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エッセイ(随想)



暮らしにこそ光を(「しんぶん小金井」2019年12月15日付から)
いまこそ「森戸よう子」へ(「しんぶん小金井」2019年11月17日付から)
台風19号(2019年10月20日付)
台風19号が東京直撃(2019年10月13日付)
台風停電(「しんぶん小金井」2019年9月22日付から)
還暦を迎えてから(2019年9月10日付)
今年も猛暑(2019年8月11日付)
参院選挙(2019年7月21日付)
年金だけでは不足(2019年6月23日付)
消費税増税やめよ(2019年5月19日付)
青森紀行(2019年5月9日付)
10連休(2019年4月28日付)
身体の異変(2019年3月28日付)
膨らむ蕾(2019年3月24日付)
南中学校卒業式(2019年3月20日付)
還暦(2019年2月24日付)
もう一度来たくなる街(2019年1月30日付)
5年後の市内小中学校現場(2019年1月27日付)
2019年の年賀状(2019年1月13日付)
義父の四十九日法要(2019年1月8日付)

暮らしにこそ光を

 市長選は、投票日1カ月前に市議を辞職しての挑戦。市議補選は、告示日2日前の表明。なのに、自民・公明などの推薦を受けた市長候補と肩を並べ、市議補選では2割の得票。市民と野党の共同が、小金井市でも重要な前進をつくりだした。

 選挙期間中、私は市議補選候補と行動を共にした。折しも国会では「桜を見る会」が連日のように追及され、日本共産党への期待は市議補選候補者への期待となって、ひしひしと伝わってきた。

 消費税が10%になり、物価はジリジリと上昇。なのに安倍夫妻はお友だちを地元から大量に招待し、私たちの税金で接待をする。しかも、参加者名簿は要求されたその日に処分。政治への怒りは、国会が閉幕しても収まることはない。

 選挙を終え、ようやく街を落ち着いて見られるようになった。歳末だというのに、今年も華やかさが見られない。国政でも市政でも暮らしにこそ光をあてるべきである。

(「しんぶん小金井」2019年12月15日付から)

いまこそ「森戸よう子」へ

写真

 「子育て環境日本一」を掲げながら、子育て世帯への負担増や施策の縮減を行ない、6施設複合化では前代未聞の「市長公約を職員が検証」。公約とはいったいなんなのだろうか。

 小金井市は「財政が厳しい」と言う。しかし、昨年度の一般会計は18億円の黒字。家庭の貯金に該当する財政調整基金も、目標を上回る額に達している。なのに国保税を連続値上げ、税金滞納者には厳しい取り立てを行ない、吸い上げたお金は駅前開発や道路建設につぎ込んでいる。これのどこが「市民の生活をきっちり守る」なのだろうか。

 4年前に非自民の市政が誕生した。しかし「やってきたことは自民・公明市政よりもひどい」と街の声。

 市民の高まる願いに応え、大黒柱の森戸よう子さんを送り出した日本共産党小金井市議団。なんとしても市政転換を勝ち取るべし。

 残り時間は短い。一人ひとりの「市政変えよう」が大きな力となる。あなたの声を力を、いまこそ「森戸よう子」へ。

(「しんぶん小金井」2019年11月17日付から)

台風19号

 

写真
台風一過の野川

 狩野川台風に匹敵すると、発生直後から叫ばれた台風19号は、東北にかけての広い範囲に甚大な被害をもたらした。テレビに映し出された光景を見て、東日本大震災を思い浮かべた人も少なくはなかったであろう。

 東京全体に初めて「大雨特別警報」が発令され、小金井市を含む多摩の各地に「避難勧告」が出された。避難所の開設も、小金井市では初めてのことである。

 台風がやってくる12日の午前中、近くのスーパーに買い物に出向くと、普段は山のように置かれているパン類が姿を消し、カップ麺も半分程度に。レジ前に並ぶ人のカゴには、ペットボトルがいくつも積まれていた。

 パンを買いそこねた私は帰宅後、すぐに大量のご飯を炊いた。懐中電灯の具合を確かめ、玄関前のガラクタは物置に放り込んだ。

 翌日は見事なまでに台風一過。幸いにも停電は起きず、胸をなでおろす。台所には、前日炊いた大量のご飯が残された。

(「しんぶん小金井」2019年10月20日付から)

台風19号が東京直撃

写真 「1958年の狩野川台風に匹敵する」と、上陸する前から叫ばれていた台風19号が12日(土)夜、伊豆半島に上陸。夜9時頃に首都・東京を襲った。私の住む小金井市は前日の昼前から雨。夕方には風も吹きはじめ、12日の昼過ぎからは強い風雨に。夕方には暴風雨へと化した。

 9月9日未明の台風15号を経験した市民は、千葉県のような事態を迎えるのではないかと、11日の午前中からスーパーなどに食糧の買い出しへ。夕方、「いなげや」に行ったときには、普段は余るほどに並べられている菓子パンや食パンの棚に品物が消え、カップラーメンの棚は普段の半分ほどの品数へと変わっていた。レジで私の前に並んでいる人の買い物カゴには、何本ものペットボトルが。「午前中から、すごい人です」と受付レジの女性は言う。

