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猪股嘉直
没後10年、母のこと(その五)
先月号で、幼稚園時代の事を少し書きました。
母が結核を患い、一ノ関の病院に入院していたとき、私はおそらく2歳前後かもしれませんが、一ノ関の幼稚園に通った記憶があるのです。それが私自身の記憶なのか、あるいは後に姉たちに聞いた話を自分の記憶にしたのか不明ですが、断片的なシーンを思い浮かべることができます。
一つは、父の自転車の前と後ろに私と姉が乗せられ、幼稚園に通う場面です。どちらが前かは分かりません。その時の記憶では、ナイロン袋を持っていくのですが、そのナイロン袋で砂場の砂を入れたりする“遊び”をとても楽しみにしていました。なんでそんな“たわいもない”ことに胸を膨らませたのかわかりません。
私は年齢が達しない状況で幼稚園に通わされたようです。母は入院、父は世話になっている布団屋兼旅館の従業員でしたから仕事があります。そのため、姉の通う幼稚園に特例かどうか分かりませんが入れてもらった(昭和30年頃のことで、そういう柔軟性があった時代だったのでしょう)のだと思います。

幼稚園で、お勉強の邪魔、クラに入れられました
幼稚園のいわゆる授業中では、席にじっとしていることもなく、姉から後に聞いた話では、先生の立つ黒板の前でウロウロしていたとの事。私の記憶に割合頻繁にあるのが、「いたずらをした時にクラに入れられる」という話で、どうやら私は、先生の言うことなど相手にせず(そんなことは年齢的にできっこないのですが)他の生徒に言わせれば、お勉強の邪魔をしていたようです。そして、私の記憶の中に、今でもうっすらと残るのが、暗いクラのなかに入れられたようなおぼろげな思い出です。

給食代で恥ずかしい思い出

私たち家族は母の退院と同時に、宮城の開墾の村に戻って暮らします。私が5歳か6歳の頃、私たちの村には、幼稚園などありませんでしたので、小学校の作法室を使って、1週間に1度(土曜日だったと思いますが)だけ、一ノ関の幼稚園から先生方が複数で出張(?)してきて、幼稚園を開くのです。その時の先生が、私がいたずらして困らせた幼稚園の先制方でした。
幼稚園では、紙芝居を読んでくださったり、歌を教えてくださったり、楽しい半日間を過ごしたように思います。
牛乳とかの給食もありました。給食費も子供たちが親から預かって持参し、先生に渡すのです。あるとき私は、母に給食袋にお金を入れてもらい、「おつりが50円あるから、もらってくるように」と言われていました。先生に給食代を渡して、「先生、お釣り、けらっしぇ(ください)」と言いました。ところが先生は、お釣りは無い、ちょうどだと言うんです。作法室の中で車座になって、みんなが座っているところだったので、とっても恥ずかしい思いをしました。今でも忘れられない、きっとその時は顔を真っ赤にしたのではないかと思います。

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