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最近、「合併協議会を設置して議論を」という地元新聞の論調が目立ちます。
たとえば、佐賀新聞の合併シリーズ第五部1回目の記事には、「法定協設置し情報を」という大見出しがついています。
12/23付け佐賀新聞の論説には「テーブルにつこう」という見出しがついています。
12/23付けの佐賀新聞記者座談会では、久保田町議会が佐賀市と佐賀郡南部4町の合併協議会設置案を否決したことに関連して「県も相当危機感を持っている。とにかく法定協は設置して欲しいというのが本音だね」と書いています。
これらの記事を見て、合併推進側の戦略は、「合併協議会」をとにかく設置することにあるなと見ました。
そこで、合併協議会設置にはどんな落とし穴があるのか考えてみたいと思います。
- メモ
- 市町村合併に関する文書では、「合併協議会」、「法定協」、「法定協議会」「法定合併協議会」などといういろいろな用語で出てきますが、「合併特例法」第3条にもとずづいて設置される「合併の是非を含め、市町村建設計画の作成やその他合併に関する協議を行うための協議会」のことです。法律にもとづいて設置されるので「法定合併協議会」と呼び、法律にもとづかない「任意合併協議会」と区別されます。
「実質的には、法定協議会設置以降は合併成立までの手続き整備と議会対策が中心になっている」----佐賀大学濱内教授の指摘
今年の11月6日、佐賀大学で市町村合併問題に関する公開講座があり、佐賀大学経済学部の濱内繁義教授が「平成期市町村合併の現況と課題」と題して講義しました。
その中で、濱内教授は合併協議会について、次のように述べています。「法定協議会の設立を先行させ、合併賛成・反対の議論はその場で行えばよいというのが、今回の合併特例法の大きな特質となっているが、事務レベルでは財政措置に裏づけされた将来構想が準備されているケースが多く、法定協議会設置から合併成立までは平成期の合併事例の平均でわずか17ヶ月しか要していない。
実質的には、法定協議会設置以降は合併成立までの手続き整備と議会対策が中心になっている。
法定協議会設置から当該地方議会、都道府県議会などの議決までの間に住民に対する説明会や学習会が設定されているが、これらに参加する住民はきわめて少ない」これは、重大なことだと思います。
合併特例法では、「合併の是非をふくめ--協議を行うための協議会」となっています。県が発行した「さが進化論」でも「合併協議会とは、合併を行うこと自体の是非も含め--協議を行うための組織」となっています。
ところが、いったん合併協議会が成立したら「手続き整備」が中心になってしまう----こんなことでは、合併問題についての住民の間での議論、意思を問うということはいったいどこでやるんだろうと思いました。合併協議会設置の前に住民の間で十分な議論と意思を問う機会----鹿島市の対応スケジュールの例
この点で、私は鹿島市の「市町村合併対応スケジュール」は、住民の間での議論と意思を問うことを重視しているまともなやり方だと思います。
鹿島市の場合、@地域内、庁内での議論の活発化 → A関係市町村間の事前協議 → B任意合併協議会での協議 → C住民の意思決定(合併に対する賛否を問う市民アンケートまたは住民投票で住民の意思を確認する)となっています。これらの手続きをへて、住民多数が合併に賛成であるということを確認した上で、D法定合併協議会の設置にはいることになっています。
私は、もちろん合併の押しつけには反対ですが、百歩ゆずっても、最低限、鹿島市の「対応スケジュール」のように住民の間で議論をおこし、住民の意思を問う(私は住民投票を実施すべきだとおもいます)という手続きをとることが必要です。
これは、主権在民---自治体の場合には市や町の主人公は住民--という点から言えば当然のことだと思います。「合併するかどうか」という議論を「合併してどうするか」という議論にすりかえる合併協議会
私は、「うさぎ跳び」だったか「かえるとび」だったか忘れましたが、たとえば、「合併するかどうか」ということを議論しようとおもっている人達を、知らぬうちに「合併してどうするか」という議論に引きずりこむテクニックがあるということを聞いたことがあります。
「合併協議会」というのは、そのテクニックを上手に利用した---悪用した---やり方でないかと思います。
それは、合併協議会の「合併の是非を含め、市町村建設計画の作成やその他合併に関する協議を行うための協議会」という性格規定のなかに組みこまれています。
「合併するかどうか」という議論と「合併してどうするか」という議論は、別の問題です。鹿島市の「対応スケジュール」のように「合併するかどうか」という問題に決着をつけてから「合併してどうするか」という議論に入るのが常識的な考えです。
それを、意図的かどうかはわかりませんが、混同させてしまっているところに合併協議会の本質とねらいがあるような気がするのですが、どうでしょうか。地方自治の精神に反することばかり---合併推進論の根本的問題点
