天は二物を与えず
12月、小金井市では市長選と市議補選が行なわれた。市長選挙は、4年前の4月の市長選挙で、ゴミ処理経費に関して不適切な選挙宣伝を行なったことに市内外から批判が集中し、責任をとるかたちで初当選した市長が7カ月後に辞任。それ以降、初冬の市長選挙へと展開している。一方、市議補欠選挙は、市長選挙に2人の市議会議員が立候補したことから議会で欠員が生じ、定数2の補欠選挙となった。私の記憶するところでは、小金井市で市長選挙と市議補欠選挙が同時に行なわれたのは、小金井市史上、初めてではないだろうか。
共産党市議団は、市長選挙を生活者ネットワークの議員、緑・市民自治の議員と共同で取り組んだ。候補者は10月末まで市議会で席を並べていた40歳の若手男性。一方、市議補選は党公認を立て、独自のたたかいを展開した。
市長選挙には4人が立候補したが、40歳の若手男性は一番最後に名乗りを上げ、しかも市議会議員には2年8カ月前に当選したばかりの1期生。当然に、知名度は薄い。しかし40歳の若手男性は、同じく10月末まで市議会議員を務め、自民党と公明党から推薦を受けたベテラン女性にわずか3票差に肉薄する大奮闘を遂げた。残念ながら当選には至らなかったが、共同で候補者を擁立すれば大きな威力を発揮することが証明された。
党公認を立てた市議補選は4位にとどまったが、立候補表明は告示日のわずか1週間前。しかも全くの無名。なのに、2年8カ月前の市議会議員選挙で4人の共産党候補者が得た合計票を上回る結果を出した。これも大奮闘と言っていいであろう。
選挙期間中は、たいして寒くもなかった。4年前の12月の市長選挙は厳しい寒さに見舞われ、毎日、宣伝カーの前面ガラスに霜が張りついていたが、今年は期間中に気温が20度以上になる日があるなど、細身の私にはありがたい気候であった。お蔭様で、元気一杯、選挙戦をたたかうことができた。
「板倉さん。街頭演説もやってください」と、市長候補者カーで隣に座る田頭議員や林議員が私に言う。駅前や街頭で、候補者にかわって演説をやれというのである。“市議会議員のくせに何を言うか”とのお叱りをいただくかもしれないが、私は演説や挨拶が苦手である。どちらかと言えば、文章にしたためるほうがありがたい。
“苦手”の理由は2つある。一つは、滑舌が悪く、アクセントもちょっとばかし人とは異なることにある。いまでも周囲からは「板倉さん、ナマリがありますね」と言われ、小心な私の胸にその言葉が深く突き刺さる。上京してすでに38年余。ナマリが消えない理由はなんであろうか。思い当たるのはただ一つ。市議会議員になる前の15年半、印刷会社に勤めていたことにある。そのころの職場は活版印刷を行なっており、そこで触れていたナマリが、いまだに身体に染みついているのであろう。
もう一つは、自分の声が嫌いだからである。中学3年生の時、初めてカセットテープレコーダーから自分の声を聞いた。友が「これがお前の声だよ」と言ったときの衝撃ははかり知れないものがあった。自分では「郷ひろみ」だと思っていたのに、実際は「森進一」だったのである。だから、議会での自分の発言内容をユーチューブで確かめざるをえないときほど、嫌なものはない。
しかし、私にも人より少しばかりは自慢できそうなものがある。風呂上がりに鏡に映し出されたオノレの顔である。実に美しい。「天は二物を与えず」とはよくいったものである。しかし、小金井市議会事務局の女性職員は私の顔を見るたびに、なぜか笑う。私は言いたい。たとえ自分の顔より板倉の顔が少々劣っていようと、本人を前にして笑ってはいけない――と。
(2015年12月22日付)
日本共産党が伸びてこそ
色あせた「アベノミクス」の次は、「一億総活躍」だという。国民誰もが活躍できる国を目指すらしい。言葉は立派である。しかし中身はどうなのか。
いま、働く人の4割、若者の半数が非正規雇用に置かれている。朝から夜まで働いても、ようやく一人が食べて行けるくらいの給料しかもらえず、職場の社会保険にさえも加入させてもらえないケースが多い。
正規雇用であっても、暮らしはけっして楽ではない。負担は年々増え続け、人員削減で仕事量は増えていくばかり。「アベノミクス」どころか「青息吐息」が実態となっている。
街は師走を迎えた。本来ならば1年でもっとも賑わう季節へと入っていく時期である。しかし街は今年も、どんよりと曇った中にたたずんでいる。
新年をさわやかに迎えるためには、6日からの政治選で、自民・公明市政をおおもとから転換させることが必要。日本共産党が伸びてこそ、くらしが市政の真ん中に座る。
(「しんぶん小金井」2015年12月6日付から)
『くさかりまさお』との出会い
私は、高校を卒業して半月後に単身、東京に出てきた。就職先は交替制勤務の印刷会社。朝出勤し、夕方に勤務を終えるという時もあれば、夕方出勤し、夜中に帰る、あるいは職場に泊まることもあるという変則勤務である。あこがれの地・東京にいるという興奮とともに、職場の人以外は知り合いがいないという孤立感のなかで、職場と住まいを往復するだけの日々を繰り広げていた。そのため、職場以外の時間をどのように過ごせばよいのかが、つねに憂鬱なタネとなってまとわりついていた。
交代制勤務のために、身体の疲れはなかなかとれない。夜勤がある日は昼まで布団のなかで過ごし、週1回の休日も、太陽が西へ傾きはじめた頃に目が覚めるということもしばしば。虚しさのなかで時間だけが経過するといった具合であった。
これではいけない。夜勤前や休日は、ぶらぶらでもいいから外に出ようと奮い立ち、ある時、夜勤前の昼間に新宿駅西口の新宿副都心へと出かけた。いまから38年も前のことである。いまの新宿副都心とは異なり、当時はまだ高層ビルが6〜7棟しかなかった時代である。その高層ビルが建ち並んでいるところを、ぶらぶらと私は歩いた。
歩いていく方向が、なにやらにぎやかである。どうやらテレビか何かの撮影が行なわれているようである。ふ〜ん、撮影かぁ・・・。と、その時、その方角から私の方に向かって、どこかで見たことのある男性が歩いてきた。あ、あれは、草刈正雄ではないか!。当時の草刈正雄はいまと違って、女性の熱狂的なあこがれの的であった。女性でなくとも、草刈正雄のファンは多い。その草刈正雄が私の方に向かって、私と同じ速度でやってくるのである。
まだ私は18歳。いまもそうであるが、紅顔の美少年と呼ばれていた私は当時、芸能界にあこがれを持っていた。サインをもらわなければと、私はズボンの後ろポケットから手帳とボールペンをやおら取り出し、興奮しながら、草刈正雄がやってくる方角へとおもいっきり振り向いた。・・・気がつけば、そこには大きな鏡が置かれていた。以来、私は自身のことを「小金井のくさかりまさおです」と紹介するようにしている。
(2015年11月18日付)
おもしろい街・東京
大都会・東京。この東京をおもしろい街だと思うようになったのは、7〜8年くらい前からである。その頃私は藤沢周平の小説に惹かれ、片っ端から読みあさっていた。舞台の中心は江戸時代の深川・両国・本所一帯。地名がふんだんに登場し、現在ではどのあたりなのかと地図を広げ、東京の名所・旧跡を紹介するガイド本を買い、カメラ片手に、ほっつき歩くようになってからである。
