12月
「年の瀬の華やかさが消えて何年になろうか」と本欄に記して6年。12月を迎えても街中は静まり返り、寒さに引きずられるように景気はいっそう冷え込む。
サンタさんに願い事をしたためていた我が家の子どもたちは、いつしか親に要求書を出すようになり、近年にいたっては、それすらも消えつつある。
負担増のなかでフトコロを気にする親を見て、自制心を働かせるのか、はたまた誕生日にドカーンと求めてくるのか・・・・。12月は何かと落ち着かない。
政府は消費税を再来年の4月から引き上げるという。「11%に」と主張する勢力もいる。「財政が大変だから」「福祉に金がかかるから」と言うものの、15年前に消費税が5%に上がった後も、介護や医療の負担は増え続けた。一方、給料や年金は下がるばかり。
クリスマスや誕生日に子どもたちの夢に応えるためにも、フトコロを痛めつける政治はゴメンだ。残り1週間、力の限り、熱く語ろう。
まずは都知事選挙
知事の仕事放棄で舞い込んだ都知事選挙は、選挙管理委員会を慌てさせた。投票所と開票所の確保、ポスター掲示板の設置箇所の確保、選挙に必要な予算計上と人の手配などである。
どうにか都知事選挙を迎える体制はとれたものの、次に頭をよぎるのは「総選挙はいつになるのか?」。「年明け早々に選挙ともなれば、準備含めて正月返上での仕事になる」と担当者は述べる。3月に市議選、夏には都議選・参院選へと続くこの1年は、「一生に一度、あるかないかの事態。果たして身体が持つのか?」と不安顔。
共産党市議団が全戸配布で取り組んだ「くらしの要求アンケート」の返信は500通に。「くらしが苦しくなった」「収入が減った」「社会保険料や税金のアップをなんとかして」など、助けを求める願いが切々とつづられている。
一生に一度あるかないかの大仕事。世直しを求める国民の怒りが、私の背中を押している。まずは都知事選挙から。
(「しんふん小金井」2012年11月11日付から)
文化財
東京駅の丸ノ内駅舎が、1914年12月の開業時の姿に復原された。この建物は、国鉄分割民営化後の再開発構想のなかで取り壊しの危機を迎えるが、保存運動が高まるなかで、9年前に国の重要文化財に指定。この10月から「赤レンガ駅舎」として人々の注目を集めている。
小金井市にも文化財が存在する。玉川上水や小金井サクラなどの国指定が3、糸あやつりなど都指定が2、そして市指定が29である。 文化財は総じて、地域の理解や熱意によって受け継がれている。保存・継承の取り組みがされなければ、たとえ歴史的な建造物であっても消えていく。だから、文化財はなんとしても守り抜きたいものである。
郷里の実家はかつて、囲炉裏のある小さな茅葺き屋根であった。江戸時代に建てられたその建物は23年前に取り壊されたが、惜しむ声もいくつかあった。時々見る実家の夢は、古びた茅葺き屋根。懐かしい姿は、写真の世界だけとなった。
(「しんぶん小金井」2012年10月14日付から)
「お〜い、どこだ〜!?」
大震災から1年半が経過した。テレビや新聞では、被災地の復興状況や教訓を報じ、いずれは起こるであろう新たな大地震や大津波への備えを呼びかけている。
しかし、もう一つ忘れてはならないのは「原発」。安全面で未完成、しかも放射能汚染源となる危険なものが国内に54基あり、こともあろうに政府は、大飯原発を再稼働させた。許せるものではない。
怒りを込めて、夏の帰省の折、弟の案内で大飯原発へと出かけた。実家から車で2時間半、小浜市内では土砂降りにあいながらも辿り着くと、原発敷地入口にバリケードが張られ、警備員が3人立ち、「ダメ」と合図を送る。建物自体も拝むことはできずじまい。
2時間半の行路が単なるドライブと化した一行は、近くの海辺で水遊びに転じ、原発がある半島を睨みながら叫んだ。「お〜い、どこだ〜!?」。
弟の子どもたちは、私が発したギャグに疲れ果て、帰路の2時間半をひたすら眠った。
同窓会
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お盆の武生駅前 |
東京に出て35年余。お盆の頃に帰省する以外は、郷里の地を踏むことはない。そんな折、帰省を前にした私の手元に、小学校時代の同窓会の案内状が届いた。この間、同窓会の案内状を何度かいただいたことはあったが、10年余前に伊勢志摩で行なわれた同窓会以降、顔を出したことはない。しかし今回は、帰省中に郷里で、しかも実家から車で5分程度の所で開かれる。「出席」を記入して、返信ハガキを投函した。
小学校時代は、あまり良い思い出がない。当時はプロレス全盛時代。ジャイアント馬場やアントニオ猪木などがブラウン管を賑わし、コブラツイストや四の字固め、はがい締めなどが小学校でも大はやり。か細い我が体に多くの技が掛けられたのを、案内状を手にした際に、昨日のごとく思い出すのである。だから、技を掛けたヤツも同窓会に来るだろうな、などと、当時の悪童どもを一人一人、思い出しては吟味する。
10年余前の伊勢志摩での同窓会は、伊勢神宮への厄払いを兼ねて行なわれた。ただし、私は伊勢志摩の旅館に合流したので、厄払いには加わってはいない。その時も、忌まわしきプロレス風景を思い出してはいたが、技を掛けた側は、そんなことがあったっけ?などと、どこ吹く風。なごやかに宴会に突入して行った。さて、今回はどうか。
同窓会で、とにかく楽しみなのは、それぞれがどのように変化したのか、ということ。「変化」とはもちろん、体型と風貌。カッコ良かったアイツは、どう変わったのか。憧れのあの子は、いまも素敵なのか。そして、昔の面影はいまもあるのか、老けてはいないか、などなど。一方、不安なのは、東京の地で長く暮らしている私を、郷里の同窓生は、どう迎えるのだろうか、ということ。そんなことを考えながら、8月15日の午後、同窓会の会場「魚清」に足を運んだ。
小学校の同窓生は、2クラス合計で70名余。「東組」と「西組」に分かれ、クラス替えは4年生になる時に一度だけ行なわれるのみ。だから、同じ組にならない同窓生も多く、名前も顔も思い出せない面々もいる。同窓会の会場には、すでに多くの面々が到着していたが、この顔は誰だっけ?、名前を教えてもらったが思い出せない・・・・というのが、4割近くいる。一方、向こう側でも私を見て「あの人、だれ?」と、隣の者に聞いていたという。同窓会には35名が出席。そのうち女性は10名で、予想はしていたが、この年齢になると、女性はなかなか参加しにくい状況のようである。
午後1時から始まった同窓会(宴会)は、午後5時過ぎまで続いた。自己紹介やアピール、歌やカラオケがあるわけでもなく、ビールの入ったコップを持ちながらテーブルを移動し、話したい人の隣に行って話し込むという具合。1対1で話し合う者もいれば、何人かのグループになって話し込むところもある。私も、同じようにテーブルや場所を移動しながら1対1で、あるいはグループの中に分けいって、近況を語り合った。私が東京で市議会議員をしていることは、おおかたの面々が知っていたようである。
同窓会の席上に、私が小学校時代に好意を寄せていた女性がいた。10年余前の伊勢志摩には来ていなかった人である。小学校時代は細かったその子も、いまでは少々、横に広がった感じ。その女性も最初、私を見て「あの人、だれ?」と、近くの人に聞いていたという。
私が日本共産党の市議会議員だからということであろうか、私のもとに話をしにくる面々が何人かいた。いまの政治や経済のあり方について、あるいは日本の将来について考えをうかがいたいというのである。教育現場に身を置いている者、仕事で中国に行っている者、あるいは公務職場て働いている者などなど。いまの政治に不満を抱きながらも、その解決策はどうあるべきかを見いだしきれない、やりきれない心の内を私にぶつけるかのようであった。そこには、小学校時代の忌まわしい光景は、もはや存在してはいなかった。
さて、楽しみにしていた「体型・風貌」であるが、しっかりと体型が横に広がっていた者や、頭部が光り輝いていた者、腹部が張り出している者など、どこにでも見られる光景があった。もちろん活気あふれる人もおり、小学校時代は横に広がっていたのに、いまは細くて魅力的という女性もいた。
この日の夜、越前市街の日野川の河原で花火大会が催されるという。「いっしょに行こう。向こうで飲もう」と、みんなに誘われたが、翌日の午後には東京に帰らなければならない身であり、年老いたオフクロのことも考えて、お断りをした。実家までは歩いても20分程度で帰ることができるのだが「車で送っていく」と言われ、先述の“小学校時代は横に広がっていたのに、いまは細くて魅力的”な女性に車で実家近くまで送ってもらった。
同窓生は口々に「板倉くんが一番、変わった」と言う。実家にいる弟は「兄貴は、他の同級生と比べて若くみえる」と言う。東京の地がそうしているのか、あるいは市議会議員という仕事が、そうさせているのか・・・・。次回の同窓会は、還暦の時に行なうという。その時も「一番、変わった」「他の同級生と比べて若くみえる」人間でありたい。そのためにも、来年3月の市議選で勝利して、忙しいながらも、やりがいのあるこの仕事を続けられるようにしなければと思う。
先々のフトコロ具合
2年3カ月ぶりの帰省を前に、先々のフトコロ具合を不安にさせる出来事が相次いだ。
まずは老朽化したバイクの修理。坂がある小金井では、ポンコツでも欠かせない乗り物となっている。次に国保税の増税。第1期分を支払った7月終盤、財布のなかから1万円札が飛ぶように消えた。そして帰省のための切符購入。息子と2人だけの帰省ではあっても、福井までの運賃はけっして安くはない。
加えて消費税の増税強行。2年後の4月から8%、3年後の10月には10%にするという。
収入はどうか。みなさんの税金からいただく議員報酬の手取り額も減っている。年少扶養控除等の縮減で、所得税・住民税がアップしたからである。
帰省の列車の中、息子が車内販売のジュースに手を伸ばそうとする。ちょっと待て。乗り換え駅の自動販売機で買えば安いぞ!。そう言いながら缶ビールを注文する私に、息子の冷たい視線が飛んだ。
国保税アップ
今年度の国民健康保険税の納税通知書が送られてきた。日本共産党の反対をおしきって値上げが強行され、負担増になることはわかっていたが、その額には目を見張った。
我が家の国民健康保険の対象者は、私含めて3人。だから負担額も大きい。前年度と比較すると、実に7万7千円のアップ。一期ごとの納税額も9千円以上の増である。
7月に負担増が押し寄せるのは、国保税だけではない。納税通知書や口座引き落としの場合は、介護保険料、後期高齢者医療保険料も増となる。8月以降は、年金天引き者にも一気に押し寄せる。
値上げを強行したのは自民・公明・民主。国でいえば、消費税増税を行なおうとする勢力である。大型道路や駅前開発を推進する姿勢は、国でも小金井市でも同じ。そのツケが負担増となって押し寄せている。
汚れた政治を吹き飛ばすように、大集会の翌日、梅雨が明けた。闘いはこれからが本番である。
原発再稼働
大飯原発の再稼働が強行されようとしている。「節電は経済活動に影響が生じる」と経済界から言われたからである。
関西電力の発表でも、猛暑の場合の電力不足は、ピーク時の計71時間にすぎない。ならば昨夏同様に、節電で乗り切るべきではないか。生命と利益とをてんぴんにかけるあり方は、到底、許されるものではない。
郷里・越前市は「原発銀座」若狭湾から半径30キロ圏内。活断層がひとたび暴れれば、第2のフクシマになる恐れが十分にある所。なのに政府は、大飯原発につづいて、他の原発の再稼働も視野に入れている。3年前の政権交代は一体、なんだったのか。
大震災後、郷里を訪れていない私は今夏、帰省を予定。保守王国と選挙のたびに報じられてきた福井県でも、再稼働反対の集会が開かれ、県民の怒りは渦巻いている。弟夫婦と子どもたち、そして年老いた母親が穏やかに暮らせる郷里にと、東京の地で「再稼働反対」に唱和する。
金環日食
天体ショーの朝、我が家の路地でも近所の人々が一斉に空を見上げた。1人が持ち込んだ観察用グラスを集まった面々が太陽にかざし、自然のカラクリにしばし歓喜の声。東京では173年ぶりだという。
日本列島の広域で金環日食が見られたのは、932年ぶりだともいう。観察用グラスのない時代、人々はどのようにして眺めたのだろうか。月が太陽の中心部に隠れていると、知っていたのだろうか。
次に広範囲で金環日食が観測できるのは300年先。けれども世界のキナ臭さを見ていると、その時に人類はこの地球上に存在し続けているのだろうか、地球は放射能に汚染されてはいないだろうかと、不安になる。
932年前の人々は科学的な知識がなかったことから、天空の光景に恐れおののいた。しかし私たちは知識を持ち、戦争や原発被害を防ぐスベを知っている。
18年後の北海道での金環日食は、不安のない地球のもとで迎えたいものである。
若狭湾
遠浅の海に長く続く砂浜、背には緑鮮やかな山々が並び、夏ともなれば多くの海水浴客が訪れるその地に異様な構造物が出現したのは、1970年代に入ってから。いまでは11もの原発が立ち並ぶ「原発銀座」若狭湾は、我が郷里・福井県にある。
政府は夏場の電力不足を理由に大飯原発の再稼働を狙っているが、関西電力の試算でも、猛暑の場合のピーク時においてでさえも需要が供給を上回るのは、日中の13日間・計71時間にすぎないという。ならば大口利用者に、その時間帯の節電や電力利用調整を求めればよいだけである。再稼働ありきの政府の姿勢は、郷里を愛する者として、断じて許せるものではない。
若狭湾は「海の見える奈良」、大飯原発東側の小浜市は「海の小京都」と呼ばれるほどに、多くの古墳・仏閣がある。「原発」で注目を集めるのではなく、「海の見える奈良・京都」で注目を集める郷里であってほしい。あなたもぜひ、若狭の地へ。
『計画停電』から1年
1年前の今頃は「計画停電」に振り回されていた。懐中電灯やや携帯ラジオが日常生活に加わり、計画停電に合わせて日々は動いていた。市議会も同様である。計画停電の合間をぬって議会が開かれ、弁達者な人も、時間の制約に縛られていた。
頻繁に起きる余震に怯え、ガソリンスタンドは長蛇の列。スーバーからはパンや野菜、レトルト食品が消え、店舗内は薄暗かった。
いまはどうであろうか。当たり前のように電気がつき、テレビを楽しみ、暖房のスイッチを入れる。明かりをこうこうと灯し、街なかにはネオンが渦巻いている。
でも忘れてはなるまい、1年前のあの日々を。ものを大事にすること、「もったいない」という気持ちを持つことを。
そんなことを思い出しながら、この文章を記すかたわらでは、テレビがつけられ、暖房が入り、明かりもしっかりと輝いている。パソコンの文面をのぞきこむ子どもは、あざ笑うかのように私の顔を見た。
絆を太く
「絆」とは、「断とうにも断ち切れない人の間の結びつき」と辞書はいう。3・11の「あの時」から、「絆」は日本中を駆けめぐり、政府もマスコミも「絆」を口にする。
ところが政府は「絆」を太くするのではなく、ズタズタに切り裂こうとしている。消費税の増税や負担増で国民の体力を弱め、結び合っている手を切り離そうというのだ。政府と同じ土俵に立つマスコミも含めて、「絆」を語る資格はない。
一方、稲葉市長の施政方針には「絆」の文字は見当たらず。だから国保税や介護保険料の値上げが、あっさりと登場するのであろう。
「あの時」から1年。この国の政治は旧態依然のままではあるが、「絆」を手にした国民の側は確実に変化している。断とうにも断ち切れない「絆」を太くして政治を変えてこそ、「あの時」に命を落とした人たちが心から報われる時を迎える。
3月は旅立ちの時。古い上着を脱いで、政治を前へ歩ませよう。
新副市長誕生
昨年4月終盤から空席となっていた小金井市の副市長職に、企画財政部長の上原秀則氏が就任した。2月1日から2016年1月末日までの4年間の任期である。上原氏の副市長選任議案に日本共産党市議団は退席をした。保守系の市長と二人三脚で市政運営をすすめる役職であることから、今後の職務状況を見るなかで賛否は判断されるべきと考えたためである。私にとっては、たとえ上原氏が憎めない人物であり、笑うと銀歯がピカッと光るユニークな人柄であっても、である。
副市長を選任した1月31日の臨時市議会は、この他にも議案を抱えていた。武蔵小金井駅南口再開発区域内に都市再生機構(UR)が建てた「市民交流センター」を取得する議案など、市民交流センターにかかわる5つの案件である。この日は議案の説明と資料要求が行なわれたのみであるが、臨時市議会2日目の2月2日からは徹底的な質疑が開始された。ときとして、質問内容に市側が答えきれない場面もあり、幾度となく答弁調整や休憩が繰り広げられた。新副市長にとっては、とんだ門出である。
副市長職に就任した上原氏は、昨年11月中旬から12月中旬までの37日間、市長職務代理をつとめていた。市長辞任で市長が不在となり、副市長職も欠員であったため、企画財政部長職の上原氏が市長職務代理に就かざるを得なかったからである。市長職務代理として初めて迎えた昨年11月14日の本会議で上原氏は、職務代理の位置付けを市議会に説明した。“職務代理は市長のような権限は持たないんだ。しかもオレは一般職なんだ”と、議員や庁内職員にアピールするためである。
ゴミ処理の行き詰まりで市長が辞任したあとだけに、たいていの人は「市長も副市長も不在で、上原さんは大変だろうな」「定年まであとわずかだというのに、上原さんも気の毒なものだ」と思ったに違いない。私もそう思った。しかし当人はそうではなかった。職務代理で初めて迎えた本会議に上原氏は散髪姿で臨み、ちゃっかりと写真まで議会事務局に撮らせていたのである。
ところが、副市長選任議案が議会に上程された1月31日の時も、本格的な質疑がスタートした2月2日も、上原氏は散髪姿ではなかった。いつもの上原さんのままであった。違っていたのは、議場の座る場所くらいであった。市長職務代理の時は散髪に行ったのに、副市長職ではどうして行かないのであろうか。忙しさでは、市長・副市長不在の時の「市長職務代理」の時の方が、はるかに忙しかったはずである。「手を抜いた」とみられたのであろうか、2月2日からの市議会は、烈火の如く吠え始めた。
上原氏の本会議場の席は、市民部長時代は部長席の中程であった。企画財政部長時代は市長と同じ最前列の廊下側席に移り、副市長となった今は市長の隣席。となると、残る席はただ一つ。もう一つ、隣の席に移ることである。そのときには、散髪どころか、服も靴も新調して臨むであろう。もちろん、銀歯ではなく金歯である。待ち遠しい限りである。
積もりゆく負担
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26日昼の「野川」 |
小金井市の国民健康保険運営協議会に国保税の値上げ案が諮問された23日の夜から未明にかけて、この冬はじめての積雪が街を襲った。路面凍結による事故が多発し、歩行者の転倒姿もあちこちに見られた。
雪はいずれは消え、街は普段の生活を取り戻す。しかし、値上げされる国保税はそうはならない。雪が解けて春になったら、いっきに頭上に降りかかる。
降りかかるのは国保税だけではない。介護保険料、後期高齢者医療保険料も増税の嵐だ。雪解けどころか、降り積もる一方である。いかに暮らせというのであろうか。
その小金井市。31日に臨時議会を招集して、市民交流センター取得の議案を上程するという。取得に要する市負担額は、設備費等含めて32億9千万円。国保税の増税額4億3千万円の7.65倍にものぼる。
市民交流センターは今日、自由に利用できる。購入しなければ利用できないわけではない。歪んだお金の使い方は、国民不在の国政と同じである。
※国保運営協議会が了承した「国保税の値上げ案概要」をPDFファイルで掲載します。
年賀状
東京の正月は風はあるものの、そんなに寒くはなく、青空に恵まれた穏やかな日々となった。息子が大学受験を控えているため、高校受験の3年前と同様に、私と息子のみが東京に居残り。大晦日の夜中に年越し蕎麦を食べ、元日の遅い朝食は雑煮。餅が腹に残っているため昼食はあえて作ることもなく、夕食はスーパーで買ったお節料理で済ませるという程度。息子の手前、テレビを控え、日頃熟読できない新聞や雑誌を読み、当然に掃除や洗濯も行なう。正月につきものの「酒」は、ほとんど飲んでいない。息子が参考書を広げている前で、飲むわけにはいかないのである。
正月で気になるのは「年賀状」。来るべき人から来ていない場合には、「何かあったのかな」「忙しくて、書くのが遅くなったのかな」など、あれこれ思いめぐらせる。そんななか、元日からの三が日にかけて、来るべき人からの年賀状が、今年もつつがなく届いた。年に一回限りの便りは、その人の近況を知る上での貴重な材料となる。ところが、手抜きの賀状も少なからず見られる。通り一遍の新年のあいさつのみというケースである。私が知りたいのは、その人の「近況」。いまどんな生活をしているとか、家族がどうしているだとか、とにかく身の回りのことを知らせてきてほしいのである。
その私の思いにしっかりと応えた賀状も、なかにはある。ある女性はご丁寧に、自身の写真を賀状にプリントさえしている。その写真を見た瞬間に「ああ、この人は20年前と体型がほとんど変わっていないな」と一目瞭然となるのである。賀状には、「体型は昔と変わらず・・・いや成長してる・・・」と、誰もが認めるコメントが記されていた。
高校1年生の娘は、中学時代や高校のクラスメイトからの年賀状が続々と届いた。対照的に、高校3年生の息子はチラリホラリ。同級生も大学受験に追われているため、我が息子同様に、年賀状どころではなかった様子。大学受験は高校受験よりも、大変なようである。
私の今年の年賀状は、ごく一般的なものに抑えた。毎回、カミさんから「余計なことを書かないで」とお叱りをいただくためである。以下、今年の年賀状を参考までに掲載する。
■10月8日〜10日、被災地・石巻市へボランティアに。4千人近い犠牲者を出したこの地は、7カ月を経た時でさえ傷跡はいたるところに。経済大国でありながら、良いリーダーに恵まれない国民は不幸としかいいようがない。大企業やアメリカに平伏す政治家は不用だ。
■「3・11」以上に揺れた小金井市。年に2回の市長選で「小金井」の名が全国に。「ゴミを宅急便で送っていいよ」の友人からの電話に、ありがたいやら恥ずかしいやら。小金井市もリーダーには恵まれてはいない。
■我が家は今春、息子が大学受験。正月返上で塾通い。妻と娘が帰省をし、我が身に炊事・掃除・洗濯の三重苦。息子を前にテレビも見れず、ビールは冷蔵庫に冷えたまま。書き遅れた賀状を仕上げ、雑煮の作り方を本で学ぶ。
■時間があれば、東京の下町に出かけるこの頃。浅草・上野・両国・本所・・・、江戸の風情を残すこの地は、心のオアシス。東京に住んで34年。街が大きく様変わりしても、人と人との「絆」は不変。今年も元気に頑張ります。
一日の密度
小金井市の佐藤和雄市長が「ゴミ問題」の不適切な公約で辞職し、4月の市長選挙から8カ月と経たないうちに再度、市長選挙が行なわれた。当初、市議会内で「ゴミ問題の非常事態解決」の1点での統一候補擁立の検討もすすめられたが結実に至らず、各陣営が候補者を擁立し選挙体制に入ったのは12月に入ってからとなった。
小泉たみじ氏を擁立し、我々が選挙体制に入ったのも、他の陣営とほぼ同時期の12月の冒頭。11日には告示を迎えるため、共産党の4人の市議会議員などを中心に立候補届出のための準備や支援組織立ち上げなどの選挙体制づくりが急ピッチですすめられた。
選挙本番は11日の告示日から18日投票日までの一週間。この一週間が実に長かった。朝は駅頭での宣伝行動のために、朝7時前には候補者カーを駅に横付けし、夜は選挙実務の整理や翌日以降の準備のために11時過ぎまで選挙事務所に缶詰。しかも、この時期は寒い。朝7時から2時間の駅頭宣伝は、とくに厳しかった。もう若くはない。50歳を過ぎた肉付きの悪い身体は、寒さに打ちひしがれていた。寒いうえに一日の実働時間は長い。しかも仕事が次々に襲ってくる。そのため、一日が過ぎるのがとにかく遅い。ということで、選挙本番中の一週間はとてつもなく長い一週間となった。
18日の投票日を過ぎ、それからの月日は実に早かった。遊んでいたとか寝ていたとかというわけではなく、普段の生活に戻っただけにすぎないが。
気がつけばジングルベルがあっと言う間に遠ざかり、目の前には大晦日が迫る。「年賀状を早く作らねば」とか、「今年中にやっておかなければならない仕事がまだある」とか、残りの日にちをにらみながら追われる日々を迎えている。
考えてみれば、これから4年ごとに12月の市長選挙がやってくる。4年後は50歳台の後半。肉付きが今より良くなる保証はなく、体力は今よりは確実に減少する。しかし、選挙ともなれば、第一線で走り回らねばならない。4年後の市長選挙本番は、一日の密度が今以上に濃く感じることになるのだろうか。それとも、今回は突然の選挙となったために、密度が濃く感じることになったのだろうか。いずれにしても、12月という寒い時期の選挙はありがたくはない。当選した元市長の稲葉孝彦氏を途中で辞職に追い込み、選挙時期を変えさせるという意気込みが求められる。ただし、夏まっさかりの選挙もありがたくはない。春か秋がありがたい。――などと考えているときに、「あんた、家の大掃除が残っているのヨ!」と、カミさんが頭上でわめいた。よって、今年のホームページ執筆はこの程度で。
