白雪姫にKiss 続々編
タイトルは「白雪姫にKiss」。昨年9月18日・19日の、息子が通う高校の文化祭でのクラス演劇を納めたDVDである。しかし、学校側が作成したものではなく、個人名がプリントされている。どうやら、クラス演劇の映像記録係が撮影したものを納めたらしい。
DVDは2枚組となっている。息子が1週間ほど前に持ち帰ったものである。1枚目のDVDには、クラス演劇本番の上演内容と本番までの足どり、そして本番終了後の後片付けまでを記録している。2枚目は、文化祭の前夜祭と前夜祭にいたるまでの足どり、舞台裏などが記録されている。いずれも見応え抜群の出来ばえで、いっきに見させてもらった。
息子がこの高校を選んだ理由を、私は知らない。中学3年の時にいくつかの高校見学に出かけ、この高校が気に入ったらしい。ただし、なぜ京王井の頭線の駒場東大前まで見学にきたのかは、いまだに不明である。息子はこの高校に学校推薦で入学した。入学早々演劇部の扉を開き、2年の時には部長に推挙され、その年の秋には高校演劇部の東京都大会に出場。3年秋の文化祭のクラス演劇でも中心的な役割を発揮した。
息子が演劇部の扉を開くとは夢にも思わなかった。中学時代は美術部だったからである。ましてや役者をつとめるなどとは思いも寄らず、DVDの映像を見ながら、クラスでの息子の立ち位置を不思議な思いで見続けた。
DVDは驚くべき出来ばえである。プロがまとめあげたと思われる。映像は夏頃からスタートしており、「白雪姫にKiss」の役者決めから台本読み、発生練習、役者の想像力を高める訓練、練習風景、大道具・小道具づくりなど、舞台裏や役作りを知る貴重な資料となっている。加えて、前夜祭の映像も、それに向けた練習風景も、じつに楽しい。非売品であることが不思議なくらいである。
3月に入り、息子の大学受験結果も出揃ってきた。志望校の出だしでつまずいた時は家中が暗い時を迎えたが、それでも意中の大学に入ることができたことから、息子の心には明るい日差しがさしている様子。あとは卒業式を迎えるのみ。しかし私は思う。この高校を卒業してほしくない。まだ3年生のままでいてほしい。まだこのクラスの中にいてほしい、と。
DVDの中の息子は、実に生き生きとしている。クラスの仲間に、こんなに愛されていたんだと、手にとる様に見える。しかも、このクラスは和気あいあいとしている。実にいい雰囲気をかもしだしているのである。このクラスをこれで、離ればなれにさせていいのか、卒業させていいのか?。DVDは、そのことを私に問いかけている。そしてそのことは、このDVDを制作したフモトさんも思っているのではないだろうか。「ねえ、みんな。もっと3年5組を楽しもうよ。都立駒場を楽しもうよ」と。
息子の高校生活はあっという間に過ぎていった。まもなく卒業式。4月からは都の西北に学ぶ場を移す。大学での息子は、どのように進展していくのであろうか。
我が家のカレンダーの1月14日のところに、赤マジックで丸印がつけてあった。「この丸印は何?」と13日の夜、息子に尋ねたところ、「センター試験」との応え。「どこのセンター試験?」と再度、尋ねた。「大学入試センター試験。13日と14日の2日間、行なわれる」と、息子は平然と言う。
「へ?」。私は目が点になった。大学入試センター試験は2月じゃないのか?。なぜ息子は前日にもかかわらず平然としているのだろうか?。なぜ13日しか丸印が付いていないのだろうか?。その疑問に息子は淡々と応えた。「オレが目指す×××大学は、センター試験で合否を判断するのではなく、2月に行なわれる大学の独自試験で判断する。×××大学の××部の試験教科は3教科で、センター試験の初日(13日)にその3教科が行なわれる。センター試験を受ける理由は、自分の実力を知りたいから。え?、なぜ2月17日にも丸印が付いているかって?。その日が×××大学の××部の入試だから」。
大学の入試の仕組みは、今と昔とでは異なっている。今は「大学入試センター試験」というものがある。しかし、「大学入試センター試験」の仕組みそのものを私はわかってはいない。加えて、「大地は2月下旬まで受験に追われる」と、カミさんが以前に述べていた言葉を、私は「センター試験が2月下旬に行なわれる」と解釈していた。そのことから、息子にすれば「今頃、何を言っているんだ?」式の愚かな質問をするハメになってしまった。
私の質問のあと、息子がカレンダーに丸印を追加し、注釈を書き込んだ。息子が目指す大学の××部以外にも、同大学の他の学部や別の大学も受験するらしく、2月のカレンダーにいくつかの丸印が記され、大学名と学部名が書き込まれた。「別の大学も受験するのか?」と問うと、「入試の度胸をつけるため」と言う。2月17日の「本命」を前に別の大学を受験して、入試の度胸をつけるというのである。息子も大変だなぁとつくづく思う。
息子が出かけた後、インターネットで「大学入試センター試験の仕組み」を検索してみた。仕組みを知らずにいることは、大学受験生の親としては失格だからである。しかし、検索して得た文章には、気になる文言が記されていた。「受験生は好きなだけ出願することができます。当然1つ受験するごとに受験料を支払います」。────入試に必要なカネは、いったいいくらになるんだ・・・?。
白雪姫にkiss 続編
高校3年生の息子が、花を活けた手提げカゴを持って帰った。カミさんが息子から聞いたところでは、クラスの面々からいただいた様子。「それ以上聞こうとすると、うるさいのでやめた」とカミさん。どうやら、9月中旬の高校文化祭のクラス演劇の準備に奮闘したことへの御礼らしい。「大地は、文化祭のずいぶん前から牛乳パックを集めたりして、夜遅くまで作業していた」とカミさんが言うと、高校1年生の娘はすかさずに言う。「その牛乳パックをせっせと切っていたのは私。お兄ちゃんは『オレは勉強で忙しいから、萌、お前やっておけ』って言われて」。兄の下請と化した娘は、「私が頑張ったから」と言う。そうとも知らずにクラスの面々は、息子に感謝の意をあらわした。
息子の高校の文化祭では、3年生は各クラスごとに構成1時間のクラス演劇を披露する。脚本も役者も演出も、当日の照明や音響も、すべてクラスの面々で行なうことになる。脚本や演出は、その道に長けた人がクラスのなかに一人や二人はいるものである。しかし役者はなかなか難しい。少人数の劇であればなんとかなるが、一定数の人数ともなれば「俺はいやだ」「私は恥ずかしい」と、なかなか人数が揃わない。仮に揃ったとしても、演劇の経験があるとは限らず、たいていはズブの素人である。1時間の劇に仕上げるには、相当な苦労もあろうかと思われる。その大変な道を経て、3年生のすべてのクラスが演劇を行なうというこの高校は、そうとうなものだと思うのである。
息子は「白雪姫にkiss」の「王子」役。しかし当初は、7人の小人の一人だったという。ところが「王子」役に就く人がいないために、息子がその役を引き受けたらしい。なるほど、文化祭当日の「王子」役を見れば、なり手が出ないのもうなずける。じつにカッコ悪い。役柄もスタイルも「ヘン」である。「王子」というよりも「変態」に近い。だから「変態」の王子は、白雪姫にも主人公の女の子にも、キスはさせてもらえなかった。それどころか、男とキスをするハメになった。私自身、この年になっても経験したことのない男とのキスである。その「王子」役に就いた息子は「エライ!」と、言うべきなのであろう。
クラス演劇は、みんなが主人公である。脇役も端役もない。舞台慣れした者もいれば、恥ずかしい気持ちで舞台に上がり、やっとの思いで覚えたセリフを言い、あるいはトチリながらも精一杯演じて笑われて、なんとか1時間の舞台を終える者もいる。でも、登場人物はみんなが、その場面のなかでは主人公でありたいと思っている。だから、舞台に上がった面々が、場面場面で主人公になれるような舞台設定、演出ができればと思う。「白雪姫にkiss」は、見事にその精神が貫かれていたと思う。そのことを息子に話したら、息子は満面の笑みを浮かべた。息子も「みんなが主人公」を追求していたのであろう。
