トップページ もどる
議会報告
議員団紹介
議員団だより
猪股 嘉直
大沢えみ子
広森すみ子
リンク集

議会報告
人のいない町並み 原発事故は収束していない
人のいない商店街 福島県浪江町
人のいない商店街 福島県浪江町
4月4日・5日に、新日本婦人の会埼玉県本部が主催した福島バスツアーに参加した大沢えみ子議員から、感想が寄せられましたので紹介します。

 4月4・5日の1泊で、新日本婦人の会埼玉県本部が主催した「福島被災地視察・交流バスツアー」に参加してきました。 原発事故から3年がたった今も、ふるさとに帰る見込みがなく、仮設住宅で生活している方々が大勢いらっしゃいます。
 
人がいない異様な町並み

 1日目に回ったのは、福島第1原発から数キロ圏内にある南相馬市小高区と浪江町です。
 浪江町は現在、放射線量の多少により「帰宅困難」「居住制限」「避難解除準備」という3つの区域に指定されています。 許可を得てゲートをくぐり、バスが到着したのは、住民の寝泊りが許されていない「居住制限区域」。
 町並みは残っているのに、人の姿が見えない商店街は異様な雰囲気を醸し出していました。誰も通らない交差点で信号だけが点滅し、街の空気が重くのしかかって来るようでした。
 駅の駐輪場には、高校生らが使っていたと思われる自転車が並んだまま。隣の新聞店には、配達されなかった3月12日付けの新聞が、3年経った今もそのまま積まれていました。
 持っていった測定器での放射線量は1・32マイクロシーベルト。狭山の平均値の約26倍です。案内をしてくださった現地の高校の先生は「高い放射線量、長期に渡る仮設住宅での暮らし、外で自由に遊べない子供たち、野山で山菜が摘めない、海への漁に出られない、この状態は本当に異常なことです。今の福島の現状を多くの人に知ってほしい」と話されました。3年経った今でも、このような状況の街が日本に存在していることに、改めてショックを受けました。

「ふるさとに戻りたい」
仮設住宅への訪問
仮設住宅への訪問
 2日目は南相馬市の小池第3仮設住宅120軒あまりに、埼玉から持っていったお米とおせんべい、お茶を届けながら、事故当時の様子や、現在の暮らしについてのお話などをお伺いしてきました。 
 私が訪ねたお宅の方は、「家が海のすぐそばにあって、津波と地震と原発の3つにやられた。2つだったらなんとかなるが、原発はね…。私は嫁に来た人間だからどこでも馴染むけれど、お父さん(夫)は土地の人だからね。やっぱりふるさとに帰りたいと言っている。準備区域があと2年で解除されるので、そうしたらまたあの土地に家を建てるつもりで、復興支援住宅も申し込んでいない」と話されました。
 この仮設住宅は8割が高齢者世帯。訪問したメンバーとあちこちで話の輪ができ、ここに来るまでに5ヶ所も避難先が変わったこと、3年になる仮設住宅は湿気がひどく、一日中換気扇を回していなければならないこと、壁が薄く、暖房費も馬鹿にならないなど、色々な困難の中で過ごされている様子が伝わってきました。

 農民連の努力で復興へ

 最後は、浜通り農民運動連合会のメンバーが中心となってオープンしたという直売所「野馬土(のまど)」を訪れました。相馬産の野菜をはじめ、復興支援物資の直売所として、多くの方が訪れています。
 福島では現在、農民連の方々を中心に、農業再生に向けて大きな努力が行われています。
 放射性物質については、3000万円かけて導入した検査機で、米の全量検査を実施。バーコードをすべての袋に貼り付けて、HPから値をチェックできるようにしています。
 基準を超えた米は全量を焼却処分すると同時に、その田の状況を科学的に分析し、放射性物質を吸着させない対策を行うなど、徹底した管理を行っているとのことでした。
 また、荒れた田畑に太陽光パネルを設置する事業も進められています。事業の担当者は「発電を行うことはもちろん、固定資産税が町の収入になり、なにより、そうして活用することで、次の世代に相続してもらうことができる。30年後、50年後に、福島の米を、農産物を、本当に安心して買ってもらえる日まで、努力を続けていきたい」と語っておられた姿が印象的でした。
 自分に何ができるのか、改めて考えさせられた視察でしたが、多くの方に、今の福島の現状を知ってもらい、引き続き支援の取り組みを行っていきたいと思いました。  【大沢えみ子】
インデックス ページのトップ