 伊豆半島に上陸し北北東へと進んでいるとの報道を受けてから、台風は小金井市の上空あたりを通過するのではないかと考えはじめた。となると、台風の目とやらに入ることになるのでは・・・。荒れ狂う家の外を忘れ、あらぬ方向に思いはめぐる。

 夜9時頃、雨風が極端に弱まった。台風の目に入ったか?。外に出る。小降りの雨と弱い風。上空は?・・・と見上げるも雲が覆っている。目ではなさそうである。その後、少々強めの雨風に見舞われたが、それもすぐに終わり、静かな夜半へと入って行った。

 翌13日(日)は台風一過の晴天。道路上に枯れ枝などが散らばってはいるものの、1カ月前の台風15号の時よりは、その数ははるかに少ない。倒木はないかとバイクで駆け回るも、道路沿線や公園にそれらしき状態は見られなかった。我が家の近くを流れる野川も、普段は人の歩くことのできる箇所が川と化してはいるものの、とりたてて問題があるわけではない。今回の台風は、小金井市域においては特段、問題を起こさなかったと考えられる。なお私の知る範囲では、多磨墓地内で墓石の上に木が倒れている箇所や、貫井神社北側の雑木林のなかで倒木が3本ほど見うけられた。

 テレビでは川の氾濫や溢水による被害が報告され、家に土砂が流れ込み生命を落としたなどの痛ましい状況が映し出されている。「1958年の狩野川台風に匹敵する」台風19号は、関東から甲信越、東北へと広範囲に甚大な被害をおよぼした。しかも被害はまだ続くかも知れない。テレビに映し出される光景は、2011年3月11日の東日本大震災の津波被害を見るようであった。

 三多摩各自治体が行なったように、小金井市も「避難準備」「避難勧告」を発令した。避難所には市内四箇所の小学校体育館と二箇所の集会施設があてられた。小金井市では初めてのことである。

 12日(土)の昼過ぎ、市内に設置されている市の防災無線スピーカーから「避難準備情報」が流れた。女性の声に続き、男性の声が続く。市内の特定地域に住む市民に対して「避難準備を行なえ」という指示である。これを聞いて私は違和感をおぼえた。どこへ避難するための準備なのか。しかも外では雨風が吹き荒れはじめている。私は避難準備が指示された対象区域の知人に、すぐさま電話を入れた。知人は開口一番「え?、なんのこと。そんな放送あったっけ?」。

 「避難準備情報」の後には「避難勧告」へと続くことになる。対象区域とされた方々のどれくらいの人が、避難所が確立され、どの場所が避難所になったかを知っているであろうか。しかも、すでに雨風は強く吹き荒れている。「不必要な外出は控えるように」とテレビやラジオでは警鐘を鳴らしているのに「避難準備を行なえ」というのである。

 小金井市のホームページを見る。「避難所には、食事や寝具等の提供はありません」「水、食べ物、懐中電灯など、ご自身で必要と思われるものをご持参ください」と記されている。加えて「車両でのご来校はご遠慮ください」と述べる。外は吹き荒れる雨風。モノが飛び交うかもしれない。しかも足元は滑る。そんななかを、必要と思われるものを持って、徒歩で来なさいというのである。誰もが思う。「外に出るほうが危険だ」。

 市役所の初動が遅いと、私は思う。数十年に一度という巨大な台風であることは、何日も前から指摘されていた。であるならば、あらかじめ、インターネットの環境を持たない人をも含めて、どこどこに避難所が開設され、雨風が強くなる前から入所が可能で、必要と考えられるモノを自身で用意して、徒歩で来てもらう────などを、早々に想定される対象区域に伝えるべきである。雨風が吹き荒れる段階になってから、しかも聞き取りにくい防災無線から流しても、雨風を遮断するために窓を締め切っている家の中では、「え?、なんのこと」となるのである。

 幸いに、小金井市域で大きな被害は起きなかった。しかし、同程度の自然災害はこれからも十分に想定される。市役所の担当課は、今回のことを十分に教訓としていただきたい。もちろん、市議会議員の私にも言えることである。

(2019年10月13日付)

台風停電

 9日未明に首都圏を直撃した台風15号。小金井市内でもフェンスの倒壊や屋根板の剥離被害が発生し、大量の枝葉が道路のいたるところに散乱した。倒木も起きているが、公園が多いことから、実態把握はいまだに完了していない。

 甚大な被害を被ったのは千葉県。10日以上経つというのに、電気の復旧していない家庭が相当数あるという。

 千葉県の状況を見て誰もが思うのは、台風が多摩地域を直撃していたならば、どうなっていただろうか。鉄塔が倒れ、電信柱も根元から折れ曲がる‥。防災の視点を改めさせられる事態となった。

 小金井市内に水を供給する2箇所の浄水場。停電した場合は、72時間対応の発電装置があるという。しかし千葉県の現実は、72時間では到底おぼつかないことを示している。

 秋を迎えた。これからが台風本番の季節。自然を楽しむだけでなく、自然の脅威にも備えて行く日々へと入っていく。

(「しんぶん小金井」2019年9月22日付から)