みちのくの民俗芸能を見るつどい
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西多摩民俗舞踊の会の『西馬音内盆踊り』 |
27日に第一小学校体育館で催された「東日本大震災復興支援」の「みちのくの民俗芸能を見るつどい」は、感動的だった。都内や近県で活動する愛好会の踊りや舞に加えて、被災地の宮城県からは長下田神楽保存会を迎え入れ、十分に楽しませてくれたからだ。
そればかりか、長下田神楽保存会のこなれた声と楽器の音色、演じる役者からは、「どっこい俺たちは生きている」との強いメッセージがあふれてくる。思わず胸が熱くなった。
震災の復興支援には、様々な加わり方があると思う。被災地へのボランティア支援もあれば、募金や支援物資に応えるという方法もある。しかし、今回の取り組みには舌を巻いた。
会場いっぱいの観客。その前で踊り舞う人々。初めての出会いにもかかわらず、見る側も演ずる側も楽しくなり、元気をもらえる。しかも、被災地への支援にもなっていく・・・。心を充たされて家路についたのは、私だけではなかっただろう。
任期途中での市長辞職
小金井市で任期途中に市長を辞職したのは、佐藤和雄氏で4人目。
最初が星野平壽氏。公務出張先への女性同伴事件である。次に保立あきら氏。議員提案の条例可決に異議を唱えて、議会と対立。次は2004年6月辞職の稲葉孝彦氏。暫定予算が続くなかで、「南口再開発への民意を問う」が理由。4人目が、自らの公約問題で職を辞した佐藤和雄氏である。
佐藤和雄氏が他の3人と異なるのは、市民の毎日の暮らしに影響をおよぼす事柄であること。「ムダ使い」と言われれば、受け入れ側は「それはないよ」となり、「それならば、自分たちで処理したら?」と言われて、佐藤市長は行き詰まってしまった。
市長は、予算執行や行政執行などの権能を持つ。市長が公に述べたものは、自治体を代表する者の発信となり、対外的にも大きな重みを持つ。議会では成し得ない力である。
そのことをわきまえた市長を、選んで行きたいものである。
被災地の現実
どこにでもあるような港町。しかし足を一歩踏み入れると、壊れた廃屋が目に映り、家屋の土台だけが残る光景が続く。
牡鹿半島は入り江が美しく、海と山の間にヒタイほどの平地がある程度。かろうじて大津波から逃れた人々は、いくつかの仮設住宅に身を寄せている。しかし主要道路から離れたこの地に、支援の手が入ることは少ない。
日本共産党の支援物資の前に列をなす人々は、休日にもかかわらず年配者が多い。大きな手提げ袋を用意し、持ちきれないほどに物資を抱える。「ありがとうございました」。多くの人々が私たちに頭を下げる。
これから晩秋、そして冬を迎える。持参した毛布は数に限度があり、やむなく抽選となる。当たった人とはずれた人の表情の差に、心が痛む。石巻では、中古自転車の抽選に多くの人が並んだ。自転車なしでは買物にも行けないという。
震災からすでに7カ月。政治への怒りは増すばかりである。
(「しんぶん小金井」2011年10月16日付から)
『さようなら原発』明治公園集会
JR千駄ヶ谷駅を下りると、駅前には団体名のノボリを持った人やゼッケンをつけた人、プラカードを持った人などが所狭しと集まり、東京体育館方面に向かう道も多くの人でごったがえしていた。この日(19日)は午後1時30分から、明治公園で「さようなら原発5万人集会」が開かれるのである。午前中、京王井の頭線沿いの息子の高校の文化祭に行っていた私は、JR千駄ヶ谷駅に午後0時30分に降り立った。しかし、すでにこの有り様である。
「さようなら原発5万人集会」は作家の大江健三郎さんら著名9氏が呼びかけたもので、日本共産党にも協力の呼びかけがされたものである。駅を降り立った私は、東京体育館の横を通り抜け、まっすぐに会場の明治公園に向かった。近づくにつれ、宣伝カーやハンドマイクからの演説音が迫り、会場の舞台で歌っているのであろうか、音楽も聞こえてきた。明治公園入口では様々な団体がチラシを配り、署名を呼びかけていた。なかには、暴力で世界を変えようと考えている団体も見られ、場違いな団体も加わっているなと思うほど。午後0時45分頃には会場の明治公園内に入った。まだ会場内は余裕がある。
「日本共産党」の部隊が見当たらないので、かつてお世話になっていた労働組合の旗をめざしてすすんだ。そうこうしているうちに会場内は混雑をはじめ、会場に入りきれない人もいるようで、道路の方からは参加者を誘導するようなマイク音も聞こえてくる。頭上にはヘリコプターが飛び交い、会場内は人とノボリが渦巻く。
1時30分から集会が始まった。台風の影響からか、幸いに炎天下とはならず、雲の合間から太陽の光が差し込むという程度となった。コンクリートの地面に座り込んだ参加者は、マイクから流れる訴えに「そうだ」「そのとおり」などの掛け声を発し、真剣に耳を傾けていた。
集会は2時30分に終わった。なぜか、政党あいさつは一切なかった。しかし会場の内外には少なくとも3つの政党名が見られ、そこと協力的な関係にある団体も会場内には相当に来ていると思われる。労働組合や市民団体とともに、政党がこの集会の成功に力を入れたからこそ、会場に入りきれない大勢の参加者があったのだと思う。「国民の世論を高め、原発を一日も早くなくしていきたい。その方法は非暴力で」という願いを共有する人々が運動を大きくしていくためには、その趣旨に賛同する政党の役割を低く見ることがあってはならない。その政党の役割を大いに評価し、その政党のあいさつを受けることで、その政党の支持者や協力団体の力をさらに引き出すことができるのである。「さようなら原発5万人集会」は、日本共産党も大いに参加を呼びかけるなかで、6万人の参加者で成功した。
お祭り
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貫井神社祭礼の子ども神輿
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子どもの頃、村の秋祭りはとても楽しみだった。その日は夜に神社の境内で映画会が催され、村の面々が蚊に食われながらも、スクリーンに見入っていた。小さな村なので、夜店は出ない。1日かぎりの祭りである。それでも、その日は朝から、気分がたかぶっていた。
貫井神社の祭礼は、比べ物にならないほどに豪勢である。神社前では縁日が毎年、勢ぞろいし、子ども神輿や太鼓、貫井囃子、神輿愛好会が地域を練り歩く。小銭を握りしめて神社に走っていく子どもたちの姿は、幼き日の私よりも生き生きとしている。
盆踊りがあり、祭礼が行なわれ、様々な取り組みがすすめられている地域は、子どもから高齢者まで、安心して過ごせる街だと思う。
大震災から半年余。いまだに被災地は生活再建の目処がたたず、住民は離ればなれにされている。企業参入の復興プランよりも、地域住民が寄り添える支援策こそ大切だ。人の絆が一番の宝である。
東京で過ごしたお盆
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上野不忍池の蓮の花
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気温35度、しかも蒸し暑い。「東京の夏はこりごりだ」と言いつつも、35回目の東京での夏を過ごしている。
例年、8月のお盆が近づくと、一家で福井の実家に出かけているが、高校生の子どもたちが夏期講習だとか部活だとかでお盆も学校に出かけ、カミさんも仕事が休めないということから、私一人、家に置き去りにされた。
外は猛暑。しかし家にいてもダラダラするだけ。そこで奮起して、炎天下のなかを2日間に分けて都内散策に出かけた。池上本門寺、洗足池、芝増上寺、上野不忍池、旧岩崎邸庭園、湯島天神・・・・。長年、東京で暮らしてはいるものの、不忍池以外は初めての場所である。
折しもお盆。本門寺や増上寺では線香のにおいとともに、読経の声が流れ、お墓参りの姿も多く見られた。猛暑を忘れ、しばし静かな時間を過ごした。
父親が亡くなり、実家は遠のく。8月は故人を忍ぶ時間でもある。
扇風機
9日の梅雨明け以降、猛暑が続く東京も、台風の雨風で少々過ごせる日々を迎えた。けれども猛暑はこれからが本番。
福島原発事故で節電が呼びかけられ、エアコンを控えて扇風機を利用する家庭が増えている。その扇風機も品薄とかで、昨年以上に熱中症の被害が心配される。
一方、小金井市長は子どもたちの教室での熱中症被害と電力消費量を天秤にかけ、エアコン契約を遅らせた。なのに、電力を大量に使用する市民交流センターは「買っても良い」と考え、着々と準備に入っている。天秤にのせるモノが違っているのではないだろうか。
故障したエアコンに代わって、我が家の寝室では扇風機が大活躍。しかし、古い型のために音がうるさい。加えて、強風を要求する者と、私のように微風でことたりる者とが川の字になって寝ているため、風量と風向きをめぐる争いが絶えない。夏はまだ1カ月以上も続く。扇風機が壊れる前に猛暑は終わってほしいものだ。
上に立つ者の器
上に立つ者は人の意見に耳を傾け、少なくとも多数に理解される中身と行動力が必要だと思う。しかるに、この国の政治は、上に立つ者の器に疑問を感じる。だからといって、引きずり下ろそうとする者のなかに器があるとも思えない。
混迷を続けるのは、小金井市政も同じ。「ムダ使い」と前市政を批判し当選した新市長。迎えた議会冒頭から「公約」の訂正や撤回が起き、自身で出した補正予算を自ら訂正することまで行なった。自身の掲げる「分かりやすい市政」とはほど遠いやり方である。
上に立つ者の器には、支える側の人心を引きつける度量が求められる。そのためにも、支える側との「対話」は欠かせない。
新市長の施政方針では、「職員の『やる気』『能力』を引き出すこと」「そのために、職員との対話を重ねる」とある。しかし一連の行動には、自身の方針に反する部分が見受けられる。これで「市役所改革」が可能なのか。まずは自身の改革が必要である。
親父の命日
親父が亡くなって3年が経った。亡くなった年は、葬式、四十九日の法要、初盆、納骨と、目まぐるしい日々を送った。翌年は1周忌で命日に合わせて帰郷。昨年は3回忌で5月の連休に帰郷した。
亡くなって3年。法事があるわけではなく、しかも6月市議会真っ只中。日付が代わった頃に布団に入り、ふと気付く。そうか、今日は親父の命日だ。そこから、3年前のこと、1周忌のこと、昨年のことなどがよみがえる。
親父が亡くなってから、実家への帰省の思いが弱くなった。母親は実家に暮らしてはいるが、内孫3人に囲まれて、それなりに充実した日々を送っている。弟夫婦も、忙しいなかにも一家の大黒柱として走り回り、6人の世帯をしっかり守っている。波風が立ったという話も聞こえず、平穏無事の様子。だから、東京の地で、自分たちのことのみを考えていれば良いのである。
親父の夢を見なくなった。故人には申し訳ないが、故人を振り返ることも少なくなってきたように思う。だから、こんな私を戒めようと、きっと命日には枕元に立つだろうと思ったが、それも無かった。親父は川釣りが好きなので、枕元に立つよりも、郷里の山奥の渓谷に立っているのだろう。
命日の6月22日は、小金井市議会の議会予備日。議会の出番を待ちながら、気がつけば夕方5時を過ぎ、出番の時期はまったく見えず。小金井市議会は新市長のもとで与野党の垣根がなくなり、活発な質疑が連日、展開されている。とても、一人静かに故人を思う状態ではなくなっている。
大震災の小金井市の状況
東日本大震災は、小金井市域で震度5弱の揺れをもたらした。市立総合体育館の天井材が落下し、民家のブロック塀が7箇所倒壊、屋根瓦は7軒で落下し、小学校や市役所本庁舎の窓ガラスに亀裂が入った。
知人や親戚等を頼って多くの方々が被災地を離れ、13日現在で小金井市にも76世帯・144人の避難者が確認されている。福島原発の被害から逃れてきたケースが多いという。
政府や東京電力は「想定外」を口にしてきた。その考えは小金井市の地域防災計画にも影響し、地震による原発の放射能被害は一言も記されていない。「国や東京都の計画をもとに、小金井市の計画も作成されるから」がその理由。
東海地震が起きた場合、浜岡原発の放射能被害を想起するのは当然である。政府が稼働停止を決めたのは、もはや「想定外」とは言えないからである。その東海地震、小金井市域の揺れは「震度5弱」とされているが、こちらは想定内であってほしい。
しあわせ運べるように
「『しあわせ運べるように』という歌をみなさん、ご存じでしょうか?」。5月14日(土)の夜、夕食をつくりながらかけていたNHKラジオの「絆うた」という番組で、男性アナウンサーがスピーカーの向こう側から視聴者に問いかけてきた。初めて聞く曲名である。男性アナウンサーは歌の紹介を行なった。「歌の紹介カードによると、この歌をつくったのは、神戸の小学校教師の『うすいまこと』さんという方で、今から16年前に起きた、阪神大震災の2週間後に避難先の親戚のお宅でつくられたと書かれています」。続けて男性アナウンサーは言う。「この歌は神戸では、おそらく皆さん知っているのではないでしょうか」。
ピアノの前奏に続いて、子どもたちの歌声が流れだした。「地震にも負けない強い心を持って 亡くなった方々の分も毎日を大切に生きてゆこう 傷ついた神戸を元の姿に戻そう 支え合う心と明日への希望を胸に ひびきわたれぼくたちの歌 生まれ変わる神戸のまちに 届けたい私たちの歌 しあわせ運べるように」。
この歌を聞き、私は大きな感動を受けた。こんな歌があったなんて!。すぐさまパソコンのインターネットで曲名を検索すると、阪神大震災が起きた1月17日の神戸の「つどい」で、この歌がうたわれていることがわかった。しかも、CDにも納められている。もう一度、聞きたい。できればCDを手元に置きたい。それほどまでに、この歌は私の心を揺さぶった。
いてもたってもいられない思いで、翌日、国分寺市のCD屋さんに電話して、CDがあるかどうかをたずねた。「ありませんね。取り寄せになりますが、それでもいいですか?」。
3日後に、私の手元にCDが届けられた。私が手にしたCDは、神戸を拠点に活動する4人組ボーカルグループ「voice from KOBE」の「Cooley High Harmony」というアルバムである。「しあわせ運べるように」という歌も初めてならば、「voice from KOBE」というグループ名も初めてである。
3月11日の東日本大震災では1万5千人が亡くなり、いまだに8千8百人余が行方不明となっている。仙台市の近くに住む知人は、職場の更衣室で一人で着替えている最中に大震災に遭遇した。「ロッカーがぐらんぐらんと揺れ、スプリンクラーが作動して水浸し。死ぬかと思った」とメールで知らせてきたが、その後、その知人は度重なる余震のなかで眠れぬ日々を迎え、しばらく入院する事態となった。その知人にも、そして明日への希望を模索している被災地の方々にもぜひ、この歌を聞いてもらいたい。「しあわせ運べるように」。
選挙公約
選挙の時に有権者に約束したものを「選挙公約」と言う。この「選挙公約」を見て、あるいは街頭での訴えや支援者からの呼びかけによって、有権者は清き一票を誰に投ずるかを判断する。今回の小金井市長選挙では、4期目を目指した現職の市長が敗北し、元朝日新聞記者の53歳の新人が市長に当選した。
選挙公約の代表的な文書が「選挙公報」である。当選した元朝日新聞記者の選挙公報にもいくつかの公約が掲げられ、少なくない有権者が、この選挙公報を投票の判断基準にしていると考えられる。だから、この選挙公報は、選挙が終わったからといって後景に退けることのできるものではないし、当選した候補者のものであればなおさら、少なくとも今後4年間の大切な「公約」として手元に置いておくべき代物である。
当選した新市長の公約を見ると、私も同じ方角を持つものが並んでいる。たとえば、賃貸庁舎(リース庁舎)の早期解消や市長交際費の大幅削減、東日本大震災を受けての4つの緊急提言などである。しかし、そうではないものもある。場合によっては6月議会で、新市長の考えを問わなければならないと思うものもある。
すくなくとも2点。その1つは「市民交流センター」における「仮に欠陥が解消しても、購入の是非は住民投票で」という部分である。「欠陥」とは「不動産登記ができない、大道具や楽器を搬入する駐車場の使用が不安定など」(同陣営の事前ビラ)であるが、この欠陥が解消しても「買いません」というなら、私も賛同できる。しかし、そうではなく、「購入の是非」を「住民投票で」決めるというのは、首を傾げるところである。
現時点での推移から見ると、市民交流センターを管理している都市再生機構(UR)が建物の「欠陥」を是正できる見込みはない。仮に都市再生機構(UR)が、自身が目指している「今年9月中の『欠陥』是正」を成し遂げたとしても、購入の是非を問う住民投票は、それ以降になる。住民投票にかける際には「財政負担や使い勝手の悪さ、CO2の大量排出などの問題点を市民に明らかに」する(事前ビラ)としており、そのための資料準備も必要になる。なんやかんやしているうちに、住民投票実施は早くても2011年度終盤、あるいは2012年度に食い込むことになるのではないだろうか。
住民投票の時期が遅れると、新たな問題点が発生する。市民交流センターの購入財源には、市民の税金投入や借金に加えて、国からの交付金が含まれているが、これまでは「まちづくり交付金」があったが、この交付金は2010年度末で終了。そのため今年度は「社会資本整備総合交付金」を充てることになった。しかしこの交付金も今年度末で終了するとされている。国からの交付金が充てられなくなると、まるまる市が負担することになる。今年度、市民交流センターへは「社会資本整備総合交付金」を9億9,870万円予定。しかし市民交流センターの購入が2012年度に食い込むと、9億9,870万円がそのまま市の負担となっていくのである。
彼らの選挙公報や事前ビラでは「市民交流センター取得金額75億円」は「ムダ使い」と述べている。「ムダ使い」であると認めているのに、なぜ、購入の是非を「住民投票」で決めるというのだろうか。しかもその「ムダ使い」のなかに、新たに9億9,870万円の市負担が加わる可能性が高いのである。市民交流センターは「ムダ使い」だけでは終わらない。事前ビラでは、「財政負担や使い勝手の悪さ、CO2の大量排出」と、その問題点をさらに指摘している。ならば、結論としては「買いません」となるのではないだろうか。
政治家は、自分の信念を確固として持つべきである。「ムダ使い」であるのならば、「買わない」となるべきである。「住民投票の実施」は聞こえはよいが、結局、最終判断を市民に委ね、「ムダ使いであっても市民が決めたのだから」と、市民に責任を転嫁するものとなる。その結果、市財政を窮地に追い込むことになるとしてもである。
首を傾げざるを得ないもう1つの点は、「ごみ処理4年間で20億円」が「ムダ使い」という記述である。「稲葉市長の無計画なゴミ処理施策によって、4年間で20億円も支出せざるを得なくなった。これは許せない」という記述ならば理解できるが、「20億円がムダ使い」となると、小金井市民の可燃ゴミを受け入れている側は、「ならば、持ち込むな!」となるであろう。この点を小金井市役所初登庁の際に記者団に問われた新市長は、「経費について市民に注意喚起したかった」(4月28日付「朝日」)と語っているが、これは無責任な言い分である。先述したとおり、有権者は「公約」を重視している。新市長の選挙公報や事前ビラは、「稲葉市長がゴミ処理で20億円のムダ使いをしている」と指摘しているのであり、「そんなムダ使いをしている稲葉市長でよいのか?」ということを有権者に問いかけているのである。「ムダ使い」と指摘しておきながら、「注意喚起のため」の一言で片付けるのは、公約を軽々に扱うものである。なお、付言しておくが、新聞報道を見る限り、新市長は「ムダ使い」の表現を撤回してはいない。
いうまでもなく、ゴミ処理は毎日の市民生活に直結する。選挙公約で新市長側が掲げた内容は、少なくとも今後4年間の約束事である。内容によっては、小金井市民のみならず、他自治体にも波及するものとなる。新市長のもとで、ゴミ問題が稲葉前市長以上に混乱する事態に陥らなければよいのだが。
さて、新市長の与党は5人である。そのことは新市長の選挙公報の「応援します」の欄に、5人の市議会議員の名があることで明確である。この5人は「みどり・市民ネット」という会派を組んでいる。しかしこの会派にはもう1人、議員がいる。この人物は市長選挙では別の候補者を推した。当然に新しく始まる議会では、新市長を推した5人とは別の会派に属することになるであろうし、そうならなければ、市民にとっても不透明な事態となる。
5月17日から、新市長のもとでの小金井市議会の会派構成と議会役職の協議が始まる。新市長の与党の5人の中から誰が議長になるのか?、5人のなかに議長職をやれる人物はいるのか?、議長職を避けるために「みどり・市民ネット」がイヤイヤをしたりはしないだろうか?、まさか5人が別々の会派に分かれたりはしないだろうな?など、巷の関心事は5月17日に向かっている。
座敷わらし
我が家族が、この家に移り住んだのは10年前の8月。すでに築26年を経過し、見た目もけっしてキレイではないこの家を購入した最大の理由は、住所が変わらず、これまで通りに近所づきあいが続けられるという一点であった。ようするに、この家と同じ路地のなかにある借家に私たちは暮らしていたのである。
この家の前身は「教会」。1階が礼拝堂、2階が神父さんの住まい、その上に屋根裏部屋があるという建物である。教会では週に1回程度、礼拝が行なわれ、クリスマスともなると、玄関先の寒い場所で、信者の方々が賛美歌を歌っていた。その時には、お菓子などを我が家にもおすそわけしてくれていた。その教会が同じ市内の坂上に移転することになり、一時、借家として利用され、その後、売りに出されたのである。
購入するにあたって私は、1階部分と2階部分のリフォームを行ない、礼拝堂は住居に造り替えた。ただし、礼拝堂の柱など、使える部分はそのまま活用させてもらった。
この家に移り住んでからこの間、時々、首をかしげることが起きる。それは“音”である。私は昼間、2階でパソコンの仕事を行なうことがある。平日は子どもたちは学校、カミさんは職場にいるので私一人のはずなのだが、その“音”はたいてい、午後のまだ日が高い時間帯から夕方に起きる。ドアを閉める音である。「バタン」というドアを閉める音がして、ハテ?、もう子どもたちが帰って来たのだろうか?と、1階に下りて行っても誰もいない。子どもたちが乗って行っている自転車も、玄関先にはない。ある時には、玄関を開け閉めする音もする。しかし、誰もいない。同じようなことをカミさんも言う。「1階にいる時に、2階を歩く音がする」。
娘が以前に述べた言葉がある。「私が小さい時に1階で寝ていたら、私の部屋のドアの隙間から、白い服を着たオカッパの小さな子が、私を見ていた。怖くなったので、みんなのいる2階へ上がった」。娘は言う「私の部屋に何かいるんじゃないの?」。娘の部屋は1階の奥。この部分は、礼拝堂の大部分の素材をそのまま活かしている場所である。
座敷わらし?。こんな事を最近、考えるようになった。もちろん私は霊や神、仏を信じる者ではないが、そんなモノがもしかしたら我が家にいるのかも知れないな、と、好奇心半分、思ったりもする。そんなモノがこの家にいるのなら、おもしろいじゃないか、と。
築30数年を経たこの家は、当然にガタがきている。だから、家がきしむ音や隣の家の音が、家族に錯覚を起こさせているのだろうと、私は冷静に思う。でも、よいではないか。「座敷わらしがいる家だよ」って言えるとしたら、おもしろいと思うのだ。
当分、座敷わらしと付き合うことになりそう。カネがないので、ガタガタのこの家の建替えは当分、ありえないのだから。ん?、また1階で“音”がした。
釈然としない
地震の揺れを事前に知らせる機器が、たびたび警報音を発する。大震災からすでに1ヶ月余、いまだに大きな余震が被災地を襲う。
原発事故の避難区域は拡大され、危険度は「レベル7」の最悪段階に変更された。しかし東京電力も政府も「チェルノブイリよりは放射能の放出程度は低い」と述べ、事故発生時からいっかんして「大丈夫」を繰り返す。ホントに大丈夫なのか?。
高校3年生の息子が教科書を広げて言う。「静岡の浜岡原発はもっと危ない場所にあるんだよ」。教科書を見ると、地震プレートの交わる部分に位置していることがわかる。なぜこんな場所に建てたんだ?
節電に力点を置き、「計画停電」は実施しないという。そのこと自体は歓迎できるが、3月の寒いなかで計画停電に見舞われた者としては、釈然としない。なぜ最初からそうしなかったのか?