息子の高校の文化祭が9月18日(日)と19日(月)の2日間行なわれ、19日(月)の午前に高校に足を運んだ。息子もすでに3年生。最後の文化祭である。この高校の文化祭は、1年生は「お化け屋敷」「飲食コーナー」「縁日」「ゲーム」「娯楽」など、見慣れた催事を行なうが、2年生になると、それぞれのクラスが作成した「映像」を上映し、3年生になると、各クラスごとに「演劇」を上演するという、独特な文化祭となる。ということで、私は息子のクラスの演劇を見に出かけた。
息子のクラスの演劇のタイトルは「白雪姫にkiss」。息子は演劇部に在籍していたということもあってか、「王子」という役に就いている。18日に本番を迎えたはずなのだが、家ではセリフ練習を行なっていた形跡がなく、もっぱらクラス演劇を紹介する写真ブックの作成に追われていた。セリフ覚えによほど自信があるのか、あるいは出番が少ないのか、あるいはセリフが少ないのか・・・。しかし「王子」である。「白雪姫」の「王子」役といえばチョイ役ではないだろうし、最後にはもしかして、お姫様とチューなどがあるのでは・・・と思いつつ、受付で「都駒祭」のパンフレットをもらい、会場の2階の会議室に向かった。
会議室はそう広くはない。そこに舞台が作られ、その前にイス席と地べた席が設けられていた。息子が私にくれた「椅子席」は席番20。イス席では前から2列目である。狭い会議室に来るわ来るわ観客が。たちまち満員となってしまった。改めてパンフレットを見る。「都駒祭」では演劇上演が両日ともに9ステージある。息子のクラスが上演する「会議室」では4つのステージがあり、5階の「視聴覚室」では演劇部含めて5ステージ行なわれる。「会議室」も「視聴覚室」も各ステージの上演時間が1時間ずつで、ステージとステージの間は15分間のインターバルが設けられている。つまり、文化祭を両日これる人は、今日は「会議室」で、明日は「視聴覚室」でと決めれば、9ステージすべてを見ることができるのである。たから、クラス演劇をハシゴする人もいるのだろうと思う。
さて「白雪姫にkiss」。なぜか「王子」も「白雪姫」も主役ではない。途中で「シンデレラ」も登場する。肝心のチューであるが、王子、つまりは我が息子がチューした相手はお姫様ではなく、男である。芝居とはいえ、親の私も目を背けたくなる男と男のチューである。では、だれとだれがチューをしたのか?。現代から「白雪姫」の絵本の世界にタイムスリップした高校生の男女である。その男女が主役というわけである。
この間、息子の演劇を2度ほど見ているが、今回の「王子」役を含めて、息子が就く役どころは、「ヘン」な役ばかりである。「王子」は普通、カッコいい役どころだと思うのだが、我が息子が扮する「王子」は「ヘン」である。シナリオがそのようになっているのか、あるいは息子が「ヘン」なのかは定かではない。似合っているのか似合っていないのかもわからない。しかし、本人は気に入っている様子である。
帰宅してからカミさんに「どうだった?」と聞かれた。カミさんは昨日(18日)、見に行っている。このホームページを息子のクラスの面々が見ることを前提に記すとなれば、感じたままを述べようと思う。第一に、「魔女」役の女性がピカイチだった。演劇部に在籍していた女性ではないと思う。その役どころは、天性のものを感じた。第二に、「小人」7人衆のセリフやしぐさがおもしろい。普通、「小人」役といえば、あまり目立たないのだが、「小人」がしっかりと目立っていた。ここには演出担当の登場人物全員を主役にしようとの思いが見えている。だから、登場人物全員が実に生き生きとしている。第三に、主人公の女性は実にめんこい。我が娘(高校1年生)とは対照的である。第四に、私が50歳を超えているからであろうか、セリフが早すぎる。何を言っているのか、よく聞き取れない場面もあった。どのような面々が観客のなかにいるのかを考えながら、セリフまわしを判断すべきと思う。最後に、我が息子の芝居は少々、派手な感じがする。もう少し落ち着いた芝居になればと思う。
パンフレットは私に、他のクラスの演劇も見たら?、と誘っているが、午後の明治公園での「さようなら原発5万人集会」があるため、後ろ髪を引かれる思いで「都駒祭」をあとにした。
今回の冬は寒かったのだろうか。桜が今年は一週間ほど遅く花を開かせた。本来、桜は入学式が行なわれる頃に見頃になるものだという。しかし、近年の温暖化の影響で、3月終盤の卒業式あたりに咲き始めるのが定番となり、4月最初の休日は、多くのところで「桜まつり」が催される。だが、今年の4月最初の日曜日(3日)は、まだ咲き始めたばかりというところであった。
3月11日の東日本大震災(東北関東大震災)が未曾有の被害をもたらし、加えて福島原発の放射能汚染が拡大するなかで、小金井市が予定していた4月1日(金)〜3日(日)の「桜まつり」も各地の同様の催しも、すべてが中止となり、桜の下での宴は御法度のような雰囲気を迎えている。「桜まつり」以外の行事も「自粛」の名のもとに「中止」が相次ぎ、今日の日本国土は、暗い空気を国民みずからがつくりだしている。果たして被災地の方々は、こんな日本を「了」としているのだろうか。
この春、我が家の娘は高校生となった。本人いわく「学力のレベルは中程度の学校」とかで、第一志望の都立高校になんとか入れてもらえた。しかしその学校は小金井市よりも西方面にあり、家から学校までは、自転車・電車・徒歩を合わせて50分くらいはかかる。電車の本数も東方面に比べると少ないために、乗り遅れると、目的地の駅まで行く電車がそう多くはない。なぜ、西方面の学校を選んだのだろうか。カミさんが言うには「萌(娘のこと)は静かなところがいいんだって」。ふ〜ん。一方、兄は東方面の高校。こちらは渋谷まで2駅の、にぎやかな方角である。
高校生になったら、なかなか中学時代の友達とも遊べなくなるとの理由で、数日前、娘の中学時代の同級生(今春から高校生)の女の子4人が、我が家に泊まりに来た。一方、1年前の同時期には、息子の部活のメンバー4人が泊まりに来ている。この時は、男子2人、女子2人であった。我が家は、どういうわけか昔から、子どもたちの集まる場所になっている。いずれにしても、親は、てんやわんやである。普段、掃除などしていない家にやってくるというのだから。
息子はこの春から高校3年生。大学進学の重点指導校に指定されているため、骨休みのはずの春休みにもかかわらず、難しい本やノートとにらめっこをしている。息子の数学のノートを覗き見たが、わけのわからない数式がところ狭しと踊っていた。英語も皆目わからない。息子が英語らしき文字のびっしり書かれた本を見ていたので、「あんた、これ読めるの?」と聞くと、「うん」と言ってのけた。「タネが違うんじゃないの?」と、国分寺市議の幸野おさむクンが冗談とも思えぬ顔で言っていたが、さすがにカミさんに、それは聞けなかった。
息子は「大学に行く」という。東京ならばごく自然なのかも知れないが、今から30数年前のしかも、大学の数自体が少ない福井県にあっては、大学進学ともなれば、村じゅう、大騒ぎである。私も高校時代にいっとき、大学進学を考えた時期があったが、途中でわかったことがあった。それは「私が考えているテストの答えと、大学側が求めている回答内容とが異なる」という事実である。「見解の相違」だと私はいいたいのだが、いずれにしてもそういう理由で、あっさりと諦めた。しかし息子は、その「見解の相違」とやらが発生しないらしい。やっぱり「タネ」が違うのだろうか。
「桜まつり」は中止されたが、我が家の娘は「桜咲く」であった。来年の今頃は果たして息子に「桜咲く」となるだろうか。さらに気になるのは、来春も「自粛」の風が吹くような事態が続くのだろうか。被災地にも「桜咲く」と言える日々を早く迎えていきたい。
