見込まれて「投手」に。しかし、「投手」の地位が不動のものになる過程で、多くの人々が“犠牲”になっていきました。
 前述のとおり、高校時代の私はブラスバンド部員。野球とは全く縁がなく、まして「投手」の経験もなし。しいていえば、小学校時代にソフトボールの試合で投手になったくらい。つまり、一から、「投手」を学ばざるを得なかったのです。野球を扱った雑誌やルールブックを買い、投げ方、ランナーへの牽制の仕方、変化球含めたボールの握り方、打者との「間(ま)」のとり方など。最大の課題は、コントロール。「肩が強い」だけではダメ。ストライクがとれないと、意味がないのです。
「小金井市議会チーム」の投手として大会に出場し、敢闘賞のカップをもらいました(市議会チームは現在休部中です)
 「投手」としての初期は、悲惨そのものでした。フォアボールの連続。デッドボールは、日常茶飯事。投げた球を腹や足、肩に受け、苦痛で顔をゆがめるバッターの姿をマウンドで毎回、拝見。そのため、先発登板しても、途中降板がしょっちゅうでした。それでも私はくじけずに、懸命にピッチングの練習を重ね、その甲斐あってか、「投手」デビュー数年後にはコントロールも定まり、不動のエースに。
 いまでも私の中に残る、ある年の記録として、年間12試合登板し(全て完投)、奪った三振が計99個。つまり1試合平均8個の奪三振。軟式野球は7イニングまでなので、1イニング1個余の三振を取っていたわけです。そして同じ年のある試合では、14個の奪三振(1個の振り逃げ含む)を。しかも、その試合は我がチームが負けたため(つまり、私が敗戦投手)、私は6イニングしか投げていませんでした(相手チームが後攻)。
 議会野球部が休部状態となり、40歳を越えた私の右肩は、かつての状態とはほど遠くなってしまいました。現役を退きながらも、いまだに時速140kmを投げる村田さん(ロッテ)は、私の尊敬する投手です。


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