「想定外」を繰り返す説明はゴメンだ。いまこそ政治の転換を。
東北関東大震災『不意打ち停電』
「やるぞやるぞ」といって14日(月)、15日(火)と、小金井市内での「計画停電」を行なってこなかった東京電力は、3日目の16日(水)になって、ついに実施した。小金井市は全体で5グループあるうちの「第2グループ」と「第3グループ」に属している。しかし、市内のどの区域がいずれのグループに入っているかは、よくわからない。例をあげると、私が住んでいる貫井南町は1丁目から5丁目まであるが、東京電力の資料では、いずれの丁目も両方のグループ欄に「△」が付けられている。「△は、どちらかのグループに属します」との説明があり、丁目のなかでも「第2」と「第3」に複雑に分かれているというのである。
最初に停電を迎えたのは「第2グループ」。午後3時20分からの開始である。大震災によって中断していた市議会の予算委員会は本日再開され、しょっぱなからの「計画停電」実施であったが、市議会がある市役所本庁舎は「第3グループ」だというのを事前に東京電力から示されていたので、ときどきやってくる余震に揺られながらも、しゅくしゅくと審議は続けられた。
午後3時40分頃であろうか。委員会審議中の委員長席の隣に座っている市議会事務局長のもとに事務局次長がやってきて、耳打ちをした。事務局長が「えっ?」という顔を示し、委員長に何かを示した。その後に委員長が発した一言に、議場内は驚いた。「第2庁舎が停電しました」。
「ちょっと待てよ。第2庁舎は本庁舎と同じ『第3グループ』じゃなかったのか?」・・・・。そのとおり。東京電力が事前に示した区分けは、「第2庁舎と本庁舎は『第3グループ』」である。「第3グループ」は夜の6時20分から停電の予定となっている。だから第2庁舎はそれまでの間、業務を精力的に続ける決意を固めていた。そこへ、突然の停電が襲ったのである。
市民課、保育課、介護福祉、障害福祉、税務関係、水道、下水、ゴミ、環境、土木、都市計画、教育など、市民対象のあらゆる機能が集中する第2庁舎の建物全部の照明が消え、パソコン画面が真っ暗になり、窓の外の景色だけが明るく感じられる状況となった。窓口のカウンター前では、市職員と市民が、突然やってきた薄暗さに呆然とたたずんだ。
休憩が宣言された議場をあとに、市の管理職者があわただしく第2庁舎に向かう。何人かの議員も興味本位?に、あとに続く。残された者は自室に戻り、東京電力が示したグループ分けの資料に再度、目をやった。テレビでは、雪に震える被災地を映し出している。
昨日の夜、東京の三多摩地域では八王子市と日野市で停電が実施された。ただし、予定外の場所も停電した。被害者は八王子市役所庁舎と日野市役所庁舎である。停電区域ではないはずなのに突然、停電が襲い、両方の市役所業務がストップした。今回の小金井市も同様である。しかも小金井市の場合には、市民が市役所に来ていた時間帯であったために突然の事態に市民は混乱し、市職員にくってかかる場面もあった。心の準備ができていなかった市職員は防戦に追われた。
夜、予定より25分遅れで、「第3グループ」の停電がやってきた。予定では6時20分からとなっていたため、「中止になったのかナ」との思いが高まってきた矢先での停電であった。しかし、予定時刻の前に懐中電灯の豆電球を点けておいたことから、「あ、消えたナ」程度で、停電時を迎えることができた。おもしろいものである。道を隔てた反対側は電気が点いているのに、こちら側は消えているという箇所があちらこちらに見受けられる。しかも物音がせず、静かである。3割ほど欠けた月が天空にあり、街なかを照らしている。“月の明かりって、こんなに明るいんだ”と、あらためて感じた。
予定より1時間15分も早く、午後8時45分に明るさが舞い戻った。まっさきに暖房器具のスイッチに手が伸びた。
東北関東大震災『計画停電』
原発の停止・爆発によって電力供給が滞る事態となったために、東京電力は「計画停電」をスタートさせた。小金井市でも14日からの実施が東京電力から伝えられていたが、15日時点で、実施されてはいない。
「計画停電」が発表された13日の夜、我が家でも懐中電灯と電池、蝋燭、マッチを家中から探し出し、“こりゃぁ壊れているな”と勝手に判断していた懐中電灯をあれこれ診察して使えるようにし、誕生日ケーキに付いていた小さな蝋燭もかきあつめて、万全の体制をとった。いまのところ出番がないのは、ありがたいことである。
しかし、正直、困惑している。東京電力の報道に沿って、小金井市は早朝から防災用スピーカーで市民に「本日、午前6時40分頃から概ね3時間程度、計画停電が実施されます」と述べた直後に東京電力が予定を変更し、すぐさま小金井市も「中止」の案内を防災用スピーカーで行なわざるをえなくなっている。そのたびごとに市民は、玄関から出たり窓を開けて、スピーカーから流れる声に聞き耳をたてるのである。
東京電力は、計画停電を行なうかどうかは、土壇場まで決心しようとはしない。午前6時40分からの計画停電の場合、それ以前にスピーカーからアナウンスすることになる。15日の朝は午前6時20分頃に「実施されます」のアナウンスがスピーカーから発せられた。誰もがその時間に起きているわけではない。このスピーカーでたたき起こされる人もいる。なのに続いて発せられたスピーカーは「中止」である。そりゃぁないだろう。我が家は6時20分のスピーカーでたたき起こされたカミさんが急いで蛇口をひねり、水をボールや鍋に貯め込んだ。断水に備えるためである。その水がいまも、ボールと鍋に貯め込まれたまま、台所に置かれている。
東京電力は「計画停電」だと強調する。しかし誰もが言う、「無計画停電」だと。子どもの頃、近所のおばあちゃんは言っていた。「オオカミが来たよ、オオカミが来たよと嘘をついていた少年が、本当にオオカミが来たときには誰もが信用せず、少年はオオカミに食べられてしまった」と。我が家の子どもたちは昨夜までは節電に努めていた。しかし今夜は普段の生活に戻ってしまっている。いっぺんに緊張感が解けてしまったようだ。周囲の人たちは言う、「オオカミ東電」だと。
東北関東大震災『その時』
稲葉孝彦市長が、日本共産党の森戸よう子議員の質問に答弁している時だった。「地震だ」の声が議場に響き、答弁を中断した市長が立ちながら様子をうかがっていると、次第に揺れ方が大きくなっていった。「これはヤバイぞ!」「天井の蛍光灯の落下に気をつけろ!」「机の下にもぐれ!」「入口のドアを開けておけ!」「委員長、休憩を宣言しろ!」の叫び声が行き交う。机の下にもぐろうとする者、天井や窓側を見やりながら呆然とする者、机の角をつかみながら成り行きを見守る者・・・。議員も市側も、なすすべもなく、ただただ揺れが収まるのを待ち続けた。
揺れは2分くらいだったろうか、それとも1分程度だったろうか。揺れが収まり、とにかく委員会室を出た。「大きかったなァ」「こんなの初めてだ」「ついに関東大震災が到来したかと思った」「倒壊している建物があるんじゃないのか」「余震があるかもしれないゾ」などと、廊下で議員連中がガヤガヤ騒いでいると、庁内放送が流れだした。市長の声である。「みなさん、急いで建物から避難してください。急いで建物から避難してください」。議員も職員も、3階の委員会室前からドヤドヤと階段を下り、庁舎前の中庭に集まった。周囲を見ると、他でも建物の外に人々が飛び出している。東隣りの小金井消防署では、職員があわただしく行き交っていた。
震源地は宮城県沖だという。しかも震度7。「えっ!東京じゃないの?。それじゃ、宮城県は全滅じゃないのか?」。誰もが脳裏に16年前の「阪神淡路大震災」を浮かべていた。外は寒いため、とにかく部屋に戻ろうと、私を含め何人もの人たちが庁舎内に入った。と、その時に余震がやってきた。みんな急いで中庭に逆戻り。建物を見ると、ガラス戸が「バタバタ」と音を立てて揺れている。中庭の大きな樹木も揺れている。この時になってようやく「怖い」と思うようになった。中に入って上着を取ってきたいのだが、余震が怖くてなかなか入る気になれないのである。
小金井市役所本庁舎は、いまから46年前の1965年に建てられた。RC構造で、耐用年数は50年。あと4年で耐用年数を迎えるという代物である。しかも、旧耐震構造であるために、今日の耐震基準を満たしていない。前々から、耐震診断の実施と耐震補強の必要性が叫ばれてきた建物である。揺れが襲ってきた時に、「ヤバイ」と誰もが思ったことであろう。この日の議会は中断となった。市長・部長をはじめ市の職員は、市内公共施設を中心に被害状況把握に向かったからである。第一、議会を再開する気にもならなかった。
その後、私はバイクで貫井南町や前原町を走った。南中学校生徒が先生に引率されて集団で下校。小学校児童は防災頭巾をかぶって、複数で下校。心配された倒壊家屋もなく、まずは一安心となった。しかし帰宅してテレビをつけると、驚くべき光景が飛び込んできた。誰もがテレビに釘付けとなっていった。
地震のその時、カミさんは職場のビルの8階で迎えた。「書類や食器が棚から飛び出し、テレビが倒れないように押さえていた。8階だったので、ものすごく揺れた」。中学3年の娘は中学校で迎えた。「全校集会だったので体育館にいた。体育館の天井がワサワサ鳴り出し、続いて建物が揺れてきた。舞台上の照明が大きく揺れていた。友達のなかには泣いている子もいた。私は友達と抱き合っていた。揺れが収まったので教室に戻ったら、また揺れてきた。先生が校庭に急いで出るようにといったので、みんな、校庭に出た」。高校2年生の息子は沖縄への修学旅行中。「砂浜で携帯電話でニュースをみていたら、地震のことが出ていた。津波がくると言われたので、砂浜を離れた。ホテルではずっと、地震の模様を見ていた」。
共産党の控室では、森戸よう子議員の机の上の大部分の書類が床に落下。本棚の上に置いていたニュースファイルも落下していた。民主党の部屋では、テレビが落下して大破。議長室も書類が散乱した。一方、我が家では、若干の書類が本棚から落下した程度で済んだ。
その日、カミさんは帰宅難民となった。翌日の夜、疲れ果てた体型で帰宅。息子も沖縄から無事帰宅した。カミさんが帰宅した3月12日は、カミさんの誕生日であった。一生、忘れられない誕生日となった。
都立高校入試
都立高校の入試が23日に行なわれた。景気悪化を反映して、前年以上に受験生が殺到。家庭の事情で私立に行けない生徒の、全員合格を願わずにはいられない。
同僚議員にも我が家にも、高校受験生がいる。「ピリピリしてるよ。話しかけると『黙ってて』って、うるさいんだ」と同僚議員。我が家と同じ光景である。
テレビや漫画を見る姿が、教科書や参考書を見る姿に変わったのは今月に入ってから。あまりの真剣さに、「いまさら慌てても・・・・」とはさすがに言えなかった。
努力を続けた者のみが次への段階にいけるのは、どんなことでも同じ。小金井市の新年度予算には、新庁舎の機能等についての基本計画を策定する「市民検討委員会」の予算が計上された。2年4カ月前の直接請求運動は、次の段階へと市政を動かしている。
その歩みを築いてきた主軸の1人が、市政転換に挑戦する。橋をたたくように詰めていく生き方に、大いに賛同したい。
市政の向きを変えた住民投票条例制定運動
有権者の11%、10,252の署名は、駅前庁舎を狙う稲葉市長を驚愕させ、庁舎の建設場所を検討する市民検討委員会を発足させた。それでも市長は「駅前庁舎」が示されることを期待していたと思う。しかし「市民1万人アンケート」は「蛇の目跡地」を62.6%が選択。市長の思惑はもろくも崩れ去った。
2年3カ月前に繰り広げられた「住民投票条例制定運動」は今日、市政の向きを大きく変えようとしている。市長は答申が出された際に「庁舎建設基金が2億5千万円しかない」と述べ、答申に背を向けようとしているが、市民の熱意は消極姿勢をけっして許さないであろう。
稲葉市政12年の間もリース庁舎は継続され、「財政が厳しい」はずなのに駅前開発は促進された。しかしもう逃げることはできない。4月の市長選挙は「庁舎建設」が問われるからだ。
その問いに真正面から応えられるのは、2年3カ月前に運動の中心を担った者たちである。
市内小売業の位置
景気低迷の長期化で、市内小売業の年間販売額は、1997年から2007年までの10年間に16%も落ち込んでいる。追い打ちをかけるように、昨年3月には武蔵小金井駅南口に大型商業施設が進出。小金井市の調査でも、歩行者や自転車の流れが南口再開発区域へと大きく変化したことが記されている。
しかも今度は、JRが中央線高架下の駅直近に、商業施設を入れるという。中央線を利用した人が、駅構内で買物ができるようにする仕掛けである。このような街づくりを、唯々諾々と見過ごして良いものだろうか。
年の瀬も押し迫り、クリスマスソングが街中を流れる季節になった。しかし、街はいっこうに活気を見せない。歳末大売出しも、ひさしくお目にかかってはいない。
大企業の減税と引き換えに、庶民増税へと動き出した菅内閣。地域商業よりも駅前開発を選択した稲葉市政。来年はどちらもオサラバである。
(「しんぶん小金井」2010年12月26日付から)
落ち葉
猛暑で痛めつけられた木々の紅葉はどんなものかと気を揉んでいたが、赤や黄の色彩が青空をバックに、街全体を見事なデッサンに仕上げている。その紅葉も晩秋に入り、一雨ごとに落ち葉となって色彩の場所を地面へと移し始めている。
落ち葉の季節に合わせるように、管内閣の支持率が急落している。雇用やくらしなど国民の願いに全く応えず、加えて閣僚の相次ぐ不手際。法相の首切りで済むようなものではない。国民は自民党と変わらぬいまの政治に、ノーを示しているのである。
迎える冬は厳しいという。大学生の就職内定率は6割弱、高校生は4割前後。なのに大企業は、リストラ・合理化、下請いじめで、200兆円以上ものお金を貯め込んでいる。春を早く迎えるためにも、貯め込んだお金を国民に還元させる政治が必要だ。
今年もあとひと月。異常気象も古い政治も落ち葉とともにゴミ箱の中へ。大企業にモノを言える政治こそ、求められる。
(「しんぶん小金井」2010年11月28日付から)
晩秋・・・
「暑さ寒さも彼岸まで」と記して1カ月。気温は10度下がり、まるで晩秋のよう。桜が過ぎた4月17日に雪が降り、7月中旬から2カ月余は猛夏の嵐。「さわやかな秋」があったかどうかも残らないままに、北風に震える日々を迎えた。
気候と同じく、政治の世界も安定感が見られない。国民の期待を受けて登場した民主党政権は、雇用も後期高齢者医療も零細業者や国民のくらしも、まったく手つかずじまい。前政権よりも後退する事態さえ見受けられる。企業から献金を受け、アメリカの顔色ばかり見る政治では、自民党時代と変わるものではない。
国のあり方や国民の暮らしをいかに良くしていくのか、その答えを誰もが求めている。
政党をつくって88年。ブレることなく一貫した旗を掲げ続ける政党こそが、その答えを導き出せる。4年ぶりに開かれる「赤旗まつり」は、絶好の機会である。
(「しんぶん小金井」2010年10月31日付より)
三宅島の苦悩
「三宅島」。PRリーフレットには「東京から180q。地球の息吹を全身で感じる癒しのスポット」と記されている。東京の竹芝桟橋から客船で6時間30分、羽田空港から50人乗り飛行機で45分で、伊豆七島の「癒しのスポット」に到着する。
「三宅島」は同じく伊豆七島の「大島」と並んで、火山の島でその名を全国に轟かせた。直近では10年前の2000年7月〜8月の雄山山頂からの噴火、その前は1983年の阿古地区での噴火、その21年前の1962年には坪田地区で噴火している。つまり、周期的に噴火し続けているのが「三宅島」である。
10月20日(水)の夜、小金井市市議会の代表7名と議会事務局職員2名の計9名は、竹芝桟橋から東海汽船に乗船して三宅島に出発した。小金井市と三宅村は友好盟約を締結しており、市議会からの代表を毎年、友好使節団として送っているのである。日本共産党市議団からは私が参加した。
三宅村の資料によると、今から52年前の1958年当時は、人口が7,121人いたが、今年4月1日時点では2,822人にまで減少。しかし世帯数は1958年が1,775世帯に対して、今年4月時点では1,716世帯と、大きな変化は見られない。何故か?。そのことを三宅村議会の方々に質問したところ、以下の答えが返ってきた。「若者は島外に出て行き、残っている多くは、高齢者だけの世帯。世帯数がそんなに変わらないのは、島外から単身で転入してくる人がいるため」。2008年度、三宅島は出生が20人、死亡が47人。島外からの転入は142人、転出は184人となっている。この数字を見るだけでも、年々、人口が減少していくのは手にとるようにわかる。
ところで「転入」とはどういうものなのか?。それに対しての答えは「教員や警察、消防署の職員など、島外から赴任してくる人たちが中心。2000年の噴火以前は家族連れで赴任してきたが、噴火後は単身赴任が認められるようになり、世帯数としてはカウントできても、人数は単身というもの」。なるほど、島の人口構成を見ると、女性のピラミッドが70歳台後半に大きな山があるのに対して、男性では50歳台後半に山を迎えている。加えて、男性の方が女性よりも200人余、人口が多くなっている。つまり、男性の単身赴任が多いということである。
「三宅島」は、「漁業と農業の島」というイメージを持っていた。しかし実際には、第1次産業はほんのわずかで、製造業などの第2次産業も20%程度、あとの7割余は観光や卸・小売業などを中心とした第3次産業で占められている。観光をメインに島の経済は成り立っているのである。しかし、「事業者の高齢化・後継者不足等にともなう民宿等の宿泊施設の半減などによる受け入れ体制の問題がある」と三宅村の資料では述べられ、一度に観光客が大勢こられても、対応できる状況にはないことが記されている。
三宅島は現在、島の東側区域の坪田地区が高濃度火山ガスのために立入禁止区域となっている。東海汽船から下船する際に我々の手元にはガスマスクが配られた。島に入る際には、ガスマスクの携帯が要求されるのである。しかし実際には「着用することなどない」というのが島の人々の説明である。何故なら「高濃度ガスが発生したら、その場所からすぐに避難するから」。マイクロバスで島内を案内していただいたが、出会う人たち(高齢者ばかり)は誰も、ガスマスクらしきものを持ってはいなかった。注意することは必要ではあるが、「ガスマスクの携帯」などが広報されたりするのは、観光で生きている島にあっては、どんなものかと思うところである。
三宅島は今回で4回目の訪問になる。前回は4年前。今回と同じく市議会の一員として、噴火後の復興の様子を見に来ている。その前は噴火前で、これも市議会の一員として、三宅村の農業祭の時に訪問。その前の最初の時は、仲間うちとプライベートで来ている。今回は小雨まじりの残念な天候であったが、過去3回は天候に恵まれ、三宅島の自然を存分に味わうことができた。お腹が赤い鳥「アカコッコ」を観察できる「アカコッコ館」や三宅島に古くから住んでいた人々の発掘物を展示した「郷土資料館」に入り、天気が良いときは1983年の噴火で消滅した「新澪池跡」を上から眺め、噴火口跡が池と化した「アカコッコ館」近くの「大路池」の水面近くまで行く。圧巻はいまなおガスを吹き上げる雄山の山道に車で入り、溶岩石やガスで枯れはてた山肌を肩ごしに見ながら、頭上の展望台まで車で走る。もちろん、噴火口には近づけないし、雄山は危険区域なので、村長さんの許可が必要になる。許可が下りなかったら、そのときは海辺の岩に囲まれた自然の海水プールとなっている「長太郎池」に下りていき、泳いでいる魚の観察を行なおう。夕日が沈む時間に合わせて阿古地区の温泉「ふるさとの湯」に入り、水平線に沈む夕日を堪能する・・・。宿の食事はもちろん、海の幸、山の幸、そして「あした葉の天ぷら」である。三宅島の焼酎で心も体もほぐして、静かな島の夜をこころゆくまで楽しむべし。もちろん携帯電話はオフにする。場所によっては「圏外」にさえなってくれる。仕事の疲れやストレスをいやすには、もってこいの場所である。
自然いっぱいの三宅島ではあっても、火山の爆発・全島避難は、その後の島民に重い荷を背負わせることとなった。それは第一に、今なお続く火山ガスによる影響である。観光で生きる島にあって、火山ガスは観光で島に出かけてみようという人々の足を止める役割を果たしてしまっている。三宅島には三宅空港がある。羽田から全日空が1日1往復で飛ばしている。ところが火山ガスによって、しばしば欠航となる。────「羽田空港からの出発のため、浜松町からモノレールを利用して羽田まで行く。ところが“欠航”となったら、そこまでの交通費がまるまる意味をなさなくなる。家族で来ようものなら、片道だけでも2〜3千円の出費となる。なのに“欠航”では話にならない。しぜんに飛行機利用から船利用へと意識は変わる。しかし船では揺れる上に、7時間近くもかかってしまう。だから、観光客はなかなか増えない」というのである。一方、宿の側も、「飛行機で来るお客」の場合は、なかば諦めるという。飛行機が欠航になれば、お客は来れないからだ。飛行機の飛ぶ率は3割だという。大リーグの松井秀樹なみの確率である。三宅空港は、高濃度の火山ガスが吹きつける坪田地区に位置する。「島の観光の最大の障害は、火山ガス」なのである。
しかしそれ以上に深刻なのは、周期的に噴火を繰り返す三宅島そのものである。そのことを村議会議員の方々は私に切々と訴える。「住民の多くは畑を持ち、自給自足の生活をしている。海岸に行けば魚も釣れる。一週間のうちにほとんどお金を使うこともない。だから、年金だけでも充分に暮らせる。しかし、20年周期の噴火に備えての貯蓄を余儀なくされる。だから、金はそんなに使うわけにはいかない。大変なのは家族を抱えた人たち。公務員やサラリーマン以外は収入が不安定なたため、家族を養えない。そのため、島を離れざるを得ない。それに、ガスのため、家も車もすぐに傷む。ガソリンはリッターあたり200円もする」「生活の安定性がなく、噴火が20年周期で起きるので、家や設備への投資もできない。噴火のたびに住民は流出していく」────。島には、保育園も小・中学校も三宅高校もある。けれども大学や就職となると島外へ出るほかはない。教育環境を理由にした家族での離島や、島外に出ている子どもたちが親を呼び寄せるケースも多く、島の人口は減っていく一方である。「畑はタダで借りられる。空いている家はいくらでもある。しかし」と訴える彼らの顔には、先の見えない焦りがにじみ出ている。11月6日・7日には三宅島でバイクロードレースが行なわれる。観光客を呼び集めるイベントを否定するものではないが、支援のあり方を根本的に見つめなおす必要があるのではないだろうか。しかし、だからといって私に良案があるわけではない。せめてもの思いで、三宅島のPRを行なうくらいしかないのである。 ※写真は今回撮影したものと4年前のものを使用
秋を迎えて
「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもの。「暑中?」「残暑?」と、9月中旬でも暑い気候になんと表現すればよいのか迷っていた日々が去り、ようやく「秋」と疑うことなく言える陽気となってきた。
記録づくめの夏の影響で野菜や果物の価格がはねあがり、あがるどころか下がり気味の収入を前に、値札を見て、伸びかかった手をひっこめる姿が、あちらこちらで見受けられる。小遣いの低下いちじるしい私も、その1人である。
民主党の管首相は、大企業の法人税引き下げの検討をすすめている。財源は?の問いに、「消費税増税」がまたぞろ浮上。気候に影響を受けた果物や野菜が、今度は消費税増税で価格をつりあげる時がやってくるのだろうか。
酷暑の夏は去ったが、暮らしを守る熱い闘いは去るわけにいかない。「水分補給を十分に」の報道に励まされ、泡の出るものばかりを飲んでいたが、ベルトを引き締めて、前へ前へと踏み出そう。
猛夏の防災訓練
87年前の9月1日は「雲に覆われ蒸し暑かった」と記されている。今年の9月1日は、記録的な猛暑の連続のなかで迎えた。
その防災の日を前に小金井市は、8月29日の午前、東中学校校庭で総合防災訓練を実施。「無理をしないように」のアナウンスのなかを、多くの参加者が35度の炎天下で汗を流した。
訓練では、自主防災組織や消防団が一斉放水を実施。「建物に放水するよりも、霧状にして我々の方に放水してほしい」の声や「イザ!という時に水は出るのか」などの疑問も聞かれた。
消火作業でも避難生活でも、水は欠かせない。しかし小金井市内の消火栓や給水管は、震度5に耐え得るのみ。飲み水を運ぶ給水車も所有は1台。肝心の取水地である浄水場も、市内には1カ所しか存在しない。理想と現実との間には、まだまだ大きな乖離がある。
駅前にハコモノをつくる以前に、いつ起きてもおかしくない大地震に備えたまちづくりこそ、まったなしであろう。
小金井市の図書館
「いつでも、どこでも、だれでも気軽に利用できる市民の書斎であり続ける」ことを「市立図書館の基本方針」に掲げる調布市は、本館と分館あわせて10館の図書館を運営している。正規職員は60人、非常勤嘱託職員を含めると210人余の職員を配置し、市民のため の地域の情報拠点の活動をすすめている。
一方、小金井市は本館と分館・図書室あわせて4館のみ。職員体制も、正規職員と非常勤嘱託職員あわせて、わずかに39人。「市民の書斎」からは、ほど遠い状況となっている。
小金井市は、2014年4月開館予定で、貫井北町地域センター構想に入っているが、施設をまるごと委託し、図書館職員をさらに削減する方向。積極的な図書館活動を展開するために「市直営」を選択した調布市の姿勢とは、雲泥の差である。
猛暑の夏。図書館に足を運び、郷土の歴史や文化に触れて、身も心も充実した夏を過ごしたい。夏は今が真っ盛り。
参議院選挙比例区
この制度は見直した方がよいと思う。参議院選挙比例区の投票方法のことである。ご存じのとおり、参院比例区の当選者は、その政党に投票された票と、その政党の比例区登載名簿に記載された候補者に投票された票の合計で人数が決まる。しかも当選順位は、その政党の比例区登載名簿のなかの候補者名で投票された票が多い順となっている。この制度があるために、開票所に集まった開票作業員と開票立会人は悲惨な時間を過ごすこととなった。
7月11日(日)投開票の参院選の比例区には12の政党が候補者を擁立した。少なくても5人、多い政党では45人もの候補者を名簿に登載しており、比例区の候補者名は全部で186人にもおよんでいる。開票作業は11日(日)の午後9時から始まった。しかし小金井市の選挙管理委員会は東京選挙区の開票作業を優先してすすめたため、選挙区の開票状況は報告されても、比例区は報告されない事態が続いた。そのため、開票立会人は開票場内をうろついて自身の政党の票の出具合を目で確かめるしかない状況に置かれた。
加えて、政党名のほかに個人名の票があるという難関が開票作業員を苦しめた。前述したように全部で186人が比例区の名簿に登載されている。票の用紙に記載された氏名がどの政党に属しているのか、はたまた、この氏名は名簿に登載されているのかなど、作業員は186人の氏名がかかれた集計箱とにらめっこをしながら、個人名の票を仕分けし、整理していくのである。それはまるで神経衰弱ゲームを想起させるものであった。
そうこうしていくうちに、東京選挙区の開票が終了し、開票作業員も比例区の開票に必要な人数を残して、開票場をあとにする。また、東京選挙区の開票立会人も「おさきにね〜」といいながら、比例区の開票立会人の羨望のまなざしを尻目に立ち去り、静まり返った開票場にはおもぐるしい空気が流れた。
窓から見える外の景色に白色が映し出されている。夜が明け始めたようだ。熱いコーヒーでも飲もうと、自動販売機の前で小銭を用意した。しかし冷たい飲み物ばかりで、温かい飲み物はいっさいない。以前は用意されていた開票立会人用の温かいお茶も、今度の選挙管理委員会事務局は「経費節減」とでも思っているのか、用意されていない。「気が利かない選挙管理委員会だ」とブツブツいいながら、シーシーレモンのボタンを押した。
「大変おつかれさまでした」との選挙管理委員長の締めのあいさつで放免となったのは、午前4時43分。あくびをしながら車で家に着いたのは午前5時過ぎ。居間の戸を開くと驚いたことに、息子がテレビを見ていた。ワールドサッカーだという。「今日は学校だろ!」といつもなら叱るところを、叱る元気もなく布団にもぐりこんだ。隣ではカミさんのイビキが鳴り響く。