還暦を迎えてから

 あと何年生きられるだろうか。還暦を迎えたあたりから、そんなことを考えるようになった。子どもが小さかった時のことなどをやたらに思い出すようになったのも、還暦を迎えたあたりからである。それはもしかすると子どもが社会人となり、家を出てしまったからなのか、あるいは、一人で過ごす時間が多くなり、過ぎ去ったことや、この先のことを思いめぐるゆとりが出てきたからなのかと思う。

 子どもが親元を離れて暮らすようになってから、カミさんが「おはよう」とか「ただいま」とか「おやすみ」とかを必ず言うようになった。夫婦だけの生活となり、カミさんなりに夫婦のこれからの在り方を考えているのであろう。最初はなかなか応じることができなかったが、いまでは私も「おはよう」とか「おかえり」とか「おやすみ」とか言うようになっている。

 還暦を迎えたあたりから、穏やかな人間でありたいと思うようになってきた。それ以前は、相手を論破することや目立つことが重要と考えてきたが、大きな声を出さなくとも、詰め寄らなくとも、理を尽くして接していけば道は静かに開けてくると考えるようになってきた。「お前は甘い!」「声が大きいほうが勝つ」と言われるかもしれないが、そんな生き方が近頃は嫌いになってきた。しかも私の周囲の魅力的と感じる人の多くは、実に穏やかなのである。そんな人間の一人になりたいと私は思う。

 還暦を迎えた翌月に、私の腹は5カ月目を彷彿させる事態におちいった。食べたいものは遠慮なく食べる、飲みたいものは大いに飲むの日常生活が、60年の人生のなかで見たことのない数値を体重計に見たのである。

 翌日から食生活は一変した。真っ先に心がけたのは、腹一杯にはけっして食べないこと。コープとうきょうに行っても、大好物の刺身の前には近づかないようにする。肉は鶏肉、魚はメザシ。お腹がもうちょっと食べたいと訴えても、おかわりはしない。じっと我慢する。第二に、家のなかでは酒は飲まない。外での付き合い酒のみとする。冷蔵庫のなかの十分に冷えきった缶ビールが目に飛び込んできても、同じ色をしたノンアルコール缶で耐え忍ぶ。ジュースも避ける。たゆ久貴議員が愛用する炭酸水に切り替える。第三に、間食はできるだけ摂らない。「できるだけ」としたのは、タバコを吸わない分、唇が寂しさを訴えており、お煎餅くらいは食べたいと思うからである。

 その甲斐あってか、あれから半年、体重が5s減り、以前の体重に戻ることができた。哀れなのは、冷蔵庫のなかでギンギンに冷えきったいくつかの缶ビールと、冷蔵庫の傍らに置かれた焼酎瓶。飲んでくれる主人を失ったまま、秋を迎えようとしている。

 還暦を迎えて以降、ものごとを静かに考えるようになった。親父が生きた歳まであと17年。少なくともそこまではと思うこの頃である。

(2019年9月10日付)

今年も猛暑

 昨年よりも1カ月近く梅雨明けが遅れた東京は、遅れた分を挽回するかのように連日、猛暑が襲っている。「プールサイドが暑いために水泳授業が中止になった」との話も聞かれ、35℃近くにもなる日中は、生命の危険さえも感じる。

 猛暑はもはや当たり前。にもかかわらず、来年7月24日から8月9日まで、東京でオリンピックが開かれる。炎天下を避けるために、マラソンのスタート時刻を早朝にするというが、「早朝」時点ですでに30℃になっていると指摘する専門家もいる。

 選手の体調や健康管理よりも、アメリカのテレビ局を最優先するオリンピック。寝苦しい夜を過ごした私たちの中に、早朝からテレビの前に坐る人がどれだけいるだろうか。

 8月は、ふるさとを想う。年老いた母親のもとに顔を見せてあげたいと願うが、今年はままならず。東京の地で、ふるさと越前に手を合わせる。8月は猛暑のなかにも静けさが漂う季節である。

(「しんぶん小金井」2019年8月11日付から)

参院選挙

 東京は記録的な日照不足に見舞われている。くる日もくる日も雨ばかり。7月前半の日照時間は平年の1割弱。1961年に統計をとり始めて以降、最も少ない状況だという。

 農作物への影響が指摘され、体調管理など健康面への影響も。梅雨はいつになったら明けるのだろうか。

 くらしを左右する政治の上にも、どんよりとした雨雲が立ち込めている。安倍政権下で消費購買力がどんどん低下し、社会保障や医療費の負担は増えるばかり。挙げ句の果てには「年金だけでは暮らせないから貯蓄せよ」と突き放す。

 秋には消費税を10%に引き上げるという。それを待たずに我が家の食卓からは、おかずが一品減り、酒はとうに姿を消した。「ダイエット」は聞こえは良いが、食費節約のなにものでもない。

 安倍政権を早々に葬り、くらしも政治も一点の曇りのない快晴の日本に。週末の日曜日には政治を変え、いっきに梅雨明けを迎えるべし。

(「しんぶん小金井」2019年7月21日付から)

年金だけでは不足

 「100年安心の年金」どころか、「2千万円用意しないと年金だけでは暮らせない」。政府の審議会が提出した報告書に、国民の怒りが沸騰している。

 平均所得世帯で「2千万円必要」だという。2千万円用意できない人や低年金者、無年金者はどうなるのか。しかも政府は年金支給額を年々減額し、支給年齢の先送りさえ言いはじめている。ようするに、「年金に頼らずに死ぬまで働け」ということ。自民・公明政権は、「老後」すらもやってこない悲惨な生活を国民に強いようとしている。