大都会・東京には旧跡があちこちに存在する。考えてみれば150年前まではチョンマゲを結い、大小を腰に差した人々が参勤交代で江戸に集結し、各藩の屋敷が江戸城を取り囲むように郊外まで進出。徳川家ゆかりの神社仏閣も数多くあったのだから、当然のことであろう。ガイド本をバッグに入れ、そのような場所を散策するのは、気分転換にもなるのである。
なかでも好きなのは、隅田川界隈。8年ほど前に初めてこの地にきた時のことは、いまでもしっかりと記憶に残る。両国の回向院を皮切りに国技館を右に見て、隅田川の東岸をぶらぶらと北上したあの日、東京にもこんなところがあるのかと、私は新鮮な驚きの中にいた。それからは時間が空けば電車に飛び乗り、ぶらりと散策を楽しむようになっている。
東京に出てきたのは高校を卒業して半月後。いまから38年8カ月も前のことである。その頃は、「花の東京に来た」という興奮と「仕事に早く慣れなければ」との気負いのなかで、とても東京を出歩くなどということにはならず、会社と住まいの往復が中心となっていた。ときたま職場の先輩に連れられて都心の一角へ踏み出すことはあったが、周囲の景色を見るだけの余裕はなく、知識すらも持ちえてはいなかった。彼女と都心を歩くこともあったが、彼女に対しては大いなる関心を持ちえても、周囲の景色や歴史にまでは到底、関心がおよばなかった。というよりも、その頃の私は原宿や渋谷、新宿など、若者が多く集まる場所以外に関心は浮かばず、江戸時代や名所・旧跡などといったものが脳裏を横切ることなどありえなかった。そのようなものに気が向くには、若すぎたのである。
29歳で結婚し、子どもができ、子どもに追われる生活へと入り、子どもから徐々に手が離れて周囲を見る余裕が出てきたのが40歳台後半に入ってから。その頃に私は藤沢周平と出会い、小説に惹かれて東京を出歩くようになったのである。
先日、衆議院議員会館へ行く機会があり、四谷から地下鉄「丸ノ内線」へと電車を乗り換え。本来ならば「国会議事堂前」で下りるところであるが、一つ手前の「赤坂見附」で下りた私は、山王日枝神社をぶらぶらと。都心でありながら、こんなところがあるんだなぁという不思議な感覚のなか、紅葉にはまだ早い境内で束の間の散策に興じるとともに、衆議院議員会館前の国会議事堂周辺の色付きはじめた銀杏を眺めながら、晩秋へと向かう都心の一角に心の安らぎを覚えるひとときでもあった。東京は実におもしろい街である。
(2015年11月16日付)
自主防災会
「首都直下地震が30年以内に70%の確率で発生する」という。災害に強い街づくり・地域づくりは、地震にかぎらず待ったなしである。
災害に強い街づくりで欠かせないのが、自治会や防災会などの地域の絆。しかし小金井市では、自治会の世帯加入率は4割強、防災会にいたっては27%程度となっている。アパートやマンションが増え、転入・転出が激しい自治体であることも、加入率が低い理由の一つとなっている。
小金井市には自主防災会が27団体ある。防災会を育成するために市は補助金を出しているが、「一組織おおむね250世帯以上」が交付要件のため、それに満たない組織は適用外となる。しかし、イザ!という時には小さな組織にも力を発揮してもらわなければならず、要件の見直しは不可欠である。
10月25日、第三小学校で市の総合防災訓練が行なわれた。整列する防災会組織が増えていくことを切に願う。
(「しんぶん小金井」2015年11月8日付)
手の届かない存在に
彼は、生後3カ月から2歳までを私立高城山保育園で過ごし、3歳からは市立わかたけ保育園へ。小学校は第四小学校、中学校は南中学校で学び、地元の野球チームでメキメキ頭角をあらわしていった。高校は野球の名門・神奈川桐蔭学園へ進み、早稲田大学へと進学した。
両親が働いていることから、第四小学校の3年生までの間は、さわらび学童保育所へ通所。11月3日に行なわれる市内9つの学童保育所対抗の大運動会では、リレーのアンカーを務め、さわらび学童保育所優勝の牽引的役割を果たしてきた。小学校運動会でも活躍を期待されたが、「土・日は野球の試合などが入り、小学校の運動会にはほとんど出たことがない」と、いまも第四小学校で教鞭をとる恩師は語る。
私は、彼がまだハイハイをしている頃から知っている。小学校時代には、学校帰りに我が家にしょっちゅう遊びに来ていた。中学は下校の道が小学校とは異なることから、時々まちなかで会うくらいになったが、中学校の体育祭に行くと、「こんにちは!」と元気な声で私に言葉をかけてくれた。中学の体育祭でも彼はリレーのアンカーを務め、その驚異的なスピードと持久力に度肝を抜かれる思いであった。その頃、彼の母親とは駅前で会うことが多かったので彼のことを聞くと、「野球で泥だらけになって帰ってくると、夕食のあと風呂にも入らずに寝てしまうことが多い。宿題もしているかどうか」と、困ったふうな、それでいて楽しそうに話をしてくれた。
我が息子は彼と同じ年齢。我が息子も生後3カ月の頃から高城山保育園に入り、彼の隣でハイハイを競っていた。3歳からは彼とともに市立わかたけ保育園へ移り、第四小学校とさわらび学童保育所では彼といつも遊んでいた。南中学校へと進学したが、彼は野球チームで精を出し、息子は中学の美術部へ入部。少しずつ道が分かれはじめたが、それでも「ダイチ、ダイチと、いつもダイチの名前が出る」と彼の父親からは、彼の家庭での様子が聞かれた。
神奈川桐蔭学園に入ると、彼は通学に便利な自治体へ転居。彼とは会う機会がなくなったが、息子はメールなどで連絡を取り合っていた様子。中学時代の仲間が集まる場所には彼も誘われて時々は来ていたようで、一度か二度、近所で息子たちのなかに彼を見かけたことがある。
早稲田大学に進学すると、切れかかっていた糸が再びつながるようになってきた。彼は文化構想学部、息子は文学部に籍を置き、キャンパスでも顔を合わせるという。「いっしょに焼肉を食べた」と息子から聞いたのは2年ほど前のことである。しかし、彼は1年生から早稲田大学野球部のレギュラー。寮生活をしており、直接会う機会はそんなにはないと思われる。私もNHKテレビの早慶戦で、たくましくなった彼の姿を眺めるだけとなっていった。
そんな彼が我が家に泊まりに来るという話を息子から持ち込まれたのが、昨年1月の正月明け早々。小金井市の成人式に出るので、前日から我が家に泊まるというのである。「小金井市には住んでいないけれど、小金井市の成人式に出たいと言っている」と彼の母親からは事前に問い合わせがあり、どのようにすればいいかを担当課に聞いて連絡はしておいたが、まさか泊まりにくるとは思いもよらなかった。我が家は上を下への大騒ぎである。
なにしろ、マスコミも注目する早稲田大学野球部レギュラーの一員。風邪をひかせたり食中毒などになっては一大事である。夫婦と娘は、息子になりかわって、大掃除に追われた。成人式前日の夕方、彼と南中学校時代の友人も加わり、夜遅くまで賑やかな笑い声が我が家に響いていた。
プロ野球のドラフト会議が22日(木)、開かれた。当日の朝刊は「上位から中位指名が濃厚」(「朝日」)と、彼を紹介。彼は東北楽天イーグルスに3位指名された。と同時に、もはや彼は、私などには手の届かない存在となってしまった。一方、息子は、いつの日か、球界で活躍する彼を取材する日を夢見ているようである。
(2015年10月24日付)
再度、福島原発被災地へ
