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猪股嘉直
父が他界して四半世紀(その4)
共産党関連の出版社に就職するも…

 浪人中、受験勉強にも熱心になれず、父と母には大変申し訳ない一年を過ごしました。息子を何とか大学に入れようと、共働きをしていた両親は、その頃50歳前後でした。私は両親の願いを裏切るような結果を出し、進学は諦めました。
 進学を諦めたその日から就職先探しをしました。季節は3月。就職戦線は大詰めです。ただ、時代が1973年(昭和48年)でしたので、春には多くの新入社員が真新しい背広を着て、出社する光景を数多く見ることのできる時代でした。
 私は、熟読していた赤旗新聞に「社員募集」を掲載していた新日本出版という印刷会社を探し出し履歴書を書き、入社しました。父には「印刷会社に就職する」とだけ言い、その会社がどういうものを印刷しているかなどは話しませんでした。電車で金町から国電や地下鉄を使い、通いました。
 当時はパソコンなどの普及は進んでおらず、書籍の印刷は植字という仕事から始まっていました。活版印刷で、拾った活字を原稿に指定してある体裁に並べて組んでいくのです。新日本出版社は日本共産党が発行する書籍や月刊誌(「前衛」「経済」など)を数多く作っていましたので、それらの原稿を「見ることができる」と、甘い夢を抱いて入職したのです。
 ところが最初に配置された職場が、ポスターなどをつくるグラビア印刷部門でした。職場には共産党の選挙用ポスター、候補者ポスターの残りなどが積まれていました。期待した職場ではなく、がっかりしていましたが、10日ほどで、希望の部署への配置が決まりました。
 ところがです。やはり両国の印刷会社に勤務していた父が、新日本出版社という会社がどのような会社なのかを、同一業界ということもあって、知り得たようです。高校を卒業し、浪人まで息子のわがままを聞いてくれた父が、いわゆる左翼系の会社に就職することは「ダメだ」と言い、私を説得したのです。どのように話をされたのか、今では覚えていません。ただ当時19歳だった私は「ハイ。わかりました」と言って、次の日会社に行き、退職を申し出ました。帰路、涙したことをうっすら覚えています。

飯島邦男さんとの(私にとっては運目的)出会い

 私のその当時の同居家族は、姉が嫁いでいて、両親と3人だけでした。長男は埼玉県狭山市の新狭山、ホンダ技研工場のそばで所帯を持っていました。次兄は左官とタイルの技術で独り立ちできるようになり、長兄のいる狭山市で開業する計画で、一足先に狭山に来ていました。私たち3人も夏には狭山市に転居する計画でした。父と次兄が私たちの住む家を造りはじめていたのです。
 会社を退職した私は狭山市を起点に通勤できる職探しをするため、次兄の借りていた借家に転がりこみました。新聞公告などの情報を見るのですが、すでに4月を過ぎていて、なかなか叶う情報にはありつけませんでした。
 兄のところに転がりこんで間もなく、新聞赤旗の宣伝ポスターが目にとまりました。読みたくて読めなかった新聞です。電話番号が記されていました。「飯島邦男」とありました。すぐに電話し、自宅を尋ね、新聞購読の申し込みをしました。飯島さん(当時31〜32歳で、市議一期目?)は狭山市議で、私が帰る間際に「何やってんだ?」と聞きました。私は「仕事を探してます」と。飯島さんは「こういう所があるんだよ」と見せてくれたのが「所沢医療生協」の広報紙。「患者の立場に立つ医療をめざす」とした医療機関の新聞です。
 ここで私が飯島さんにお会いしてなければ、その後の40年間は違った形で進んでいたでしょう。
 私は「また、父に反対されるからダメです」と一度は飯島さんに断りました。

                                <また、後日>


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