小金井市の開票完了は他の自治体と比べて、相当に遅いことがわかった。その理由を選挙管理委員会事務局長は「読取機の1台に、読み取りスピードの調子が悪いものがあったこと。また、読取機4台ともに、票計算のバーコードの読み取りに不具合があり、そのため、票計算を手作業することになったため」と述べている(7月16日の行財政改革調査特別委員会での答弁)。小金井市は、比例区の開票完了は「午前2時」を目標にしていたという。いずれにしても、比例区に個人名投票を導入し、個人名も政党に投票したと見なし、しかも個人名の多い順に当選していくという制度にしていることが、開票作業を煩雑にしているのである。この制度が導入されたことから、タレントを多数、候補者に起用する事態となっていることも、これまた疑問のないところである。
7月16日の委員会で選挙管理委員会事務局長が答弁した、近隣自治体の開票確定時間等は以下のとおりである。なお、PDFファイルで「2010年参院選挙・比例代表の得票結果」を掲載しますので、ご参照ください。
|
選挙区 |
比例区 |
開票作業人数 |
読取分類機 |
小金井市 |
1:50
|
4:15
|
216人
|
4台
|
武蔵野市 |
0:30
|
2:25
|
286人
|
6台
|
三鷹市 |
0:55
|
2:20
|
267人
|
4台
|
国分寺市 |
0:18
|
1:05
|
237人
|
7台
|
国立市 |
0:20
|
3:25
|
126人
|
3台
|
西東京市 |
1:09
|
2:45
|
317人
|
6台
|
納得できない
納得できない。大相撲の賭博問題で、賭博常習犯の親方と恐喝事件に発展した大関を除名または解雇するのは当然。しかし、賭博に関与したそれ以外の力士は名古屋場所休場、親方と、胴元との仲介役の床山は謹慎で、「名古屋場所は予定どおり開催」というのは腑に落ちない。
政治の世界も納得できない。小沢一郎氏を排除したら「政治とカネ」はうやむやにされ、普天間基地の公約違反もそのまま。加えて消費税増税では「福祉のため」といいながら、経団連の要請に応えて、大企業の法人税減税の穴埋めに充てる。
大相撲は「国技」。政治は「国の顔」である。国民の疑問に応えずにその場をやり過ごし、お茶を濁すあり方では、大相撲にも政治にも、国民は背を向けるであろう。
ただし、消費税増税には背を向けるわけには行かない。今年度中に法案を成立させ、2〜3年後には税率引き上げを行なうというのだから。
沖縄の米軍基地
日本で唯一地上戦があった沖縄は、島民の4人に1人が命を落としている。1945年6月末、戦闘がようやく終結。山や洞窟から戻ってきた島民が目の当たりにしたのは、農地を鉄条網で囲み、基地建設をすすめる米兵の姿であった。
以後65年。6歳になる女の子が強姦され殺された「由美子ちゃん事件」(1955年)。演習場内にある自分の水田の様子を見に行った女性が、狩猟に来ていた米兵に「イノシシと間違えた」と至近距離で射殺された事件(1959年)。青信号で横断歩道を渡っていた中学生が、「太陽の光がまぶしくて信号が見えなかった」との理由でトラックにひき逃げされた「国場君事件」(1963年)::。米兵による犯罪が次々と続いている。
その沖縄の米軍基地を、民主党政権はタライ回しするという。基地を抱える町はあと何十年、米兵犯罪に苦しまなければならないのだろうか。
面積の20%を米軍基地に奪われた沖縄は今月23日、怒りの中で終戦記念日を迎える。
土への思い
父親の三回忌は、新緑が映えるゴールデンウィークの前半に行なわれた。この時期に帰省するのは15年ぶり。福井ではこの時期に田植えが行なわれる。
法要の合間をぬって、実家の面々とツツジ見物に出かけたが、今年は冬が長かったことから、ツツジはちらほら。けれどもいきなりの陽気に誘われた多くの人々が、公園にドッと繰り出していた。
田植えが始まった水田のかたわらを走る車内では、我が家が稲作から手をひいたことへのやりとりが交わされていた。稲作を行なうよりもコメを買った方が安上がりだとか、水田の管理はなかなか大変だとか・・・・。代々続けてきた稲作を父親の死を境に行なわなくなったことへの、うしろめたさや申し訳なさが、ごちゃまぜになって語られている。彼らの土に対する思いを、垣間見た気がした。
日本の食糧自給率は39%にまで落ち込んでいる。土にまみれて暮らす人々が笑顔で暮らせる国づくりを心から求む。
桜満開の入学式
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6日の第四小学校入学式
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暖かかったり寒かったりと極端な気候の入れ代わりのなかで、例年ならば3月下旬の卒業式あたりに咲き始める桜が、今年は出鼻をくじかれ、4月の入学式前後にちょうど満開を迎えることとなった。
小金井市でも小学校が6日に、中学校では7日に入学式が行なわれ、桜が舞う中での晴れ舞台となった。
景気低迷のなか、高校に限らず小中学校においても、公立の学校を選択する家庭が増えているという。市立南中学校の入学式では、150名の新1年生を迎えたが、近年では最高の人数に。ただし「私の魅力のたまもの」だと学校長はいうのだが::。
式典に参列して、1週間前までは小学生だった初々しい新1年生を眺めながら、小金井市の就学援助を受けている生徒の割合「12%」を思い浮かべた。
子どもたちの夢や未来が、経済的な理由で左右される世の中であってはならない。格差が広がりつつある社会を平たくしていく政治こそが求められている。
まちこわし
駅前の大型開発を、「まちづくり」だと市長は言う。企業を誘致し大型店舗を構えて、「税収構造を変える」とも言う。
1年前の3月、武蔵小金井駅南口再開発区域にイトーヨーカドーがオープンした。前後して、3階まで店舗等を入れた25階建てビルが完成し、秋には交通広場の南側に商業ビルがオープンした。
3つのビルの店舗内容を見ると、いずれも地元商店街と競合することがわかる。加えて、ビルどうしがお客を取り合う状況になり、1年の間にイトーヨーカドーでは、複数のテナントが入れ代わった。
「まちづくり」を言うならば、長年、地域の台所として頑張ってきた地元商店を育て、商店街と競合しないモノを開発区域に置くべきである。しかし市長の口からは「自助努力」の言葉しか聞かれない。
商店が次々と姿を消し、駅前にだけ人々が集まる光景が目前に来ている。「まちこわし」は、止まることを知らない。
アイドリングストップ
コンピューターシステムを採用した「プリウス」などのブレーキ不具合が指摘され、リコールが行なわれるようになった。新型自動車の安全性が、一気に疑われる出来事である。
コンピューターは日常生活にも深く入り込み、コンピューターなしではいまや考えられないほどに。我が家にもパソコンやテレビ、エアコンなど、見渡せばオンパレード状態。どれもが正常に作動されなくては困るものばかり。それが安全第一の自動車とあっては、なおさらのことであろう。
同じトヨタでも、我が愛車はコンピューターとはほど遠く、10年以上も前の旧式。今回の「エコカー」などとは比較にならない、自然には優しくない代物である。それでも安全に私を運んでくれる。
一方、我がバイクは17年目の働き者。「まだ倍は走れますよ」とバイク屋さん。「エコカー」に負けずに最近では、信号待ちするたびに「アイドリングストップ」を勝手に行なうようになった。
成人式
底冷えのする成人の日の午前、小金井市でも成人式が開かれた。小金井市の新成人は1,266人。手元の資料によると、9年前の2001年が1,576人なので、310人も少ない。全国的には統計をとり始めて以来、最も少ない人数となり、40年前の1970年と比べると半数に減っているという。減少傾向はまだまだ続きそう。
成人式で目立つのは、女性陣のあでやかな振り袖姿。羽織袴の男性陣も増えてきている。けれど、小金井市の成人式に顔を見せたのは、新成人の6割弱。参加したくても参加できる環境にない若者や、生きるために職を求めて寒空の下を歩き回っている若者も多いのではないだろうか。
31年前、私も小金井市で20歳を迎えた。けれども地方出身の者にとって、慣れない地での成人式は敷居が高すぎる。着ていく服もなく、一人部屋の中でテレビを見ていた記憶が残る。そのような者も気兼ねなく参加できる成人式であってほしい。
中央線の高架化完成
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武蔵小金井駅南口
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11月下旬頃から、武蔵小金井駅南口の様子が、週単位で変化している。駅前広場の整備に拍車がかかり、南口の出入口も変化を繰り返しているからだ。そして12月6日、中央線の高架化が完成した。高校に通う息子は「上りホームに行くのに、便利になった。駅に入ると、なんだか都会的になった感じがする」と言う。
高架にはなったものの、高架下には依然として線路が敷かれたまま。小金井街道の高架下で模様眺めをしていると、自動車が線路手前で停止し、左右を眺めてバツ悪そうに発進する光景があった。「習慣」とは、恐ろしいものである。
そういう私も、高架下の線路手前で、おもわず左右を確認してしまった。線路があると、電車が来るのではないかと見てしまうのは、社会教育の見事な成果でもあると思うのだ。
それにしても、南口広場は広すぎる。どうしてこんなに広くする必要があるのか?と思うのは、私だけだろうか。
(「しんぶん小金井」2009年12月13日付より)
米沢市の現実
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※写真は午後8時の米沢市の商店街
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山形県米沢市は人口9万人。有名な「米沢牛」とともに、現在放映中のNHK大河ドラマ「天地人」の舞台としても脚光を浴びている。その米沢市へ10月末、昭和病院組合議会の行政視察で訪れた。
近隣自治体が共同運営している総合病院の取り組みを学ぶために訪れた米沢市は、「天地人」の上杉景勝が直江兼続とともに関が原の敗戦後、初代藩主として赴任した地。「天地人」効果もあり、さぞや賑やかな街であろうと、心踊らせて街に降り立った。
ところが、商店街は昼間だというのにシャッターが下り、国道沿いはあちこちで「売地」「貸し家」の看板が建ち並ぶ。思いと現実の狭間で、複雑な心境に陥った。
振り返って小金井市。駅前を賑やかにする街づくりには余念がないが、商店街づくりは当事者任せ。商店街と小金井の緑・自然が溶け込んでこそ、多くの人に来てもらえるというもの。「愛」の兜は小金井市にこそ必要だ
(「しんぶん小金井」2009年11月15日付より)
いよいよ踏切消滅へ
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※写真は武蔵小金井駅南側踏切
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「開かずの踏み切り」で名を馳せたJR中央線が、12月6日の上り線の高架化で、汚名返上となる。前身の「甲武鉄道」開設以来、120年。小金井市を二分していた線路や踏切がいよいよ消滅する。
だが、喜んでばかりもいられない。踏切がなくなるということは、徐行し、踏切で一旦停止していた自動車が、これからはスピードをあげたままの状態で、高架下を突っ切るということ。
懸念されるのは、武蔵小金井駅東側の踏切周辺の小金井街道。信号機のない道路をいかに歩行者が安全に横切るのか。同様に、学童の登下校中の踏切周辺も危険性が指摘されている。
誰一人として、踏み切りのない小金井市を経験したことはない。12月6日は、思いもよらぬ事態が待ち受ける日にもなりかねない。
しばらくの間は、高架下の線路は撤去されずに残る。電車が走らないにもかかわらず、いつものように停止して左右確認してしまうバイクの私が、おそらく見られるだろう。
(「しんぶん小金井」2009年10月18日付より)
示されぬ耐震化計画
14年前の阪神淡路大震災では多くの建物が倒壊した。この教訓をもとに、1981年6月以前に建てられた建物は、耐震補強の促進がうたわれるようになった。
小金井市は国の指針をもとに、市内の公共建築物や民間建物の耐震改修方針を昨年3月に策定。2015年度までに市公共建築物の耐震補強を100%行なうと明記した。しかし、いまだに耐震化に向けた実施計画は示されていない。
なぜ、示せないのか?。この問いに小金井市は「なにぶん、多くの財源を必要とするため」。その一方で南口再開発は着実にすすめられ、学童保育所3箇所の耐用年数は過ぎてしまった。
市役所本庁舎には、市の防災拠点が置かれている。6年後に建物の耐用年数を迎えるなかで、防災拠点をここに置いてよいものか?。この素朴な問いにも小金井市は、煮え切らぬ返答を繰り返すのみ。国と同じく市政でも「自公政治ノー」を突きつけるべし。
今が夏真っ盛り
早々と梅雨明け宣言されながら、梅雨時のような天候が続いた今夏は、台風9号の通過とともに、ようやく夏本番となった。しかし暦はすでに8月後半。昼間のアブラゼミやツクツクホウシの号泣と入れ代わりに、夕方からはヒグラシが寂しく鳴きはじめる。
一方、政治の世界では、今が夏真っ盛り。アブラゼミやツクツクホウシに負けじと熱弁が繰り広げられ、その声に応えるように、国民の関心もこれまで以上に高い。
私のもとにも、「医療費を下げてほしい」「特養ホームに入所させてほしい」「働く場所を探してほしい」など、切実な願いが寄せられる。今夏の政治戦では、なんとしてもこの願いに応えられる政治をつくっていかなければと思う。そのためにも見極めが必要。その政党が大企業やアメリカに堂々とモノが言えるのかどうか。
いまが頑張り時。巷ではヒグラシが鳴いても、政治の世界では鳴かせてはならない。
雲一つない政党が伸びてこそ
世紀の天体ショーも、小金井市では厚い雲に覆われ、残念な結果に終わった。東京地方は太陽の4分の3までもが月に覆われたというのだが、その割には暗くなったという感覚もない。少々、肩すかしをくった感じである。
マスコミ各紙は天体ショーと重ね合わせて、総選挙の行方を論じている。46年前の皆既日食の年にも解散・総選挙が行なわれたからだ。「自民か民主か」とはやしたてるが、大企業やアメリカに付き従う両者のどちらが政権につこうとも、政治の根底は変わってはいかない。ここでも国民は、肩すかしをくうことになるのではないだろうか。
企業献金や政党助成金という厚い雲に覆われた政党ではなく、「赤旗」購読料や個人献金・党費など、どこから眺めても雲一つない活動をすすめる日本共産党が伸びてこそ、国民が心から求める政治を示すことができる。暑い季節ではあるが、世紀の天体ショーにふさわしい結果を出していきたい。
市職員が月250時間の残業
月250時間の残業とは、どんな生活であろうか。朝8時30分から夕方5時15分までが「定時」の勤務。それからさらに8時間働き、仕事を終えるのは翌日の午前1時過ぎ。しかも、その日の朝には再び仕事がスタートする。これを1カ月まるまる続けると、月250時 間の残業となる。
この狂気じみた残業労働が、市議会議員選挙が行なわれた今年3月、小金井市の選挙管理委員会事務局で強いられた。
他の自治体では、選挙のある年は職員体制を厚くする。しかし小金井市は「行革」の掛け声のもと、都議選、衆院選のあるこの夏も、従来の職員体制で乗り切るというのだ。
「職員が倒れる前に、何らかの対応をとるべき」との要求に対して小金井市は、「他の部署でも少ない職員で頑張っている」と一蹴。職員をさらに削減する計画まで練っている。
ルールなき社会を、ルールある社会に!。この夏、熱い闘いを行なってこそ未来は開ける。
親父の一周忌
命日は6月22日である。実家の弟からは当初、「20日に一周忌を行ないたい」との連絡があった。しかし20日前後は6月市議会の最終盤を迎えるため、私の都合から一週間早めて13日(土)に一周忌を執り行うこととなった。
「6月に一周忌に行ってくる」と家族に告げたところ、「私も行きたい」「オレも!」と要求が突きつけられ、結局、一家総出で行くことになった。願わくば、2泊くらいはしたいところだが、14日の日曜日に息子のクラブ活動があるため、13日中には小金井に戻って来なければならない。一行は12日(金)午後6時の新幹線に乗車し、夜11時前に福井の実家に到着。翌13日の夕方6時前の北陸線に飛び乗り、夜11時に小金井に戻るという、あわただしい一周忌を迎えた。
一周忌といっても特段、構えるものではない。住職にきてもらいお経をあげてもらい、馴染みの料理屋で昼食を食べるという程度。親父の兄弟と葬式を手伝っていただいた近所の方々、親父のつれあいと3人の子ども、およびその家族が出席した。私にとっては一周忌であるが、子どもたちの目線では、イトコが集まって一晩、楽しんでくるという感覚。案の定、にぎやかな一周忌であった。
一周忌ともなれば、“あなたの知らない世界”が語られる。「春先まではお父さんが出てきたけど、いまはもう出てこんわ」と12日の夜、家族団欒の席上でおふくろが言った。“出てくる”とは、亡き親父を見るということ。「『うらはもうあかんで、あとたのむ』とハッキリ言った。今年3月の明け方のこと。そして目が覚めた」とおふくろ。おふくろは何度となく親父の夢を見るという。私も3度、親父が登場する夢を見た。けれども、会話はない。私にも言葉をかけてもらいたいものだと思う。
6月中旬は蛍が舞う季節。12日の夜、駅に迎えにきた弟に、蛍が舞う場所へ車で運んでもらった。私が子どもだった頃はもっと舞っていただろうにと思う。しかし、東京育ちの我が子は狂喜乱舞。なかなかその場を離れようとはしなかった。なんの音もしない、静まり返った山間の集落の川沿いで、親父も蛍となって飛んでいるのだろう。来年は三回忌。やさしく時は過ぎていく。
学校行事と新型インフルエンザ
新型インフルエンザの感染が広がるなか、市教育委員会は穏やかではない。手洗いやうがい指導など、子どもたちへの感染防止策を強めつつ、都内での感染情報に神経をとがらせなければならない。
しかも、京都・奈良への修学旅行を今月末に控えていた南中学校が、実施時期を9月初めに延期したことにともない、宿や新幹線のキャンセル手続き、9月の宿確保などの対応が迫られ、6月以降には小中学校の移動教室や林間学校の行事が待ち受ける。
感染地域や感染者がさらに広がれば、これらの行事はどうなるのか、楽しみにしている子どもたちの思いはどうなるのか。新型インフルエンザは行事を控える学校や子どもたちにとって、憂鬱な代物でもある。
修学旅行の延期によって、キャンセル料が発生した。市教育委員会は「できれば市の財源で対応したい」と述べるが、確定ではない。保護者負担はあってはならない。市財政部局の対応に注視が必要だ。
史跡『江戸城』
天守閣や本丸などの御殿が残っていたならば、都心の街づくりは違ったものになっていたにちがいないと、つくづく思う。5月の連休を利用して福井から上京してきた母親を連れて訪れた江戸城跡は、濠に囲まれた石垣の上の広大な公園であった。
東京に住んで32年。いつでも行けると思いながらも、史跡「江戸城」には、なかなか足が向かないものである。ものの本によると、江戸城は1457年に戦国時代の武将・太田道灌が築城し、1590年に入城した徳川家康によって江戸城の拡張工事がスタート。以後、約半世紀、三代将軍・家光まで城造りがすすめられ、近世を象徴する全国最大の建造物になったという。五層の天守閣は二代将軍・秀忠のときに完成。しかし1657年1月の明暦の大火(「振袖火事」ともいう)によって、天守閣と本丸、二の丸、三の丸が焼失。本丸などの御殿は再建されたが、天守閣は「財政難」を理由に再建されず、以来、江戸城は天守閣のない城として今日にいたっているという。
毎日新聞社のある地下鉄東西線「竹橋駅」から江戸城跡の前面に出てきた私たち一行は、濠に掛けられた平川門から入城した。ご存じのように、江戸城跡は今日、皇居となり、、一般人が入ることができるのは、江戸城の中心部であった本丸・二の丸・三の丸および天守閣跡の部分。1968年に皇居東御苑として一般公開されるようになり、祝祭日を除く月曜日と金曜日の休園日以外は無料で開放されている。平川門をくぐると、右に大きく曲がる坂道にでっくわし、道なりにすすむと芝生の生い茂った公園にたどり着く。訪れた5月4日は晴天。多くの家族連れやアベックが公園内を散歩し、天守閣跡にのぼって、日本武道館の緑色の屋根を眺めたり、かつては3千人の女性が詰めていた本丸「大奥御殿」のあった広大な公園を見下ろしたりしていた。母親は「江戸城跡」という感覚よりも、「皇居」という感覚の方が強いらしく、江戸時代に思いを馳せる私のかたわらで、テレビに映し出される正月の一般参賀を脳裏に浮かべている様子。親子それぞれが勝手な思いを持ちながら大手門から退城した。
江戸城跡は東京駅から歩いても15分余で来れる。大坂城が大阪環状線でぐるりと回らなければたどり着けないのとは大違いである。金の鯱をいただいた地上58メートルの五層の天守閣が現存し、1万坪もの本丸の大御殿が幕末の怪火で炎上していなければ、今日の東京都心は大きく違っていたのではないだろうか。江戸城跡の見物を終え、帰宅してから手元の書籍類をくってみると、当時の江戸城は、現在の皇居を核にして、城下の大名、旗本屋敷を外郭とする、ほぼ千代田区全域にわたることがうかがえる。同時に、開放されている皇居東御苑は、天皇の住む吹上御苑よりも小さいことがわかる。江戸城跡は国民・都民の歴史的な財産である。全体を一般公開すべきである。
余談であるが、江戸城跡の北側一角には桜の名所・北の丸公園がある。江戸時代、御三卿の田安家と清水家の屋敷があった場所で、現在は、東京オリンピックの柔道会場となった日本武道館、科学の実験が楽しめる科学技術館などがあり、天皇を守るべき近衛兵の反乱が起きた「竹橋事件」(1878年)の旧近衛師団司令部の庁舎(現「東京国立近代美術館工芸館」)も現存する。私は19歳の早春の季節に、当時付き合っていた女性と、北の丸公園でたびたびデートをした。当時は、その場所が歴史的にどのような場所なのかはまったく知らず、1878年に新政府に異議をとなえて反乱を起こした近衛兵士が走り回った跡地で、楽しい日々を送ったものである。桜の名所ではあるが、19歳の私の春は桜が咲く前にあっさりと散り、以来、31年、日本武道館での党の演説会に足を運ぶ以外は、北の丸公園にやってくることはない。あの頃の甘い思い出をひた隠しにして、今度、家族と一緒に、江戸城跡周辺の歴史散策に来てみようかと、ものの本をくりながら思うこの頃である。
緊急雇用事業
小金井市は今年3月、解雇や雇用打ち切りで職を失った人を対象に、緊急雇用事業を実施した。公共施設の清掃や事務補助、資料整理業務で、時給は850円から900円。就労期間は5日から18日程度というもの。
ところが、募集人員30人に対して、実際に雇用されたのは事務補助の4人(経済課産業振興係、市民税課諸税係、交通対策課交通対策係、図書館奉仕係)のみ。「緊急雇用事業の中身を知りたいという問い合わせはいくつもあったが、5日から18日程度という期間であったため、遠慮された人が多かった」と担当課は言う。また、就労期間の短さから業務内容も絞られ、そのことも応募を遠慮する要因となったのではないかと推測される。
3月に市議選があったことから、小金井市の新年度予算は例年よりも1カ月早く議会に提案された。そのため、新年度の緊急雇用事業は一つも組まれていない。補正予算が提案される6月議会では、効果ある雇用事業を生み出し、期待に応えられる市役所にすることが必要だ。
※写真は、緊急雇用の臨時職員登録を案内する「市報」2月15日付
桜の名所 近所の野川
「桜の名所」といえば、都内では上野公園や千鳥ヶ淵、墨田公園などが有名だが、三多摩では「都立小金井公園」が脚光を浴びている。小金井公園は小金井市・小平市・武蔵野市・西東京市にまたがり、4月3日(金)〜5日(日)の3日間は、小金井市観光協会主催の「桜まつり」が開催された。この3日間は天候もよく、ちょうど満開の時期を迎え、5日(日)には市議会議員選挙を終えた各陣営が、それぞれの応援者を従え、人出でごったがえす小金井公園へと花見に繰り出した。
小金井公園に繰り出す市民の多くは、JR中央線から北側地域に住む人のようである。南側地域には小金井公園とは比較にならないかもしれないが、それなりに桜を楽しむ場所があり、有名なところでは「都立武蔵野公園」「都立野川公園」、そして「都立多磨霊園」がある。多磨霊園はその名のとおり「墓地」であるが、桜の名所として近在では名をとどろかせている。もちろん墓地であるからには、墓石や卒塔婆があり、線香の匂いもただよう。しかし、多くの人が花見に繰り出していれば、墓石や卒塔婆や線香の匂いなどは気にならず、酒でも回ってくれば、線香の匂いや墓石も風流と化す。もちろん、夜ともなれば少なからず独特なおもむきを発するが、「あなたの知らない世界」を味わってみるのもオツなものである。そんな時間帯にこの場所にいたいとは、私は思わないが。
我が家から50mほど離れたところに「野川」が流れている。「一級河川」ではあるが、幅は20mほどしかない。東京都はこの河畔に桜の木を植えた。そのため川沿いの住民からは「毛虫が家の中に入ってくるので困っている」との苦情が寄せられているが、付近の人々はこの桜を毎年、楽しみにしている。ちょうど桜が満開を迎えた4月6日(月)は小学校で、7日(火)には中学校で入学式があり、両日とも快晴、しかも5月初旬の陽気となったことから、散策を楽しむ人や河川敷で弁当を広げてくつろぐ家族など、ちょっとした「名所」となっている。「わざわざ小金井公園や武蔵野公園などに行かなくても、今度からはここで花見をやればいいんじゃないか?」と友人が言うほどに、川と桜がステキに調和している。しかし、野川の河川敷で車座になって酒を交わすのは、ちょっと抵抗がある。なにしろ両側の堤の上を歩行者や自転車が行き交い、ジロジロ見られることになるのだから。いずれにしても、国分寺市との市境から野川公園に至る野川沿いは、徒歩や自転車で桜を見ながら散策するには、うってつけの「名所」といえるのではないか。桜のシーズンはそろそろ幕を下ろすことになりそうだが、新緑の時期にでもぜひ、散策いただければと思う。
※写真は、我が家から50mの所にある桜の名所「野川」。
スベリどめ無しの戦い
3月29日(日)に投開票が行なわれた小金井市議会議員選挙で、無事、5選を果たすことができた。応援していただいた多くの方々に、心から御礼を述べさせていただきたい。
今回の市議選は、私が迎えた5回の選挙のなかでは、もっともはみだし人数が少なく、すべての候補者が有力候補と目され、誰が落ちてもおかしくないと言われるほどに、文字通りの少数激戦であった。5回目の選挙ともなると、自分でもある程度は周囲が見え、一定の情勢判断はできるようになる。その私の目からみた選挙情勢は、「不気味」の一語につきる。
なにが「不気味」かと言えば、有権者の動向がまったくつかめないということである。もちろん雇用や生活が厳しいときだからこそ、原点は、切実な「くらし・福祉・雇用」などの「要求」である。それはわかってはいるのだが、それでイコール、共産党に支持が集まるというものではない。市議選は知人・縁者のつながりが大きく左右し、国政の動向も反映される。しかも私が住む貫井南町からは地域に知人やつながりを多く持つ民主党の新人が立候補し、私の活動地盤の前原町からも子育て世代に影響力を持つ女性新人が立候補している。そこにきて少数激戦である。「板倉真也には4期・16年の実績がある」と人は言うが、「実績」や「政策」だけで有権者は判断するのだろうか。単純にはいかないのではないだろうか。有権者の多くを占める「無党派層」はどのような判断を下すのだろうか────このような思いが脳裏をつきまとい、不安ななかで私は選挙期間を送り、投票日を迎えて行った。
結果からみれば、市長与党の自民・公明が票を大きく後退させ、市長与党の現職3人が落選。共産党は4人全員が当選し、私自身は順位こそ前回よりは一つ下げたものの、前回並みの票数を得ることができた。そういう意味では、党をあげての総力戦で勝利をものにしたわけだが、今回の結果からは様々なものが見えてくるのも事実である。