国道6号線を北上するにつれて、道路脇に設置されている放射線量測定器の値が高くなっていく。ここは福島県。10月10日(土)の昼、カミさんと大学4年の息子とともに、5カ月ぶりの浜通りの景色を見つめる。
「この6号線は当時、避難する車で大渋滞。いわき市民の55%が区域外へ自主避難したといいます」。JR常磐線いわき駅前で我々を迎えた案内人はそう述べる。いまは戻る人も増え、いわき市へ避難してきている人も加えると、当時の人口36万人に近い34万人へと盛り返してきているという。
「政府はなぜ、避難圏内を半径30qにしたかわかりますか?。50qにした場合、人口36万人を要するいわき市が圏内に入ってくるため、あえて30qに制限したんです。しかし、市民は避難せざるをえなかった。けれども自主避難は補償はいっさいありません」。車を運転しながら案内人は、政府の対応に憤りをあらわす。当時、ガソリン、医薬品、食料が途絶えたという。その言葉を聞きながら私は、ガソリンを注油するために車で長い列をつくったことや、パン・カップ面・レトルト食品がスーパーから消えたことなどを思い出していた。
四倉町を車は走る。このあたりは津波が8mに達し、国道6号線も冠水。そのため、国道6号線自体を高台に移転させるという。北上する車の左側に、建設工事がすすむ6号線移転箇所が目に映った。しかし、常磐線は高台移転はしないという。
久之浜を通過。このあたりの住民には東京電力から「びっくり料」という名目で一世帯あたり100万円の慰謝料が出ているとのこと。しかし、いわき市民には一人12万円の精神的苦痛に対する慰謝料が出たのみ。だから、東京電力を相手に、裁判を起こしている人もいるという。
広野町に入る。事故前は7千人いた住民が、いまは7百人に激減。役場の職員も、いわき市へ避難しているという。子どもたちの多くも、いわき市へ避難中。しかし広野町の小学校は開校していることから、いわき市へ避難している子どもたちは毎日、スクールバスで広野町の小学校へ通っているという。住民とは別に、広野町には除染作業員が2千人来ているらしい。
東京電力福島原発では4千人が働き、その他に除染作業員が4千人、入ってきている。除染作業員の多くは、かつてJリーグの試合などで賑わった「J-VILLAGEスタジアム」施設内で作業服に着替えている。施設内の駐車場には、東北から甲信越、関東一円にかけての車ナンバーが所狭しと並んでいた。各地からやってきた除染作業員は、募集時の記載事項とは異なる劣悪な条件・待遇で働かされていることから、摩擦が起きているという。作業員向けの共産党のポスター看板が設置されていた。
楢葉町に入った。「避難指示解除準備区域」だったが、9月5日に避難解除となった。この楢葉町には、テレビでたびたび紹介された宝鏡寺(じょうきょうじ)の早川和尚がいる。帰路の途上で宝鏡寺を訪ねたところ、運良く、早川和尚に会うことができた。早川和尚は72歳。地元では「アカ坊主」と呼ばれていたが、福島原発事故以後は「生き仏」と言われ、東京電力相手の福島原発事故裁判では、原告団長として奮闘されている。連日のように裁判の打ち合わせや講演、学習会などに出かけ、寺で会えることはめったにないとのことである。
和尚は言う。「楢葉町や富岡町、大熊町、飯館村などに将来、住民は戻ってくるだろうか?。国が行なったアンケートでは、(1)放射線量が低下しない、(2)今後30年間は8千人もの作業員と共存、(3)依然として福島第2原発が存在することへの不安 が帰宅できない理由となっている。これらの課題が解消されないかぎり、いくら『復興』と言ったり『インフラ整備』をすすめても、住民は戻ってこない。若い人が帰ってこなければ、やがてこの地域は消滅する」。そのうえで和尚は言う。「オレはこの町の最後を見届けるために、ここで暮らす」。早川和尚は、除染土壌袋の仮置場として、いち早く自身の土地を提供した人である。
富岡町はかつて1万5千人が暮らしていたが、いまはゼロである。福島第2原発の入口がある富岡町は、南側は「避難指示解除準備区域」、中央部から北西部にかけては「居住制限区域」、国道6号線に沿った北部は「帰還困難区域」となっている。「避難指示解除準備区域」と「居住制限区域」は日中のみ立ち入り可能とされており、かつてJR常磐線の富岡駅があった周辺では、人影があちこちに見受けられる。津波でガレキと化した街中では除染作業が行なわれていた。「帰宅できる日を信じて」とのこと。街中は5カ月前と同じ状態である。建物は今後解体し、その後に地面の除染に入っていくという。海岸沿いに高く積まれた放射能を含む雑多なモノが入った黒い袋は、現在、近くの簡易建物で中身を手で仕分けし、少し離れた焼却施設で処理をしている。気の遠くなるような光景である。富岡第一小学校の職員室内を校庭側から窓越しに見ることできた。壁に掛けられている時計は、地震発生時刻で止まったまま。いかに揺れが大きかったかがうかがえる。カレンダーは2011年3月となっていた。
大熊町は大部分が、立ち入りには許可が必要な「帰還困難区域」である。除染作業は行なわれていない。国道6号線の両脇にかつての水田が広がっているが、背の高い植物が覆い茂り、原野と化している。風邪用のマスクを付けただけのガードマンがいるのみである。北隣りの双葉町との境に福島第1原発がある。
双葉町は町全体が「帰還困難区域」となっている。放射線量が最も高かったのは、双葉町ではなく大熊町であった。5カ月前と同様に、同じ場所に通行止めの柵が設けられ、それ以上の北上はできずじまい。双葉町を少し入ったところで、来た道をUターンせざるをえなかった。除染作業を終えた労働者や原発で働いている労働者の車両であろうか、夕方を迎えたいわき市方面へ向かう6号線は、車が多くなっていた。
政府は原発被災者に対して補償金を支給している。ところが、道路1本を隔てて補償額が異なったり、条件が合わないことで額を引き下げたりしている。そのことから、住民の間に金額の違いによる反目が生まれ、同じ被災者でありながら、被災者同士がいがみあう事態が起きている。「補償額の違いをあえてつくることによって、国に怒りが集中しないようにしているのではないか」と案内人は言う。津波で被害にあい、放射能で甚大な被害を被る。加えて「福島産」というだけで敬遠される農産物や魚介類――。被災者同士でいがみあうような場合ではないのである。
大学4年の息子には貴重な経験になったようである。今回の福島への視察見学は、私が家族に提案した。娘は学校があるということで辞退したが、息子は「行く」とのこと。5月の時にも息子は行きたがっていたが、バイトが入っていたために断念した経過がある。
息子は来春、大学を卒業し就職する。親元を離れるために、一緒に出かけることはこの先、ないのではないか。「だから、いまのうちに一緒に出かけたい」というのが動機である。「一緒に出かけられる期間はあっという間」。子どもが小さいときに知人から言われた言葉がズシリとのしかかる。ほんとに「あっという間」に、その期間を終えようとしている。「福島に行ってみてどうだった?」の問いに「全部良かった」の息子の言葉が、いま温かく心を満たしている。
(2015年10月19日付)
『ココバス』料金値上げ論
ココバスの充実を求める声は強い。中央線が高架になり南北交通が容易になってからは、市内を南北に走るルート確立の要望も多く聞かれる。
