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父が他界して四半世紀(その2)
 江戸川から葛飾水元の農家の納屋へ

 東京江戸川の、小岩にあった父の勤めていた時計部品の会社が倒産して、私たち(両親と姉と私)は葛飾区水元公園の土手下にある農家の納屋を改造した部屋に暮らすことになります。
 生前の母が、昔を振り返って時々言う事がありました。「父ちゃんの会社が倒産した時には、玄関からではなく、勝手口から会社の荷物を持って隠れるように帰ってきた。あんたたちに会社の倒産を悟られないように」と。
 その時いつも思っていたのは、「別に父が会社を倒産の原因をつくったわけではないだろうに。何故そんなに卑下するのかな」と。今思うに、子どもたちに、「父親の会社がダメになった」などと知られたくないことだったのだろうと。しかし、私にはその時のことが“嫌な思い出”、あるいは“辛い思い出”としてはちっとも残っていないのです。
 私にあったのは、江戸川の小学校を卒業して、中学からは葛飾区の水元中学というところに通うのだということだけでした。
農家の納屋を改造した部屋ですが、それは納屋の一角をなしていました。今思うと、北側には窓がはめ込まれ、そこからは裏の大きな農家の畑が広大に広がっていました。姉が寝ることになった三畳の部屋の畳は波打っていたように思います。そこの部屋から、昔ながらトイレがありました。
 トイレのドア(板戸でした)は、畳の端にぶつかり、だんだん畳が擦れてめくれていくようでした。
 私と父と母は六畳ぐらいの「居間、兼、寝るところ」で多くの時間を過ごしました。しかし、姉の三畳との部屋にふすまや障子があって分かれていたわけではありません。みんな、ごっちゃです。  

荒川の皮なめし工場に勤務

水元に来た父は、最初は荒川沿いにある皮革製品の前工程の「皮なめし」の工場に勤めたというふうに記憶しています。荒川沿いには、「皮なめし」の工場がたくさんあったのです。その町に入ると独特な匂いが町全体を包み込んでいました(私も、高校の卒業後に一時期バイトをして通ったことがあるのです。一日中、立ち仕事で、結構きつかった)。
 父はどの位、勤めていたか分かりませんが、その後両国にある、町の印刷やさんに勤め始めます。その代わりではありませんが、父が皮革工場に務めているころから、母も別な皮革工場に勤め始めました。仕事はきつく、あまり「きれい」な仕事ではありませんが、それだけに収入は少し良かったのかも。母の工場勤めは、父とともに姉と私の教育費捻出のためだったのではないでしょうか?その頃の私たちは教科書も無料支給されていませんでした。参考書が欲しいと言えば、何も言わず買ってくれました。
 水元での一番の思い出は、公園の土手の両側が桜並木だったこと。そのトンネルをくぐって中学校に通ったことです。今は、土手を広げ、あの見事な桜並木はほとんどなくなりました(一昨年、数十年ぶりに家内と行ってみました)。 
 父は非常におとなしい性格でした。でもそれは我慢していて、滅多に「自分の感情を現さない人」というのが正確だと思います。どんなことか忘れましたが、父がちゃぶ台をひっくり返したことを2〜3回見ました。怖かった。何かあっても、すぐに言わず鬱積して、耐え切れなくなってやるのです。そんな父の性格はあまり好きではありません。私も受け継いでいいるところがあるようです。ちなみに、私はちゃぶ台をひっくり返したことは今のところ、ありません。

外食の注文は、子どもの分だけ

父は出歩くことが大好きです。恐らく、お金も厳しいでしょうに、日曜日にはよく、東京のど真ん中あたりに、家族で出かけました。私は嬉しかった。その時は外食もできますから。だけど、お金が厳しいために、安易にお店に入れません。私は入りたくて駄々をこねます。父は起こってスタスタと早歩き。母は、「自分は食べないから」と言って、母の分は注文しません。それがとても嫌で、今でも深く残っています。
私が高校に入学する頃でしょうか?浅草の左官屋で、住み込みをして修行をしていた次兄が、一人前(というのでしょうか)になって、私たちと一緒に暮らすことになります。その機会に、改造した納屋をさらに改造し、六畳ぐらいの部屋とお風呂のスペースを屋根の下に造ったのです。タイルも習っていた次兄が大奮闘でした。

                               <また、いつか>

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