息子が通う高校の「文化部発表会」が2月2日の午後、行なわれた。校舎1階の受付でもらったパンフレットによると、発表会を実施するのは「駒フィル」「沖縄太鼓」「演劇」「KMC」「百人一首」「美術」「写真」「漫画研究部」「文芸部」「茶道」「箏曲」「駒場放送局」「生徒会執行部」とのこと。このうち「駒フィル」「沖縄太鼓」「演劇」「KMC」「百人一首」「箏曲」は時間限定、それ以外は午後1時20分頃から夕方まで指定された場所で実施しているという。つまり、時間限定のものは、その時間帯に演し物があるということだと思う。
息子は高校2年生。当初の予定では、昨年11月に池袋の東京芸術劇場中ホールで行なわれた「東京都高等学校文化祭演劇部門中央発表会(東京都大会)」で部活は卒業するはずであったが、「1年生の部員が少ないため」(息子の説明)に、今回の文化祭にも出演することになった。ということで、他の2年生部員2名とともに、息子は役者として出演する事態となった。
会場の視聴覚室は、校舎の5階。階段を上がり5階へとたどり着くと、演劇部顧問の女性の先生が目の前で保護者を迎えていた。私とは初対面だと思うのだが、「板倉さん?」と声をかけてきた。私の容姿が息子に似ているのだろうとは思うが、息子は17歳、私はまもなく52歳である。「さすがは高校の先生。眼力がある!」とは言わなかったが、なんとなくうれしいものである。私もまだ捨てたものではない!と、胸を張った。
会場前の入口には、開場待ちの生徒や保護者の列が伸びていた。その列の後尾に並ぶと、演劇部の男子生徒が列の確認のためにやってきた。「おや?」、昨年秋の東京都大会の出演演目「サブリナはどこですか」の脚本・演出を担当したリュウセイではないか。リュウセイも目の前の私に気づき、「ダ、ダイチのお父さん!」と、いくぶん驚いた様子。そして彼は言う。「ボクのこと、ブログに書いたでしょ?。ボクの名前をインターネットで検索していったら、たどりつきました」と。そう言われても、彼の名前は一字たりとも記してはいないのだが・・・。リュウセイはなかなか、かわいい男である。
演劇部の演し物は「お気に召すまま」。シェークスピアとかいう人の作品だとか。出演者は10人。男性5人、女性5人である。今回の演し物は1年生の「駒65」が中心に演じるものだそうだが、1年生の男性部員が少ないために、男性5人のうち3人は2年生部員が務め、1年生の女性1人が男性役を務めている。1年生中心の演目であることから、2年生部員は脇役に回っている様子であった。
さて、我が息子。役名は「アダム」。カッコよさそうな名前ではあるが、腰の曲がったおじいさん役である。昨年秋の「サブリナはどこですか」とは異なり、出番はそう多くはない。しかし親の目は、我が子の振る舞いに目が行く。
見終わって、高校を後にしての駅までの道や、京王「井の頭線」の車内のなかで、私は唸った。今回の演目も、「サブリナはどこですか」も、どちらかといえば息子の役柄は難しい役どころである。「サブリナはどこですか」はドタバタのキャラを、今回の「お気に召すまま」は高校生が演じるには経験も不足しがちな、腰の曲がったおじいさん役である。「サブリナはどこですか」のドタバタ役は息子いわく「疲れるキャラ」だそうだが、今回のおじいさん役はどうなのだろうか。親のひいき目ではあろうが、今回のおじいさん役は、なかなかの出来ばえではなかったか。欲を言えば、セリフはお年寄りらしく、もう少しゆっくりと話した方がよいかな、というくらい。もちろん、演出担当や舞台監督担当の演技指導があっての、息子の出来ばえではあるが。
息子は、今回の出番で演劇部を卒業する。これからの1年間は、大学受験へと突進するのだろうが、勉強も演劇も、できれば両方に力を入れてほしいと思う。というよりも、彼のおじいさん役を見て、このまま残りの高校生活を勉強一筋で突き進むのが、もったいないと思うのである。たぶん、カミさんとは意見が異なるのだろうが。彼は将来、どんな職に就くのだろうか。何を目指していくのだろうか。
英語で「Where is my Sabrina?」、日本語では「サブリナはどこですか」というタイトルの演劇を見る機会を得た。場所は息子が通う高校の文化祭。この高校の演劇部が上演したものである。
他人事のような書き出しで始まったが、我が息子はこの演劇部の部長。「大地の演劇の姿を見る最後の機会」とカミさんに催促され、初めて息子の演劇を見ることとなった。吉祥寺駅から京王井の頭線に乗って「駒場東大前」で下車。徒歩5分のところに学校はあった。
高校の文化祭にはこれまで行った記憶がない。私が高校生の時にも、自身の高校の文化祭には行くものの、他の高校の文化祭には出かけた記憶が全くなく、以後30数年、自身の高校以外の文化祭に初めて足を運んだ。
開演まで時間があるので、息子のクラスへ足を運んだ。クラスの演し物は「イランが瞳に恋してる」というタイトルの映像の上映。残念ながら上映途中であったために、会場内に入ることはできなかった。で、教室入口付近を眺めると、クラスメイトを紹介するコーナーがあり、見たことのある顔写真があった。息子の顔である。タイトルが書かれていた。「イケメンズ」・・・・。イケメン?、いつから「イケメン」の基準が変わったのだろうか。後日、息子に問いただすと、くじ引きで決められたとのこと。イケメンではありえないことが明らかとなった。
演劇部の演し物「サブリナはどこですか」は100人ほどが入れる視聴覚室で行なわれ、イス席の最前列にあてがわれた場所に私とカミさんは腰を下ろした。舞台との距離はわずかに数m。見る側も緊張する距離。会場は立ち見も大勢出るほどの盛況ぶりとなった。部員25人中、役者で出演するのは我が息子含めて9人。他の部員は音響や照明、舞台監督などの裏方に回っている。
ストーリーは、アパート「メゾンサブリナ」の住居人の、連休中の帰省をめぐるゴタゴタを現したもの。劇の出だしは、漫画家の男性が居間で考え事をしているかたわらで、大学生の女性がポツンと椅子に座っている場面からである。なにがしかの会話があったあとに、舞台袖からTシャツにジーパン姿の男が、慌ただしく登場した。途端に私の顔が引きつった。我が息子である。オーバーなくらいのアクションと、まくし立てるようなセリフ。登場人物9人中、もっともセリフと動きが多かったのではないか。カミさんと私は顔をふせて、恥ずかしさのなかでひたすら時間を過ごした。
息子の演技を見ながら、ハッとした。息子の子ども時代にいつも見られた無邪気な顔が、目の前で展開されているのである。我が家ではひさしく見たことのない表情で、くったくのない無邪気な顔で、舞台狭しと駆けめぐっているのだ。私は思った。家では気難しそうな態度でいるけれど、コイツの高校生活はホントに充実し楽しんでいるんだな、と。息子の芝居の出来がどうのこうのというよりも、充実した高校生活を送っているという実感を確かめることができただけで、私は文化祭に来た甲斐があったとつくづく感じた。
登場人物のなかで、見たことのある顔ぶれがあった。「メゾンサブリナの管理人」である。我が家には少なくとも2回(2回とも泊まった)は来ていると思われる。役柄ではひょうひょうとした感じを出しており、なかなかおもしろい人物である。また、脚本・演出を担当した男の子も我が家に来ているが、息子に聞くと、3回来ており、そのうち2回、泊まっているとのこと。登場人物の「お金持ちのお嬢様」も1回、脚本・演出担当の男の子と一緒に自転車で来ている(ただし、泊まってはいない)。演し物は脚本がしっかりしていて、なかなかおもしろかったゾと、彼らに言ってあげたい。
進学を重視するこの高校では、まだ2年生だというのに、この秋で1年半の部活生活が基本的に完了する。私が高校時代は、高校3年生の夏まで部活に励んでいたことを思えば、違和感はぬぐえない。それでいいの?と、彼らに聞いてみたいほどである。10月に高校演劇部の地区大会が行なわれ、そこで敗退すれば、2年生は部活の主力を1年生に譲り、大学受験に専念することとなる。息子や仲間たちの生き生きとした演劇を思い出すにつれ、自分のことのように寂しい思いがする。
文化祭を終え、息子は何かから解き放たれたかのように、ボ〜と過ごす日々を送っている。けれども、息子は私の高校時代よりも、はるかに充実した日々を送っている。そのことははっきりといえるだろう。親の私は、私自身の高校時代と重ね合わせながら息子を見る今日この頃である。