 子どもを産み育てる給料や環境を保障することなく「少子高齢化」を問題視し、「3人産め」と言い放つ大臣経験者。その一方で、1機116億円もするアメリカの戦闘機を105機も追加購入するという。この政治が続く限り、くらしの不安が消えることはない。

 定数1の選挙区全てで野党統一候補が決定。7月の参院選は安倍政権退陣へののろしをあげる大きな闘いとなる。

(「しんぶん小金井」2019年6月23日付から)

消費税増税やめよ

 「景気が悪化している」と内閣府が発表した。米中の貿易摩擦や中国経済の減速もさることながら、国民のモノを買う力そのものが奪われているなかでは、当然の帰結である。

 アベノミクスが声だかに叫ばれてひさしい。しかし「うちの店にはアベノミクスは来ていない。関所を通れずに、手前で足踏みしている」などの言葉が以前から語られている。庶民はとっくに景気悪化を実感しているのである。

 なのに安倍内閣は、10月からの消費税増税をやめようとはしない。このまま安倍内閣の暴走を許していたら、国民生活も日本経済も奈落の底に引きずりこまれてしまう。

 消費税増税を財源とする「無償化」のポスターが街なかに登場した。無償化の対象期間を過ぎたら、増税だけが全身を襲う。たまったものではない。

 「腹が出てきたね」とカミさんに言われ、酒を絶つこと2カ月。鏡に映る我が腹は、前にもまして負担増状態である。

(「しんぶん小金井」2019年5月19日付から)

青森紀行

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陸奥湾の彼方の岩木山

 青森駅から「青い森鉄道」に乗る。ほどなく建物の切れ間から東に八甲田山、西には岩木山が雪の勇士をあらわにする。前面には田植え前の田んぼや広々とした農地が。住宅は線路に沿って群がるように集まっている。しだいに岩木山は車窓のかなたへ、八甲田山は全容がさらに広がっていく。振り返ると、陸奥湾の青々とした景色が飛び込み、両翼には下北半島と津軽半島が。ここ青森は、自然に囲まれた実に静かな場所である。

 青森は本州最北の地。一昔前までは列車で何時間もかけなければ辿り着くことのできない、はるか彼方の地であったが、いまでは東京駅から新幹線で3時間30分。東京駅から岡山駅へ向かうくらいの距離に様変わりしている。この青森に、昨年に引き続き足を踏み入れた。

 県庁所在地の青森市は、人口29万人余。それなりの人口を抱えながらも行政面積が広大なために、駅前の人影は、そう多くはない。加えて、新幹線停車駅の新青森駅は、ここから西に4q先。乗降客の分散化も加わって、青森駅前の賑わいが失せているように思う。

 代表的な観光スポットは、弘前城公園。桜の頃になると必ずテレビで放映される全国に誇る青森の名勝地である。では、その次はどこか。下北半島の恐山?、それとも雪を頂く八甲田山?、はたまた十和田湖なのか?。

 「10連休」と世間が喚く5月の初め、私は寒風吹きすさぶ龍飛崎の展望台に立っていた。昨年は弘前城公園だったので今年は龍飛岬だと、カミさんは理解不能な理由を述べて私をこの地に引っ張っていったのである。

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三厩駅ホーム

 龍飛岬へ行くには、青森駅から各駅停車で津軽線をひたすら北上。蟹田駅までは海岸沿いを、蟹田駅で電車を乗り換えると線路は津軽半島の山中へと入る。行き着いたのは、津軽半島最北の「三厩駅」。しかし線路はここで行き止まり。ここからは町営マイクロバスに乗って龍飛岬へと向かう。青森駅から実に2時間。ようやく辿り着いたのが、「津軽海峡冬景色」の歌謡碑が立つ龍飛崎であった。

 眼前には津軽海峡の青い色が、その先には北海道の大地が横たわっている。西を見るとそこにも海が。こちらの海は日本海になる。とにかく風がすさまじい。岬を横切るように日本海側から津軽海峡へと、服も髪も乱れ飛ぶほどに荒れ狂う。歌謡碑のスピーカーからは「ご覧、あれが龍飛岬、北の外れと〜」と石川さゆりの声が流れてくるが、とてもゆるりと景色を見るどころではない。逃げるように展望台を後にした。

 津軽線は本数が少ない。一日5往復しかない。電車が出てしまうと、次の電車が来るまでに2時間、場合によっては3時間も待たなければならない。そのため、逃げるように展望台を後にし、津軽線の三厩駅に町営バスで戻ってきたものの、次の電車が来るまでには1時間30分も時間があるという状況であった。しかも、その便が最終電車だという。発車時刻は午後5時46分。最終電車にしては十分すぎるほどに明るい時刻である。この最終電車が出るまでの1時間30分、自然のみが豊富な津軽半島の北端で、私とカミさんを含む乗客8人は、ひたすら時間が過ぎるのを待ち続けた。