第一にあげられるのは、国政の自民・公明に対する怒りが市政においても有権者の意識を大きく左右したこと。第二は、「92億円の駅前庁舎建設の無駄遣い」に対する「ノー」の思いが、投票行動に見事にあらわれたこと。以上の点は、自民・公明の得票の大幅減で説明がつくであろう。第三は、小沢一郎・民主党代表の西松建設からの違法献金疑惑問題があるにせよ、依然として民主党に対する期待感があること。民主党が得票を大きく伸ばしたことが、そのことを証明している。第四は、小金井市のゴミ問題が政治不信を招き、議会を刷新したいとの思いが無党派層を中心にはたらいたこと。選挙前から「市長も悪いが、この間、そのことを許してきた議会も悪い」との意見があちらこちらから聞かれていた。新人候補全員が当選したことが、端的に有権者の意識をあらわしている。第五には、自民党であれ公明党であれ、あるいは共産党や民主党であれ、政党公認の候補が全員当選したことは、有権者が候補者の人物像とともに政党名でもしっかりと判断するという当然の原則を明確に示している。政党支持者からみれば、だからこそその候補者を積極的に応援するモノサシになったといえる。このことは、自民党に所属しながら「無所属」で出馬した現職2候補が相次いで落選したこととの対比で明瞭である。第六に、そうはいっても、党が打ち出した「政策」と板倉真也のこの間の「実績」は、有権者が判断するうえで大きな材料となったということ。我が党は得票数も得票率も、前回比で伸ばすことができた。おおいに自信を持って良いと思う。
選挙期間中に桜の花が咲き始めた。投票日あたりには満開になるかと思っていたが、意外にそうとはならず、いま、この原稿を記している頃になってようやく満開を迎えている。「今回の選挙は前回と比べて気候が寒い」と、前回の選挙(2005年3月)に続き、応援してくれている年配の方々が述べる。そうかな?。私はそんなに寒いとは思わなかった。選挙期間中、毎朝、駅頭に立ち、通勤される市民にご挨拶を行なったが、手袋もモモヒキも着用せず、ジャンバーやコート類も無用だった。体もよく動き、前回よりもはるかにラクだった。私はそう感じたのだが、前回は選挙期間中に桜がほぼ満開になったことと比べれば、言われる通り、今回の方が寒かったのであろうかとも思う。いずれにせよ、体調が万全状態で臨めたのは幸運であったといえる。ちなみに、カミさんは「今回はとても疲れた」と嘆き、“春眠アカツキをおぼえず”ではないが、選挙が終わった途端、よく眠る。そのうえ、よく食べる。まるで“天高く妻肥ゆる春”であるが、年がら年中、似たようなものなので、特段、違和感はない。
「5期目」。自分でも信じられないくらい。前任者の小峰一男氏が6期で市議を勇退したことをみれば、あと1期で前任者と並ぶことになる。新しい市議会をみると、7期目が2人、6期目が2人、5期目が4人であり、5期目以上は合計で8人。24人のうちのわずか三分の一にすぎない。4期目のときは「中堅どころ」といわれ、「一定の経験を得たところ」と見られていたが、5期目ともなると、市民の目も市役所職員の目も異なってくる。5期目にふさわしい役割と行動力が求められるようになる。5期目にふさわしい議員になれるのだろうか────その重みと求められる役割がずっしりと感じられる今日この頃である。
カミさんは怖い存在である。2月の初め、市議選を控えた私に対して、恐怖の言葉を浴びせかけた。「大地(息子)には『私立』というスベリどめがあるけれど、あんたにはスベリどめはないんだからね」。────息子はこの2月、無事、都立高校を合格した。もし都立高校が失敗したならば、私立高校を受験することになっていたのである。カミさんはそれを引き合いにして、“ぼやぼやしていると落選するぞ!”との脅しをかけているのである。市議会議員は4年ごとに試練がやってくる。4年間の業績を市民に判断してもらうための選挙という名の試験が。しかしこの試験はスベリどめが一切ない。落選したら翌日からは、誰からも見向きもされないのである。カミさんの恐怖の言葉を全身に浴びながら、3月29日の投票日まで私は心底、痩せる思いで馬車馬のように走ってきた。気がつけば顔は日に焼け、頬の肉は削げ落ち、出っ張っていたはずの腹は少々へこみ、声変わりまでしていた。その結果、無事、再選を果たすことができた。一方、カミさんは「疲れた」と言いながら、よく眠り、よく食べ、体重計におそるおそる肉体を乗せている。そのうえテレビの報道番組を見ては、「アフガニスタンやイラクの子どもたちは、食べるものがなくてかわいそう」などと言ってのける。「あんたの恐るべき肉体が迫ってくる体重計の気持ちにもなって見ろ」と私は心の中で叫びながら、この原稿をカミさんに見られないようにひっそりと書くのである。世の中の怖いものとしての「地震・カミナリ・家事・カミさん」とはよく言ったものである。・・・・違ったかナ?。
5期目
「あんたに入れたよ。初めて共産党に投票した」「がんばってくれよ」。投票日の翌朝、駅前で選挙結果を記したニュースを配っていると、馴染みとなった人たちが顔をほころばせながら次々と歩み寄り、私の手を強く握りしめる。思わず目頭が熱くなった。
私にとって5回目の市議選は、4人はみだしの近年にない少数激戦。誰が落ちてもおかしくないといわれた戦いは、市長与党の現職3人が落選し、自民、公明が大きく票を減らしたように、悪政への怒りを大きく反映した結果となった。
一方で、投票率は過半数に及ばず、前回並みにとどまった。市議選が市民の胸に届けきれない状況は、依然として大きなテーマである。
8日には当選した議員の初顔合わせが行なわれ、9日からは議会人事を決めていくための議員連絡会が開始される。市政をめぐっての大きな課題が横たわるなか、身を引き締めて、さらなる挑戦の道程を歩んでいきたい
介護保険料引き下げ実現
国民年金は最大でも、月額6万5千円程度しか支給されない。75歳以上はそこから、介護保険料と後期高齢者医療保険料が天引きされ、75歳未満の場合は、介護保険料に加えて、世帯主が国保に加入し加入者全員が65歳以上であれば、国保税も天引きされる。
加えて、今年10月からは住民税が年金から天引きされる。前述の場合、年金支給額の半分を超える場合は納付書での支払いに変更されるが、住民税はかまわず天引きされてしまう。「納める金額に変わりはない」と説明されるが、引かれる側はたまったものではない。
そんななか、小金井市は今年4月から、65歳以上の6割にあたる人の介護保険料を、最大で月額450円引き下げた。この間の負担軽減を求める市民の運動や、07年9月の共産党 市議団の保険料引き下げを求める条例提案が、ここでも実を結んでいる。
この共産党4人の議席を引き続き市議会へ。3月は政治決戦の勝負の月である。
非正規切り
製造業で働く派遣・請負労働者の失業が今年3月末までに40万人に達するという。知人の女性もその1人。「先日、パート全員が集められ、3月末で契約打ち切りと通告された」。
この企業は機械部品を扱う中堅どころ。全国の営業所で一斉に、パートが契約を切られるという。生活のためにパート収入は欠かせない。しかし、新たな職場は見つからず。
ためこみ金を抱えた大企業は真っ先に、派遣・期間工の首切りを強行。世論の批判を前に、ワークシェアリングと称して、賃金引き下げとセットの仕事の分かち合いを言いはじめたが、結局はためこみ金には手を付けず、雇用を守るための身銭は、いっさい出さないというもの。
小金井市は遅まきながら、雇用対策のための臨時職員経費を予算化。しかし、10日働いただけで用済みでは、どれだけの人が来てくれるだろうか。大型開発よりも生活にこそ光を。政治の中身を変えてこそ、くらしは守れる。
息子と過ごした正月
「実家に帰らせていただきます」と、大晦日に妻は娘を連れて出て行った。残された息子と私は空っぽの冷蔵庫を前に、大晦日の夜から正月三が日にかけての食料調達に走らねばならぬ事態を迎えた。
例年、正月は家族全員が妻の実家に集団疎開するのだが、今年の正月は4年ごとに訪れる市議会議員選挙の準備のために私は居残り。中学3年生の息子も高校受験に専念するため、同じく居残り。かくして、息子と2人だけの年末・年始となったのである。
私には、今回の正月を迎えるにあたっての構想があった。NHKの「紅白」が終わったら息子と一緒に都心にでかけて、初詣などに興じること。レストランなどでおいしいものを食べて、息子に服などを買ってやること、などなど。
ところが構想は無残に崩れた。肝心の息子が本気になって、勉強机に向かったからだ。もちろん、テレビも一緒に見た。私がつくった年越しそばや雑煮も一緒に食べた。しかし、外には出ようとしないのである。買い物に誘っても、「欲しいものを買ってやる」と言っても、気乗りしない返事が返ってくるのみ。結局、息子が家の外に出たのは、近くの神社に初詣で一緒に出かけた元旦の午後の1時間のみ。外食も拒まれたため、私はカミさんが戻ってくるまでの間、三度三度の食事づくりに追われた。
年賀状が元旦から相次いで届いた。昨年6月に親父が亡くなり、本来なら喪中ではあるが、喪中ハガキを出さなかったので、例年どおりに年賀状が寄せられた。年賀状は年に一度、相手方の近況を知る上でも楽しみなもの。ここ数年のうちにパソコンが発達し、鮮明な写真を年賀状に印刷して送ってくるものもいる。ところが、当人の写真は載せずに、子どもの写真のみを載せてくるものがいる。これにはがっかりする。私は、その人の子どもには愛着も関心もないのである。「若いころとは様変わりした、お前さんの水膨れの体型や年季の入った顔形が見たいのだ」と言いたい。さらに困った年賀状もある。誰からの年賀状だかわからないものが例年、見受けられることである。年賀状であるため、郵便局の消印が押されておらず、投函された地域もわからない。あんたはいったい誰なのさ!。
年を越した正月に入って、親父の死去に関係なく、私も知人に年賀状を出した。以下は,その文面である。「■兄(大地)は中学3年の受験生。『頭脳は母親似、性格は父親似』と周囲は言う。妹(萌)は中学1年。『頭脳は父親似、性格は母親似』と誰もが言う。2学期末の通知表は、兄は一つの数字のみが列をなす。妹はバラエティに富んだ数字が駆けめぐる。いずれも私の中学時代を大きく上回っている・・・・。■“天高く妻肥ゆる秋”が過ぎても菓子袋に手を伸ばす妻は、一人、我が家のエンゲル係数を引き上げる。この頃は、体重計に乗る姿もトンと見ず。乗られる体重計もかわいそうではあったが・・・・。■クリスマス後、突如舞い降りた寒気は、朝鮮半島の南北境界線を想起させる38度もの熱を私にふりまき、身体の自由を奪った。トナカイは去ったが、鏡には赤鼻のトナカイが映し出されていた。■今年は市議5期目への挑戦の時。2009年は勝負の年。」
この年賀状を手にした知人からは「夫が笑い転げていた」との連絡や、「風邪は直ったの?」とのご心配の声、「あんな年賀状を書いて、奥さんは怒らなかった?」のご意見まで、様々な反響をよんだ。事実をありのままに書いたのだが、いつの時も、何故か周囲は笑うのである。
勝負の年
2008年は混乱の年だった。4月に後期高齢者医療制度がスタートし、怒りが大爆発。政府は慌てて「長寿医療」に呼称を変更。しかし中身は「長寿」とは名ばかりの弱者いじめ。10月には「前期高齢者」の国保税の年金天引きが始まり、あげくは「3年後の消費税の大増税」。国の責任者まで入れ代わる始末。
首相の顔は変わっても、うちだす中身は旧態依然である。アメリカに言われるままに海兵隊のグアム移転に金を差し出し、派遣や期間工を大量解雇する財界には文句も言わず。そのうえ、海外子会社の利益には税金を掛けない特権を与えようとしている。結局、政府が行なう対策は、アメリカや財界の無謀な中身を変えずに、そこで生まれる国民との矛盾に慌てて対応するというだけのもの。
小説『蟹工船』の売上が62万冊を超えた。ルール無視の政治に対して、いま多くの国民が怒りをあらわにしている。2009年を大変革の年に。いよいよ正念場だ。
災害時要援護者
阪神・淡路大震災では、住民救出の最大の功労者は地域住民であった。消防署や行政の手が回らず、地域の人々が駆けつけたからである。しかし、高齢者や障がい者などの弱者は最後まで取り残される結果となった。その人たちが身近に住んでいることが知らされていなかったためである。
そのため、一人では避難できない方々を地域住民が把握しておくことが重要となっている。しかし、個人情報の保有者は行政。その情報をどのようにして地域住民に明らかにしていくのかが今日、大きな課題となっている。
先日、議会視察で訪問した兵庫県三田市では、弱者情報を自治会に渡して、イザ!という時には地域住民がかけつけられるようにする取り組みがすすめられていた。支援を受けたい人が、自分の情報が自治会に渡されるのを了解のうえで市に登録するという方法で。大震災を教訓に始まった試行錯誤。小金井市でも現在、研究が始まっている。
※写真は、兵庫県三田市の「災害時要援護者支援制度」を紹介したパンフ等
親父の納骨
「納骨」実施の案内が9月中旬に舞い込んだ。案内が来るまで、納骨のことは全く眼中にはなかった。なかったというより、納骨そのものがあることさえ知らなかった。6月22日に親父が亡くなり、7月26日に「四十九日」の法要を行ない、8月の初盆に里帰りをし、これで一段落と思っていたら「納骨」の知らせである。埼玉に住む弟からは「骨を骨壺3個に分けたやろ。一つは実家のお墓、一つは実家近くのお寺、もう一つはお寺の本山への納骨に決まっている」と、私の無知をあざ笑う言葉が返ってきた。「また福井県へ行くのか。今年は忙しいのう」と思ったら、「本山」は京都にあるという。京都に来いというのだ。
「納骨」は10月12日(日)。会場は、京都市東山区円山町の「東本願寺・大谷祖廟」。一般的には「東大谷本願寺」と呼ぶらしい。八坂神社の近く、円山公園の南隣りに位置する。この場所に朝9時に集合せよというのが喪主からの指令である。「朝9時」ということは、当日の朝、小金井市から始発電車に乗っても間に合わない。というわけで、前日中の京都入りが必要。しかし、この時期、京都の宿が簡単に見つかるものではない。ましてや11日は土曜日、12日は日曜日、13日は体育の日の三連休である。宿を確保することは至難の技だ。同じことは、埼玉の弟夫妻、実家の喪主一族にも言えることであった。喪主一族は当初、当日の早朝に車で福井を発つ予定だったが、東京の4人と埼玉の夫婦が前日に京都に乗り込むことを知り、おふくろの「京都を見物したい」の一言が決定打となって、喪主一族7人も前日の京都入りを決意した。
京都に宿が確保できたのは、喪主一族7人と我々4人。喪主一族は京都北部の大徳寺近くの素泊まり用の空き家を「ひょんな話で」(喪主の言葉)確保。我々はカミさんが仕事で宿泊したことのある「京都教育文化センター」を抑えることができた。「京都教育文化センター」は左京区の京都大学病院近くにあり、地下鉄・京阪電車「丸太町」から徒歩5分、市バス停留所「熊野神社前」からも徒歩5分の位置。一方、埼玉夫婦は新大阪駅前のホテル宿泊となった。いずれにせよ、納骨前日の11日(土)、板倉一家は京都周辺に集結することとなった。
我々が京都に足を踏み込んだのは、11日(土)の午後4時前。まだ陽は上空にあり、十分に京都市内を動き回ることができる。単身ならば名所旧跡に向かいたいところだが、カミさんからのたっての願いで、カミさんの仕事上の知り合いの作品展に向かうこととなった。場所は二条城近くのギャラリー。作品展の案内が届き、偶然にも、9月末から10月12日までが作品展の期間だという。
「忙しい人だから、本人は会場には来てないよ」とカミさんは言い、ギャラリーの入口をくぐる。途端に、カミさんの顔が明るくなった。忙しいはずの本人がいたのだ。作品展の出展者は京都市在住の木版画家・山田喜代春さん。本人に出会うまで私は、出展者は女性だと思い込んでいた。だって、「喜代春」っていうのだから。「春」と付けば女性だよネ・・・・。展示されている木版画を見渡すと、我が家の玄関の下駄箱の上に無造作に置かれているものと同じものが、ガラス板にはめられて飾られていた。しかも何千円という値札が付けられて。京都から帰ったカミさんは、慌てて下駄箱の上から居間へと作品を置く場所を変えた。山田喜代春さんは他にもお客さんがいるのに、私たち4人につきっきりで相手をしてくれた。この日の午後、埼玉の弟夫婦は京都の大原を散策。喪主一族は嵐山公園でサルと戯れていた。
さて、「京都教育文化センター」。交通の便は申し分なし。宿泊費を抑えたい者にも申し分なし。素泊まりとはいえ、一人3,500円で済むのだから。ただし、風呂は3人が入るといっぱいになる共同風呂で、部屋は6畳弱の畳部屋という代物。それでも我々と同様の家族連れが宿泊しており、ほぼ満席だった様子。費用を抑えたい人には穴場の場所である。チェックイン後、我々は京都の繁華街へ夕食に出かけることとなった。歩いて5分で「熊野神社前」バス停。ここからバスで10分足らずで「祇園」に到着。人がごったがえす四条通りを歩き、入った店が「美々卯」。3年前の9月下旬の家族旅行の際に入った店である。「前もここで食べたよ」とカミさんと子どもたちから言われて気付く始末であった。
翌12日(日)は晴天。8時前に教育文化センターを出て市バスに乗車し、昨夜と同じ「祇園」で下車。目の前には八坂神社がオレンジ色に輝いている。八坂神社の右脇の坂道を上がっていくと、左側が円山公園、右側は大谷祖廟である。9時集合であるが、埼玉の弟夫婦が道を間違え、20分遅刻。そのため、喪主一族は一番で受付を済ませていたが、9時30分からの納骨となった。しかしその納骨も30分とかからず、午前10時にはあっけなく終了となった。あとは自由の身。近くには清水寺がある。大谷祖廟から清水寺へと続く石畳の道が我々をかぎりなく誘っていた。当然のごとく、板倉一家13人の清水寺参詣が挙行された。
父親の納骨で京都に集結。しかし実態は、それぞれの家族が秋の京都を楽しむ家族旅行と化した。「何年に一度の家族旅行」と実家の弟からメールが届いたが、私もまさかこの時期に京都に行くことになろうとは思ってもいなかった。しかも納骨会場が清水寺の近くになろうとは。12日夜の新幹線までの間、わが家族は納骨に名を借りた京都旅行を心ゆくまで楽しんだ。
75年前
「後期」扱いされた高齢者が、自民・公明政治を追い詰めている。誕生したばかりの麻生首相は「制度の改善」を約束せざるをえなくなり、「後期高齢者医療制度」は発足半年で、早くも破綻を迎えようとしている。
10月からは「前期」の人たちも、自民・公明政治を追い詰める立役者となる。世帯主を含む国保加入者全員が65歳から74歳までの人たちは、国保税が年金から天引きされるからだ。加えて来年10月からは、住民税までもが年金から天引きされるという。
今年75歳を迎え「後期」のメンバーにされた方々は、1933年に生まれている。この年は、日本が戦争へと突きすすむ分かれ道となった「国際連盟」からの脱退の年であり、同じ年の2月20日、日本共産党員作家・小林多喜二は、特高警察の拷問によって虐殺された。
多喜二が書いた小説『蟹工船』は今日、多くの若者に愛され、「後期」の人たちとともに、自民・公明政治を追い詰める原動力となっている。
農家の後継者不足
今年の夏は、例年以上に暑い日々が続いている。郷里・福井の夏は、気温のわりに過ごしやすい所だと思っていたが、今年の夏は違っていた。やはり「地球温暖化」の影響だろうか。
「温暖化」が叫ばれるなか、農地・緑地の保全は今以上に求められる。ところが農家の後継者不足のなか、小金井市でも農地を手放さざるを得ない事態が生まれている。マンションや駐車場に変わり、暑い夏の要因になっている。
父親が亡くなり、実家では来年の米づくりの是非が議論されている。残された家族では到底、田んぼに手が回らないというのが理由。手間暇のわりに得られるモノが少ないというのも背景にある。しかも、減反まで押し付けられて。
農業で食べて行ける国づくりが求められる。大企業製品の輸出利益とひきかえに日本農業を犠牲にする政府の姿勢に、あらためて怒りを覚える。
教科書採択
7月29日に開かれた市教育委員会では、来年度から使用される小学校と小中学校特別支援学級の教科書採択が行なわれた。
小学校で使用される教科書は11。多い教科で9社、少ない教科では2社の教科書の中から1社ずつを選ばなければならない。教育委員5人のうち、教育長と委員長を除く3人の意見で物事が決まっていく。
世界中で紛争が続く中、子どもたちに平和の尊さを伝えていく役割が教育には求められている。社会科の教科書採択では、その観点から委員の意見に耳を傾けた。しかし、「わかりやすい」「見やすい」などの意見は飛び交うものの、どういう視点で教えていくかの論点は聞かれなかった。
今年も8月を迎えた。6日には広島で、9日には長崎で平和祈念式典が開かれる。多くの犠牲のうえに、今日の平和があることを伝えていくことは、大人の使命である。
父親の死
顔にかけられた白い布をめくると、穏やかな顔で親父は眠っていた。「いま帰ったぞ」と声をかけても、言葉はかえって来ない。かたわらでは親父の兄弟たちが喪主を囲み、葬儀の手筈などを協議している。
6月22日(日)午前0時10分、静まり返った我が家に電話が鳴り響いた。親父の危篤を知らせる実家の嫁さん(弟のカミさん)からのもの。「明日までは持つと思う」と電話の向こう側の声。「危篤」と言われても、この時間帯ではどうすることもできない。電車の動く朝まで待つしかない。“眠らなければ。身体を休めなければ・・・・”。しかし眠れるわけがない。“早かったなぁ・・・・”と布団のなかで私はつぶやく。つい一週間前、ベッドに身体を起こしている親父に会ってきたばかりではないか。
とにかく、朝になったら出かける用意をしなければ・・・・と、身体を休めることだけを考え、布団の中で時間を過ごす。午前3時10分、電話が再び鳴った。言わずと知れた「死」を告げるもの。ほどなく携帯電話に、埼玉に住む弟からのメールが届いた。「死に目に立ち会えず残念。一昨日逢って、弱々しくも頷いてくれたのが嬉しい思い出になった」。4時過ぎには、実家の弟からメールが届く。「死に際は苦しい顔を見せなかったよ。息が途切れ途切れになりながら、自然な感じで止まりました。もうすぐ、家へ親父を連れて行きます」。
予期せぬ早い死の知らせに、朝を迎えたからといって、すぐに家を飛び出すわけにはいかなかった。予定していた仕事のキャンセルや一定期間、留守にすることへの手筈。なによりも6月議会真っ只中での善後策に追われた。その結果、午前7時40分にようやく自宅を出ることとなった。しかも単身で。残された家族は、翌23日(月)発となった。
福井へ向かう車中は以外と冷静だったように思う。父親の死でありながら、父親との思い出をあれこれ巡るわけでもなく、悲しみに打ちひしがれるわけでもなく。たぶん、早晩、父親が死ぬことを予測していたからであろう。一週間前の福井からの帰途のほうが、確実に辛かった。車中では、司馬遼太郎の「歳月」という小説を読み、車窓を流れる景色を眺めていた。一睡もしていないのに、うたた寝程度しかしなかったように思う。
親父は1931年(昭和6年)5月12日、福井県池田町に8人兄弟の5番目として生まれた。尋常小学校卒業後、福井県内で山仕事に従事し、戦後、山仕事を求めて広島県へ移り、実父が死去するまで広島の山奥でキコリの仕事をしていた。親父が生前、語ったところでは、広島にいるとき原爆病院(現:広島赤十字・原爆病院)の峠三吉を見舞ったことがあるとのこと。十代の頃から文学の世界に接近していた親父は、詩人・峠三吉を見舞う機会に恵まれたのであろう。親父は、作家・中野重治の推薦で日本共産党に入党した。
実父が死去(1957年10月7日)し、郷里に帰っていたところへ、福井県今立町の見知らぬ女性との見合いが持ち上がった。その女性は、幼少の頃に母親が死去(自殺)し、父親は家を出たまま東京で暮らしているという。女性と一緒に暮らしているのは、余命短い祖母だという。双方、初面識の見合いを一回行なっただけで、1958年3月20日、婿入りという形で挙式(婿入りのため、姓が「畑中」から「板倉」に変わる)。新郎26歳、新婦18歳。挙式を見届けるかのように、同年5月10日、女性の祖母が胃ガンで死去。翌年の1959年2月20日、私(真也)が誕生した。今年、2008年は親父とおふくろの金婚式である。
「納棺」というものがある。通夜を迎えるその日の午後、葬儀屋が来て、柩に遺体を納めるというものである。実家に詰めかけていた親父の兄弟やこの家の住人、子どもたちが見守る中、親父は白装束に着替えて旅立つ準備をして、柩の中に入れられた。納棺の最中に、朝方東京を発った私のカミさんと娘(中学1年)が到着した。しかし息子(中学3年)は期末試験の初日と重なったため、高校受験の年ということもあって、一人、東京に残った。やがて親父は、近所のお寺(南林寺)に運ばれた。このお寺で通夜と葬儀を行なう。
通夜と葬儀の手筈をすすめながら、私の頭の中は、一人東京に残った息子が気になった。なにしろ初めてのことなのだから。夕食のことや、一人で夜を迎えること、翌朝起きれるかなど・・・・。幸いにして、近所に心温まる人がおり、翌朝は預けておいた玄関のカギで家に入り、息子をたたき起こしてくれるという。おまけに、朝食まで用意してくれるというのだ。この人のおかげで、息子は23日〜25日の三日間の期末テストを無事終えることができた。
23日(月)の通夜には、大勢の村人が参列した。一様に、親父が死んだことを驚き、入院していたことすら知らなかった人も多くいた。通夜と葬儀を地元のお寺で行なうことは、おふくろが求めていた。「この村に婿としてやって来て、共産党ということであれこれ言われ、それでも村の一員として頑張ってきたのだから、葬儀は、村人が足を運びやすい地元の寺で行ないたい」。24日(火)の午前中の葬儀も、多くの村人が顔を見せた。
葬儀を終え、寺から火葬場へと遺体を移すための「出棺」を迎えた。出棺の際には遺族・親族が中心となって、柩の中の遺体の周りに菊などの花を入れる場面を迎える。おふくろや弟夫婦、親父の兄弟、カミさん、我が娘などが次々に花を入れていく。けれども、私は柩に近づくことができなかった。親父の顔を見ることができなかった。ただの一輪も入れることなく背を向けて、目頭をハンカチでぬぐうのがやっとだった。火葬場は車で30分余のところ。火葬に付される前の最期のお別れのときになって、ようやく私は親父の顔を見ることができた。
骨拾いは、私と埼玉に住む弟夫婦、それに実家の中学2年の女の子と我が娘(中学1年)の計5人。親父のことを知っている火葬場の人が焼け残った骨の説明をしてくれた。女の子2人は怯えることもなく、説明を聞き、骨を骨壺に入れていた。山仕事をしていただけに、骨はしっかりと残っていた。
“男どもがいる間に”ということで、兄弟3人と弟のカミさん交えて、親父の遺品(がらくた)整理にとりかかった。貧乏性な親父は、捨てればよいものでさえも後生大事に保管するクセがあり、出るわ出るわ、社会人として私が東京に出て行く30年余も前に見た覚えのある“がらくた"が次々と。おまけに、車庫の隅には使えなくなった石油ストーブが4〜5個も積まれている。山のように“がらくた"は出てきたものの、“お宝"は何一つなく、「お兄さん、形見になにか持って帰っては?」とこの家の嫁さんに言われたが、“がらくた"では持って帰る気にもならずじまい。しかし、埼玉に住む弟は、その中から形見となる品を探し当て、私から見ると“がらくた"にしか思えないモノをバッグに詰めていた。その中には親父の手作りの算盤があり、それを持って行かれたこの家の嫁は「あ〜あ、あの算盤は子どもたちのおもちゃになっていたのに・・・・」と残念がっていた。一方、埼玉の弟のカミさんは、“がらくた"の中に、ダンナの高校時代の顔写真が貼られた学生手帳を発見し、ダンナに見つからないように、学生手帳を何冊か、フトコロに忍ばせた。こうして、葬儀さめやらぬうちから遺品整理が強行され、大量の“がらくた"は、越前市の清掃センター(一部事務組合が運営)に親父が愛用していたトラックで2回に分けて運ばれた。処理手数料は10sで60円!。信じられぬ安さ。仮に1トン持ち込んでも、6千円で片づく。あの世で親父は、無慈悲な家族や子どもたちに対して、涙しているであろう。