野川・七軒家循環では乗り切れない人が生じ、東町循環、中町循環ともに、20分間隔での運行を求める声が多くなっている。貫井前原循環では運行時間拡大の要望が高く、唯一黒字路線の北東部循環でも、運行時間拡充の声が寄せられている。
ところが、議会の中では逆行する質問が飛び交っている。赤字幅を減らすために料金値上げを求めたり、路線の見直しや拡充に合わせて「料金の値上げを行なえ」と主張をする。論陣の中心には「行革」を熱心に説く議員が座っている。
交通不便地域というだけでなく、高齢者に外に出て元気になってもらおうと始まったココバス。収支だけで判断するあり方では、暮らしは守れない。12月の市長選挙は「行革」一辺倒の市政転換が求められる。
(「しんぶん小金井」2015年10月11日付から)
友人が語った『北京オリンピックの時』
この夏、世界陸上「北京大会」が開かれた。日本との時差はあまりないことから、テレビのゴールデンタイムに注目の種目をライブで楽しむことができた。圧巻はやはり100m走であろう。ジャマイカのウサイン・ボルトが期待通りの強さをみせ、最後は余裕を浮かべながらテープを切った。ボルトは200m走と400mリレーでも優勝しており、彼のために北京大会があったと言っても過言ではない。
「北京大会」で思い出すのは7年前の北京オリンピックである。開会式のCG合成による巨大な足跡歩行や「くちパク少女」の歌声など、いろいろ物議をかもしたが、競技そのものは大いに関心を寄せていた。このときも夏場に開催され、人々は連日、テレビに釘付けになっていた。
しかし私は、4年に一度のオリンピックでありながらも、周囲ほどには気持ちは入らずにいた。なぜなら、この年の6月議会の真っ只中に郷里の父親が急逝し、心の中に大きな穴があいたままでいたからである。総務課長補佐からは「板倉議員、気を落とさないでください」と声をかけられたが、その頃の私は、9月議会を間近にひかえながらも力が入らない状態であった。
そんな私を励まそうと考えたのか、はたまた笑わせようとしたのか、いつも身近にいる友人が、北京オリンピックが終わってまもなくの頃、実に楽しい話をしてくれた。そのおかげで私は、9月議会をなんとか乗り越えることができた。友人にはいまでも感謝をしている。
エッ?、どんな話をしたかって?。・・・ま、7年も前であれば「時効」であろう。みなさんにだけは教えてしんぜよう。以下は、友人が語ってくれた内容である。もちろん、他言無用である。
友人が語ってくれた「北京オリンピックの時」
暑い日であった。昼間の仕事を終えて帰宅すると、2階の畳の部屋で妻が腹を出して寝ている。しかもテレビをつけたままである。テレビでは北京オリンピックがライブ放映され、男子三段跳びが行なわれていた。
あ〜あ、またテレビをつけっぱなしで・・・と妻を見ると、妻の腹の上に一匹のハエが止まっているではないか。おっ!お前、何をしようとしているのだ?。テレビでは三段跳び。ハエの前には・・・さんだんばら。
ハエは思ったに違いない。オラもテレビに負けずに、三段跳びをこなしてやろう、と。ところがここで予期せぬ出来事が起きた。地殻変動が起きたのである。腹を出して寝ていた妻が突然、くしゃみをしたのである。波打つさんだんばら。競技に挑もうとしていたハエは、やむなく退散せざるをえず、競技は中断に追い込まれてしまった―――――という話である。
先日、この友人に会ったところ、7年経ったいまでも昨日のようにいきいきと語ってくれた。そして彼は言う。「あの時のハエは今頃いずこへ?。ハエさんに告げたい。『来年夏は待ちに待ったオリンピック。さんだんばらは今でも健在だぞ』と」。
もしこのような話を私がしようものならば、そのことを知った私のカミさんはきっと、平手打ちを私にくらわすであろう。くわばら、くわばら。
(2015年10月1日付)
我が横浜ベイスターズ
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17年前のかすかな記憶 |
初めてプロ野球を観戦したのは22歳の頃。職場の後輩に誘われて、ヤクルト−阪神戦を神宮球場に見に行った。それを皮切りに神宮球場に出かけることが多くなったのだが、なぜこのチームを好きになったのかは、自分でもよくわからない。神宮球場が職場から近いことから、このチームがヤクルトの対戦相手の時は、時間の許す限り観戦に出かけて行った。
当時は「大洋ホエールズ」と呼ばれていた。ヤクルトとともに激しい最下位争いを毎年のように繰り返し、はたからみると“このチームを応援する者の気が知れない”というふうであったろう。どのような選手がいたであろうか。松原、平松、山下という名前はすぐに出てくるが、それ以外は記憶にない。その後、スーパーカートリオと呼ばれた加藤、屋しき、高木が登場し、ホームランバッターでは、レオン、ポンセ、田代が記憶に残る。投手では、遠藤、斉藤、欠端という名前が浮かぶが、なにしろ30年以上も前のこと、ほかに誰がいたかは定かではない。神宮球場ではきまって、レフトスタンドの外野席に陣取った。応援団の近くに座り、いっしょになって声を上げたものである。
「大洋ホエールズ」から「横浜ベイスターズ」に名前が変わり、大魔神・佐々木を擁するなかで、ついに歓喜の時を迎える1998年は、劇的な試合が多かった。先発投手には三浦大輔、斎藤隆、野村弘樹、川村丈夫などがいたが、期待できる投手は少なく、いかにして大魔神・佐々木へつなぐことができるかが課題であった。ところがこの時のベイスターズは打線が半端ではなく、打たれても、それを上回る打力があり、最後には勝っていたという試合が実に多かった。セリーグ優勝を決めた10月8日(木)の瞬間をテレビで見ていた記憶はない。下馬評をくつがえして西武を下した日本シリーズ優勝も、スポーツニュースで見るという状況であった。しかし、「俺はベイスターズのファンだ」と胸を張って言える喜びを、このときほど誇りに思ったことはなかった。あれからすでに17年・・・。
小金井市役所第2庁舎の6階に情報システム課という部署がある。この部署には熱狂的なタイガース支持者がおり、タイガース対ベイスターズの3連戦の時には、「板倉議員、今度の3連戦はベイスターズの完勝ですよ」と心にもないことを言う。フタを開けるとタイガースが勝ち越し、場合によっては平気で3連勝などをする。そうするとこの熱狂的な支持者は「たまたまですよ」などと、またしても心にもないことを言う。このようにしてタイガースファンは、縦縞の服を着ながら、平気でよこしまなことを言うのである。風邪などをひくとこのタイガース支持者は、白いマスクではなく、タイガーマスクを着用し、議会でマイナンバーシステムの準備状況を説明したりする。じつにけしからん。
今年の横浜ベイスターズは我々ファンに大いなる期待を抱かせた。いつものベイスターズは5月には戦いを放棄し、ペナントレースを早々に終えるが、今年のベイスターズはまさかのトップレースである。オープン戦も成績が良く、マスコミも評論家も優勝候補に名を上げている。もしかしたら、もしかしたらと、ベイスターズファンは不安ながらも大いなる期待を寄せた。
ところがである。オールスター戦を過ぎて後半に入ると、いつものベイスターズに変わっていた。諸悪の根源はセ・パ交流戦である。この交流戦さえなかったならば、ヤクルトやタイガース、ジャイアンツとともに、大混戦の渦中に身を置いていたであろう。気がつけばはるか下位にいたはずの赤ヘル軍団が大混戦の一員に加わり、赤ヘル軍団がいた位置に我がベイスターズが座っている。それだけではない。1998年に大魔神・佐々木の150qの球を受けていた捕手・谷繁がひきいるドラゴンズと、熾烈な最下位争いをしているではないか。悪夢である。