今月20日(火)、小学校6年生と中学校3年生を対象とした4回目の全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)が行なわれた。今回のテストは政権交代によってこれまでの全校参加方式から抽出方式に変更され、小中学校の30.7%にあたる9,979校が抽出校となった。一方、抽出校からはずれた学校も希望すれば参加できることとなり、小中学校の42.8%の1万3,896校が希望参加となった。抽出校と合わせると、小中学校の73.5%が全国学力テストに参加したということなので、政権交代での方針変更はいったいなんだったのか?、抽出方式に変更した民主党政権の理念はいったいどこに行ってしまったのか?と、腰砕け状況に唖然とする。
小金井市ではどうしたのか?と思い、市教育委員会指導室に問い合わせたところ、小金井市の抽出校は、小学校が3校、中学校が1校とのこと。「どこの学校が対象となったのか?」との問いには、「学校名は公表できない」との返答であった。「その他の学校はどうしたのか?」と問うと、「残りの小中学校は学校長判断」と述べ、「市教育委員会としては全校でやらせたいという考えを、各校に伝えた。ただし、各学校での判断となる」との答え。そのうえで「まだ調べてはいないが、全校で実施したと思われる」との返事であった。新聞報道によると、抽出校の場合は国から予算が充てられ、採点や集計を委託することができる。しかし希望校の場合には国庫からの予算がこないため、採点・集計を教師や教育委員会職員が行なうことにもなりかねないとのことである。小金井市ではどうなるのか?と問うと、「抽出校は業者が採点・集計する。それ以外の学校は予算化してないので、各学校で採点」とのことであった。つまり、業務に追われている各学校の教職員に、採点や集計を行なわせるということである。「来年度以降も今回のような方式であるならば、希望校分の採点・集計予算も組まなければならないと考えている」と、指導室は述べた。
ところで、我が家の娘は中学3年生。市内の市立中学校に通っている。「今日はテストだったんだろ?」と聞くと、次のような返事が返ってきた。「今日のテストは全国学力テスト。成績に影響しないテストなんだよ、知らないの?。すごいよね。抽出学校は3割なんだけど、南中はその抽出校に選ばれたんだって。それでね、選ばれた学校は採点するためのお金が付けられていて、選ばれなかった学校は学校で採点するんだって。クラスのみんながそのことを知っていたよ。何の教科かって?。テストの教科は国語のAとB、数学のAとB。テスト用紙は回収されたから、持ってないよ」。娘の通っている中学校の年間行事予定表には、4月20日の箇所に「全国学力・学習状況調査(3年)」と記されていた。
「二条城は大政奉還(1867年)が行なわれた場所」程度の知識と、「周囲をお掘りと石垣に囲まれた平べったい場所」程度の外観的な認識しか持っていなかった私は、城の敷地に一歩足を踏み入れた途端、目の前に広がる情景に目を見張った。
二条城を見学するために入場できる門は「東大手門」。そこをくぐると白い土塀があり土塀に沿って左に向かっていくと、寺の入口を想起させる「唐門」に到着する。多くの人が唐門に目を奪われ写真を撮るように、私もシャッターを押す。そして、満足して唐門をくぐった私は、おもわず感嘆の声を発してしまった。目の前に雄大な建物が横たわっていたからである。
二条城の見学の際にいただいたリーフレットにはこう記されている。「二条城は1603年(慶長8年)、徳川初代将軍家康が京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として造営し、3代将軍家光が伏見城の遺構を移すなどして、1626年(寛永3年)に完成したもの」。そして「武家風書院造の代表的な御殿建築で、車寄につづいて遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が東南から西北にかけ雁行に並んでいます」と「二の丸御殿」を紹介している。その二の丸御殿がいきなり目のなかに飛び込んできたのである。「美しい」とか「見事」とかではなく、とにかく「スゴイ」が第一印象であった。
二の丸御殿は内部を見学することができる。リーフでは次のように内部を紹介している。「建物面積は3,300平方メートル、部屋数は33、畳は800畳余りあります。各部屋の障壁画は狩野派の手によるもので、部屋の目的に応じて描かれています。また欄間の彫刻、飾金具、長押に打たれた花熨斗形の釘隠しなどは、金飾あざやかに豪華を極めています」。その一つ一つを廊下越しに見ることができるのだ。「建物面積 3,300平方メートル」とあるように、とにかく広い。いまどのあたりを歩いているのかなど検討もつかない状況。乏しい私の知識に登場する「大政奉還が行なわれた場所」は、テレビの歴史時代劇に登場するような広さではなく、以外にも狭い部屋という感じである。一方、リーフでは部屋の装飾を書いているが、廊下もなかなかのもの。天井やその周囲にも装飾が施されており、全体が美術装飾品と化していた。建物内部は撮影禁止のため、お見せすることができないのが残念である。
城というからには、本丸や天守閣があってしかるべきである。しかし「本丸」は1788年(天明8年)の市井の大火の類焼で失くし、代わって、京都御苑内にあった旧桂宮御殿を1894年(明治27年)に移築して、今日に至っている。この旧桂宮御殿は1847年(弘化4年)に建てられたもので、「宮御殿の遺構としては完全な形で残っている貴重なもので、重要文化財に指定されています」とリーフには記しているが、「農村地帯の民家と似ている」と率直に思った。一方、「天守閣」は3代将軍家光時代の1626年(寛永3年)に本丸が造られた際に五層の天守閣も建てられたが、1750年(寛延3年)に雷火によって焼失している。江戸城の天守閣といい、二条城の天守閣といい、残念である。
二条城は二の丸と本丸を囲むように庭園が随所に配置されており、かなり広大な敷地となっている。敷地総面積は27万5千平方メートル。全域を世界遺産に指定されている史跡である。高校1年の息子に聞くと、中学校の修学旅行で京都には行くけれど、二条城には行っていないという。清水寺や金閣寺・銀閣寺もいいが、二条城は是非、観てもらいたいものだと思う。必見の価値あり。二条城は十分に足を運ぶに足りうる場所であった。
さて、この二条城の見学は、今月24日(土)・25日(日)にようやく家族が一同に時間が合致した2日間を利用して、京都に出かけたおりに行った場所。貧乏性の私は、限られた時間内に多くの場所に行きたいとの思いから足早に見学をすすめていくために、カミさんや息子からは不平が次々と押し寄せてきた。じっくり見学したいカミさんと息子、一方で多くの場所を見学したい私と娘。なかなか難しいものである。別行動とならざるを得ない日も近いかもしれない。
帰路は各自が好きな土産物に手を伸ばした。カミさんは職場への生八ツ橋などの食べもの。息子はお気に入りのTシャツと学校の部活部員向けに生八ツ橋。娘は友だち向けのアクセサリー類。また、息子と娘は京都駅地下街でわざわざユニクロに入り、シャツとカーディガンを買った。「なかなか買いに行く時間がないから」との理由。一方の私はどうしても買いたいものがあった。昨年10月の親父の納骨で京都に来た際に京都駅で購入した缶入りのお香。炊くお香ではなく、缶の中にお香の匂いの成分が入っており、缶を部屋に置いておくだけで、ほのかな香りがただようというもの。懸命に探したがどうしても見当たらず、止むなく新幹線に乗車するために改札口をくぐったところで、改札口構内の土産物用売店に見つけることができた。そうか、ここで買ったのかと、ぎりぎりのところで願いを果たすことかできた。今度からは迷わず、この売店に来てやるぞ!と脳ミソに場所をたたきこんだ。
