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次兄(あに)のこと
 次兄(あに)が亡くなって、丸6年。選挙中に七回忌の法要を行いました。次兄は、59才という若い年齢で生涯を終えました。病気は肺がん。きっと、手放せなかったタバコに「多くの原因があるのかな」と思います。

中卒で左官屋丁稚奉公  両親を最後まで

 次兄は、とても優しい人でした。私とは6歳離れていました。
「勉強は好きではない」と、高校に行かず、中学卒業後、宮城の開墾地(栗原郡金成町。現栗原市)を後にして、東京台東区の左官屋さんに住み込み、丁稚奉公をして、技術を磨き、某大手ゼネコンの下請け左官会社を狭山市で設立しました。
次兄というように、次男でしたが、長男がサラリーマンで遠くに転勤し、その後脱サラしても狭山には戻らなかったこともあり、次兄が、両親の面倒を最後迄見ました。
私が、病院に24年務め、新しい仕事にチャレンジしたいと考え、夜間の専門学校(議員になるための学校ではありません)に行った時も、私を左官会社の事務で雇い、ほぼこれまでの給与を保証し、私と私の家族を守ってくれたのも次兄でした。

次兄は宮城の山の中で、私にいろんなことを教えてくれました。雪の山の中で、うさぎを捕まえる罠の仕掛け方。きのこ採り。魚つり。雪のかまくら造り。
たくさんの思い出があります。始めて次兄と一関(岩手県、県南の市)まで映画を見に行って、次兄が財布を落としたこと。帰りは二人で一関から、おそらく2里程(約8q)歩いて帰ったこと。次兄が母に叱られ、外で泣いていたとき、次兄に抱きつき一緒に泣いたこと。
次兄はもともと器用というか、物をつくったりすることが好きな人でした。宮城の家に半畳ほどの縁側がありましたが、その端に大きな穴がありました。母に聞くと、次兄がカナヅチで釘を打っては抜き、繰り返す中で大きな穴になったとのこと。そんないたずらの延長で、冬には「そり」をつくってくれました。私に樹木で車をつくってくれたこともありました。

次兄も見たかったでしょうに、2人の孫

私は毎月、奥富にある次兄の家に新聞の集金に行きます。次兄の後の家を守る義姉さんから仕事の様子を聞き、珈琲をご馳走になり、帰りにお線香をあげて、次兄に願い事を言って帰ってきます。
次兄の家には、次兄が見ることができなかった孫(2歳と0歳)が2人います。あの次兄だから、本当に可愛がっていたでしょう。次兄の悔しさが伝わります。

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