大学2年の娘が言う「やっぱりね。気がつけば最下位」。それでも我が家には助っ人が存在する。大学4年の息子は私に感化されたのか、横浜ベイスターズの勝敗を気にするようになってきている。血は受け継がれるのである。
前身の大洋ホエールズも現下の横浜ベイスターズも、共通するのは「強きを助け、弱きをくじく」。だから熾烈な最下位争いとなるのである。これではいけない。これではダメなのである。我が共産党と同じく「弱きを助け、強きをくじく」でなければならないのである。1998年に優勝してから17年。みなさんは「優勝からずいぶんと遠ざかっている」とお考えかもしれない。しかし事実を知ってほしい。1998年の優勝は38年ぶりだったのである。だから「まだ17年しか経っていない」「まだ21年残されている」と思えば気が楽になるのである。全国のベイスターズファンのみなさん、みなさんもそう思い、耐えているのでしょう?。しかし一方ではこのような言葉も飛び交っている。「我が横浜ベイスターズは永遠に仏滅です」。幸いにして、私は無信教であった。
(2015年9月21日付)
戦歿者石碑
小金井市内には「神社」と称される施設が13カ所ある。そのうちの一つ、貫井神社には「平和之礎」と記された石碑があり、柳条湖事件から太平洋戦争終結までの15年間に、貫井地区で戦歿した28人の名前が刻まれている。その並びには「日露戦役記念碑」もあり、22人の名前が見て取れる。いずれも日本の侵略戦争によって、戦地に送られた方々である。
安倍内閣は自衛隊を紛争地域に送り出し、日本が攻撃を受けていなくても「集団的自衛権」の名で武器を使えるようにしようとしている。戦後70年間、守り抜いてきた「戦争をしない国」がいま、自民・公明の数の力で「いつか来た道」へと向かわされようとしている。
12日と13日は貫井神社の祭礼が行なわれる。平和な時代だからこそ、人々は祭りに熱狂することができる。いつの日か、境内にさらなる石碑が建つことのないように、戦争法案廃案へと最大限の力を発揮したい。
(「しんぶん小金井」2015年9月13日付から)
海の小京都『小浜』
「福井県」から何をイメージするであろうか。“日本地図のどこにあるのか一番わかりにくい場所”との声が聞かれるように、福井県はインパクトに欠けた存在感の薄い県のようである。西はきらびやかな京都に隣接し、北も、これまたきらびやかな金沢に隣接する、ひっそりとした、実に控えめな場所が福井県なのである。当然に、そこで生まれ、そこで育った人物も、私のように控えめとなる。
観光地として知られているのは、「越前海岸」「東尋坊」「若狭湾」であろう。名刹としては「永平寺」があげられる。その他には、「三方五湖」「恐竜の里・勝山」があるが、この二つは、知る人ぞ知るというところであろうか。一方で、「原発銀座」と呼ばれる若狭湾一帯の原発群があり、わざわざ見に行くところではない。お土産では「羽二重餅」が知られている。食べ物では「焼き鯖」がNHKの連続テレビ小説「ちりとてちん」で紹介され、一躍有名になった。串刺しにした鯖をまるごと焼いたもので、福井県では魚屋だけでなくスーパーでも売られている。
福井県の越前方面に来た折にぜひ食べてほしいものが「越前おろし蕎麦」である。茹でた蕎麦に冷えたダシを加え、大根おろしと鰹節をかけて食べるだけの、いたってシンプルな食べ物ではあるが、これが実にウマイ。実家に帰省したおりには必ず食べているが、あなたにもぜひ、おすすめしたい一品である。
その福井県へ、旧盆に帰省した。「行きたいところはあるか」と実家の弟に聞かれ、即座に「小浜の神社仏閣」と答えた。若狭湾に面した小浜市や若狭町は「海の奈良」「海の小京都」と呼ばれるほどに、神社仏閣が多い。小浜市のホームページでは「日本海側、列島の中央に位置し、大陸や朝鮮半島、京の都と深くつながる文化都市として栄え、現在でも130もの寺院を残している」と記され、平安時代の仏像や鎌倉時代に創建された寺院が数多く残っているこの地は、「文化財の宝庫」と記されている。その小浜市へぜひ行ってみようということで、帰省した翌日、車で2時間かけて小浜市へやってきた。
「海の奈良」「海の小京都」と呼ばれる地域であれば、お盆ともなればにぎやかなはずである。しかしそうではなかった。渋滞もせずにスイスイと小浜市に入り、最初の目的地「萬徳寺」も5台ほどしか入れない駐車場へやすやすと入庫。「国指定名勝庭園」「国指定重要文化財」「日本の紅葉百選・花の寺」とうたっているが、見学者は私たちの他には4〜5人ほどであった。「紅葉の季節にぜひ来てください」と住職が熱く語る。きっとその頃には、大勢の見学者が来るのであろう。
「明通寺」はさらに静かであった。この寺院には国宝に指定されている本堂と三重塔があるが、私たち以外に見学者はいなかった。そのため、住職がつきっきりで私たちの説明にあたってくれた。「パブルが崩壊する前はけっこう観光客が来ました。いまは檀家が減り市の財政も厳しくなる中で、寺院の改修や維持管理が大変になっています」と言う。
京都や奈良の神社仏閣は、仏像や襖絵の前に「立入禁止」の貼り紙があり、柵がおかれていることが多い。しかし「萬徳寺」も「明通寺」も貼り紙や柵がなく、息が届くところまで近寄れる。だから、仏像や襖絵を食い入るように見ることができた。時間に余裕があれば見たい場所はいくつもあるのだが、他には「神宮寺」を訪れたのみで帰路についた。
この地の寺院は小振りである。京都や奈良のような威風堂々なものはない。山間にひっそりとたたずむ、ともすれば存在自体が忘れられる静かな中に置かれている。だからけっして注目を集めるものではなく、案内看板が道路端になければ見過ごされる状況にある。けれども都会の喧騒のなかで暮らしている者にとっては、この静けさ、こじんまりとしたたたずまいが、妙に味わい深い。本堂の畳に座り、真正面にこちらを見つめている仏様と対座していると、話しかけられてくるような錯覚にさえ陥る。しかも他には誰もいない。
小浜は交通の便があまりよくない。JR北陸線の敦賀駅から各駅停車で1時間で来ることができるが、運行本数は1時間に1本弱である。しかも小浜駅から街道を山に向かって何キロも入っていかなければならないために、どうしても車が必要になる。そんなこともあって、「海の奈良」「海の小京都」と呼ばれながらも、この地は静かなたたずまいを保っているのである。福井県はこの地を「みほとけの里」と称し、千手観音像や十一面観音像など数多く存在するこの地の仏像を「若狭の秘仏」と呼んでいる。
敦賀駅から車で20分。途中には気がつかずに通りすぎるような「三方五湖」もあり、ゆったりとした時間の流れを体験したい人にとっては、この地はうってつけの場所である。あなたもこの地に足を運んでいただければと思う。
(2015年8月27日付)
来年3月末で福祉会館閉館
築47年余を経た福祉会館での事業が、今年度中に終わろうとしている。別の場所に建て替えられるまでの4年余、福祉会館内の機能や事業は仮移転されるというが、中止に追い込まれる事業もあるという。