下の子はかわいそうだと、常々思う。なににつけても、上の子と比較されて見られてしまうからだ。上の子の場合は親にとって最初の子どもなので、一つひとつが新鮮に感じられ、やることなすことに感動をおぼえる。しかし下の子の場合は、すでに上の子で体験ずみのため感動とはならず、逆に“上の子の時はこうだった、ああだった”と、客観的に見てしまう。たとえそれが下の子にとって、人生の節目の出来事であったとしても。
晴天に恵まれた3月25日(火)、我が家の2人の子どものうちの下の子(娘)が、小学校を卒業した。式典会場の体育館の来賓席に座る私からは、我が娘はよく見える。なにしろ、クラスの最前列にいるのだから。思い起こせば6年前の入学式、娘はクラスの先頭を男の子と手をつなぎながら入場。椅子に腰掛けた娘は足が床に届かず、両足をブランブランさせていた。6年後の卒業式ではしっかりと両足を床につけ、キリッとした目つきで前を向いている。しかし、来賓席の私のほうは、けっして見ようとはしない。恥ずかしいからであろう。娘が最前列にいる理由はただ一つ。入学式と同じく、「前へならえ」すると、前に人がいないからだ。ただし、本人の名誉のために述べておくと、卒業式の入場は先頭ではなかった。この6年の間に、先頭の位置を他者に譲ることに成功したからだ。しかし、4列ずつに並ぶ今回の形式では、先頭から2番目の背の低さでは、最前列に位置することとなった。
2年前の兄の時と同様に、卒業生一人ひとりが、壇上のマイクの前で一言を発する場面を迎えた。何を話すかは特に決まりがないらしく、将来、何になりたいとか、中学生になったら何をしたいとか、どんな大人になりたいとか、それぞれがさまざまであった。さて、我が娘の番を迎えた。2年前の兄は「絵を描くのが好きなので、中学生になったら美術部に入る」と述べたが、娘の一言は将来の仕事であった。「私は、大きくなったら、保育士になりたいです」。―― 2年前の兄の時は「えっ!」となったが、今度の娘の場合は平然と受け止めることができた。私のほうに先入観が一切なかったからである。一方で、なぜ保育士なのだろうか、との疑念も生じなかった。通常ならば、あらかじめ聞かされている場合を除けば、“なぜ?”となるのであろうが。そこには、壇上での一言を兄の時に経験し、ゆったりとした気分で聞き入れる余裕があったのと、突拍子もない仕事内容ではなかったからであろう。ただし、その仕事内容が、あまりにも身近に存在するものであったため、拍子抜けした面もなきにしろあらず。もう少し、高いところにあるものを夢見てくれても良かったのではないかと思ったりもするのだが。
兄の時と同様に、「旅立ちの日に」が歌われた。この歌なしには卒業式は迎えられないといえるほどに。ただ、私としては、「あおげばとおとし」が登場しないのが寂しい。卒業式となれば、「あおげはとおとし」は定番のイメージなのだから。
兄も娘も、小学校5年・6年の2年間を、西川先生が担任を務めてくれた。兄と娘では性格がずいぶん異なるので、両方を見ていた西川先生は、どのように2人を見比べていただろうか。聞きそびれたままで、卒業式を迎えてしまった。教師は何年かで転任していく。新年度を迎えた時に、西川先生は兄妹が通った小学校に、引き続きいてくれるのだろうか。私が卒業したわけでもないのに、そんなことを考えると、寂しくもある。3月25日、学校の桜は一斉に開きはじめた。
「民族大移動」とはよく言ったものである。正月を間近に控えた日本列島は、高速道路も列車も飛行機も、日本民族大移動で“すし詰め”状態となる。その中に混ざって我が一家も、正月をカミさんの実家で過ごすために年末に羽田飛行場から飛び立った。
我が一家が飛行機を体験するのは、年末の帰省時のみ。夏は私の実家・福井へ帰省するので、交通手段は東海道新幹線となる。「飛行機は本当は利用したくない」とカミさんは言う。なにしろ一家4人の往復費用が20万円を超えてしまうのだから。「新幹線を利用したい」とカミさんは言うが、子どもたちはノーを突きつける。一つは、新幹線だと時間がかかり、疲れてしまうから。もう一つは、飛行機に乗りたいからである。私はどちらでも良いのだが、新幹線の場合は指定券取得の任務が私に課せられるので、できれば飛行機であってほしい。
カミさんの実家は四国の香川県。とは言っても、徳島の鳴門に近いので、最寄りの空港は徳島空港となる。今回は、夜に到着するという従来のパターンではなく、昼前に徳島空港に降り立った。
「四国は暖かい」というのが、帰省のたびに味わう印象であったが、この年末は違っていた。「ただいまの徳島空港の気温は8℃となっています」との機内アナウンスどおり、徳島空港は寒かった。それでも陽が差し、いくぶんかは暖かい。太陽が高いうちから徳島空港に降り立つことはなかったため、バスで徳島駅に到着後、市内見物となった。最初に向かったのは城山の徳島城跡。しかし、風が吹き、寒かったため、城跡到着後、すぐにUターン。「眉山に行きたい」との息子の要求を受け入れ、駅の反対側の眉山に向かった。標高280mほどの「眉山」は映画の舞台となったらしく、山頂へ向かうロープウェイに乗車した途端、息子は「この場面が映画に出ていた」と自慢。年末だというのに、何組かのカップルや私たちのような家族連れが山頂を訪れていた。
山頂は寒い!。風が強く、雪まで降ってきた。山頂から西の方角は四国の山々。雪国育ちの私にはすぐにわかる「あれは雪雲。雪が降っている」。一方、北東側の徳島市内は陽が差している。山をへだてて、天気が分かれているのだ。お腹が空いたが、山頂のレストランは休館。徳島の「小泉八雲」と呼ばれたポルトガル人を紹介する「モラエス館」も休館。映画「眉山」を紹介した山頂の立て看板も読む気力が失せ、我々は足早にロープウェイで下山となった。ロープウェイ麓(ふもと)の乗車場所は「阿波踊り会館」入口であるが、阿波踊り会館もこの日は休館。踏んだりけったりの眉山であった。
年末といえば紅白歌合戦。しかし毎年思うのだが、知らない歌手や曲が続々登場する。歌番組を見る機会がないといえばそれまでだが、裏を返せば、爆発的に流行る歌が少なくなっていることでもある。子どもたちがこの番組を見るので、私も必然的に全部見ることとなった。今回の紅白歌合戦で最も印象に残ったのは、「コブクロ」の「蕾」。司会役の笑福亭鶴瓶さんのアシストの影響もあるだろうが、曲とその歌唱力には大きな感動をおぼえた。レコード大賞受賞も納得のいくところ。
「紅白」が終われば、いよいよ「初詣」。除夜のカネが鳴り響くなか、我々は歩いて15分ほどの「田ノ口薬師」へ出かけた。帰省時の冷え冷えとした寒さとは異なり、夜中ではあるが思ったほど寒くはなく、吐く息も白くはならない。並ぶことなく、お参りができた。この「田ノ口薬師」は長野の善光寺のように、寺の真下に真っ暗な通路があり、そこを通れば御利益があるということで、お参りした人が次から次へと通路に消えていく。当然に我々も中へと入った。通路の距離は短く、すぐに表に出るのだが、中に入った小さい子などは、不安な声をあげていた。寺の境内を出るときは、カミさんはいつものように夜店でモノを買う。その一口が身を肥やすのである。“身は力”とはよく言ったもの・・・・“知は力”だったっけ?。
寒かった四国も正月に入ると、普段の気候に戻った。カミさんの実家は山にも海岸にも近く、周辺を田んぼや畑が覆い、近くを走る国道11号線に沿ってJR高徳線が高松と徳島を結んでいる。私とカミさんは3泊4日の帰省をのんびり過ごし、子どもだけを残して一足先に仕事が待つ東京に戻った。一方、カミさんの老親は、置いていかれた孫2人の世話に追われる日々となった。前回から、子どもだけで引き続き実家に残るようになっているのである。子どもたちが要求したもので、昨年夏の福井の帰省でも、親が東京に戻ったあとも、子どもは数日、福井に残るようになっている。「もう、たいへんじゃわ」とは、カミさんの老親の後日談。けれども本心は、うれしいようでもある。