 青森の5月初旬は、一カ月近く季節が東京と異なる。なかでも津軽半島は新緑にはほど遠く、桜が咲き、ふきのとうが残る。半島の山々には雪がみられ、山あいの湿地帯には群れをなした水芭蕉が。津軽線乗り換え駅の蟹田駅前では、厚い雪の固まりが私たちを出迎えてくれた。自然の中に置き去りにされたような本州北端のこの地は、他とはくらべようもないくらいに静かな時間が流れているようである。

 今回の青森紀行。東京に戻ってもなお、稜線豊かな八甲田山や陸奥湾の彼方にそびえる岩木山の勇士が鮮やかによみがえり、津軽線の車窓から眺めた津軽半島の山並みが私の心を満たし続けている。もう一度この地に行くことがあるならば、電車やバスを乗り継いでいく青森紀行を今一度、味わってみたいものだと思うところである。

(2019年5月9日付)

10連休

 カレンダーに載っていない、降って湧いた10連休。上を下へのキャンペーンが繰り広げられるが、どれくらいの人が歓迎しているのだろうか。

 時事通信の世論調査では「うれしい」が36.5%、「うれしくない」が41.0%。「うれしくない」理由は、「仕事を休めそうにない」「仕事に支障がある」「家事などの負担が増える」など。自営業者も非正規雇用の人も、長期休業は暮らしに響く重大問題となる。

 小金井市役所は休日窓口が2日間、設けられるが、基本は10連休となる。市報4月15日号に概要が掲載された。それを見て私はハテ?となった。保育園や学童保育所が、いっさい記載されていないからである。

 担当課からは「学童保育所は開設せず」「保育園も休み」との回答。休めない親御さんがいることへの対応を施すべきであろう。
季節は新緑へ。自然をゆっくり楽しめるだけのゆとりを政府は確立すべきである。消費税増税はもってのほかである。

(「しんぶん小金井」2019年4月28日付から)

身体の異変

 自覚症状があるわけではない。あるとすれば、「腰が痛い」とか「肩や首が辛い」などの歳相応のものくらいである。しかし事態は「還暦」の声を聞いたあたりから一気に襲ってきたように思う。

 ショックである。まさか、この私が‥‥。知人は言い放つ。「あらがいようがない。その歳になれば諦めるしかない」。しかし、まだ還暦を迎えたばかりである。

 鏡に映る我が身は、くっきりと異常を示している。往年の状況ではない。知人は言う。「食事制限をすべき。アルコールを控えよ」と。言われてみれば、ここ1年くらいの間にアルコールの量は確実に増えてきた。美味しいものを遠慮せずに、腹一杯たべてきたように思う。その結果が、この事態になったのだと推測できる。

 「異変」という表現が適していると私は思う。しかし知人は言う。「突然にやってくるものではなく、徐々にやってくるのだ」と。しかし、私には「突然」としか思えないほどに異常な事態なのである。

 あれは3月の初め頃ではなかったか。夕食を終え、風呂に入った。念入りに身体を洗い、風呂の鏡に全身を映し出したその時である。‥‥やや子ができた。そこには5カ月目くらいを彷彿させる見事な腹が映し出されていた。

 恐る恐る体重計に乗る。見事なほどに驚異的な数値を示していた。なにかの間違いではないのか。体重計のすみずみを調べる。気を取り直してもう一度乗ってみた。数値は先程と同じ、これまで見たことのない大台を示していた。愕然とした。ウソだろ‥‥。

 知人は自身の腹を撫で、俺も板倉さんの歳の頃にはすでにこうなっていたと、破水寸前の肉厚を、誇らしげにたたいた。いやだ、俺はこんな腹にはなりたくない。

 ご飯の量を、これまでの半分くらいに制限しろ。アルコールの量も当然に減らす。今日くらいは大丈夫だろうと次々に口に入れていくと、俺のようになる。運動をしろ、体操もいいぞ。と知人は言う。目の前の失敗例が、にやにやしながら忠告する。

 板倉さん、議員になっても、あんなふうな身体になったらダメよ。と市議選に立候補する26年前に、周囲の女性陣からこもごも言われてきた。これまではなんとか「あんなふうな身体」を防いできたにもかかわらず、還暦を迎えるだんになって、ついに我が肉体が「あんなふうな身体」に押し切られてしまったのである。

 体操をしなければ。腹一杯たべるのも我慢しなければ。むむむむむ、至難の業である。とりあえず今夜は酒を飲むのを我慢しよう。とりあえず今夜は。

(2019年3月28日付)

膨らむ蕾

 近年、卒業式の頃に桜が開花している。市立中学校の卒業式が行なわれた20日は、校庭の桜も野川沿いの桜も、膨らんだ蕾の先から、いまにもピンクが飛び出しそう。涙を浮かべて門を出て行く卒業生に、「頑張れ」と背中を押しているかのように。

 例年、4月の最初の土日に桜まつりを行なっている観光まちおこし協会は、今年は3月最後の土日に前倒し。読みが的中し、満開の桜まつりに期待膨らむ。

 一方、市民の暮らしは、蕾の膨らむ気配なし。国保税がまたもや上がり、下水道料金も値上げ。消費増税は10月のはずなのに、すでにモノが上がりはじめた。財布のひもは開くどころか固くなるばかりである。