福祉会館の利用者の多くは高齢者である。仮移転の4年余は、衰えゆく身体と隣り合わせの道のりとなり、中止事業が出てくるともなれば、不安ははかり知れないものとなる。
5日、小金井市は福祉会館閉館に向けた市民説明会を開いた。参加者からは事業継続を求める声が出されたが、小金井市は明確な方針を示さず、仮移転先さえも明らかにすることはなかった。
福祉会館の建替えは必要である。しかし、いま行なわれている事業を、どのように続けるかを決めることなしでの見切り発車は、あってはならない。
庁舎問題や今回の福祉会館問題など、近頃の小金井市に企画調整能力が欠けていると思うのは、私だけであろうか。
(「しんぶん小金井」2015年8月9日付から)
※7月25日に行なった市政報告会のレジュメ「早急な移転が求められる福祉会館」をPDFで掲載します。(PDF1.4MB)
『戦争をしない国』を次の世代へ
兄2人を戦地で失った父親は生前、「戦争だけはしてはならない」と、ことあるごとに語っていた。自身も米軍の機銃掃射で負傷し恐怖の縁を歩んでおり、あの時の怖さ戦争の悲惨さは、歳を重ねても消え去ることはなかったようである。
福井大空襲の時に6歳だった母親は「福井市方面の空が真っ赤だった」と語り、その時の光景がいまでも鮮明に残っているという。
戦争をせずに歩んできた70年。安倍首相はこの70年の間に、米軍に付き従って自衛隊を動かすことをさせてこなかったことに、問題があるかのような言い方をする。
「いざという時には、自衛隊は撤退する」と国会の答弁。しかし「集団的自衛権の行使」とは、自衛隊が米軍の指揮下に入るということ。米軍が戦闘状態に入れば、自衛隊もひきがねを引くことになる。
戦争をしないということは、人を殺さないということ。この道を無傷で次の世代に手渡すのが、私たちの役割である。
(「しんぶん小金井」2015年7月12日付から)
同窓会の案内ハガキ
郷里の同窓生から、中学時代の同窓会の案内が届いた。ハガキには「『人生、ものの弾みと巡り合い』を重ね、一生懸命生き、気が付いてみるといつの間にか五十路。ここで一息、同窓会を開催します」と記されている。日時は8月15日、お盆の真っ最中となっている。
中学時代の思い出は、あまり残ってはいない。勉強は苦手、運動オンチ、いじめられっこ・・・。おせじにも「楽しい」と言える時代ではなかった。思いだしたくもない3年間である。しかし、その3年間のなかでもただ一つ、頑張り通すことができたのがブラスバンドの部活。ボーイスソプラノの声の持ち主だった私は当初、合唱部に入ろうと考えていたが、「部員は女性ばかり」との知らせを受け、急きょ、ブラスバンド部に心変わり。部室の門をたたき、1年生の時はクラリネット、小太鼓、シンバルと渡り歩き、2年生になるとホルンに移り、そのまま卒業までホルンを担当した。部活の思い出のほうが教室での思い出よりも、はるかに記憶に残っている。その中学時代の同窓会を行なうというのである。
「来れますか?」と案内ハガキが呼びかけている。積極的に「行きます」とはなかなかならない。加えて、8月はけっこう忙しい。お盆の時期に帰省となると、前後のスケジュールが相当厳しいものになるのである。だから「未定」で送付することとなった。ただし、この機会に会えるものならば会いたいと思う同窓生がいる。カミさんには口が避けても言えないが、初恋の女性である。その女性に会いたい、などと思うのである。40年以上も前の、あの頃の面影はあるのか、いまも変わらずに細身でいるのか、などと想像するのである。あの頃は、こうだった、ああだった、などとあの頃を懐かしみながら話してみたいのである。その女性が同窓会に来るかどうかもわからないというのに。
高校を卒業して上京し、お盆しか帰省せず、当時の友人にはほとんど会うこともない。だから同窓会に出席しても、だれもが私のことを板倉だとは気がつかないだろう。しかも中学時代はほとんど日陰の存在だった私のことを、どれくらいの同窓生が気に留めるだろうか。そんなことを考えながら、同窓会に合わせた帰省にするかどうかを悩んでいる。
上京して38年。季節は大きく移り変わった。しかし案内ハガキは呼びかける。「『旧交乾杯』、旧友たちと乾杯を交わせば、たちどころに思い出がよみがえります」。しかし、私は言いたい。よみがえりたくない思い出をもっている同窓生もいるということを。「出席」の連絡をしようか、それとも「欠席」を伝えようか。同窓会まで2カ月を切った今、あれこれ思いめぐらしている。
空き家問題
空き家が増えてきた。核家族化や少子化、相続問題が大きな要因となっている。定期的に管理がされていればまだしも、放置されたままの建物も多い。解体費用が重くのしかかり、解体すれば税金もアップ。しかし、手つかずの空き家では雑草が繁り、地域住民は不安を強いられる。
地方はさらに深刻である。少子化・人口減を迎えるなかで、土地が売れずに放置状態が長期化する。適切な管理を求められても、多額の交通費をかけて駆け付けるのは容易ではない。現実がそこには横たわっている。
50代後半を迎えた私のような年代は、同様の課題を抱えている。空き家となった実家へ定期的に帰る人や、老親のみを実家に残し、やがては空き家となるその時を憂いている。老親を郷里に残すカミさんも最近、心配しはじめた。
3年前に小金井市は、市内家屋の実態調査を実施。防犯・防災上の問題がある建物は238件にのぼるという。法は施行されたが、課題は多い。
(「しんぶん小金井」2015年6月14日付から)
小金井市の水防訓練
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取り残された土嚢用の土 |
毎年5月に市主催の水防訓練が行なわれる。場所は武蔵野公園の野川第2調節池。市民も体験できるようにと、今年も土嚢づくりやレジ袋・段ボール箱を活用した簡易水防工法、可搬式ポンプによる排水活動が用意された。
しかし参加者からは様々な声が。「『野川上流の集中豪雨』が想定ならば、まずは野川上流区域の建物被害防止訓練や、貫井南町の国分寺崖線の崩壊対応訓練が行なわれるべき」「簡易水防工法で活用できる水槽が1つでは、群がった参加者が渋滞するだけ」「土嚢が必要というが、市民は土嚢に入れる土をどこから手に入れるのか」。
訓練は市民の実生活に沿い、納得のいく内容であることが求められる。そうでなければ、訓練への参加意欲は失われるであろう。
訓練は終わった。なぜか土嚢づくり体験は行なわれずじまい。その理由も主催者側からはされなかった。さらなる工夫は訓練にかぎらず、何事にも言えることである。
(「しんぶん小金井」2015年5月17日付から)
北陸弁
北陸新幹線が開通したこともあるからだろうか。北陸の言葉がブラウン管から流れることが多くなったように思う。NHK連続テレビ小説「まれ」やTBS系「天皇の料理番」が北陸を舞台にしていることも、一因だと思う。「まれ」は石川県の輪島、「天皇の料理番」は福井県の武生。双方ともに、北陸弁のメッカと言って差し支えないであろう。この番組のセリフを聞きながら、私は少々、違和感を覚えている。