正月の楽しみは仕事に追われることなく、ゆったりとテレビを見られることと、昼間でもアルコールを飲めること、そして知人からの年に一度の便りが届くことである。好きなスポーツ番組をテレビに映しながらビールを飲み、年賀状を眺めてあれこれ思いめぐらすのも、この時期ならではのこと。お互いが同じだけの年齢を重ね、それぞれに人生を歩んでいるにもかかわらず、年賀状を眺める脳裏には、共に頑張っていたあの頃の状態のままの友が映し出されている。年賀状はありがたいものだ。その年賀状に一言いいたい。せめて近況くらいは載せてほしいと思う。なかには、子どもの写真だけ載せて、自身の近況は一言も書いてないものもある。受け取る側としては、子どもの写真よりも、自身の写真や近況を知りたいのだ。できればパートナーの顔も見てみたい。
正月明けには毎年、福井の実家から宅急便が届く。中身は餅と猪肉。餅は実家でついており、美味である。猪肉は親父が福井の山中で仕留め、自ら解体し、1sくらいの固まりにして送ってくる。今回はこの肉の固まりが10個も届けられた。冷凍庫に入りきれないので、届けられたその日から里子に出すハメとなった。シシ鍋は肉鍋の王様であるが、たくさん送られても、これまた大変である。我が家ではすでにカレー、肉じゃがに猪肉が登場している。私が福井で暮らしていた子どもの頃は、冬は毎日、猪、ウサギ、きじ、やまどりなどの肉が食卓に登場し、冷凍庫を開けるとそれらの肉の固まりが所狭しと詰まっていた。「うらやましい」と知人は言うが、毎日ではかなわない。そのかわり、私は東京に来るまで一度も、牛肉を食べたことはなかった。
穏やかな正月はあっと言う間に過ぎ、いつものあわただしい日常に舞い戻った。けれども食卓には福井と香川の両方から届いた餅が今日も顔を見せ、猪肉はデンと冷凍庫に居すわっている。当分、食事のほうは日常の状態に戻りそうにない。ただし、アルコールは正月が終わるとともに消え失せた。一方、カミさんの体型は“身は力”となっている。
※写真は、眉山山頂の石碑

ゴールデンウィークを使って、一泊の家族旅行に出かけました。「子どもたちが親と一緒に出かけてくれる時期は、あっと言う間」の知人の声にうながされ、2年前から始めた年に一度の家族旅行は、2年前が京都、昨年が山梨県の河口湖、そして今回は奈良。カミさんも私も、土壇場にならないと仕事が休めるかどうかわからないため、一週間前に見通しがつくありさま。「奈良に行きたい」との子どもの要求に応え宿探しとなったものの、ようやく探し当てた宿は大阪の野田でした。「大阪のホテルが唯一、空いていた」とカミさんから告げられ、「え〜、遠い」と叫ぶ私。しかし大阪と奈良の間は意外と近いことを、出かけてみて知りました。
5月4日(金)午前8時10分、我が家を出発。バスで最寄りの駅に向かい、そこからJR中央線で東京駅へ。指定席は売り切れなので、30分は並ぶ覚悟で新幹線ホームへ。ところがホームはガラガラ。楽勝で「のぞみ号」自由席の禁煙車両に座ることができました。
奈良は京都からでも大阪からでも、電車で同じくらいの距離。11時47分に京都を下りた我々は、近鉄京都線に乗車。約50分で近鉄奈良駅に到着しました。時刻は午後1時になるかならないか。家を出て5時間もかからないうちに奈良に到着してしまいました。
天候は薄曇り。暑くもなく寒くもなく。最初に向かったのは興福寺。子どもたちのお目当ては「鹿」。一帯が奈良公園なので鹿があちこちに放し飼いにされ、人間とも仲良くシャッターに収まっています。鹿煎餅を買った子どもたちは、行く先々で鹿と戯れていました。
興福寺の次は東大寺。南大門を前にして建ち並ぶ土産物屋通りには、浅草寺の仲見世顔負けの観光客でごったがえしています。「奈良へ行ったら、まずは大仏」と言うように、東大寺はすごい観光客でした。
東大寺を後にした我々が次に向かったのは春日大社。しかし、ここまでの間に、そうとうな時間を費やしていたため、春日大社は入口まで行ってUターン。この夜、大阪の千里中央(豊中市)に住むカミさんの兄夫婦宅に招かれているため、あまり遅くまで奈良にとどまることができないのです。春日大社を後にした我々は、若草山に方向転換。急勾配の芝山をフウフウ言いながら登り、奈良の街を一望しました。
兄夫婦宅で豪勢な夕食をご馳走になり、大阪の野田のホテルに入ったのは午後10時30分過ぎ。じつはこのホテル、チェックインの条件が「午後10時から」という、この時期ならではの特別仕込み。そのかわり夕食は付かないという代物。結果的には、兄夫婦宅にも行くことができたので、好都合ではありました。
翌5日(土)。前日の天気予報では「大阪は雨」にもかかわらず、ホテルの窓から見た空は、晴れ。朝食を済ませた一行は、朝8時40分にホテルを出発。「大坂城に行きたい」とのかねてからの子どもの願いに応え、環状線「大坂城公園」で下車。駅を下りると若い女性がたくさん群がっていました。近くの大坂城ホールでこの日、人気グループのコンサートがあるらしく、「チケットを譲ってください」との紙を掲げた女の子があちこちに立っていました。
大坂城には昼過ぎまで滞在。一行はふたたび奈良へ。「薬師寺が見たい」と言うので、「西ノ京駅」下車。薬師寺の次は法隆寺に行く予定でしたが、下の子(小学6年の娘)が奈良公園に行きたいとぐずりはじめ、薬師寺を終えた一行は再度、近鉄奈良駅に直行。するとカミさんが春日大社へどうしても行きたいと言うので、奈良公園内を春日大社へテクテクと。春日大社の途中からは今度は上の子(中学2年の息子)がぐずりはじめました。「オレは法隆寺へ行きたかったんだ」と。娘もカミさんも息子も「あそこへ行きたい、いや、こっちだ」とわがまま放題。そんな時は動物が癒してくれるもの。鹿煎餅を買い、周りをウロウロしている鹿に、子どもとカミさんをなだめてもらうことにしました。
帰路の新幹線も当然に自由席。私の頭の中は「いかに新幹線で座って帰るか」。肉体が重すぎて動きの鈍いカミさんの「ちょっと〜、急がないでよ」の怒りの声を尻目に、あらかじめ調べておいた大阪始発の新幹線を狙って、ホームへ急ぎ足。すでに何人も並んでいましたが、始発というだけあって、発車時間の15分前であったにもかかわらず、午後7時27分発の「のぞみ」にゆうゆう座ることができました。家に帰着したのは午後11時10分。一泊でも十分に楽しめる奈良の旅でした。
奈良の感想を一言。奈良は京都と異なり、見どころが拠点に集中しているため、短時間で多くのスポットを観ることができます。今回出かけた興福寺も東大寺も春日大社も若草山も、近鉄奈良駅から徒歩で十分に行ける距離。しかも、奈良公園内であるため、鹿がいたるところにいます。家族連れにはうってつけの場所といえるでしょう。しかも、東京からも、そんなには遠くありません。難点は、いくつもの場所に歩いて行くことができるということは、「歩き疲れる」ということ。京都の場合はスポットがあちこちに点在しているため、バスなどの交通手段を使うことになりますが、奈良の場合は、近鉄奈良駅周辺はパスなどに乗っても交通渋滞が激しくて、時間が余計にかかってしまうことになります。したがって、多くの距離を歩くことを前提にしないプランを建てるべきかと思います。「次回は斑鳩の里と飛鳥に行きたい」と子どもとカミさんの言葉。カネとヒマがあればネ。
2月20日、48歳の誕生日を迎えた。学校から帰って来た子どもたちが「誕生日おめでとう」と言ってくれたが、この歳になって、うれしくもない。そればかりか年々、体力の減退におののいているのが実情。
「この歳になって」と記してはみたが、このかた誕生日を迎えて、うれしいなどと思ったことは、おそらく一度もなかったのではないか。あえて「うれしい」と思ったときがあったとすれば、大人の仲間入りをした20歳の誕生日と、付き合っていた彼女がお祝いをしてくれた時期の誕生日くらいであろうか。あと2年もすれば50の大台になるかと思うと、誕生日を迎えるのがおっくうになる。高齢者へのカウントダウンだ。
さて、誕生日の夜。我が家の食卓にはバースデーケーキがのっかった。太いローソクが4本、細いローソクが8本。それに子どもが火をつけて、カミさんの「たんたんたんたん誕生日♪・・・・」の「美声」にのせて一気に火を吹き消す。周囲の面々はどうかわからないが、本人は完全にピエロである。ケーキを4等分して食べ、食べ終わったあとは何もなかったかのように普段の生活が始まった。