 景気が後退傾向に入ったと、政府自身が認めはじめた。増税などとんでもない。いまこそ増税ストップの大きなうねりをあげるとき。

 カミさんが、風呂上がりの私を見て言葉を発した。「腹が出てきたね」。こちらは開花せずに膨らむいっぽうである。

(「しんぶん小金井」2019年3月24日付から)

南中学校卒業式

 3月下旬とは思えない暖かく穏やかな日差しが降り注ぐ20日(水)午前、小金井市立南中学校の卒業式が行なわれた。私は来賓席のかたわらで卒業していく彼らを見つめながら、今は離れてくらす子ども二人の中学生の頃を思い浮かべるとともに、私自身のその頃を思い出そうとしていた。

 自分をもてあますのが中学生の頃ではないだろうか。1年生の時は子ども心を多く抱え、2年生になると周囲や異性を気にするようになり、3年生になると喜怒哀楽が激しくなる────そんな季節を送ってきたように思う。だから、目の前の彼らは、そんななかで
卒業式を迎えたのではないだろうかと思うのである。

 息子も娘も、この南中学校が母校である。息子の卒業式も娘の卒業式も、議会があったために出席してはいない。だから、目の前で繰り広げられている卒業式と比較することができないのが残念である。

 卒業式は、例年と同じような内容でしゅくしゅくとすすめられていった。壇上で一人ひとりが校長先生から卒業証書を受け取り、卒業生が歌い、在校生が歌い、そして全員合唱へ。これが、来賓席で長年見つめてきた南中学校の卒業式のパターンである。ところが今回、これまでにはないものが加わった。

 卒業式の終盤に入り、各クラスの卒業生代表者がマイクの前でお礼の言葉を述べる。と、その時、その中の男子が目の前のワイヤレスマイクを手にとり、「学級委員は前へ」と言った。その言葉を合図に幾人かの生徒が降壇、7人が横一列に並んだ。そして、先頭の生徒がマイクを握り担任の先生方のいる方に向かって言葉を発した。「○○先生、いままでありがとうございました」。そう切り出した後に、その先生の印象と思い出がわずかな時間ではあったものの語られた。当の先生は予想もしなかったのであろう。その生徒をじっと見ながら、こみあげる涙にとまどっていた。

 一言も聞き逃すまいと静まり返った体育館。生徒が発する言葉、真正面から受け取る先生。会場の目が生徒と先生のもとに集まった。担任の先生は全員、副担任も名が呼ばれたのではないだろうか。最後に名指しされた3年4組の男性教諭が椅子から立ち上がった。生徒が発する一言一言に静かに頷く。顔が大きくゆがんだ。

 冒頭の男子がマイクを握った。「卒業生。先生方の方に向かって、礼!」。そして言った。「今回のサプライズを許してくれた校長先生、ありがとうございました」。

 「これをやられたら先生はつらいよ」「うれしいけれど、つらいよな」。来賓席の面々は思わぬ展開への驚きと先生方の心情をはかりつつ、感激の渦にただただ浸り続けていた。校庭の桜は、いまにもほころびそうなほどに蕾を膨らませていた。

(2019年3月20日付)

還暦

 「しんぶん赤旗」日曜版が3月1日で創刊60年を迎える。政党の機関紙でありながら、日本最大の発行部数を持つ週刊紙へと発展し、60年を数えるまでに成長した今日の姿は、ますます輝きを増している。

 「60年」は人間でいえば「還暦」に相当する。人間の場合は、人生における一区切りの意味合いを持ち、赤いちゃんちゃんこや頭巾が贈られたり、還暦祝いなどが定着している。しかし「しんぶん赤旗」日曜版の場合は、還暦祝いをする時間などはなく、安倍内閣のひどさ加減を社会に発信するために走り続けなければならない。

 「しんぶん赤旗」日曜版が創刊される10日程前に、雪国の片田舎で産声をあげた私は、第1回定例会初日に還暦を迎えた。しかし、赤いちゃんちゃんこはおろか、還暦祝いなどという言葉さえも家族からは一切聞かれず、カミさんは一心不乱に仕事に邁進していた。日曜版と同じく、私も走らなければならないのだと改めて悟った。

(「しんぶん小金井」2019年2月24日付から)

もう一度来たくなる街

 巷では「ラグビーワールドカップ」だとか「来年夏は東京オリンピック」だとか、果ては「平成最後」とかで賑わいがやってくるぞと浮かれ調子でいるけれど、仮にラグビーやオリンピックで外国から大勢の観戦者がやってきたにしても、その人たちがリピーターとなって、この小金井という街にどれくらい来てもらえるだろうか。「だから、来てもらえる街にするんだ」と述べる人もいる。では、どうやって?。

 いま、武蔵小金井駅南口では、東京オリンピックが開かれる年の5月竣工めざして、商業施設を入れ込んだ高層ビル2棟を配置する再開発事業がすすめられている。「他自治体から人を呼び込み、賑わいのある街にする」と市長は述べる。たぶん、賑わいはやってくるだろう。でも、長続きするだろうか。

 10年前に武蔵小金井駅南口の開発が行なわれ、イトーヨーカドーが誘致された。開業当初は、開店時間前の入口に行列ができるほどの賑わいをみせていたが、当時の隆盛をいま見ることはない。なぜだろうか。