「まれ」も「天皇の料理番」も、方言指導者が加わって「北陸弁」を使ってはいる。しかし、ちょっと違うのである。テレビを見ながら、“イントネーションが違う”“なぜ、この部分は東京弁になっているのか”など、釈然としない場面に出くわす。「天皇の料理番」ともなれば、なおさらである。「まれ」は現代を舞台にしているので、輪島地方の言葉が東京弁に感化されているというのは説明がつく。しかし「天皇の料理番」は100年余も前の話。当時、テレビやラジオはなく、東京弁を話す人と接触する機会はほとんどない地方のこと。はじめから終わりまで、北陸弁のオンパレードでなければならないはずである。なのに、そうはなっていない。
舞台の福井県武生は、わが母校「福井県立武生工業高等学校」の地。この地は100年前に劣らず負けず、いまも北陸弁が肩を切って歩いている。なのに100年前にもかかわらず、北陸弁が片身の狭い思いで登場するのはいかがなものか。北陸弁よ、堂々と表門から入って来い!と言いたい。
大学4年の息子が「天皇の料理番」を見ながら「福井の言葉が飛び交っている」という。しかし現地はとてもあんなものではない。わが郷里、福井の実家では、通訳が必要なほどに北陸弁が闊歩している。なかでもりゅうちょうに北陸弁を操るのが、40代後半を迎えた実家のお嫁さんと、そのもとで育った子どもたち。遠のいていた言葉がふんだんに登場し、常用語として交わされるその風景は、北陸弁のデパートといえる。それが北陸地方の一般的な家庭なのである。しかし、東京に出てから38年。徐々に北陸弁が薄れてきている。忘れてなるものか、我が北陸弁を。今度帰省したら、実家のお嫁さんに北陸弁講座を開いてもらわなければならないと思う。
(2015年5月15日付)
福島原発事故
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東京電力火力発電所 |
窓を閉め切った車内にもかかわらず、放射能測定器の警告音がけたたましく鳴り響く。ここは福島県の浜通り。私とカミさんを乗せた車は、海岸沿いの国道6号線をひたすら北上する。
「福島原発事故の放射能の被害状況をこの目で見たい」というカミさんに引っ張られて、5月3日(日)の午前10時30分、2人は常磐線「いわき駅」を降り立った。出迎えてくれたのは、「原発事故の完全賠償をさせる会」の男性ボランティア。原発事故の時は退職を1年後に控えた高校教師だったという。この男性ボランティアの案内で、いわき駅を発した車は北上を続けた。
原発事故から4年余。人口34万人のいわき市では、いまだに1万2千人が自主避難をしているという。その「いわき市」。車内の放射能測定器は「0.4」前後を指す。しかし北上するにつれて徐々に値は上昇し、警告音が鳴りはじめた。車は「四倉」「久之浜」「広野町」へと移動を続ける。このあたりは津波が10mに達したとのこと。「楢葉町」あたりからが一時帰宅区域になる。「富岡町」に入ると放射能測定器の警告音がひっきりなしに鳴り響く。見ると「2.0」前後を指している。東電第2原発の区域である。
かつて「とみおか駅」のあった場所で車を降りた。駅舎はなく、草に覆われた錆びたレールのみが見える。目の前には海が広がり、その手前には除染土を詰めた黒い袋が野積みになっている。町は津波で破壊されたままである。住むことができないために、破壊された家は修復されることもない。ガレキと化した家や、車が1階部分に乗り上げたままの家屋、横倒しの車などなど、廃墟の町である。
「大熊町」に入った。第1原発から半径10キロ圏内のこの場所は、立ち入り禁止区域。車の通行は認められるが、二輪車は通行禁止だという。「3.64」の値を放射能測定器が示す。「あそこに車が何台も置かれているでしょ」と元高校教師の男性が会社の営業所らしき建物を指す。「あの車は持ち出し禁止です。高い放射線量を浴びた車は持ち出せないんです」。津波の被害がない大熊町は、家屋はほとんど傷んではいない。しかし住むことはおろか、立ち入ることすらできない。だから、住民の姿は見えないのである。しかし人はいた。除染の作業員や原発につながる道路でバリケードを張るガードマンである。驚いたことに、防護服ではなく通常の作業着姿である。大丈夫なのだろうか。
除染の作業員は仮設住宅などに住み込んでいる。「治安が悪くなった」という。故郷を離れ、単身、狭い仮設に入り、作業も毎日あるわけではない。支払われるべき危険手当も支払われていないらしく、作業員の間でケンカなどのトラブルがひんぱんに起きているという。先の見えない除染作業に加えて放射能への不安がともない、心身ともに疲れ果てているのである。大熊町の先は「双葉町」。しかし、それ以上の北上は認められておらず、大熊町で車はUターンした。
いわき市では、市民のなかに「避難した人」と「とどまっていた人」との間で反目があるという。患者を前に避難した医者や看護婦は、さらに片身の狭い思いをしているとのこと。原発事故によって、人の住めない区域が東京都の面積の半分にもおよぶ福島県。「原発事故は終わってはいない」。元高校教師が最後に述べた言葉がズシリと心に突き刺さった。
(2015年5月7日付)
映らないテレビ
3月末に満開を迎えた桜は、花冷えの「小金井桜まつり」を過ぎても美しさをアピールし、第4小学校入学式の門前では桜を背に記念写真に収まる姿が今年も見られた。
桜の華やかさに劣らないのが新1年生の名前。読みごたえのある漢字が配布された一覧表に踊っている。「なんと読むのだろうか」と顔を突き合わせる来賓席。「子」のつく児童は2人しかいない。私と同じ「也」のつく児童も2人のみであった。テレビの影響であろうか、年々、華やかな名前が増えている。
そのテレビ。「デジアナ変換サービス終了」とかで我が家のテレビも板倉事務所のテレビも真っ暗になってしまった。憲法9条を踏みにじる安倍首相の政治の行く末を見るような画面である。
「景気は回復傾向」と政府は言う。しかしアベノミクスがやって来たという話は聞かれない。映らないテレビを前に右往左往せざるをえないのが、現実の暮らしである。
(「しんぶん小金井」2015年4月12日付から)
桜
近所の野川の桜が満開になり、平日にもかかわらず春休みの子どもや親子連れが河岸にシートを敷き、弁当を広げて桜を楽しんでいる。花見に興じる余裕のない私は、橋のたもとから通りすがりに桜を眺め、目を細めてその景色を見つめている。桜の花のいのちは短い。天気が崩れる週末には、桜吹雪が一面に舞っていることだろう。もう少し長く、あともう少しと、野川の橋の上をバイクで走るたびに、そう願うのである。
桜の頃になると、東京の下町に無性に出かけたくなる。桜を眺めながら、隅田川のほとりや谷根千、深川・本所あたりを歩いてみたくなるのである。千鳥ヶ淵や上野公園も桜の名所ではあるが、あまりに人込みのする場所は好きではない。ほどよいくらいの人がいて、賑やかでもなく殺風景でもない下町が好きなのである。こじんまりとした喫茶店に入り、藤沢周平の小説を片手に、窓越しから見える桜を愛でる―――これが最高なのである。しかし、なかなかそんな時間はつくれない。桜の季節がとうに終わった頃になって、ようやく時間があくというのが常である。
若い頃は、桜を愛でるなどということには関心はなかった。職場で働いていたころに夜桜見物に誘われたりもしたが、夜気に震えた記憶の方が強い。20歳の頃には、桜の季節に彼女と江戸城址の北の丸公園を歩いたこともあったが、頭上の桜よりも隣を歩く彼女に胸をときめかせていたほうである。子どもが大きくなり、カミさんにときめくなどということもとっくになくなり、50歳を過ぎたあたりから、花のやさしさに心を奪われるようになってきたみたいである。
