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猪股嘉直
父が他界して四半世紀(その3)
葛飾水元から小岩高校へ通学

私たち家族は、葛飾区水元の家に7年ぐらい暮らしました。私は中学校の3年間、高校の3年間と浪人時代の1年です。
その間、父は両国の印刷工場で仕事をしました。私も高校の時の夏休みなどに父の勤める印刷工場でアルバイトをした経験があります。父は定年退職まで、勤務しました。
私の通った高校は、開校して7年目の都立小岩高校という、国電総武線(今ではJR総武線)の小岩と新小岩を1辺とした、2等辺三角形の頂点に位置していました。どちらの駅からも半分ぐらいで、私は金町から小岩までバスに乗り、小岩から学校に歩くことが多かったように思います。高校は3年先輩に吉田照美さん、4年後輩に大竹しのぶさんがいます。
比較的新しい高校ということで、自由な雰囲気が沢山有りました。生徒会活動も活発で、制服の自由化、卒業式のあり方などが議論され、私は高校2年の途中からは制服を着た覚えがありません。
教師の方もそうした生徒たちの意見をくんでくださる方も多かったのですが、逆の方もおられました。
私が高校3年で図書部長をしていた時があります。その時、生徒会と図書部主催で講演会を開催することになり、近隣に在住していた早乙女勝元氏(1932年生の作家、当時50歳頃。東京大空襲・戦災資料センター館長)をお呼びし、平和についての講演をお願いしました。この講演会は大成功するのですが、教師の中でも賛否があったようです。
そうした雰囲気の中で、ノンポリで過ごしていた私も、社会のことを多少考えるようになりました。

口角泡を飛ばす熱血先生

宮城生まれ、薬品問屋の丁稚で少年時代を過ごし、召集令状で戦争に行くという、当時ではごく普通の生活を過ごしてきた父は、平凡にお上の言うことには従順に従って生きるということが身についていたと思います。ですから私も、そうした環境の中で暮らし、父の保守的な考えに異論を挟むようなものは何もありませんでした。
高校で、こんなことがありました。ある倫理社会の先生のことを今でも思い起こします。先生は授業で「神はいるか?いないか?」という質問をされました。私は、何かを信仰する宗教などは持ち合わせていませんでしたが、「私自身の運命を知っている何かがあるはず」という考えは持っていましたので、そのことを言いました。するとその先生は、当時25〜6歳と思いますが、まさに「口角泡を飛ばす」勢いで、私に意見。いつも温厚な先生の言葉にびっくり。けれど、今になってはいい思い出です。その先生は、転居した宮城の新興住宅地で、今でも「赤旗新聞」を配達し、集金していると聞いています。
その赤旗新聞について少し書きます。私は浪人中、仕事もせず、父と母のスネをかじっていたのですが、赤旗新聞を読みたくて、水元の赤旗分局(赤旗新聞を配布するセンター)を探し出し、毎日の赤旗新聞を譲ってもらうことにしていました。
そんな私を父はどう思っていたのでしょうか?             
<また、後日>

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