 どの駅前も開発が行なわれている。高層ビルが建ち、商業施設がどこでも入り込んでいる。どの駅を降りても同じような景色。これでは、わざわざ小金井市に足を運ぶ必要はない。武蔵小金井駅南口のイトーヨーカドーの当初の賑わいも、いま建てられようとしている南口の新たな高層ビルの賑わいも、大半は、物珍しさに誘われた周辺住民の集まりで終わってしまう。しかも、ほんの一時でしかない。リピーターを増やすためには、どうあるべきだろうか。

 上野の西側に根津という地域がある。根津神社が知られており、私はこの地域に何度も足を運んでいる。根津神社に行くのが一番の目的ではあるが、それだけではなく、根津の街のたたずまいが、私を誘っているのである。隣接して谷中、千駄木という、根津を合わせた通称「谷根千」と呼ばれる一帯も魅力的で、下町情緒あふれた風情がここには流れている。商業施設を入れ込んだ高層ビルがあるから人々が集まるのではなく、他にはないものがあるから、人々はやってくるのである。

 では、小金井市。駅前開発以外に人を呼び込むすべはないのだろうか。小金井公園やその中につくられた江戸東京たてもの園はどうだろうか。桜の頃に多くの人が心奪われる野川沿いはどうだろうか。小金井神社や貫井神社、ハケの森美術館周辺などは、人を呼び込む魅力がないと言えるだろうか。

 私は思う。歩いてそこへ辿り着くまでの道すがらに、魅力的な個店とか何かを配置できないか、と。目的地に着くまでの道中がステキだったならば、きっと、もう一度来てみたくなるのではないだろうか。私の脳裏には、吉祥寺駅から井の頭公園までの石畳の風景が浮かんでいる。

 1月29日(火)夜の小金井市商工会青年部・小金井MID倶楽部の賀詞交歓会の席上で、私はそんなことを考えながら、主催者や来賓の方々の挨拶を聞いていた。

(2019年1月30日付)

5年後の市内小中学校現場

 昨年秋、東京都教育委員会が都内各自治体の公立小中学校の今後5年間の児童生徒数の推計を公表した。小金井市立小学校の児童数は増加率が三多摩で最も高く、中学校の生徒数増加率も4番目に高いという。その時、学校現場はどんな事態を迎えるのだろうか。

 昨年6月、市教育委員会は市内小中学校にアンケートを実施。第二小学校では「体育館での全校集会・朝会に全校児童が入りきれない」、第三小学校では「教室不足、給食設備不足、職員室スペース不足」、緑中学校では「校庭での体育会実施が困難に。体育館で全校で行なう行事に、保護者や地域の方が入れない状況に」など深刻な事態が浮かび上がってきた。ところが西岡市長は、駅前開発で他自治体からさらに小金井市に呼び込むと言い放つ。

 事態の深刻さをかえりみず、ひたすら開発に突き進む西岡市長。武蔵小金井駅南口では、戸数716を擁するマンションが進行中。今日も学校現場の悲痛な声が響いている。

(「しんぶん小金井」2019年1月27日付から)

2019年の年賀状

 年が改まり、穏やかな正月を過ごしたのも束の間、9日(水)夜あたりから東京地方は急激に冷え込み、12日(土)昼には、この冬初めて雪が舞い降りた。昨冬よりも12日遅い初雪だという。雪は僅かに舞っただけで、すぐに雨に変わり、その雨もほどなくやみ、後には寒さだけが残った。それでも、この冬は例年ほどには寒くないと感じるのである。

 季節のなかでもっとも苦手なのは冬である。少しばかり細身であるがゆえに防寒用の肉厚が薄く、骨身に沁みる寒さが全身を覆うのである。しかし、身動きを妨げるまでには至っていないことから、いまのところ例年ほどではないと思うのである。

 正月2日からカミさんの実家へ出かけた。瀬戸内海に面したその町は、東京ほどには寒くなく、店舗やスーパー、病院、介護施設等が充たされていれば、とても過ごしやすい地域だと感じる。加えて、私の好きな神社仏閣がこの地には多く、この仕事を引退後は、お遍路巡りも悪くはないと夢を膨らませる。西に向かえば、金比羅さんや善通寺があり、カミさんの実家近くにも、紅葉が映える古刹がたたずんでいる。実家近くのスーパーには、高松や鳴門で水揚げされた魚介類が豊富に並び、ご当地ならではの、お一人さま用即席讃岐うどんが売り場の一角を占めていた。魚介類や肉類は、小金井市よりは2割程度、安いのではないかと品定めをする。この地の刺身は、実に美味であった。

 留守をしていた我が家に、友人・知人からの年賀状が舞い込んだ。遠く離れている旧知からのものは、心温まるものを感じる。ついに、おばあちゃんになったのか、大家族で大変そうだなぁ、我が家と同じ夫婦二人暮らしになったのか、あの頃よりも痩せたんじゃないのか、等々。一方、通り一遍の挨拶文だけのものも見うけられ、少なくとも近況くらいは記してほしいと願わずにはいられない。できれば、いまの自身を映した写真も刷り込んでほしいと思う。