私には心残りが二つあった。一つは、長男の私に親父は言い残したいことがあったのではないか。31年前の3月末、高校を卒業した私は「5年間」の約束で東京へ飛び出した。しかし約束を覆し、今日まで東京で暮らし続けている。この間、次弟も埼玉へ飛び出し、結局は三男の末弟が家を継ぐこととなった。親父は私が東京に残ったことに対して、涙を流して悲しんでいたという。親父よ、私に言い残しておきたいことがあったのではないのか?。もう一つは、6月中旬に病院へ親父を見舞ったときに、親父と会話を果たせなかったこと。年に一度、8月の盆休みだけの帰省だったので、最期の会話は昨年の8月となる。話をしたかった。会話をしたかった。そのことが心残りとして、6月中旬の帰省以降、悔やまれていた。ところが葬儀の後、末弟から意外なことを聞いた。6月15日(日)に私が病院に見舞った際に、私が親父に対して「どうしたんじゃ?」と問うたときに親父は「ガタガタじゃ」と応えたという。私には入れ歯をはずした親父の言葉が理解できなかったのだが・・・・。会話ができていた。私が見舞いにきていることを理解できていた。うれしかった。とにかく、うれしかった。
「このたびは・・・・」と、葬儀が終わって半月たつ今日でも、知人から声をかけられる。声をかけられるたびに、在りし日の親父のことが思い出される。77歳・喜寿といえば今日では若い部類であろう。入院して1カ月もたたないうちにこの世から消えた親父に対して「早すぎる」という言葉は当然かもしれない。けれども私は自分に言い聞かせている。「順番なのだから」と。我が家族のなかで歳をとった順に天に召されていく、親父にその時が来たというだけにすぎないのだと。もうすぐ8月がくる。盆に里帰りしても親父はもういない。
余命
生業は森林伐採業、冬になると狩猟で野山を駆けずり回る男が、いま、病室で身体を休めている。学校を卒業してから年老いて病気になるまで、その男は山とともに暮らし、妻をめとるまでは広島の地でキコリ同然の生活を送っていた。26歳の時、父親が死に、郷里に舞い戻っていた折に見合いをし、終生をこの地におくこととなった。
6月15日(日)夕方、病室の扉を開けると、その男の妻は「忙しいのに遠くからきてもらって悪いね」と、私を迎え入れた。その男はリクライニングベッドに横たわり、身体のいたるところに計測用の器具を付けられ、鼻には酸素の管をさし、栄養剤とモルヒネの点滴を受けていた。
男の妻は私が来たことを告げるために、夫の身体を揺すり、眠りから目覚めさせようとしている。「いいよ。自然に起きるまで待つよ」と述べ、私はすすめられた椅子に座った。病人は思ったよりも元気そうなので、一安心。しかし、その男は、私がいた40分ほどの間をほとんど夢のなかで過ごし、私がいることには気付かずじまい。
翌日(16日)の朝9時、私は再度、病室を訪れた。病人は前日とは異なり、酸素マスクをあてられていた。「呼吸の回数が少なくなっているので」と看護士の説明。けれども当人は酸素マスクをたびたびはずし、マスクを邪魔者扱い。病人とはいえ、足も手もしっかり動くため、布団をはね上げ、身体に付けられた器具を取り除こうとする。その都度、計器の警告音が鳴り、看護士が病室に入ってくる。
昼前、病人が目覚めた。病人の妻は私がいることを大きな声で耳元で伝える。しかし、その目はあらぬ方向に向けられ、私を直視しない。「私が誰だかわかるか?」と聞いても、何の反応も示さない。私は「市議会議員・板倉真也」の名刺を取り出し、男の目の前に掲げた。しかし、男は名刺をじーっと見つめたまま、身じろぎもしない。「モルヒネの影響で幻覚があり、自分がいま、どこにいるのかもわからないのでは」と妻が述べる。その男はときおり、何事かをしゃべる。しかし入れ歯がはずされていることもあって、なんのことかはさっぱり不明。妻に向けられた言葉なのか、それとも私に向けられた言葉なのか、はたまた幻覚の中でのことなのか。カメラを向けると、ファインダーからのぞく男の容姿は元気だった頃に戻った感じ。しかし、視線は定まってはいない。
男との会話を果たせず、私への眼差しを受けることもなく、午後3時を迎えた。小金井市の6月議会まっただなか、これ以上、この地にとどまるわけにもいかない。私は帰る旨を男の妻に伝えた。「もう帰るんか」と立ち上がった私の背に言葉がとぶ。不安と寂しさをごちゃまぜにしたその言葉が、重くのしかかる。
病室の向かい側はナースステーションとなっている。そこにその男の主治医がいた。病人は「今年いっぱいもつかどうか」が、3月末に示された診断書であった。私は主治医に御礼を述べ、「今年いっぱいですか?」と問うた。「いえ・・・・」「秋頃?」「・・・・今月いっぱいもつかどうかです」「6月ですが・・・・」「(頷く)」。
バスの時間が合わないために、病院の玄関からJR福井駅まで、私は実に40分も歩くハメとなった。空は快晴。梅雨の晴れ間である。福井駅までの40分、そして北陸線、新幹線と、東京に向かう私の背中には、重い十字架が背負わされた。この男の一番最初の子どもになって49年。長いようでもあり、あっさりと過ぎたようでもある。
頑固一点張りの男が、金婚式を迎えた今年、人生に幕を下ろそうとしている。次に私がこの地に来るときは、喪服を抱えているのだろうか。
年金天引き
「高齢者いじめはとどまるところを知らない。所得税に加えて介護保険料が年金から天引きされ、4月からは後期高齢者医療保険料が天引き、10月からは国保税が天引きされ、来年10月には住民税までもが引かれる。
かつては物価スライド制で、物価の上昇に応じて年金額が増えたものが、いまでは逆に減り続ける一方。本人の意向を聞かずに天引きするやり方に、怒りが広がるのは当然のこと。「生命もいずれは、天引きされるのでは」との声まで。
6月から、75歳以上の運転者に「もみじマーク」表示が義務化された。違反の場合、減点一点と反則金等が課せられる。後期高齢者医療保険料の徴収で打撃を被り、今度はマークの義務化。「まるで邪魔者扱いだ」とは知人の弁。
小林多喜二の「蟹工船」のように、立ち上がることで明日は見える。いまこそ怒りを集めよう。
暫定
一時的なものを「暫定」と呼ぶ。その「暫定」が1日から復活した。前日まではリッターあたり125円でガソリンを入れることができたが、一夜明けるとリッター160円。35円もの値上がりだ。
おりしもゴールデンウイーク直前。4月の最終日に家族からは「今日のうちにガソリンを入れておいたら」とアドバイスを受けたが、すべてのガソリンスタンドが長蛇の列。しかも、昼過ぎには「売り切れ」の看板が貼りだされてしまった。
「暫定」は一時的なものを言う。「暫定」が切れ、ガソリンが安くなった4月のみが、私には「暫定」に思えてしようがない。「ガソリンが安いままだと車を利用する人が増える」と福田首相は述べるが、ではなぜ、道路をつくり続けるのか?。逆に、車を利用したくなるではないか。
連休中、行楽地は車の列が続いた。ささやかな夢まで奪う「暫定」復活で、高いガソリンに悲鳴をあげながら。あと何十年「暫定」は続くやら。
新入生
桜の花びらが舞うなかを、子どもたちが通学路を歩む。小学校の通学路に位置する我が家からは、黄色いランドセルに隠れるように、あどけなさの残る新1年生が学校へと向かう姿が目に映る。
第四小学校の新入生は81人。かろうじて3クラスになったが、もし80人だったら、40人ずつの2クラスになっており、先生も慌てたことだろう。一方、南中学校の新入生は126人。1年から3年まで4クラスずつとなり、やがてくる体育祭は、学年縦断の4クラス対抗の熱戦が期待される。
1980年以来、1クラス「40人」基準が続いている。しかし、東京都以外の道府県では2002年以降、独自に少人数学級に踏み出し、ゆきとどいた授業めざして努力している。石原都知事は、子どもたちの教育より、銀行経営のほうが大事らしい。
我が娘も先日、中学の門をくぐった。春本番である。しかし、あどけなさはいまだに残る。
誕生日プレゼントと娘の思惑
もはや、この歳になって「おめでとう」と言われても、返す言葉は何も浮かばない。40歳を過ぎてから、月日の経つのがなんと速いことか。気がつけば、50歳の手前。「おじさん」と近所の子どもたちから声かけられても、何の違和感も抱かなくなってきている。昔は「おじさんではない。お兄さんでしょ!」と言い返したものだが、気力さえなくなってしまった。
恒例の、子どもたちからの誕生日プレゼントが寄せられた。といっても、小学6年生の娘のみで、中学2年生の息子は、父親の誕生日など眼中にない。中学生の男の子には、父親はうるさい存在でしかないのだ。プレゼントをくれた娘も、はたしていつまで父親の誕生日を気にしていてくれるか。しかし、だからといって、気にしていてくれないと困るというものでもないのだが・・・・。プレゼントをくれればくれたで、いろいろ考えめぐらしてしまい、くれなければ、べつにそれで悩むわけでもない。ようするに、もうどうでもよい49歳という、中途半端な歳なのだ。
娘がくれたプレゼントは、手袋と小物入れとハンカチとカードケース。娘には悪いが、あまり意味が込められたというものではない様子。わかりやすく言えば、手っとり早く買った品物というところ。年に一度の行事の一環として、駅前のデパートに行って買い込んできたという風である。
ただし、娘の行動の底流には、目前に迫る我が身の誕生日への期待が横たわっている。父親にプレゼントを渡しておけば、自身の誕生日には、それ以上のモノが返ってくるだろうという、底のしれた魂胆が。よって、父親の誕生日からほどなく迎える自身の誕生日を終生抱える娘は、自身の誕生日のプレゼントをアテにするかぎり、父親へのプレゼント購入という使命を負い続けることとなる。たとえ父親が、父親自身の誕生日の到来を快く思っていなくとも。
一方、息子は幸運である。誕生日を年末に持つ彼は、クリスマスプレゼントをもらい、誕生日プレゼントをもらい、帰省先の母親の実家のおじいちゃん、おばあちゃんに祝ってもらい、年が明けるとお年玉をもらう。まさしく彼にとって、年末から年明けにかけてはゴールデンウィークなのである。しかも冬休みの真っ只中である。2歳年下の妹とは、天と地ほどに恵まれているのである。
うれしくもない49歳という誕生日プレゼントをもらってしまった私は、目前に控えた娘の誕生日プレゼントをどうするか、悩む日々に突入した。「行事の一環として、駅前のデパートで手っとり早く」とはいかないのだから。議会の準備とプレゼントの中身で、悩むこの頃である。
道路特定財源
「道路特定財源」が国会の大きな焦点になっている。道路整備のために10年間で59兆円確保し、ガソリン税の暫定税率・リットルあたり25円を10年間延長して、道路特定財源につぎ込むというもの。「道路整備」といいながら、国土交通省職員の野球グローブや卓球ラケットの購入費にも充てられ、特定財源の必要性が疑問視されている。
道路特定財源は、地方自治体の道路整備以外の事業にも交付されている。そのうちの一つが2006年度からスタートした「まちづくり交付金」。駅前開発事業などの「都市再生事業」に充てられ、小金井市は2010年度までの5年間で24億円を予定。そのうちの4割が、道路特定財源だという。
暫定税率によってリットル 150円の高いガソリンを買わされ、一方でゼネコンのための大型公共事業に財源が充てられる……。国民の暮らしそっちのけで使い道を特定する、こんな冷たい政治はまっぴらだ。いまこそ怒りを行動に。
成人式
成人の日の14日、小金井市でも成人式が開かれた。小金井市の新成人は1,373人(男762人、女611人)、そのうち半数の685人(男364人、女321人)が会場の中央大学附属高校講堂に集まった。
昨今、荒れた成人式がマスコミをにぎわせているが、小金井市の成人式は心配することもなく、挨拶に立った市長、市議会議長の「大人としての責任を持とう」の呼びかけにも元気な反応が返るほど。
一方、十二分に大人になったはずの国会議員のなかで、自らの言動に責任を持たない人が出てくるのは始末が悪い。政府の新テロ特措法に真正面から反対を掲げていたはずの民主党・小沢党首は、法案の採決時に国会議員としての最重要任務を放棄。党首みずから党の方針に反する態度をとった。
新成人が夢を大きく膨らませながら意気揚々と歩んでいく先に、またしても戦争の影がまとわりつかぬように、日本共産党は平和憲法を守りぬく責務を果たし続ける。
年の瀬
近所の「野川」
年の瀬を迎え、厳しい冬が迫ってきた。今年はとくに厳しそう。物価がジワリジワリと上がっているからだ。
深刻なのは、灯油とガソリン。灯油18L一缶が 1,800円!。「L百円」時代に突入した。一昔前のガソリンの値段である。そのガソリン。バイクに満タンに入れてもらい、請求された金額を聞いて耳を疑った。L 154円だという。バイクで行くより電車で出かけたほうが安いのではないかと、思うほど。
政府・経済界は、消費税増税の大合唱。福祉のために使うというが、庶民から金を取り上げ庶民のために使うというのでは、経済界は腹は痛まない。
巷ではジングルベルが鳴り響く。我が家の子どもは世相に関係なく、法外なプレゼントを要求。消費税増税がくる前に、我が家の家計が傾きそう。親の方こそ、プレゼントをもらいたいくらいだ。サンタよ、いずこに。
(「しんぶん小金井」2007年12月16日付から)
エプロン哀歌
「熟年離婚」が世間をにぎわしている。離婚したら、亭主の退職金の半分が妻のものになるという法律もできたとかで、世の男性は戦々恐々となっている。家と会社の往復だけの働きバチ男性にとって、妻に三行半(みくだりはん)を突きつけられでもしたら、明日からの人生は真っ暗である。まず、子どもたちは妻の側に付く。子どもたちの養育費を月々、払わねばならない。しかも、台所はすべて妻に任せていたので、メシの作り方一つ、わからない。仮に現在住んでいる家をあてがわれても、家の掃除さえままならないし、第一、どこになにがあるかさえわからない。ということで、美形と称される私でさえも、棄てられないように買い物に出かけ、台所にも立つのである。
台所に立つときには必ずエプロンを着ける。現在使用しているエプロンは二代目。本当は47歳の誕生日に子どもたちがくれた三代目がいたのだが、子どもたちが家庭科授業で使用するとかで、学校に出かけたままである。そのため、二代目エプロンは交代要員もないままにフル回転で働き、ずいぶんと汚れてしまった。交代要員を確保し、ひさしくお世話になっていない洗濯機に入れてあげることが必要になっている。
そんなとき、小金井市の新日本婦人の会のバザーで掘り出し物を見つけた。一つはカエルのイラストが入った緑色、もう一つは「ふるさとキャラバン」の紹介が入った黒色。二つ合わせて150円なので、「いい買い物をしたネ」と言われてもいいくらいである。新日本婦人の会のお馴染みの面々は「男女同権」の考えが根付いている人ばかりだから、私がエプロンを買っても、いぶかしげに見ることはない。「あんたも台所に立ちなさいよ」という目で、私を見ているにちがいない。
台所に立っているときに、玄関のピンポンが鳴るときがある。いそぎ玄関に出て行くので、エプロン姿のままである。しかし、玄関の外にいる人は新日本婦人の会の面々とは違って、私の姿を見るなり“ギョッ!”とする人ばかり。「奥さんに逃げられたのですか?」とはさすがに口に出しては言わないが、宅配の男性や宗教普及の方々の目は、疑い深そうに私を見つめる。だから私は「今日は私が料理当番でしてネ」と、つい、ウソを言ってしまう。「棄てられないようにしているんです」とは言えないのである。
エプロンをバザーで買うだけでも、こんなにあれこれ思いめぐらさなければならない日本の現状は、まだまだ男女同権にはほど遠いということではないだろうか。同時に、私の意識の中にも、男女同権が根付いていないことの証左でもあるかもしれない。
JR西明石駅窓口の温情措置
人は今回の対応を「超法規的温情措置」と呼ぶ。しかし、利用者側から見れば、利用者本位の当然の措置と考えるであろう。JR西日本「西明石駅」窓口の職員が下した今回の措置は、どのように判断するにせよ、小金井市議会史上における珍事件として語り継がれていくことは間違いない。
この事件は11月13日(火)。小金井市議会の行財政改革調査特別委員会が新幹線下車後、JR西明石駅の新幹線出口改札を通過するときに起きた。乗車券と座席指定券、特急券の計3枚を出口改札機械に入れ込んだ時のこと。と、ここで新幹線の座席指定に乗車されたことのある人ならば、“ちょっと待てよ”となるであろう。なぜ券が3枚もあるのか? ────そう。この事件は「券が3枚ある」ということから起きた出来事であった。
我々一行が手にした切符は、(1)「武蔵小金井−岡山」の乗車券、(2)「東京−岡山」の新幹線特急券、(3)「東京−西明石」の新幹線座席指定券、の3枚。この3枚を使って、西明石駅で「途中下車」しようというのである。当然に、西明石駅で下車することはできる。しかし、新幹線の出口改札機械から再び現れ出た切符は、「武蔵小金井−岡山」の乗車券のみであった。つまり、本日の最終目的地、「岡山駅」までの新幹線特急券は改札機械に収容されてしまったのである。これでは、岡山駅まで乗車券のみで行かなければならない。同行の市議会事務局職員は「西明石駅から岡山駅までを在来線で行けば、2時間はかかる」と説明。一同、騒然となった。
改札口から20m離れた駅構内に、出迎えの明石市役所職員をポツンと待たせながら、西明石駅職員とのやりとりが開始された。我々の主張はただ一つ「岡山駅までの新幹線特急券を返してほしい」。一方、駅職員は「西明石駅を下車したことによって、この時点で、この先(岡山駅)までの新幹線特急券は無効となる」。乗車券は途中下車でも有効だが、特急券は無効になるというのだ。何度かの押し問答が繰り返されたがラチがあかず、しぶしぶ一行は明石市役所職員のもとに向かった。
焦ったのは、同行の小金井市議会事務局職員。「西明石駅から岡山駅までを、2時間もかけるわけにはいかない。あとあと、かたりぐさにされてしまう」。駅職員と押し問答を繰り返すかたわら、小金井市議会事務局に電話し指示を仰ぐ。なにしろ、一連の切符は彼が購入したのではなく、旅行代理店から取り寄せたもの。彼にすれば、青天の霹靂である。何ら解決の糸口がつかめないまま、明石市立図書館の視察に移る。彼の頭には、西明石駅から岡山駅までの行路をどうするかしかなくなってしまった。結局、小金井市議会事務局が下した方法は、再度交渉し、やむを得ない場合は西明石駅から岡山駅までの新幹線特急券を購入すること。西明石駅職員側の軍門にくだることも止むなしとなった。
明石市立図書館の視察を終え、再び西明石駅へ。集合時間を決め、議員が駅構内に散ったのを見届けた市議会事務局職員と、視察に加わった小金井市の図書館長、企画政策課長補佐は駅窓口におもむき、交渉に移った。市議会事務局職員の手には、一行の西明石駅から岡山駅までの新幹線座席指定券が握りしめられていた。ようするに旅行代理店は、「東京−西明石」の新幹線座席指定券の他に、「西明石−岡山」の座席指定券を手配し、乗車券と特急券を岡山駅までの通し券にしていたのである。しかし、ここで思わぬことが勃発した。「西明石−岡山の座席指定券は無効です」と駅側は主張するのである。彼等が言うには「座席指定券は特急券があってこそ効力を発生するのであり、その特急券は西明石駅を下車したことで消滅し、その時点で、その先の座席指定権利は無効となる」。指定席券に明記された新幹線はまだ到着していないのに、無効だというのである。もちろん、このやりとり場面に私は立ち会っていない。その後のさまざまな情報をもとに記しているので、いくらか差異があるかもしれないが、その程度は許容範囲と思っていただきたい。集合時間が近づき、散っていた議員が改札口前に集結してきた。しかし、駅窓口では小金井市の3人の職員が駅職員と交渉を続けている。そこへ集結した議員が入れ代わり立ち代わり様子を見に行く。それらの情報は、人一倍好奇心旺盛な市議会議員側に逐一、報告された。
小金井市職員3人の交渉は、20分は続いたであろう。その熱意が状況を一変させた。まず、「無効」となったはずの「西明石駅から岡山駅までの特急分」が復活し、続いて、同じく「無効」とされた「西明石駅から岡山駅までの座席指定券」も有効扱いとなった。ただし、「東京駅から岡山駅までの新幹線特急券」をそのまま有効とするわけにはいかないので(なにしろ、途中下車したのだから)、「東京−西明石」と「西明石−岡山」とで特急券を分けて購入したとみなす措置がとられた。その措置に符合する追加料金が取られたが、ようするに、「東京−岡山」の特急券の金額と、「東京−西明石」「西明石−岡山」とで特急券を分けて購入した金額との差額を徴収されたということ。「追加料金」と記したが、最初から旅行代理店が正常な購入の仕方をしていれば、同じ金額がかかるわけであり、追徴金という性格ではない。券が発行されたのは、座席指定の新幹線が到着する3分前であった。市職員から券を受け取り、走りながら階段を駆け上がり、ホームにたどり着いたときにはすでに新幹線はホーム手前に来ていた。
さて、この時に西明石駅の新幹線入口改札を通るときに手にした券も3枚であった。(1)「武蔵小金井−岡山」の乗車券、(2)「西明石−岡山」の新幹線指定席券、(3)「西明石−岡山」の新幹線特急券。(1)と(2)は旅行代理店が手配した券。(3)は西明石駅が発行した券である。岡山駅で(3)の券は改札機械の中に消えてしまったのではっきりとは覚えていないが、「指定券あり」と記されていたように記憶している。通常は、(2)と(3)は一枚の券に統合されているのである。
夜、一行は夕食のあと、二次会、三次会へとくり出した。しかし、疲れ果てた市職員は二次会終了とともにホテルへと消えて行った。市議会事務局職員はこの日、寝不足であった。前夜10時に床に就き、午前4時に目が覚めた。二度寝をすると寝坊するのではないかとの恐怖から、彼は午前4時に目が覚めて以降、テレビを見るなどして出勤時間を待つのである。しかも彼は、議会視察に議会事務局責任者として同行するのが、わずか2度目。1度目の視察団よりも人数が多く、口うるさい議員が今回の視察団にはそろっている。そこへ、今回の出来事である。しかし彼の奮闘で、難事を見事切り抜けることができた。彼は一生、今回の出来事を忘れないであろう。同時に、旅行代理店に対しては、いつまでも心に思うものが残るであろう。 ※写真は、問題発祥の地「西明石駅」
トップダウンの三宅島バイクレース
石原都知事が三宅島の復興イベントとして打ち上げた「三宅村オートバイレース」が16、17日に開かれ、マスメディアが続々と島に押し寄せている。小金井市はこのイベントに合わせて「観戦ツアー」を計画。しかし予定の30名を大きく下回る2名の応募しかなく、市長も参加を見送る事態に。
安全性を無視したバイクレースに対しては、国内バイクメーカーが協力を辞退。レースを主管する予定だった「日本モーターサイクルスポーツ協会」も協力しないことを決めるなど、石原知事がトップダウンで決めたイベントは、出だしから八方ふさがりの状態である。
私には、鳥たちが憩い、しかも高齢者が多い島でのバイクレースという発想がどうしても理解できない。バイクの轟音が鳴り響けば、島が驚きと悲鳴をあげるからだ。トップダウンで決められたイベントは、三宅村がカヤの外に置かれている。村の主体性を無視して、どこが「支援」と言えるだろうか。
(「しんぶん小金井」2007年11月18日付より)
信州・青木村
「長野県の青木村に行こう」と誘われ、知人にプランをすべて任せて洗面用具と下着類を詰め込んだだけのバッグ片手に電車に飛び乗った私の頭の中には、「青木村」がどんなところなのかの知識はまったく入ってはいなかった。「秋の長野県に行く」というそれだけで、一泊二日の小旅行は充分に私を楽しませるに足るものであるのだから。当然に、青木村を事前に調べておくことも、長野県のどのあたりに位置するのかさえも、一切、手を付けてはいなかった。新幹線の車窓に映る景色を眺めながら、長野にひさびさに出かける歓びで胸はいっぱいであった。
10月23日(火)午前10時50分、好天の上田駅に下り立った我々6人を出迎えてくれたのは、青木村在住で前青木村議会議員の堀内さん夫妻。我々の一人が旧知の間柄ということで、事前に連絡を取り合っていたものである。堀内さんの車に乗車し、堀内奥さんの道案内で千曲川沿いを走りながら、最初に向かったのは海野宿。パンフレットによると「1625年に北国街道の宿駅として開設され、集落は中世における東信濃随一の豪族・海野氏の城下町であった所」。約650mの街道の両脇に家並みが続き、街道の真ん中に用水が流れている。1986年に「日本の道百選」のひとつに選ばれ、1987年には「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けているだけに、街並みはおもわず見入ってしまうほど。驚いたことに、この海野宿の中を貫いている街道を自動車が走ることができるのである。道路の案内板に沿って車を走らせていたら、海野宿の中に車ごと入っていたという具合。海野宿で食べたざる蕎麦は、実に美味であった。
今回の小旅行でもっとも関心があったのは「無言館」。存在は知っていたものの、これまでに訪れることがなく、「ぜひ一度は見てきたほうがいいよ」と周囲から言われてきただけに、無言館の前に立ったときには見とれる状態であった。
無言館は、太平洋戦争で戦没した画学生の遺作を収蔵・展示する施設で、1997年にオープン。「『無言館』という名前には、絵が私たちに『無言』であるだけではなく、私たちのほうも画学生さんたちの絵にむかって『無言』であるという意味も含まれている」と設立者の窪島誠一郎氏は本に記しているが、私には“大好きな絵をいつまでもかき続けていたいのに、戦場で銃剣を握らざるを得なくされた学生たちの、言葉に発することのできない悔しい思いが込められた場所”という思いをひしひしと感じた。平日にもかかわらず、無言館にはたくさんの人々が訪れていた。
無言館から車で少し走ったところに「前山寺」という寺がある。「ここには“未完成の完成塔”と呼ばれる三重の塔がありますよ」と堀内奥さん。塔に窓がついていないから“未完成”らしいのだが、私には立派な完成塔に感じられた。秋だというのに、ツツジが咲いていたのには驚いた。前山寺の山門横には「信濃デッサン館」がたたずんでいたが、行程時間に余裕がないために、建物をかたわらに見ながら寺をあとにした。
この地の冠たる温泉は「別所温泉」。温泉の地名をあまり知らない私でさえも、その名は知っているのだから、日本中にその名をとどろかせているにちがいない。この温泉地の中に山本宣治の石碑があるという。山本宣治は戦前の労働農民党の衆院議員で、治安維持法の改悪に反対して帝国議会で孤軍奮闘し、1923年3月、右翼のテロに倒された。石碑は想像を超えて大きく、山を背にして凛然と構えていた。と、ここまで記してきたが、まだ本題の青木村には車は到達していない。太陽の日が徐々に山陰に迫ろうとしている。一行は案内を引き受けてくださった青木村の堀内さん宅をおじゃますることとなった。
堀内さん宅は古道「東山道」の街道沿いにあり、江戸時代はお代官様が住んでいた場所だという。居宅は2階建てで、屋根には太陽光発電のソーラーパネルが取り付けられている。居宅の他に白壁の蔵があり、もう一つ、いまにも朽ちそうな木造の農作業用の建物があった。居宅の中に入ると、居間のド真ん中にデンとストーブが置かれていた。薪ストーブのように思われる。仲間の一人が「あれはレコードプレーヤーですか?」と言ったので、一同は“この人もついに、ここまできたか”と彼の頭を眺めながら哀れんだが、そういえば私の実家にも昔、このようなレコードプレーヤーがあったなと、思い起こした。一階の天井が低い。「昔、おカイコをやっていたんですか?」と、仲間の一人が指摘。火が入っていない掘ごたつに足を投げ出しながら、カイコの話や、この地域の苦労話などで話は尽きず。ホームスティの受け入れを始めたというので、宿泊場所となっている2階も見せてもらった。
さて、堀内さんにいつまでも甘えていてはいけない。一行は、堀内さんのワゴン車を借りて、道案内なしで宿泊地の田沢温泉に向かうこととなった。田沢温泉は青木村のなかにあり、かつて、島崎藤村が湯治をかねて宿泊していたということで知られているらしい・・・・。道案内なし。運転手は私。運転に自信はあるが、ナビゲーターに自信はない。地図を見ながら、まずはスタート。しばらく走って「方向が逆じゃないの?」と言う声が。それならばとUターン。で、しばらく走って「どうも違うような・・・・」の声が。で、またUターン。なんやかんやで、なんとか田沢温泉に到着し、「富士屋ホテル」に入った。