昨年に引き続き、子どもたちが合同でプレゼントを買ってくれた。今年は、ネクタイとベルト。特段、考えて買ったようにも思えず、その後、ネクタイとベルトの活用状況についての質問は寄せられていない。
昨年はエプロンがプレゼントだった。しっかり台所仕事をやれとの、子どもたちを介してのカミさんの指令だと思うが、そのエプロンが我が身につけられた期間はごく短く、すぐに子どもたちの学校の家庭科授業のために、家の中から姿を消した。そして私は、あいもかわらず、従来の汚れたエプロンで台所に追われている。そのうちにネクタイとベルトも我が家から消え失せ、これまで着用していたよれよれのネクタイとひび割れたベルトが、ふたたび我が身にまとわれることになるのではないだろうか。鏡に映し出される48歳の我が身は、あわれである。
4年ぶりの「赤旗まつり」が11月3日(金)から5日(日)まで、東京都江東区の夢の島公園で開かれ、3日は単身で、4日は小学5年の娘を連れて参加した。「赤旗まつり」で楽しみにしているのは中央舞台の文化行事。いまをときめく“売れっ子”が出演するわけではないが、舞台と客席が一体感をつくりだす雰囲気がたまらない。今年は、韓国のコーラスグループ「サム・トゥッ・ソリ」と、ロックバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」(写真参照)のステージを楽しんだ。
あわせて、各地の物産店を歩くのがおもしろい。必ず立ち寄るのが「岩魚の塩焼き」と「越前おろし蕎麦」。「五平もち」や「稲庭うどん」も捨てがたいが、そこにたどり着くまでに腹一杯になってしまうのが惜しい。ところが今回は「越前おろし蕎麦」が見当たらなかった。会場のあちこちに物産店があるので見落としたのかもしれないが、これを食べずに終わったのが心残りである。
食べるだけでなく、買い物も楽しんだ。安いかどうかはわからないが、「市場価格の半額以下」などという店頭の貼り紙を見ると、つい見入ってしまう。浅草で店を構えているという触れ込みの物産店では、羊皮のポシェットバッグを900円で購入。大バザール会場では2本で1,000円のネクタイを購入した。我が子はまだ小学5年ということもあってか飾り物に興味を示し、腕に巻くオシャレ品などを購入。同じような女の子が何人も、その店には立ち寄っていた。
最終日の5日(日)は仕事があったために参加できなかったが、好天に恵まれた三日間のうちでも最高の天気。この日はカミさんが子ども2人を連れて参加し、中央舞台には一度も立ち寄らずに、もっぱら買い物などに集中。息子(中学1年)はスポーツ広場の「ビームライフル」に挑戦し、娘は似顔絵(写真参照)を書いてもらった。そのかたわら、カミさんはモノを食べ続けた。
三日間で20万人が参加した「赤旗まつり」も終わり、いよいよ来年は一斉地方選挙と参院選挙。まつり気分を一掃し、ハチマキを引き締めるこの頃である。
中学1年の息子が賞状を持って帰った。東京消防庁主催の「第56回はたらく消防の写生会 ポスターの部」で表彰されたらしい。息子が在籍する南中学校からは8人が表彰され、息子は最優秀賞に次ぐ優秀賞。8人とも南中学校美術部に在籍する部員で、美術部員がポスターの部に応募することになった様子。 息子のポスターは8月の中旬に市役所1階ロビーに展示された。しかし、私は帰省と党の研修会のために、ついぞ見ることができなかった。市役所の職員からは「板倉さんの息子さんの作品が展示されてましたよ。なかなか素晴らしかったですよ」と言われたが、見てないために、頭をかくしかなかった。
その息子が先日、写真立てを持って帰った。それは、息子が表彰された表彰状と、表彰された作品を写真に収めたもの。表彰された8人全員に贈られたという。そこで初めて息子の作品にお目にかかった。
親の欲目であることはわかるが、「ホウ!」と感心させられた。これが、我が息子が描いた作品なのか・・・・。息子の描く絵については保育園の時から保育士さんに「大地くんの描く絵はなかなか良いですよ。その感性を大切に育ててくださいね」と言われていたものだ。とくに今日まで、親が息子の感性を育んできた覚えはないので、南中学校美術部の顧問の指導が、きっと素晴らしかったに違いないと、私は勝手に思っている。
ところで、写真立てに収めて贈呈するとは、なんと粋なものではないか。私も小学校の時に、校内写生大会や町内小学校写生大会で表彰されたことがあるが、その時にもらったのはメダルであった。そのため、自分がどんな作品を描いたのか、今日では全く覚えていない。写真立てに作品が記録されていれば、大人になってもその時の思い出が鮮やかにえがきだされる。息子の作品の出来ばえよりも、消防庁の粋なはからいに、感服、感服。

息子が中学生になって1カ月を迎えようとしている。小学校の卒業式で公約した「美術部に入る」を実行し、宿題そっちのけで美術部と関係があるのかないのか、マンガ本のキャラクターをノートに描き写している。小学校の時はランドセルだったが、中学に入るとリュックに教科書を入れ、背負って登校している。私が中学の時は、手提げの黒カバンもしくは肩掛けの白いカバン以外はダメだったので、とまどっているのは親の方。中学校は我が家から徒歩で15分ほどのところにある。
息子は私と違って、友だち付き合いが多い。小学校の卒業アルバムを見て知ったのだが、息子は「小学校生活で100人の友だちをつくる」ことを目的としていたのだそうだ。その成果かどうかはわからないが、小学校の高学年になると、学校の帰り時間に我が家に友だちを引き連れ、私が夕方帰宅して玄関の戸を開けると、同学年の男の子が4〜5人は家の中にいるという状況に限りなく出くわしている。しかも、顔ぶれが一定しないのが、おもしろい。ただ、我が家が条件の良い位置にあったことも幸いしている。なにしろ、小学校の坂を下り、橋をわたるとすぐに我が家がある。「坂を下る」「橋をわたる」といっても、小学校からは徒歩5分ほどであり、子どもたちの下校路に位置することが、子どもたちには格好の場になっていた様子。
中学生活に入る直前の春休み、息子は友だち2人を我が家に呼び、夕飯を我が家で食べ、そのまま我が家にお泊まりをした。私が中学時代には思いもつかないことを、息子はやってのけるのである。また、一人で電車に乗って吉祥寺の映画館に映画を観に行き、あるときは、友だち3人とバスに乗って府中駅近くの映画館へ映画を観に行った。これも、私の中学時代には、あり得ない行動である。とは言っても、私が中学時代の実家は、とても友だちを呼べるようなつくりではなかったし、映画館も付近にはなく、映画を観るためには県庁所在地まで行かなければならないほどに遠く、とても映画を観れる環境ではなかったのだが。
これから息子も私と同様に、ほのかな恋をし、ほのかな恋でも満足するような中学生活を送っていくのかと思うと、なんだかワクワクする。その前に、親とは口をきかない気難しい年頃になっていくのかもしれないが。
3月24日(金)、息子(大地)が小学校を卒業した。来賓の一人として会場の前面に座る私の前で、卒業生86人(男43人、女43人)が一人ひとり壇上に上がり、卒業証書を受け取る。そして、それぞれが舞台ソデに据えられたマイクの前で、思い出や抱負を一言ずつ話すという趣向になっていた。
6年2組の我が子が緊張した面持ちで壇上にあがる。担任の先生が名を呼び、我が子は舞台正面で校長先生から卒業証書を受け取る。そしてマイクの前へ。“我が子は何を話すのだろうか”と期待しつつも、“私に似て恥ずかしがり屋だから、緊張して何も言えなくなるので”などと、私のほうがドキドキさえする。さて我が息子の一言、「僕は絵を描(か)くのがすきなので、中学校に入ったら美術部に入りたいです」には、ともに来賓で出席していた周囲の面々からは“ホゥ"の声が上がったが、私は“エッ?”となった。「ちょっと待て、中学に入ったら卓球部に入るって言ってたじゃないか」。この戸惑いの声が口をついたものだから、周囲からは“マァマァ、抑えて”との取り成す声が入った。