今年の私の年賀状

写真
昨年5月の弘前城
[表面]
■旧年中は大変お世話になりました。高卒で上京し、小金井市に住んで42年。都心も小金井市も様変わりしました。どの駅を降りても高層ビルが建ち並ぶ有り様に、街の魅力が失われてしまったと思うのは私だけでしょうか。街の姿は変わっても、地域の絆は育てたい。だから、今年も元気一杯走ります。
[裏面]
■南北首脳会談、史上初の米朝首脳会談が行なわれた2018年。対立から対話へと朝鮮半島に新たなページが。一方、空母まで持とうとするこの国は、「森友・加計」「南スーダン部隊」など、公文書の破棄・改ざん・隠蔽が横行。野党共闘で安倍政権に終止符を。
■公約を破り豊洲市場に突き進んだ都民ファースト。暮れの西東京市議選では議席ゼロに。2020年夏の東京オリンピックを口実に道路建設や再開発が狙われる首都・東京。いずれは人口減になるというのに、あいかわらずのゼネコン政治。大震災から8年の被災地は置き去りに。
■「都市間競争に勝つため」と、民間が行なう駅南口開発に15億円も投入。一方で国保税や介護保険料の値上げ、ガン検診の有料化を強行。この4月からは市民課窓口の民間委託まで。これが西岡市長の「行財政改革」の実態。
■社会人になり家を飛び出した娘は、不動産業界の荒波に揉まれながらも青春真っ只中。帰省どころか、メールさえも滞る。社会人3年目の息子は、東北の寒さに震えながら取材に駆け回る。ときおり載る息子の記事に、成長のきざしをかいまみる。兄妹よ元気であれと親は願う。
■気がつけば還暦。鏡に映る白髪の数や腹のたるみに、過ぎ去りし日々のあわただしさを思う。往年の美少年は、普通のおっさんに変身していた。年末に妻は、独り暮らしの実母のもとに駆け足で帰省。残された我が身は、腰の痛みに耐えながらの大掃除。いつまで続く?この夫婦。

(2019年1月13日付)

義父の四十九日法要

写真 カミさんの父親が昨年11月20日に死去した。享年89歳である。義父はガンを患い、体力が低下したことから、入所していた特養ホームから病院へと移され、いくばくかの月日を過ごして天国へと旅たった。11月22日に通夜を、23日に告別式を行ない、年が明けた今月5日に四十九日法要が行なわれた。

 義父の死は、ある程度、想定はしていたものの、その日が来るのはもう少し後のことだと思っていた。11月20日のその日、私はカミさんに誘われて、大竹しのぶ主演の「ピアフ」を日比谷で観劇。上演が終了し、日比谷駅近くで食事をしている最中に、カミさんの携帯に母親から危篤の知らせが舞い込み、電車で帰宅途中にカミさんの兄から「死去」の報が入った。カミさんは寝耳に水だったようで、悲しむ余裕もなく、とりあえずの荷物をまとめ、翌日、バタバタと小金井を後にした。

 正月明けの5日(土)に四十九日法要が行なわれることから、カミさんは年末の御用納め翌日に実家へと新幹線に飛び乗り、私は正月2日に向かった。

 小金井の我が家は、基本的に大掃除は私が担うこととなっている。なぜなら、カミさんは毎年、御用納め翌日には実家へと帰省するからである。そのため、大晦日まで大掃除に追われた私は、元旦のみが唯一の休息となり、カミさんの実家へ向かった正月2日からは、四十九日法要の準備へと移っていった。

 義母は独り暮らしである。八十歳台の半ばになろうとする身体は衰えを隠せず、築50年を過ぎた家屋も、あちらこちらに傷みが生じている。夫の位牌の前で手を合わせる義母の後ろ姿は、あまりにも小さい。風呂に入ることも、この頃はしんどいとつぶやく。

 実家からさほど離れていないホテルで行なわれた法要には、大阪で暮らす義兄一家全員と東京で暮らす板倉家からは青森で働く息子以外が参列。10人余の近親者も加わった。

法要を終え、カミさんの実家に戻った義兄一家と板倉家の面々は、それぞれに翌日からの予定を抱えていることから、一斉に帰路の準備にとりかかる。それを見ていた義母が一言発した。「みんな帰るんか」。

 カミさんに手をつながれて歩く義母の歩みはとても遅い。背が前かがみになり、それでも頑張って歩こうとする姿に、心が痛む。「みんな帰るんか」の言葉が、脳裏に焼きつく。「東京に来ませんか」と私は問う。「ありがとう」と義母は応えたが、この地以外で暮らす意思のないことをわかっていながら問う己の言葉に、一人で残してしまう申し訳なささと、それをわかっていながら東京へと戻っていかなければならない自責の念が複雑に絡み合う。私は思う。義母にとって「東京に来ませんか」の問いは、ひとかけらの気休めにもなっていないのではないだろうか。

 カミさんは何も語ろうとはしない。昨年11月の葬儀のあと、カミさんに「東京に来てもらってもかまわないよ」と言ったときに、「ほんとにいいの?」と言ったきりである。自分の生まれ育った地を離れたくないことを最もわかっているのは、カミさんなのであろう。今夜もカミさんは、一人で暮らす母親の声を聞くために電話をかけている。

(2019年1月8日付)

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