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猪股嘉直
没後10年、母のこと(その一)
 今年は選挙の年。私が初めて選挙に出たのが、1999年の4月です。その時、新富士見橋・北側交差点の傍に設置した選挙事務所前、支援者の人々の間の椅子にチョコンと座って息子(私)の第一声を聞く、小さくなった母の姿を、うっすらと覚えています。まだ肌寒い、4月の中旬で和服の上にショールを着ていたように思います。母は、2回目の第一声(2003年)を聞いて、その2年後に他界しました。

母は農家出身。父と開墾生活に

母は、宮城県栗原郡若柳町福岡谷地畑(現:栗原市)の比較的大きな農家の長女でした。
   父と結婚して東京蒲田に出ましたが、戦争に徴兵でとられた父が戦地から戻った時には、実家の宮
城に、父がまだ見ていない長男(私の兄 1943年生まれ、当時は2歳か3歳でしょう)と一緒に疎開をし
ていました。父が帰り、3人は隣町の金成町字藤野という開墾地の開拓に入りました。
 母は私が知る若い頃(40歳代)から腰を折って歩いていました。いつでも仕事に入れる体勢を維持していたのか、腰が曲がっていたのです。
 私が東京の葛飾水元公園の土手下に住んでいた頃、20歳頃に書いた「母ちゃんの手」という詩があります。現物は見つかりませんが、民主青年新聞という週間紙に掲載されたものです。

 母ちゃんは、私が背中を痒がると、いつでも掻いてくれる
 掻く時は、手のひらで掻いてくれる
 爪を立てずに掻いてくれる
 手のひらで掻いてくれると、丁度いい
 母ちゃんの手は、開墾仕事でザラザラ
 母ちゃんは美人さんだった
 写真を見るとほんとにきれいだ
 うだども、今の母ちゃん、さっぱりめんこくなんかない
 開墾仕事が母ちゃんの顔を変えたみたいだ

 思い出すとこんな詩だったかな?

溜まらない溜池を2つも造り
藤野は山で、隣の金成町末野の人たちの物だったらしいのですが、その地を政府が買い上げ、開拓農民用に準備したと記憶しています。その近辺では一番高い位置にあり、水が豊富に湧き出るような場所でもありませんでした。農家育ちの母ですが、薬屋の丁稚で農業とは縁がなかった父との開墾ですから、母の苦労も大きかったと思います。父と母は、国が手を入れて開墾整備した場所を敢えて選ばず、場所がいいと考えた、自ら開墾しなければならない所で開拓を始めたと言います。水田をつくるために溜池を造りました。ブルドーザで池を掘りますが、2つも失敗していました。水がたまらず、そこは子供の遊び場になっていました。借金が嵩んだと思います。


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