青木村は、江戸時代に百姓一揆が5回も起きている地だという。「5回」というのが多いのか少ないのかの判断は私にはつかないが、「江戸時代の百姓一揆を、全国的な統計数字で見ると、国別の第一位は信濃で、信濃の中で藩別第一位は上田藩である。その上田藩の領地の中で、特に百姓一揆が多く起こったところとして注目されるのが、現在の青木村に入っている村々なのである」と青木村教育委員会のパンフレットは紹介している。そして、この青木村の中に、義民をまつった祠(ほこら)があるというのだ。「義民」とは何か?。パンフレットでは次のように記している。「(一揆の)最初の音頭とりとなったり、発頭人となることは、大きな犠牲を伴うことであった。それを死も覚悟の上で、発頭人を引請け、事が成功し要求が通ったあとでも、人身御供の形で処刑されたのが義民にほかならない」。つまり、大多数の村人の利益を勝ち取るために、自らは一揆の首謀者として人身御供(ひとみごくう)になり犠牲になっていった人を、村人があがめまつったのが「義民の祠」となって今日まで残されているのである。この青木村で最初の「全国義民サミット」が開かれ、昨年の秋には節目となる10回目のサミットが開かれている。
その青木村。10月の下旬ともなると、朝晩の冷えること。ホテルではすでに暖房が焚かれ、寝るときも暖房を付けたまま布団にもぐる状況。でも、富士屋ホテルの夜の露天風呂は最高であった。雲ひとつない夜空にまん丸の月が輝き、仕事を催促する電話もここまでは追っては来ない。男性陣4人は夜の9時30分に全員、熟睡に入った。
翌24日(水)朝、ホテルから見る村は山にガスがかかっていて、いかにも寒そう。朝9時、堀内さんが迎えにきた。堀内さんの仲間で、以前、日本共産党の村議会議員を務めていたという初老の人と富士屋ホテル内で合流。この初老の人、ホテルの待合室で血圧測定器を片手に、ホテルの従業員の血圧を次々に計っていた。私たちはこの初老の人を「診療所の人が出張でやってきて、ここで診察を行なっている」と勝手に推測。コーヒー片手にかたわらで見ながら、“どちらがお医者さんかわからないね”と、初老の人を患者さんに、従業員をお医者さんに置き換えて眺めていた。だから、堀内さんから紹介されたときには正直、驚いた。初老の人は現在、医療生協の仕事をしているという。
堀内さんの案内で村の教育委員会へ出向き、義民資料展示室を見学後、義民の祠や石碑・墓などを見て回った。このころには空は一斉に晴れ渡り、上着がいらないくらいの陽気に。義民関係の史跡を回ったあとは、堀内さん宅の前庭で、例の初老の人から義民の歴史の講義を受講。昼食を山で食べるというので、長靴を借りて車で山へ向かった。なんと、堀内さんは自身が所有する山を持っている。その山に入って、昼食前にきのこ取りまで体験してしまった。
堀内さんの本職は農業。どれくらい農地や山林を持っているかは知らないが、20羽くらいの鶏を飼い、山に向かう畑地には羊2頭を放し飼いにしている。家の裏側には小さな水田を開拓し、憲法九条の文字を浮かび上がらせた稲を実らせている。他にも水田や麦田を持っており、夫婦と娘さんの3人で農業に精を出している。「娘の一人が一緒に農業をやってくれている」と述べる奥さんの顔はとてもうれしそう。その娘さんも山の昼食にかけつけてくれた。
青木村のおしまいに、国宝の大法寺三重塔を見学した。鎌倉時代末期の建立で、長野県に残る三重塔では最も古く、奈良や京都の三重塔にも匹敵する名塔と称される。“見返りの塔”とも呼ばれ、東山道を往く旅人が何度も振り返って名残り惜しんだという。
堀内さんに見送られ、上田駅の構内に消えた私たちは、一泊二日の好天の青木村に大満足。充実しきった二日間を振り返りながら、大宮駅までの一時間を爆睡した。
102歳で死んだ知人の歴史
9月初め、彼女は家族に囲まれながらその生涯に幕を下ろした。享年102歳、実に一世紀を生き抜いた。彼女との付き合いは15年前から。私が市議会議員選挙に初挑戦するために訪れてからのこと。15年前とはいっても、すでに彼女はその時点で87歳になっていた。
15年前の彼女は腰は曲がっていたが、杖をつきながら街を歩き、私に出会うとニコッと笑いながら言葉をかけてくれた。彼女の趣味は絵画。油絵だったか水彩画だったかは忘れたが、アンデパンダン展に出展し、娘さんと一緒に個展なども開いていた。彼女の絵で印象に残っているものに、彼女のダンナさまを描いたものがあった。書斎で頬杖をつきながら考え事をしている姿を正面からとらえた絵である。
彼女のダンナさまは、私が彼女と知り合った時にはすでにこの世の人ではなく、在りし日の姿は写真でしかお目にかかったことはない。そのダンナさまは、1944年の「横浜事件」で検挙され、1945年8月に釈放されるまで獄中生活を送っている。
戦前、この夫婦は、著名な文筆家・蔵原惟人(くらはらこれひと)を自宅の2階にかくまったことがあった。蔵原惟人の願いを受け入れ、中央線の荻窪駅と西荻窪駅の中間に位置する2階建ての大きな家を彼をかくまうために借り、自分たちは1階に住み、2階を彼にあてがった。蔵原惟人がこの家にころがりこんだのは1929年12月初旬。翌年7月1日に蔵原惟人が東京を脱出するまで、この家は蔵原惟人の「かくれ家」となった。
蔵原惟人が2階に住んでいた半年間、この2階にはいろんな人が訪れた。「一九二八年三月十五日」「党生活者」「蟹工船」の作者である小林多喜二もその一人である。「多喜二は紺の絣の着物を着ていて、とてもかわいい坊ちゃんでしたわよ」と、彼女が私に語ってくれたことがある。特高警察に連行され、その日のうちにかえらぬ人となった小林多喜二を生前、自宅に招き入れたことのある人物が、どれほどいたであろうか。私は彼女に、「その時のことを書き記しておいてほしい」と頼んだことがあるが、日の目を見ずに他界したことは心残りである。
蔵原惟人を2階にかくまっていた期間、この家にはもう一人、住人がいた。この夫婦の2歳になる娘である。この娘は、ころがりこんだ蔵原惟人にとてもなついたらしく、彼を追いかけて、しょっちゅう2階へと上がっていった。その頃のエピソードが、ダンナさまが書いた本に次のように記されている。「キーちゃんは僕がお風呂にはいると風呂場の前に坐ってじっと見ているんだよ。とてもエッチな赤ちゃんだった。あんまりじっと見ているのでこっちが困ってしまうんだ」。これはいうまでもなく、蔵原惟人の言葉である。「キーちゃん」と呼ばれるエッチな娘は、彼女が102歳でこの世を去るまで共に生活を送り、彼女が過ごしていた家に、現在も元気で暮らしている。
彼女が100歳を迎えた時、私は党の仲間とともに彼女の自宅を訪問し、100歳の誕生日を祝った。その頃の彼女は外へ出歩くこともなく、自宅のベッドで過ごす日々を送っていたため、訪問者もほとんどなく、地元の共産党の市議会議員がだれだかもすっかり記憶から失せる状況となっていた。だから、私や私の仲間が訪問する段になって、娘の「キーちゃん」は彼女に、私がどういう人物であり、どんな風体なのかをしっかりと語り、彼女が不安がらないように努めた。そしていよいよ、ひさしぶりのご対面。彼女は初めて私を見るという感じであったが、彼女の開口一番がおもしろい。「わ〜、こんなにいい男だとは思わなかった」。このホームページを読まれているみなさん。事実です。
100歳のお祝いで訪問して以降、彼女とはついに会うことはなかった。100歳でありながら言葉も耳も頭脳もしっかりし、子どものようなかわいい笑顔と、かわいい声で迎えてくれたあの姿は、その時に撮影した記念写真で見るほかはなくなってしまった。戦前の苦悩の時代を歩んだ彼女から、もっといろんな話がきけていたらと思うこの頃である。
自民党総裁選挙
近所のガソリンスタンドから「閉店のお知らせ」が舞い込んだ。ガソリンだけでなく、自動車やバイクの点検・修理、自転車のパンク直しまで手がけ、長い間、慕われた店であった。
「地下のタンクが老朽化し、いまなら解体費用が出せるので」と言うが、規制緩和による無人ガソリンスタンドの進出が、経営を圧迫していることは否めない。
マスコミでは、自民党総裁選挙を連日報道し、候補者の言動を事細かに知らせる。けれども、彼らが口にする言葉には説得力が感じられないばかりか、どこに向かって言葉を発しているのかさえ、わからない。
ガソリンスタンドは、休みなく店を開けるようになった。しかし「構造改革」「規制緩和」を叫ぶ候補者の目には、この人たちの姿はけっして入りはしない。企業献金、政党助成金で労せず暮らしているからだ。国民不在の政治こそオサラバを。
台風縦断と市教育委員会の対応
風速25m以上の暴風域を引っさげて、台風9号が7日(金)未明、関東地方を縦断した。台風直撃で小金井市でも、屋根瓦が吹き飛んだり樹木が倒れる被害が生まれ、小中学校や公民館の雨漏りが発生した。我が家は目に見える被害はなかったが、前日(6日)未明あたりからは、強い風で家全体が揺れる始末。雨戸がない住宅なので、窓ガラスに物があたって割れはしないかと、落ち着かなかった。
普段は気にもとめない気象情報に、子どもたちは耳をそばたてた。7日が登校になるのか休校になるのかが気になるからだ。もちろん、子どもは一致して「休校」を願っている。しかし、その結論は7日朝の空模様を待たねばならない。「台風よ、もっと歩みを遅く」と、子どもたちは願いつつ布団にもぐった。
7日朝、外は風雨ともに強い。しかし学校からの指示は「午前7時を過ぎても東京地方または多摩北部の暴風警報が解除されない場合は臨時休校とする」というもの。朝7時、家族全員でニュースを見る。気象情報は「東京23区に暴風警報」の報道。そこで我が家は“ハテ?”となった。「東京23区」という場合、これは学校の指示文書でいう「東京地方」に合致するのか?。
カミさんはまず、小金井市役所に電話した。この時間に応対するのは市役所本庁舎1階の施設管理部門。教育委員会につないでもらおうとしたが、この時間帯はまだ教育委員会は来ていないとのことで、つないでもらえなかった。この時間帯の市役所窓口であるはずの施設管理部門は、教育委員会から何の指示も情報も寄せられてはいない様子であった。次にカミさんは南中学校に電話した。電話の呼び出しコールが一定続いた後、電話に出た人は、「『多摩北部または東京地方』が判断基準なので、『東京23区』は該当しない」との説明。よって「登校」が確認された。ほどなくして、娘が通う第四小学校の連絡網が入り、「登校」が指示された。
学校によって、保護者への指示内容は異なっていた。「うちの子どもの学校は『朝、連絡網を回して、登校か休校かのお知らせを行なう』という指示内容だった」と同僚議員の言葉。一方、第一小学校は「2時間繰り下げて、授業開始」であった。「午前7時を過ぎても東京地方または多摩北部の暴風警報が解除されない場合は臨時休校とする」は、小金井市教育委員会が各学校に出した指示文書であるが、最終結果を電話連絡網で徹底する学校もあれば、授業開始を2時間繰り下げる学校も生まれ、また、南中学校のように、自宅のテレビなどで各家庭が登校なのか休校なのかを「自己判断しろ」というところも生まれた。
慌てたのはカミさん。なにしろ第四小学校の娘はこの日、社会科見学が授業に組み込まれており、「弁当持参」が義務付けられていたからだ。いそいで台所に立ち、弁当準備に追われた。
この日、南中学校では、以前から計画されていた保護者会が開かれた。「保護者会では、今回の南中学校の指示のあり方に苦情がいくつも寄せられた」と、カミさんの言葉。一方、南中学校の息子のクラスでは「2人ほど、遅れて学校に来た」とのこと。小金井市教育委員会の各学校への指導のあり方に問題があると感じるのは、私だけか?。
郷里の「猛暑」
この夏、観測史上最高の「40.9度」が埼玉県で観測された。記録がつくられた16日、「体温より高い気温など想像できない」と口にしながら、私は郷里・福井で夏休みを過ごしていた。
何度体験しても馴染むことのできない東京の夏から逃れようと、ほんの数日の郷里であったが、その郷里でさえも連日、35度前後に見舞われた。しかし、日本海側の夏は湿気が東京よりもはるかに少なく、「今年は暑い」との母親の言葉ではあったが、過ごしやすい数日を送ることができた。
連日の猛暑ではあるが、いずれは秋を迎える。迎えたとたんに猛暑だった夏を懐かしむのだから、都合のよいものである。その秋を迎える前に、暑い夏の締めくくりに市営グランドでは、37回目となる平和盆踊りが花開いた。平和憲法が脅かされる今日、平和を呼びかける取り組みは、さらなる炎が求められる。その炎は冬になってもけっして衰えることがないほどに。
梅雨明け
先月14日に梅雨入りした関東地方は、一カ月余が過ぎた今日でも、明ける気配を見せてはいない。過去30年の平均梅雨明けが7月20日前後というから、一週間余、遅れている。
昨年の梅雨明けは7月30日だった。昨年と同じであれば、政治決戦の結果が判明する日と重なり、暴走続く国政の梅雨明けも期待できる。
梅雨明けには、太平洋高気圧の奮起が欠かせない。梅雨前線を一気に押し上げ、すっきりした晴天を一日も早く仰ぎたいものだ。かたや国政では、どの勢力が太平洋高気圧になりうるのか、じっくり見定めることが求められる。前線を押し上げるはずの勢力が、気がついたら前線と同じ役割を果たし、国民に風雨を与えることがありうるからだ。
政治戦の梅雨空を一気に晴らす部隊は、なんといっても「たしかな野党」。汚れた金もヒモ付きの金も一切受け取らずに、くらし第一をめざしているからだ。7月15日、この党は85歳を迎えた。
パッチギ!
井筒和幸監督の「パッチギ!」がテレビで放映され、劇場で第二弾が公開された。いずれも日本に住む朝鮮の人たちの苦悩と懸命にくらす生きざまがテーマとなり、観終わった私をとりこにしている。
天皇制政府は戦時中、朝鮮や中国から70万人以上を強制連行し、貫井北町の陸軍技術研究所造成工事や各地の工場、炭鉱などで働かせるとともに、女性は戦地に送られ、従軍慰安婦を強制された。米下院委員会が日本政府に公式謝罪を求める決議を採択したが、安倍内閣がいかに否定しようとも、歴史の真実から目をそむけることはできない。
小金井市には外国人が2,300人以上、住んでいる。一番多いのは中国の人(1,007人)、二番目が朝鮮・韓国の人(429人)。一番近い国でありながら、国の責任者が歴史を歪める態度をとっているために、朝鮮半島の南北分断のように、ここにも「イムジン河」が流れている。
憲法九条
私が子どもの頃は、自衛隊が戦場に出かけることなど考えられなかった。ところが16年前の湾岸戦争で掃海艇をペルシャ湾に出航させ、翌年にはカンボジアに自衛隊を派遣。それから11年後の2003年には、戦場のイラクに武器を携えて出かけていった。しかし「交戦権の否認」を明記した憲法九条が、武器の使用を止めさせている。
民主党が本会議採決を認めたために国民投票法が成立し、3年後からは憲法改定が可能な状況になる。その民主党は、教育委員会を廃止せよと主張。国に直接、教育に介入させ、子どもたちに「愛国心」を教え込めとでもいうのだろうか。
先日、憲法ミュージカル「キジムナー」を観た。友軍であるはずの日本軍が県民に銃を向け、自決を強要。その歴史は、忘れてはならない教訓である。「憲法九条をなんとしても守りぬかねば」。決意新たに劇場をあとにした。
笠木 透
自民・公明政権が、今国会で憲法を変えるための手続き法案を成立させようとしているなか、4月30日の夜、都内の立川市で「ピースナインコンサート in 立川」と題した集いが開かれた。「ナイン」とは憲法9条のこと。「憲法9条の改悪を許さない」ことを、歌を通じてアピールするという取り組みである。
第一部は、三多摩のJR中央線沿線上で活動している音楽好きの市民団体が、平和を題材としたオリジナル曲を披露するというもの。出演団体は「くにたち音楽倶楽部」「真思惟(まーしい)」「まちのうたを唄う会」「くらしうた研究会」「わたしの九条を歌う会」「東京寺子屋」など。「わたしの九条を歌う会」には知人が参加しており、知人が作詩した「わたしの九条」に元 統一劇場の岡田京子さんが曲をつけ、当日、披露された(写真参照)。
第一部の出演者のなかで印象が強かったのは、「真思惟(まーしい)」。配られたパンフレットによれば、国立市在住のアマチュアフォークシンガーで、ライブハウスで演奏活動を続けているという。ギターの演奏力がよく、しかも歌唱力が群を抜いている。場馴れした感があり、聴くほうにも安心感を与える見事さであった。この人のステージは再度、聴いてみたいと思う内容であった。
第二部は、「笠木透と雑花塾」。「笠木透」は知る人ぞ知る「フィールドフォーク」の先駆者。1970年代から80年代にかけて京都を中心に活動していた「ザ・ナターシャー・セブン」に歌を提供していた人で、代表曲に「私の子どもたちへ」「わが大地のうた」「あなたが夜明けをつげる子どもたち」「私に人生といえるものがあるなら」など。
笠木透を初めて知ったのは、25年ほど前。当時所属していた労組青年婦人部のキャンプが岐阜県高山市で行なわれ、キャンプの室内イベントに笠木透が招かれ、彼のギター弾き語りを目の前で聞いたのが最初。どんな歌を歌ったのかは全く覚えていないが、とにかくユーモアたっぷりのお話しと歌だったということだけは記憶にある。
次にお目にかかったのは、20年ほど前。小金井市内に本拠地を構えていた統一劇場の地下練習場で、現在の小金井消防署の東隣りのビルの地下であった(現在は、このビルに「ふるさとキャラバン」が事務所を構えている)。その頃の笠木透は「フォークス」というバンドを組んでおり、私の記憶では、「ザ・ナターシャー・セブン」のメンバーであった坂庭省悟と城田純二がメンバーに入っていたように思う。当時、勤めていた職場の人から誘われてコンサートに出かけていったもの。うたった歌は「ザ・ナターシャー・セブン」の曲が中心だったように思う。とは言っても、笠木透が曲をつくっていたのだが。とにかく、その時のステージは素晴らしかった。小金井市の街中のビルの一室で聴いているのに、私の頭の中は故郷の福井の田舎で聴いている錯覚に陥ってしまったのだから。「フォークス」は長続きせず、1991年から彼はソロ活動に入った。
さて、4月30日の夜。笠木透と雑花塾は、お話しと歌を交えながら実に1時間30分も楽しませてくれた。歌った曲は「わが大地のうた」「あの日の授業」「あなたが夜明けをつげる子どもたち」「ホウセン花」「軟弱者」「君が明日に生きる子どもなら」「ピース・ナイン」。他にも歌ったと思うが、覚えているのは以上7曲。笠木透は曲の合間あいまに憲法九条の重要性と歴史を述べ、今日の憲法改悪の動きに対して警鐘を鳴らし続けた。
「ホウセン花」を初めて聴いた。内容は従軍慰安婦の問題。雑花塾メンバーのギター弾き語りの熱唱で、隣で聴いていた妻は涙ぐんでいた。「あの日の授業」は副題に「新しい憲法のはなし」とあるように、戦後、平和憲法ができたときに当時の文部省が1947年に発行した「あたらしい憲法のはなし」という冊子を手に、先生が授業で子どもたちに新憲法のはなしをしている様子を歌ったもの。すでにCDでこの歌は知っていたが、ナマの笠木透の野太い声は、すごい迫力であった。笠木透は今年70歳。ガラガラ声はひときわだが、壮年時代の伸びやかさは衰えた様子。笠木透がつくるような歌を他につくれる人が見当たらないなかで、彼にはいつまでも元気で活躍してほしいと願う。
この日のチケットは2千円。家族4人で参加したので8千円となったが、十分に満足できるステージであった。ステージ終了後、ロビーで彼のCDと書籍のサイン会があった。妻は相当に感動したのであろう。CDと書籍、歌集を購入。さっそくサインをもらっていた。「写真を撮ってもよろしいでしょうか?」と尋ねると、笠木透は「どうぞ」と快くOK。妻と何やら言葉を交わしながら、妻が購入した書籍や歌集にサインをしていた(写真参照)。
全国学力テスト
24日、中学校では43年ぶり、小学校では初めての全国学力テストが実施された。小学6年の娘の説明によると、名前の欄には何も記載せずに、名前のフリガナを書く欄に組と出席番号からなる数字を記載したという。1時間目は算数Aと国語A、2時間目は国語B、3時間目は算数B、4時間目はアンケートが行なわれ、持ち帰ったアンケート用紙を見ると、99項目もの質問が並んでいた。
懸念されるのは今後、学校別の成績公表や成績競い合いにつながっていくのではないかということ。学ぶための学校が、競争するための場とされてしまえば、学校は楽しくない場所に変わってしまう。
4月も終わりに近づき、黄色い安全カバーのランドセルを背負った新一年生も新しい環境に慣れてきた様子。友だちとじゃれ合いながら行き交う姿に、のびのびと育ってほしいと心から思う。
東京都の高齢者福祉
この8年の間に、東京都の高齢者福祉は大幅に切り捨てられた。1999年当時、無料のシルバーパスを受けていた小金井市民は6,122人。今日では全員が有料にされてしまった。マル福と呼ばれる医療費助成は当時、10,767人が受給していたが、今年6月で制度は廃止される。また、65歳から支給され、70歳からは月額5万5千円支給されていた寝たきり手当(老人福祉手当)は当時、1,099人がもらえていたが、今日ではすでに廃止されている。しかし市民の暮らしが豊かになったわけではない。
7年前から1割自己負担の介護保険制度が導入され、小泉内閣のもとで医療制度が大改悪された。国でも東京都でも「福祉は贅沢」とされ、次から次へと切り捨てられていくもとで、政治を暮らしの側に立たせることは待ったなしになっている。いまこそ政治を変える闘いの時だ。
稲葉市長の『市民参加』の内実
「市政の主役は市民」を巻頭に掲げ、「市民の望むところを市政に積極的にいかしていく」とうたった市民参加条例が施行されて3年。この条例にもとづき、市の重要政策となる「子どもの権利条例」素案が昨年3月、市民参加の策定委員会から市長に提出された。
ところが市長は「内容が私の意にそぐわない」からと、議会への条例提出をいまだに行なおうとはしていない。「子どもの権利ばかりをうたい、自己責任については不十分」というのがその理由。
その市長、1カ月後の燃やすゴミの受け入れを国分寺市以外は確定していない事態を、どう考えているのか。市民参加をうたいながら事態を明らかにせず、市民不在で候補地案を示すやり方に、市長の自己責任そのものが問われている。
「市民参加」を本物にするためにも、市政転換が必要。この3月を「熱き春」に切り替えて。
暖冬
細身の私でさえも、この冬は暖冬だと感じる。昨年は1月下旬には積雪があり、その前の年は大晦日にドカ雪が降った。しかし今年は今月20日に雪がチラついた以外は、雪を見ていない。そればかりか、氷の張った場面さえ見たかどうか。テレビでは草スキーさながらのゲレンデを映し、土の上で開催を待つ雪まつり会場を紹介している。
「地球温暖化」がいわれて久しい。気温が3℃上昇すれば洪水の恐れが増大し、海面が65p上昇すれば、日本全国の砂浜海岸の8割が侵食するという。家電製品を揃えれば、それだけで二酸化炭素を増大させるというのだから、さしずめ我が家は二酸化炭素のなかに住んでいるようなもの。
細身の私には暖冬はありがたい。しかし、確実に花を咲かせるためには、淀んだ水を浄化させなければならない。まずは都政。浄化槽には「吉田万三」が効果抜群だ。※写真は昨年12月初旬の「貫井神社」。
(2007年1月28日付「しんぶん小金井」より)
亥年
年の瀬の華やかさが消えて何年になろうか。 「いざなぎ景気を超えた」 というが、 ジングルベルも歳末大売出しも、 群がる人々の姿は過去の出来事。 昨年まではサンタへの要求書を掲げた我が子も、 ついに今年は貼りだしを諦めた。 子ども心に、 サンタに無理は言えないと悟ったものか。 しかしイブの夜、 私に対して要求書を突きつけた。
新年はイノシシ年。 干支のなかで最後に登場する動物だが、 これまでの11の動物のふがいなさを蹴散らすように、 猪突猛進、 悪政や格差社会を吹き飛ばしてもらいたい。 同時に、桜の開花の頃には、 東京都政に万の息吹を咲かせたい。
小金井市議会24人の中で、 イノシシ年は2人。 かつて市議会野球部でバッテリーを組んだ同士だが、 稲葉市政に対するスタンスは正反対を歩む。 新春、 都政のマウンドに立つ元足立区長もイノシシ男。 直球勝負が決め球だ。
(2006年12月31日付「しんぶん小金井」より)
豪遊出張
石原知事の豪華海外出張が明らかにされた。1人1泊26万円のホテルに夫婦同伴で宿泊。もちろん都民の税金。知事就任以来19回の海外出張を行なっているが、「都議選の応援が面倒くさいから」と出かけたケースも。
小金井市議会も公費を使った出張はある。常任委員会の場合、年1回1泊2日で、宿泊費用は「1人1万5千円以内(食費込み)」。行ける場所は「予算額の範囲」となるため、西は関西方面、北は東北までと限定される。当然に海外などありえないし、夫婦同伴などもってのほか。市税を充てるのだから、成果は確実に市政に反映させる。
所得格差が広がるなか、小金井市でも就学援助を受ける生徒が12%、生活保護世帯は5年間で2倍近くにのぼっている。豪遊で使う「1泊26万円」以下の月収で多くの都民が暮らしていることを、声を大にして叫びたい。
(「しんぶん小金井」2006年12月3日付より)
韓国人街
14年前まで私は、小金井(住居)と代々木(職場)の往復を繰り返していた。たまに新宿などへ出かけることはあったが、こんな場所があるなんて全く知らなかった。当時この場所が、今日ほどに集約されていたかは疑問なので、当時はそれほどに注目を集めるものではなかったかも知れないが・・・・。
11月19日(日)昼、何人かの友人とともに、JR新大久保駅近くにある「韓国人街」を訪れた。「職安通り」西側一帯のその場所は、韓国文字が街中にあふれ、韓国文字が並ぶ店先では韓国語と思われる言葉で店内を紹介する人がたむろする。おりしも前夜、NHKの「チャングムの誓い」が最終回を放映したばかり。建ち並ぶ店先には「チャングムの誓い」の登場人物のポスターなどが張りめぐらされ、サイン会が先日実施されたことなどが報じられている。
我々一行は「マニト」という韓国料理屋に入った。食べた料理の名称は覚えていないが、唐がらしがいずれの料理にも使われ、ほどよい辛さが舌先に残った。お店の人は4人。店長だという40歳くらいの男性は「私は日本人」だと述べているが、話している日本語は妙にアチラ風にぎこちない。店長いわく「私は根っからの関西人。2年前にここにきて店長になったが、日本の標準語で店員の韓国人と対応しているうちに韓国の言葉が入り交じり、日本の標準語もぎこちなくなってしまった」。「店を離れると関西弁に戻る」と言った店長は、ばりばりの関西弁で話しはじめてきた。と、その時、店員が何かを話しかけてきたら、いきなり関西弁が韓国語に変身した。
この一帯には120くらいの韓国店があるという。数年前の日韓共催のワールドカップサッカー以来、人気が出始め、「韓流ブーム」に乗って一躍、脚光を集めた様子。「ようやく、この一帯で、日本人店長として受け入れてもらえるようになった」と店長。それまでは、日本人というだけで、白い目で見られていたとのこと。「石原知事は、この込み入った一帯を高層ビル街にしようと考えているが、街の人気が上がってしまったために、手がつけられずにいる」と述べる姿からは、この街をこよなく愛している感じがひしひしと伝わってくる。「また来てください。おもしろい話がいっぱいありますから」。仕事のために、食事が終わった私は一足先に小金井へ。残った一行は、近くの「高麗博物館」へ出向いた
(2006年11月20日付)
国民保護計画
『目には目を』『歯には歯を』。暴力団まがいの議論が、政府内に横行している。核武装で相手を威嚇し「いざとなったらやり返す」式の行く手には、どんな世の中が待ち受けているのだろうか。
そのことを示したのが、小金井市が発表した国民保護計画。N(核)B(生物)C(化学)兵器による攻撃にも備えた心構えがうたわれ、化学防護服、放射線測定装置、汚染拡大を防止するための除染器具などを備蓄するとしている。
背筋が凍ったのは「被災住民に対する救援」。埋葬・火葬の文言が飛び交い、「死体収容所の開設、死体の搬送、収容及び処理等を行なう」と明記。「死体の洗浄・縫合・消毒」など、死体の処理方法まで記されている。
攻撃にいかに対処するかよりも、そんな世界にならないように平和外交を政府に求める計画こそ、真っ先にうたうべきではないだろうか。いまこそ憲法九条を高く掲げて。
(「しんぶん小金井」2006年11月5日付)
JR山田線
10月中旬、市議会総務企画委員会の行政視察で、岩手県の宮古市を訪れた。宮古市は陸中海岸に面しており、漁港としても、また津波状況をテレビで映し出す無人のテレビカメラが設置されている場所としても、知られている。場所的には、岩手県内東端の中心に位置している。