一週間前の中学校の卒業式でも、この日の我が子の卒業式でも、「旅立ちの日に」という歌がうたわれた。この歌は15年前に埼玉県秩父市の市立影森中学校の「3年生を送る会」で、先生たちが生徒への応援歌としてうたったもの。作詞は同校の校長先生、作曲は同校の音楽教諭。この15年の間に、瞬く間に全国に広がった歌である。折しも、この日、レコード店に注文しておいた「旅立ちの日に」を収録したトワ・エ・モアのCDが届いた。「白い光の中に・・・・」で始まるこの歌は、影森中学校の先生だけでなく、全国の先生の子どもたちに対する思いが込められた、感動の歌である。
拍手に見送られ、卒業生一人ひとりが次々と卒業式会場から退場していく。最後に担任の先生が会場出口に整列をして、会場を埋めつくす保護者や来賓に深々と礼をすると、会場はいっそうの拍手に包まれた。私は、我が子をここまで育ててくれた恩師に向かって渾身の拍手を送った。ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・・。先生のおかげで、我が子は、この一年間、ただの一度も学校を休むことなく、元気に6年間の小学校生活を終えることができた。本当にありがとう。この日、小学校の桜は一斉に咲き始めた。(2006年3月27日)

2月20日に、また齢をとってしまった。実に47回目。いつ頃からだろうか、地域の子どもたちから「おじさん」と言われるようになったのは。以前は「おじさんではない。『お兄さん』と言いなさい」と注文つけていたものだが、いまでは何の違和感もなく「おじさん」がとびかっている。
20歳を迎えたときは「ついに20歳になった」と、少々の気負いも生まれ、30歳を迎えたときは「俺も、ついに30歳か」と、ため息。40歳が来てしまったときには、「おじさんになったのかなあ」と思いつつも、「いやいや、まだまだ青春」と、巷をぶらついた。そして47歳。頭の白髪が増え、腹の肉もたくましくなってきた。カミさんからは「そういえば、今日は誕生日だったね。おめでとう」と言われたが、おめでたくもない。それよりも、もっと早く帰宅し、家事をしてもらいたいものだと、思う。
ところで子どもたち。小学校6年の息子(大地)と小学校4年の娘(萌)がおこづかいを出し合い、プレゼントをくれた。子どもたちが寝たあとに包みを開いてみると、包装紙の中からは紺色のエプロンが。思わず「アハハハ」と笑ってしまった。
我が家は共働き。新聞記者のカミさんは帰りがいたって遅い。必然的に私が夕飯を担当する。着用するエプロンは以前は二つあったが、「赤旗まつり」で買ったものが長年の活躍で老いぼれて、いまでは一つきりとなっている。洗うに洗えず、エプロンの生地の色と少々色が合わなくなった部分もあり、たまりかねて子どもたちが用意したのであろう。しかし、3年前の腕時計とは異なり、複雑な心境である。このプレゼントは、子どもたちのみならず、「しっかり台所で仕事をせい!」とのカミさんの通告も含まれているのではないか・・。
男女同権とはいうけれど、我が家は少なくとも「女尊男卑」ではないだろうか。高校を卒業して29年。体重はこの29年間で7〜8キロしか増えていない。一方、カミさんは子どもが生まれてこのかた、目に見えて横に広がっている。あまりに広がりすぎて、最近とみに帰宅が遅い。風圧をもろに受け、遅くなるそうな。誰が見ても健康優良児だ。
さて、翌日の夜、息子と風呂に入り親子の会話が交わされた。「お母さんの誕生日にもエプロンを買ってあげれば、食事をもっと作ってくれるかもしれないよ」「無理だよ」「どうして?」「だって、お母さんが作ったのは○○○○○○もん」「オイオイ、そんなこと、お母さんには絶対に言うなよ。食事を作ってくれなくなるからな」。息子のセリフは、けっして活字にはできない、まさしく、“死をも恐れぬ勇気ある一言”であった。(2006年2月21日)

2月20日(木)は私の44歳の誕生日。市議会議員になった10年前と比べて、ずいぶん「おじさん」になったナァと、44歳の誕生日を迎えたその日、しみじみと鏡を見る。そこへ、学童保育所から我が子2人が帰宅。やがて私は用事を済ませるために、バイクで外へ。そして、午後6時30分頃帰宅。ところが我が子がいない。近所の友だちの家にでも遊びに行ったんだな、と、勝手に推測。
「ただいま」と2人が帰ってきたのは、それから15分経った頃。心なしか、落ち着きのない2人。やがて夕食の支度も整い、食事時間に。と、小学校3年生の息子が言った。「お父さん、誕生日おめでとう」。そして、私の前に紙袋を差し出す。なんだろう?と、紙袋を開けると、銀色の小さな箱。中からは、腕時計が出てきた。
息子の言うところでは、午後6時頃、武蔵小金井駅北口の「長崎屋」に2人で行き、腕時計を買ったとのこと。お金は?の問いに、「お正月に、おばあちゃんからもらったお小遣いで買った」。
「長崎屋」は我が家から大人の足でも、徒歩25分。途中、上り坂があり、車の往来の激しい道をいくつも横切らなければならない。しかも6時頃といえば、あたりは暗くなっている。そこを、息子だけでなく、クラスで一番チビの小学校1年生の妹と一緒にテクテクと片道25分余の道のりを「長崎屋」まで行き、しかも自分のお小遣いをつかってまで私の誕生日プレゼントを買ったかと思うと、ジ〜ンとくるものがあった。息子いわく「この腕時計は5千円より高かったけれど、お店の人が5千円にしてくれた」。普通なら、その際、おもちゃ売り場などに行って、自分の欲しいものも買ってくるものだけれど、彼らは、この腕時計のみ買ってきたという。私には、何十万円もする豪華な腕時計よりも、はるかに豪華な腕時計に見えた。
2日後、私は「長崎屋」に行って、時計店の御主人に話をうかがった。「午後6時頃だったかな。男の子と女の子が来て、腕時計を見ているので話をきいたら、『お父さんの誕生日プレゼントを買いにきた』と。5千円しか持っていないというので、5千円にまけてあげました。誕生日プレゼントということで買いに来る小さなお子さんは、結構いますよ」。
いま、私の左腕には、それまでつけていた2万円余の腕時計に代わって、5千円の腕時計が巻かれている。2万円余の腕時計に負けない確実な時を、しっかりと刻みながら。
学校教育は、いつの世も、国の最大の課題となっています。授業内容にスムーズに乗って行ける児童もあれば、我が子のように、右往左往しながら、引きずられていく児童もいます。
昨年4月から学校週5日制がスタートし、新学習指導要領をもとに、学校教育が進行。そんななか、先日(1月17日)、我が子が通う小学校の授業参観が行なわれました。すでに上の子は小学校3年生になっていますが、授業参観に出席するのは、私は初めてでした。
まず、1年生の下の子(娘)の授業に出席。教科は算数で、「くり下がりのある引き算」。「13−9=4」(例)の答えの出し方や、「11( )=9」の( )のなかに何が入り、どのようにしてその答えを導き出すか、といった内容。
時代を反映してか、小学校1年生は、静かに先生の話を聞くことができない。トイレに行く子もいる。そのため、先生はあの手この手で、子どもたちが授業に集中するように奮闘していた。
つぎに小学校3年生の息子の授業に出席。理科の授業で「磁石の特徴について」を行なっていた。
ここでは1年生と違って、生徒はそれなりに授業に集中していたが、先生の説明をすぐに理解できる子と、「う〜ん」と悩み込む子に分かれていた。どの子も理解できるようにと、先生の苦心がにじみでる授業風景であった。
娘のクラスは28人の生徒数。息子のクラスは31人であった。これが国の基準である「40人」だったら、この狭い教室にどのように押し込むのだろうかと、考えさせられた。
さて、どの親も気になるのが、我が子の授業態度。人より抜き出ているわけではないが、親が顔を覆いたくなるようなわけでもない。・・そんなわけで、私もまずは安堵顔。息子は、私の子どもの頃と同じ出来であった。
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