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中学校の卒業式
 3月19日、小金井市の市立中学校で一斉に卒業式が行なわれた。市議会議員は来賓として出席するが、昨年は市議選の本番真っ只中であったために、2年ぶりの出席である。私は毎年、地元の南中学校に足を運ぶ。37年前の3月23日に上京し、その日から小金井市に住み着き、その年の4月1日に開校した南中学校は、私の小金井市での暮らしと歴史を同じにしている。この学校を我が息子と娘は巣立っていった。

 式典がすすむあいだ、私は息子と娘の中学時代を思い返していた。息子は美術部に、娘はバドミントン部に所属し、体育祭でも合唱コンクールでも、あるいは美術・工芸の作品展においても、それなりに存在感を示していたが、私自身が仕事に追われていたこともあってか、2人の中学校時代の記憶はあまり収まってはいない。卒業式にいたっては、息子の時も娘の時も出席することができなかった。息子の時は私の選挙の真っ只中、娘の時は3・11直後の計画停電に翻弄され、停電のない時間帯に市議会を開くという慌ただしさのなかで、市議会開催時間帯と卒業式の開催時間帯が重なってしまった。だから、わが子の卒業式の時と見比べるということができないでいる。残念である。

 式典はおごそかに進んでいった。在校生の「送ることば」を受け、卒業生の「門出のことば」に移る。「門出のことば」は卒業生のなかから代表で、男性、女性ともに4人ずつが前に出て、マイクの前で思い出の一こまを述べていく。終盤に入り、「門出のことば」もあと2人となった。そのうちの1人、女子生徒がマイクの前に立つ。そこで彼女が語りはじめた「ことば」が、居合わせた人々の涙を誘うこととなった。

 「在学中に、担任の清水先生が亡くなるという出来事がありました。身近な人が亡くなるということは初めてのことで・・・。私はいつも礼儀や規律に厳しい清水先生が好きではありませんでした。・・・でも、なぜ、清水先生が私たちに『河口』という歌をうたわそうとしていたのかが、やっとわかるような気がしてきました」。語った内容はもっと長く、ここに記した内容は少々、不正確かもしれない。しかし、このような内容のことを彼女は語った。

 彼女は、1年生の時にクラス担任を努めていた先生が、1年生の学年末を迎える時に突然、亡くなってしまったこと。その先生は礼儀や規律に厳しく、そんな先生が好きではなかったこと。その先生が「河口」という歌を生徒にうたわせようとしていたことを述べ、いまになって、なぜこの歌をうたわせようとしていたのかが、わかるようになった 彼女は声を詰まらせながら、せつせつとことばをつないでいく。壇上にならぶ卒業生が、保護者や来賓席のなかから、そして教職員の間からも、目頭を押さえる人、ハンカチを目に運ぶ人、こうべを垂れる人・・・。時間が止まったように静かな時が会場を包んだ。

 そういえば、そんなことがあった。2年前の卒業式の日。私は他の来賓の方々とともに学校の来賓控室で式典開始時刻を待っていた。控室のドアが開き、校長先生や学校関係者が入ってこられ、そこで校長先生が述べられた言葉を思い出させている。「実は、本校の教職員が亡くなりました。生徒たちには卒業式が終わるまで伏せておきます」。

 亡くなった先生は清水光雄さん。学事報告によると、当時は1年4組の担任教師となっている。自宅での突然死である。私の妻は清水先生について、こう語る。「清水先生は体育の先生で、萌(娘)が中学3年の時の担任の先生。大地(息子)が中学3年の時に体育を『5』にしてくれた先生。萌の中学3年の時に進路相談で話をした時に、『運動が苦手な大地になぜ5を付けたのか』と聞いたら、『運動能力は個人差がある。だから努力をしている子を私は評価し、5を付けた』と言っていた。萌の英語が『2』だったので、どのようにしたら『3』にできるかを相談したら、『90点をとる必要はない。65点以上で3になる』と成績簿の仕組みを教えてくれた。萌が中学3年の時には、けっこう生徒に慕われていた。ただし言葉が荒っぽいので、誤解を与える感じはあった」。妻は言葉を続けた。「清水先生はかつて赴任した中学校で、生徒が自殺した経験を持っている。そのことから、いろんなことを学んだらしい。清水先生の葬儀には、大勢の人が来ていた」。作詞・丸山豊、作曲・團伊玖磨。卒業生による「河口」の合唱は、最も声が響き、卒業式会場を渦巻いた。

 卒業を迎えた生徒の心に消えずに残る、あの時の出来事。生徒の痛みの深さを思うとともに、私は、子どもたちの心の痛みに寄り添いながら、クラスを、そして南中学校を立て直そうと必死に頑張ってこられたであろう教職員の方々の努力を忘れずにはいられない。

先生方も同僚の死に直面し、辛かったであろうし、自身を責めたであろう。しかし目の前には、思春期の多感な時期に先生の死に直面した生徒がいる。くじけてはいられないのである。卒業していく生徒とともに、教職員の方々にも心からの拍手を送りたい。私も目頭を熱くして、南中学校をあとにした。

(2014年3月20日付)

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