久保田町議会が佐賀市など1市4町の合併協議会設置案を否決したことから、「県の合併構想に大きな狂いが生じそうだ」(12/22佐賀新聞)といわれています。
住民の意思を無視して、上の方から合併を押しつけようとしたことがそもそも間違っていたんではないでしょうか。
私は、国や県、財界が推進している「合併推進」の最大の問題点は、憲法にもとづく「地方自治」の観点がないことだと思います。あるのは、「ソロバン勘定」だけです。憲法は第92条で地方公共団体について次のように規定しています。
「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める」とあります。
「地方自治の本旨」とは、地方自治体のことは、住民の意思にもとづいて決定し、住民の参加によって執行すること(住民自治)、地方自治体は、方針の決定や執行の全体について、国(中央権力に)対して自主的であること(団体自治)です。地方自治法第2条は都道府県と市町村について定めていますが、その趣旨は、市町村は基礎的な地方自治体であること、市町村の間は対等であること、市町村は力に応じて政策を選ぶことができるということです。
地方自治法第7条には「市町村の廃置分合または市町村の境界変更は、関係市町村の申請にもとづき---」と書いてあります。ここで、規定されていることは、市町村の廃置分合や境界変更は関係市町村の申請にもとづいて行うものである」ということです。
また、基礎的自治体(市町村)の最低条件について1963年の最高裁の判決は次のように述べています。
「単に法律で地方公共団体として取り扱われているということだけでは足らず、事実上住民が経済的文化的に密切な共同生活を営み、共同体意識を持っているという社会的基盤が存在し、沿革的に見ても、また現実の行政の上においても、相当程度の自主立法権、自主行政権、自主財政権等地方自治の基本的権能を付与された地域団体であることを必要とするものというべきである」
この判決が、基礎的自治体の最低条件としてあげているのは、次の二つのことです。第1に、住民による実質的な共同体が存在しているかどうかということ
第2に、その共同体に憲法が定めている自主立法権、自主行政権、自主財政県など団体自治を保障する基本的な権能が実際的に与えられているかどうかということ。以上のような、憲法や地方自治法の規定、最高裁の判例から言えば、今、政府や県がやっていることはおかしなことばかりです。
- まず、上から合併をおしつける強権的なやり方です。
11月に開かれた全国町村長大会の「市町村合併に関する緊急決議」も「いかなる形であれ合併は強制しないこと」「市町村合併の強制を意図した地方交付税の見なおしは絶対に行わないこと」と政府のやり方を厳しく批判しています。- 最高裁判決も述べているように、市町村の基盤は歴史的に形成されてきたものです。
それを、「大きいことはいいことだ」と合併を押しつける国や県のやり方は市町村や住民を机上でもてあそんでいるとしか思えません。- 市町村の間は対等であって、これに序列をつけるのは地方自治法の精神に全く反することです。
県の「市町村合併推進要綱」が合併のメリットとして、たとえば、「東松浦郡7町2村の市への昇格」(その他の町村でもみな同じ表現)とあげているのは一体どういう感覚なのでしょうか。
私について言えば、「太良町民」で十分満足であって、「xx市民」に「昇格」したいなどとは、露ほども望んでいません地方自治の基本にたちもどっての議論をしよう
県内での市町村合併が、県の思惑どおり進んでいないのは、県当局が地方自治の基本を無視し、権力によって、あるいはアメとムチによって強引に進めようとしているところにその根本原因があると思います。
今、大切なことは、地方自治の基本に立ちもどり、どうしたら住民の願うような市町村にすることが出来るか、地域経済を再生させ、福祉を充実することができるか、そのためにどうするか----ということを真剣に議論することだと思います。。
その中で、それぞれの自治体のムダのない効率的な行財政の確立、広域的な問題についての自治体間の協力(場合によっては、住民の意志に基づく合併)などいろいろな方向が出てくるのではないでしょうか。
このことを、井本知事をはじめ、県関係者に強く求めたいと思います。私は、この機会に、マスコミ関係者にも考えてほしいことがあります。
合併推進の記事とは対称的に、合併に消極的、否定的な人達にたいする記事や見出しの扱い方に疑問をもつことがたびたびあります。
たとえば、「首長や議員 ポストに執着 抵抗も」などという見出しです。
町村の立場から合併の強権的押し付けに批判的な意見を述べようとする首長や議員の口を封じ込めてしまうことはないでしょうか。 。
なにやら、戦前、侵略戦争に反対した国民を「非国民」呼ばわりしたのと同じような雰囲気が作り出されている気がします。。
ジャーナリストにとって一番大切なことは権力者との距離を保つことです。
権力者や財界の立場でなく、一般県民の感覚で、理性と知性に満ちた紙面を是非とも作ってほしいと思います。以上