東北新幹線「はやて」を盛岡駅で下車した一行(議員8人、職員3人)は、宮古駅行きのJR山田線の2両編成ディーゼル車に乗車した。空は晴。各駅停車に等しいほどに多くの駅に止まる車両が山中に入るにつれ、周辺の木々の葉は見事な色づきに変わっていく。蛇行しながらも線路の下方に寄り添って流れる渓谷の澄んだ水面には、落ち葉がいくつも浮かんでいた。
圧巻は区界(くざかい)峠。周辺の木々は見事な紅葉。黄色や赤が痛いほどに目に飛び込んでくる。北側にそびえる岩神山(1103m)も惚れ惚れするほど。できうるならば、ここでしばらく停車してほしいくらいだ。カメラを持参していながら、これほどまでの景色を一枚も記録しなかったことが心残り。峠を超えた車両は、はずみをつけたように線路を下っていく。あわせて、線路下方に流れる渓谷の水面は、今度は車両が走る方向と同じ方向に流れを変えた。
宮古市は人口6万1千人。行政面積は696.82㎡。広大な場所に小金井市の人口の約半分ともなれば、駅前は当然に閑散としている。市役所は宮古湾を入ったところにあり、庁舎の中から湾内を眼下に見ることができる。視察の内容は別項にゆずるとして、市役所職員の話し言葉が、テレビでよく耳にする岩手訛りであったことが、オレは今、岩手にいるんだ!と実感させた。
視察を終えた一行は午後3時49分発の車両に乗るために宮古駅に舞い戻り、ホームで静かにたたずんでいる盛岡行きの車両に早めに乗り込もうと、改札口前にやってきた。ところが改札口に駅員がおらず、しかも進入禁止の看板が置かれている。どうやら、出発間際でないと改札を開けないらしい。しかたなく、駅員が来るのをいまかいまかと待った。さて発車10分前。いいかげんに来てほしいとイライラしはじめたところへ、改札口の近くで駅蕎麦を営んでいる女性がやってきて「改札口はあちらですよ」と指さした。さされた先は待合室の中。締め切られた待合室の一角がガラス戸になっていて、その戸が横に開けられ、そこが構内に入る改札口になっていた。我々が並んでいた改札口は構内から駅外に出るための改札口であり、ここでは、入口と出口の改札口は別々になっていたのだ。もし女性が教えてくれなかったら完全に乗り遅れていたし、永遠に乗れなかったかもしれない。
帰路のJR山田線は1両のみのディーゼル車。予定どおり午後3時49分、出発。陽はだいぶん西に傾き、行路で写真撮影できなかった区界峠付近は、通りすぎる頃には、おそらくは撮影できる明るさではないだろう。ふたたび、各駅停車かと疑うほどに多くの駅に止まりながら、車両は盛岡駅へと進んでいく。途中、「ひきめ」という駅に着いた。この地名には特別の思いがある。なぜなら、昨年7月に脳内出血のために他界したフォークグループ「NSP」の天野 滋 氏とともにNSPの一員として活動してきたメンバーの一人が、この「ひきめ」出身だからだ。NSPは岩手県一関市を中心に活動し、私の手元には、NSPの大部分のレコード・CDが置かれている。
さて、車両は区界峠めざして登っていく。外はだいぶん暗くなり、小雨も降ってきた。車両は苦しそうにあえいでいる。と、その時、車内アナウンスが流れた。「雨と落ち葉のため線路がすべり、スピードが出せない状況となっています。ご了承ください」。区界駅一つ手前の「まつくさ駅」に向けて走っている最中の午後5時過ぎのアナウンス。外を見ると、お年寄りが歩くようなスピードで、たしかに雨で車輪がすべっているような振動が。途中何度も止まりそうになるほどの状況にもなった。何故か雨とは関係のないトンネル内でさえも、その状況は続いた。そのうえ気のせいか、エンジンが焼けるような臭いもする。
当然、車内はざわめきだした。盛岡駅で新幹線に乗り換える人は、新幹線が指定席であるがために、気が気でない。車両はわずかに1両。乗客は30人前後。そのうち8人は、日頃から口やかましい市議会議員。たとえ今夜が盛岡市宿泊であっても、車両の走り方を見ていると騒ぎたくもなる。若い男性車掌が顔面蒼白になりながら、車両の前後を何度も行き交う。我が市議会議員も他の乗客も、車掌に「どうなっているんだ!」と説明を求めはじめる。しかし車掌は、車内アナウンスのとおりに答えるのみ。携帯電話は「圏外」を示す。
午後5時35分、ようやく「まつくさ駅」着。そこで次なるアナウンスが流れる。「すべり止めの砂を積み込むために、しばらく停車します」。へ!? 砂の補充?・・・・。少なからず乗客がホームに降り立った。タバコを吸う人、車両の前面に行って、状況を確かめる人。降り立ったのも、ほんのわずか。車掌によって車内に戻された。そして少し車両を進行方向に動かして、また停車。「ただいまから、砂の補給のために停車いたします」。午後5時44分、「大変長らくお待たせしました。砂の補充が終わりましたので、運転を再開いたします」。車両は動きだした。そしてアナウンス、「まつくさ駅を38分遅れてのスタートです。ただいまから、乗車券の拝見にうかがいます」。
「乗車券の拝見にうかがいます」のアナウンスに私は、タイミングが悪い!と、前の席に座っている渡辺大三議員に言ったが、その私自身は、最初のアナウンスが流れた午後5時過ぎあたりから、この事態を楽しく見ていた。こんな経験はめったにないし、飛行機や船と違って、墜落や遭難する恐れもない。たしかに渡辺議員が言うように、車両が火を噴くのではないかとの思いはあったが、その時はその時とあっさりと考えていた。それにしても、小雨の中の峠に向かう登り坂ではあっても、わずかなレール幅の上に延々と落ち葉が着いているわけでもないし、なぜ、車輪がこんなことですべる状況になるというのだろうか。このことは、おそらく乗客の誰もが抱いた疑問であったろう。しかし、「砂を補充した」車両は、まつくさ駅以降はスピードを取り戻し、見違える走りを見せた。その走りは、かのJR福知山線の脱線事故をほうふつさせるほどに。
午後6時38分、予定より38分遅れて、終点の盛岡駅に到着した。「さすがに、砂の威力はすごいナ」と、我が市議会議員の会話。しかし、誰もが、砂を撒きながら走っていたとは思ってはいなかった。砂を積むところを見た者はいないし、この程度の小雨と落ち葉で車輪がすべるのであれば、この季節には、このような事態は毎度、起きることになる。第一、レール上に落ち葉などほとんど着いていないことを「まつくさ駅」で確認している面々は、今回のわけのわからない出来事に、さまざまな推測を立てるのみ。とにもかくにも、不思議なJR山田線は、後々まで語り継がれて行くことになるだろう。
(2006年10月19日付)
ゴミ非常事態宣言
1日付の「市報」で「ごみ非常事態宣言」が明記された。来年3月で二枚橋焼却場が全面停止するため。そして、燃やすごみ市民一人一日あたり「50g減量を」と呼びかけている。
すでに「市報」は6月15日付で、二枚橋焼却場が来年3月で廃止されることを述べており、「何故、今になって?」の感がぬぐえない。しかも「50g減量」は今月になって打ち出したもの。8月と9月号では「ごみの減量・分別が着実に進んでいます」と述べ、一人一日わずか「1gの減量」しか求めてはいなかった。7月15日付までは「51gの減量」を呼びかけていたにもかかわらず。
根源には、今頃になって事態の深刻さに気づく危機意識の欠如が横たわっている。駅前開発に熱中するあまり、6月議会での我が党の「全量処理困難」の指摘に、機敏に対応する感覚を失くしていたからだ。市長の責任は重大である。
(「しんぶん小金井」2006年10月8日付より)
敬老祝賀会
市の敬老会が17日に行なわれる。再開発のために取り壊された公会堂に代わって実施される中央大学附属高校での催しには、68歳以上の高齢者16,173人に案内が送付された。
あわせて小金井市は、喜寿(799人)・米寿(244人)・白寿(17人)・百歳以上(23人)の1,083人に今月末、記念品のギフト券を送付。そのうち百歳の5人に対しては、市長が直接訪問して記念品を手渡すという。
その市長が発表した「行革大綱」では来年度、前述の高齢者記念品支給事業を見直すとしている。「財政健全化」の名で「事業の役割を終えた」との判断から。市長は百歳の方々を前に、「記念品はこれでおしまいです。役割は終えました」とでも言うのだろうか。
10月8日、貫井坂下の自治会連合会は毎年恒例の敬老祝賀会を開く。年々増える参加者ではあっても、行革は考えず、心からの敬意を表して。
(「しんぶん小金井」2006年9月10日付より)
乳幼児医療費助成を就学前まで
「2005年の出生率1.25」が波紋を呼んでいる。人口が減るだけでなく、産業を支える労働力や社会保障制度の基盤さえも揺るがしかねないからだ。少し古いが、2003年の小金井市の出生率は1.08、東京都は0.9987。小金井市もまもなく1.0を切ってしまうのではないだろうか。」
この事実を示しながら、過日の市議会で「子育て世代の経済的負担を軽減するためにも、乳幼児医療費の無料化を就学前まで拡大せよ」と迫った。市長は従来の「負担能力に応じて負担していただく」を変更し、「年次計画を立てて、すすめていきたい」と述べるにいたった。背景には、三多摩で7市が無料となり、国分寺市も来年度には無料に踏み切るからだ。
日本共産党は3月議会に条例を5本、今議会には「乳幼児医療費の就学前までの無料化条例」を準備した。市民の声を代弁する当然の役割として。
(「しんぶん小金井」2006年6月18日付より。なお、関連する資料をPDFファイルで掲載します)
乳幼児医療費助成を就学前までPDF(127KB)
三宅島
三宅島へ先日、小金井市議会の一員として訪問した。4年半ぶりの島民帰島から1年3カ月を経た島は、観光受け入れ体制が急ピッチですすめられているものの、噴火の傷跡は生々しく残っている。「ガスマスクの常時携帯が義務づけられています」とのことであったが、島に足を踏み入れてみると臭いはさほどでもなく、誰一人としてガスマスクは付けていなかった。
村長や村議からは、島民の高齢化に対する懸念が口々に語られた。三宅村の高齢化率は三八・五%にものぼり、民宿の施設はあっても、高齢化で営業を再開しようとしない人が多い。それでも五月の連休時には、被災前の七割にまで観光客が回復し、釣りや野外活動でにぎわったとのこと。
観光回復と称して、島を走り回るバイク競技を主張する人もいるが、自然あふれる島に一人、また一人と訪れ、その輪を広げて行ってこそ、本当の観光回復につながるのではないだろうか。島はいま、釣りの宝庫である。
(「しんぶん小金井」2006年5月21日付より)
南中学校入学式
私が小金井市に住み着いた年の4月、市立南中学校が創立された。その南中が今年、創立30周年を迎える。一番歴史のある第一小学校が3年前に創立130周年を迎えたというから、実に百年以上もの差。それでもこの間、3,950人の生徒を南中学校は送り出している。
4月7日、入学式が行なわれ、134人の新入生が南中学校の門をくぐった。開校当時の新入生が163人というから、私立の中学校を選んだ生徒もいることを考えると、30年の間の生徒数に大差はないともいえる。卒業式前後に咲き始めた桜は入学式までしっかり枝にくらいつき、つい先頃まで小学生だった、あどけなさの残る新入生を温かく迎え入れている。
その南中へ今年、息子が門をくぐった。憲法と教育基本法の改悪が俎上にのぼるなか、平和のいしずえを守り抜かなければと、あらためて思う。
(「しんぶん小金井」2006年4月16日付より)
卒業式
「桜は入学式の頃」が通説だったように思う。けれども、最近は卒業式の頃にシーズンを迎えることも多く、「厳冬のほうがかえって早く咲く」と述べる者もいる。とはいっても、今春は到底、卒業式あたりというわけにはいくまい。その卒業式を十七日は市立中学校で、二四日には小学校で迎える。
早々に、地域の中学校から案内が届いた。「卒業証書授与式のご案内」。しかし手にして、ハテ?となった。なぜ「卒業式」ではないのだろうか。与える意味での「授与」と、門出としての「卒業」では、主役が入れ代わってしまうではないか。卒業式会場にこれまでは認められていた子どもたちの展示物が、今年の「授与式」では撤去される学校が出てくるとのことである。
二四日、我が子も小学校を巣立っていく。六年前の入学式の、あどけなさはみじんもなく。心を桜で満開にして。
(「しんぶん小金井」2006年3月19日付より)
郡山総一郎氏の目線
過日、フォトジャーナリストの郡山総一郎氏の講演を聴いた。シャッターをとおして、その国の姿を発信しつづける彼は、04年4月に2人の若者とともにイラクで誘拐されたが、以後も紛争の続く国々を訪れ、誰が一番、犠牲になっているかを告発し続けている。
彼が最も胸を痛めているのは、いまなお空爆がつづくイラクやアフガニスタンの人々。空爆の下でどれだけの命が犠牲になり、生き残った人々がどのような生活を強いられているのかは、まったく見えてはこない。「だから現場で見ることが大切なんです」と彼は言う。イラク攻撃が開始されてすでに3年。3万人を超えるイラク市民が犠牲になっている。
イラク攻撃が始まった3月は、東京大空襲の月でもある。8万5千人が死に、4万人余が負傷した61年前の大空襲。あの夜の東京も今日のイラクも、空爆を行なうのはアメリカである。空爆の下では多くの弱者が、尊い命を奪われている。
(「しんぶん小金井」2006年2月19日付より)
風化させてはならない
市営グランド北側の建物が取り壊される。戦時中に陸軍技術研究所の本部棟として建てられ、戦後は小金井第二小学校として使用。その後、市営競技場の管理棟として活用されてきた。老朽化とはいえ、歴史を反映した建物が消えていくのは残念である。
その小金井市が行なった「行政評価」では、憲法記念事業と非核平和推進事業を「廃止」「縮小」と明示した。折しも今年は憲法制定60年、昨年は被爆60年である。世界連邦平和都市宣言や非核平和都市宣言を行なった小金井市が、このような評価を行なうこと自体、許しがたい。戦争遺跡は消えても、過ちを二度と繰り返させない取り組みは燃やし続けよう。
小金井市は現在、市制50周年の二年後に向けて、記念誌発行の準備をすすめている。いままでまとめきれなかった戦前・戦中も加えながら。風化させないために。
(「しんぶん小金井」2006年1月22日付より)
耐震基準
小金井市に身を置いてから28年余が経過した。住みはじめた頃は植木畑や農地が広がり、静かなたたずまいをみせていた街中もいまでは2万2千6百もの建物でひしめきあっている。
24年前に建築基準法が改定され、それ以前に建てられた建物は、新しく制定された耐震基準に合致するかどうかが問われるようになった。我が家を含めて、市内建物の25%が建築基準法改定以前に建てられているので、地震の時にはさぞかし揺れているのではないだろうか。
ところで近頃は、近年建てられたマンションでも揺れが激しいと聞く。場合によっては、オンボロ我が家よりも先に倒壊することもあるそうな。姉歯や木村は、とんでもない贈り物を年の瀬によこした。
あとわずかでクリスマス。我が子は今年も、サンタへの破格の要求書を貼りだそうとしている。フトコロは崩壊寸前だ。
(「しんぶん小金井」2005年12月18日付より)
校歌に刻まれた願い
21世紀は9・11テロを皮切りに、アフガニスタン、イラクへと戦禍が広がり、テロが頻発するようになった。戦争で明け暮れた20世紀を体験した世界中から、いまの時代を憂う声は高まるばかり。そうした時代だけに、平和を守り抜くための取り組みは欠かせない。憲法9条を守り、二度と戦争に加わらない国づくりをすすめていくことが大切だ。
先日、本町小学校の開校40周年記念式典に参列した。この学校の校歌には「平和」の歌詞があり、子どもたちに平和の尊さを伝えていこうとの作詞者の願いがみてとれる。調べてみると、市立小中学校14校のうち、校歌に「平和」が刻まれているのは小学校で4校(本町小学校、第一小学校、前原小学校、第三小学校)、中学校で2校(東中学校、緑中学校)となっている。
戦後60年、戦争を知らない政治家が憲法改定を声高に叫ぶなか、先駆者のつづった歌詞に、大きな重みを感じる。
(「しんぶん小金井」2005年10月23日付より)
敬老会
日本人の平均寿命は今日、女性が85.6歳で世界一、男性は78.7歳で二番目となっている。そのことを象徴するように、近所でも老人会や自治会で80歳を越えても現役で活躍される高齢者が増え、多くの経験や知識を地域に役立てる仕事に就いている。
市によると、小金井市の90歳以上は825人、うち女性が75%を占め、過日実施された市の敬老会でも女性の参加が目立った。
長寿は祝福されるものである。けれども日本社会の現状は長生きすればするほど肩身の狭い思いをさせられ、小泉内閣は少子高齢化社会に対応するためとの言い分で、医療や年金、介護の改悪を相次いで強行した。
過日の敬老会では、名司会でおなじみの玉置宏氏が出演。「一週間ぶりのごぶさたでした」で始まった彼のトークは、長年の経験・知識を存分に発揮する素晴らしいものであった。元気をもらった参加者は「1年ぶり」に会える来年めざして、晴天の秋空の下、帰路についた。
(「しんぶん小金井」2005年9月25日付より)
小学校の運動会
先週の日曜日、我が子が通う小学校の運動会を見学した。前夜からの緊張さめやらぬ我が子が、親の期待を一身に受けながら駆けっこに挑戦しつつも敗退する姿に、“遅いのはオレ譲りか”と今年もため息。
私が子どものころは、運動会は秋に行なわれていた。しかし「秋は文化行事などでスケジュールがとられるため、春に運動会を行なうところが増えてきている」とは市教育委員会。学校生活に慣れないうちに大きな行事に直面せざるを得ない新一年生にあっては、とまどう場面もあるという。
「オレが子どものころは、運動会どころではなかった」と、近所の初老は言う。戦争末期には小金井でも米軍の戦闘機やB29を迎え撃つ高射砲がとどろき、農工大めがけて米軍艦載機が機銃掃射をはなってきたからである。運動会も文化行事も心から楽しめる世の中。それを守り抜いてきたのが平和憲法だ。
(「しんぶん小金井」2005年6月5日付より)
特養待機者360人
「特別養護老人ホームの入所を待つ人が360人もいる。自宅で面倒を見ようと思っても、寝たきり状態では介護疲れで倒れてしまう。第一、働かなければ食べていけない。どうしたら良いのか」。この間、長期入院を余儀なくされている家族を抱える人の切実な訴えが相次いで寄せられる。
65歳以上の人が入院すると、3カ月で退院を迫られる。やむを得ず転院することになるが、そこもまた3カ月で打ち切られる。施設入所も自宅療養もできないなかで、入院費用だけはどんどんかさみ、「目の前のことを考えると真っ暗になる」と、悲痛な表情。
そんななか小金井市は、2005年度だけでも17億5千万円を市が負担する南口再開発に突き進む。「いま行なわなければ、駅前開発は二度とできない。100年の街づくり」を旗印に。しかし市民生活は百年どころか、一寸先も闇。くらしにこそ税金を。
(「しんぶん小金井」2005年1月30日付より)
鉄の雨
太平洋戦争時、日本国内で唯一地上戦が行なわれた沖縄では、県民の4人に1人が死んでいる。なかでも多くの死者を出した米軍による艦砲射撃は、珊瑚礁や山容が跡形なく打ち砕かれ、「鉄の雨」となって住民を襲った。
その米軍が今度は、イラク中部の都市ファルージャへの総攻撃を行なっている。人口30万の大都市を1万数千人の米軍が包囲し、一部のテロリストを潰すために大多数の民間人の頭上へ。
そのアメリカに対して日本政府は、武器輸出を解禁する方向を示した。「テロ対策のため」が、その理由。しかし、武器は人を殺すための道具。ファルージャで繰り返される米軍による無差別攻撃も、「テロ対策」が理由。罪もない住民の頭上に鉄の雨を降らせる殺戮に、日本の武器が使われることになるのだろうか。
沖縄戦では砲爆撃が3カ月以上続き、武器商人は笑みを浮かべた。
(「しんぶん小金井」2004年11月28日付より)
帰省
今年は台風の当たり年となっている。一つの台風が去ったかと思っていると、新たな台風接近の報道が飛び込む。太平洋高気圧が強いことが理由とされるが、地球温暖化の影響も隠しきれない。
台風10号の被害に見舞われた故郷・福井は、帰省した盆の頃には日頃見慣れた顔で迎えてくれた。それでも、土砂が押し寄せた場所には傷痕が残り、大小の石ころに覆われた畑が、いたるところに見られた。
「夜中にパーンという大きな雷の音が響き、朝からものすごい雨となった。川が土砂で埋まり、またたくまに道が川となった」。家族や近所の人の話は、百年に一度という豪雨の怖さをおしえている。
先週の日曜日は、市の防災訓練の日だった。しかし夜半からの雨による会場のグランド不良を理由に、訓練は中止となった。天候で左右される訓練で、良いのだろうか。
(「しんぶん小金井」2004年9月5日付より)
庚申塔
「庚申塔」と呼ばれる、石でつくられた造立物を見かける。中国の道教を由来とする信仰物の一つで、江戸時代に盛んに造られたという。市内にも10数年前までは17カ所残っていたというが、今日では都市化のなかで半減している。
貫井南町の、雨ざらしになっている庚申塔には「南ふちゅう」「西こくぶんじ」「北清戸」の文字が刻まれ、行商人や旅人の道案内をしていたことがわかる。時代は過ぎても、当時と同じ場所で正確な方角を示しつづけている。
ところで今、この国の指導者たちは道の真ん中に立って、国民を戦争の方角に道案内しつづけている。マスコミも国会の多数も、その方角しかないかのように歩調を合わせて。しかし、道案内は歴史の試練に耐えたものだけが、その任をになえる。造られてから200年余の貫井南町の庚申塔には及ばずとも、日本共産党の82年の歴史は、現代の「庚申塔」だ。2月、「しんぶん赤旗」は創刊76周年を迎えた。
(「しんぶん小金井」2004年2月15日付より)
クリスマス プレゼント
いま我が家には、子どもたちが組み立てた小さなクリスマスツリーがある。兄妹はさっそく、サンタさんへのおねだりを記し、イブが来るのを楽しみに待っている。
妹はまだ、誰がサンタなのかを知らない。サンタが誰なのかを知っている兄は、妹のしたためた「願いごと」を見て、「そんなのもらえるわけないヨ」と一蹴。傍らの親は、記された内容と財布の中身を見比べる。一方、兄の記した紙には、八つの「願いごと」が書いてある。“これがダメだったら、これ“と。サンタへの「願いごと」ならぬ、親への「要求書」そのもの。
小泉内閣は戦後初めて、自衛隊という名の軍隊を戦争継続地・イラクに送り出そうとしている。イラク国民へのプレゼントではなく、アメリカに忠誠を誓うための、ブッシュ政権へのプレゼントとして。かたや、イラク国民には「戦争拡大」の惨禍が待ち構える。イブを終え、安心して新年を迎えられる世界へ。派兵には断固反対!。
(「しんぶん小金井」2003年12月14日付より)
カイコ
小学4年の息子の「夏休み自由研究」のために、妻がカイコを持ち込んだ。とはいっても、飼い方など皆目わからない。図鑑をひっぱりだし古老に教わるなどして、どうにか繭ができ、羽化したものも出てきた。
小金井地域は明治から大正にかけて、養蚕の全盛期を迎えている。村の7割が養蚕農家、生糸は八王子〜横浜ルートでアメリカに輸出された。
カイコを飼うためには桑の葉が必要となる。小金井はかつて、畑面積の3割を桑畑が占め、我が家の場所も以前は桑畑であったというのに、いざ桑の葉探しとなると、容易ではなかった。
「自由研究」は、毎日の絵日記への記入が課せられる。そのため、お盆の実家へ、ふたのない箱に並べられたカイコが同席することになり、中央線・新幹線・北陸線と、カイコが人々の衆目を集めることとなった。
8月も下旬に入り、自由研究は幕を閉じようとしている。しかし、カイコは成長を続け、今後の処置に手をやいている。
(「しんぶん小金井」2003年8月24日付より)
「20年後になにしてる?」
「20年後になにしてる?」と聞かれたら、あなたは、どんな回答をしますか。さわらび学童保育所3年生の息子(大地)が家に持ち帰った、学童の卒所文集に載せる、学童3年生の一人ひとりのアンケート用紙に記されていた質問項目。
小学校3年生の頃、私は歌手を夢見ていました。小学校の時の私は、女の子も顔負けの「ボーイズソプラノ」。テレビから流れる歌手の歌を覚え、神社の境内で、遊び友達を前にして、得意気に歌っていたもの。ピンキーとキラーズの「恋の季節」や、いしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」など。ところが、中学2年生の時の「声変わり」時期に歌をうたいすぎて、気がついたら、「郷ひろみ」の声が「森進一」になっていました。もし、「郷ひろみ」のままだったら、今頃は違う世界にいたのではないでしょうか。
さて、我が息子、アンケートに記された回答は「あるばいと」。20年後といえば、29歳。その時に行なっていることが「あるばいと」では、私は泣いても泣ききれないヨ。ちなみに、息子が保育園の卒園時に回答した、「大きくなったら何になりたい?」の答えは、「コープとうきょうで働きたい」。彼は29歳の時には、コープとうきょうでアルバイトしているのでしょうか。
今の子どもは現実を反映して、夢が持てないのか、それともこれが精一杯の夢なのか、はたまた、親が親だから、こんな回答なのか・・。考えさせられる息子の回答でした。
(「おひさまメール投稿作品」2003年2月13日付から)
サンタクロース
子どもの頃、サンタクロースが、どこからか我が家にやってきて、プレゼントを運んでくれていると信じて疑わなかった。プレゼントが自分の求めていた物と違っていても、朝、目が覚めたときに枕元に置かれていたときの、あの感激は、いまでもハッキリとおぼえている。たとえそれが、兄弟全員、同じ「長靴に入ったお菓子」だったという不満はあったにしても。「サンタさんはね、みんなが寝てからプレゼントを持ってくるんだよ」。今も昔も、我が家では同じ会話が交わされている。
小泉内閣は、国民にとてつもない“プレゼント”を運ぼうとしている。「不良債権処理」「大衆増税」「医療費負担増」・・。こんなプレゼントは、枕元に置いてほしくはない。サンタを代える作業が必要だ。
イブの夜、我が子はにわかにサンタへの、お願いごとを書きはじめた。ちょっと待て。いまから書かれても困ってしまう。サンタはすでに来ているのだから。
(「しんぶん小金井」2002年12月29日付から)
戦跡めぐりツアー
先日、市内の戦争遺跡めぐりツアーを5人で行なった。まわった場所は旧陸軍技術研究所関係の12カ所。
最初に訪れた学芸大では、農家屋敷跡を記した「けやきの碑」と上陸用舟艇の渡河実験等を実施した「プール跡」を見学。サレジオ通りの「給水塔」では、不気味な様相にしばし沈黙。市営グランド北側の「管理棟」は建物内部もしっかり見て、保存の必要性を再認識。「陸軍」印が入った境界石は、拓本をとろうと和紙の上から鉛筆でなぞったが、石自体が凸凹していたために失敗。
最大の難関は「北門跡」。陸軍技術研究所の北側境がどのあたりか、よくわからない。そこで、土地の古人に聞くことに。その結果、北門のあった場所および北側の境も判明した。
戦時中、農家の土地を奪いつくられた、広大な陸軍技術研究所。戦争遺跡を後世に残す取り組みははじまったばかり。
※「旧陸軍技術研究所」に関する戦争遺跡については、当ホームページの「市政報告」の「市内の戦跡保存の取り組みに向けて」を参照してください。
(「しんぶん小金井」2002年12月1日付から)
有事法制論議のなかで
映画「きけ、わだつみの声」をビデオで観た。戦後50年記念作品として全国上映され、織田裕二や緒形直人など、若手俳優が多数登場している。タイトルになった「きけわだつみのこえ」は、太平洋戦争下の戦没学生の日記や手記を収録した本の題名で、1949年に東大協同組合出版部から発行。当時、ベストセラーとなっている。
学生が戦場に送られるようになったのは、1943年10月2日の「在学徴集延期臨時特令」。つまり、学生の徴兵猶予を全面的に取り消す措置による。このため、約13万人の学生が陸・海軍に入営・入隊した。
映画「きけ、わだつみの声」では、戦場で次々と仲間が倒れていくなかで、織田裕二ふんする少尉が絶望の中で叫ぶ。「こんな戦争、誰が始めたんだ!」。
振り向いたら戦争になっていた こんなことにならないように、いま私たちは声を上げなければならない。平和を求める者として、そして、子を持つ親として。
(「しんぶん小金井」2002年5月1日付から)

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