桜が終わると寂しくなる。5月の新緑の季節までの間、心に穴があいたような感覚になる。桜というのは、それほどまでに脳裏に強烈な印象をあたえるものなのである。だから桜の季節を惜しむように、多くの人々が桜を愛でる。今日も近所の野川には、桜に心を奪われた人々が、今年の桜を脳裏にとどめようと立ち止まり、その見事な光景に歓声をあげている。
(2015年4月2日付)
目障りな文字
日本という国は、モノを粗末にする国だとつくづく思う。テレビ画面最上部に貼りつく「2015年3月31日に放送終了 デジアナ変換」の文字。4月以降テレビを見る場合は「ケーブルテレビと契約するか、地デジチューナーを買え」という。そうしないとテレビは映らなくなるというのである。
「デジタルテレビに買い替えよ」と呼びかけるチラシもある。使えるはずのテレビを捨てて、新たにテレビを買えとのこと。パソコンも同じことが起きている。サポートしなくなった「XP」は、いずれ使えなくなるらしい。
買い替えることのできる人ならいい。しかし格差の広がるこの日本。テレビ難民、パソコン難民が出てくるのではないだろうか。
企業の商品開発競争のなかで新たな製品が次々に生まれ、一方で、企業側の都合で使えなくなるものが出てきている。テレビ画面最上部の目障りな文字を前に、こんなことを思うのは私だけだろうか。
(「しんぶん小金井」2015年3月15日付から)
北陸新幹線
3月14日に北陸新幹線がスタートするという。東京駅から石川県の金沢駅まで2時間30分ほどで行くらしい。知人からは「田舎が近くなり、便利になりましたね」と言われるが、福井県の武生駅は、北陸新幹線でも東海道新幹線でも、たいして時間は変わらない。北陸新幹線は最終駅の金沢駅で北陸線に乗り換え、東海道新幹線は名古屋駅で北陸線に乗り換える。将来は福井県の敦賀駅まで北陸新幹線を延ばすらしいので、その段階で北陸新幹線に軍配は上がる。
田舎が近くなるということは、便利になることには違いない。でもその分、運賃は高くなるし、スピードがあがった分、風情もなくなっていく。
38年前の3月23日、武生駅で親父の「頑張って来い」の後押しを受けて、高校を卒業したばかりの私は北陸線に乗り、滋賀県の米原駅から東海道新幹線を乗り継いで、単身、東京に出てきた。以来、独身の時は毎年、盆と正月に帰省し、結婚してからは夏に帰っている。いずれも東海道新幹線を利用しての帰省である。
いつからだろう。北陸線から急行列車が消えたのは。いまでは列車名も忘れてしまった、若い時には必ず乗っていた米原駅からの青い車体の急行列車。気がついたら急行列車がなくなり、特急列車に変わってしまったが、急行から特急に変わっても、武生駅までは10分程度の差でしかなかった。
東海道新幹線を米原駅で下り、米原駅始発の急行列車に乗って、郷里の武生駅までの1時間余の道のりは、20代前半の私には特別の時間であった。年に2回、帰省するとはいうものの、実家への帰省はやはりうれしいものである。なぜだか当時の記憶は盆の帰省時に舞い戻る。米原駅で急行に乗り、琵琶湖の東岸を北上し、やがて県境のトンネルへ。トンネルを越えるとそこは福井県。やがて敦賀駅に到着し、そこを離れるとすぐに北陸トンネルへ。トンネルの長い時間を終えると、右手に795mの懐かしい山「日野山」が現れる。到着駅・武生はもうすぐである。
急行列車は多くの駅に止まる。米原駅から武生駅までの1時間余を、のんびりするほどに止まる。車内販売も特急列車とは違う。なにが違うかといえば、売りにくる女性の年齢が違う。特急「しらさぎ」は細面の若い女性がやってくるが、当時の急行列車は怖いもの知らずの「おばさん」が来る。しかも「おばさん」らしい言葉づかいでやって来る。乗客との会話が、そこらへんにいる「おばさん」そのものである。良くいえば「きさく」。悪くいえば「上品ではない」。でも、それがおもしろかった。
止まる駅が多いということは、乗客の入れ代わりも多くなる。それにつれて、言葉も変化していく。徐々に、郷里の言葉に近づいていくのである。8月の盆を迎える車窓からの山肌は、緑一色。窓を開ければきっと蝉が鳴き叫んでいることだろう。そんな景色を映し出しながら、言葉は実家へと近づいていく。それに歩調を合わせるように、心はドキドキしはじめる。ふるさとに帰って来た。親父とおふくろに会える。
特急列車に変わってから、そんな風情も消えてしまった。名古屋駅から武生駅までの2時間のあいだ、言葉は変わらない。車内販売の女性は、新幹線の車内販売と同じ風景。列車のスピードが速く、車窓の景色をゆっくり眺める気分にもならない。東京駅から4時間余で来てしまう郷里・武生駅は、便利になったといえばそれまでである。けれども、大切な何かを失ってしまったような気がする。
10年後には敦賀駅まで北陸新幹線が走るという。その時には、現在走っている特急「しらさぎ」も消えてしまうのだろうか。テレビで映し出される北陸新幹線開業へのカウントダウンは、郷里への郷愁を抱き続けていたあの頃の私を、遠い過去のものにしていくカウントダウンである。
(2015年3月9日)
公民館有料化計画
公民館や図書館は「社会教育施設」と呼ばれ、生涯学習の重要な役割を果たしている。お金があるなしにかかわらず、どのような境遇で暮らしていても、等しくサービスを保障するのが「社会教育施設」だと思う。ところが小金井市は集会施設の有料化につづき、公民館まで有料化しようとしている。
9日の行財政改革調査特別委員会で公民館長は「現在、庁内で検討中。3月中にまとめあげ、来年度にも公民館運営審議会に諮って行くことになる」と答弁。「有料化は社会教育施設に反する」とただすと、「有料化は、それとは切り離して考えたい」と説明にならない説明を述べる。背後には、行革をしゃにむに進めようとする市長や議員の存在がある。
「受益者負担」の名で有料化が次々に押し寄せている。お金のあるなしで、福祉や施設利用に格差が持ち込まれるこの現実。なのに、それに疑問を感じない人々がいることが、私には不思議でならない。
(「しんぶん小金井」2015年2月15日付から)
阪神淡路大震災のあの日
あの日は何曜日だったろうか。天気が良かったことは覚えているが・・・。寒い朝の「赤旗」日刊紙の配達を終え7時前にテレビをつけると、NHKの男性アナウンサーが「関西方面で大きな地震があった模様です」と述べていた。「模様です」とは、どういうことだろうか。やがて、気象庁の解説者とともに地震の震度を記した日本列島の地図が画面に現れた。震度5、震度6などの数字が関西を中心に記される。そして「震度7」が赤く点滅した。「これは何かの間違いでしょう」と気象庁の解説者が言う。「7ということは、まずありえませんから」と。7時のニュースが始まった。冒頭から地震の報道。しかし、現地の映像は流れない。「現地からの情報が、ほとんど入ってきません」と言う。いったいどういうことなのか。
テレビを消し、NHKのラジオに切り替えた。時間を追うにつれ、ラジオから信じられないアナウンスが飛び込む。「現地の人からの電話情報では、建物がいたるところで崩れているとのことです」「あちこちから煙が上がっている模様です」「高速道路が横倒しになっているとの情報があります」。えっ!、高速道路が・・・。
やがてテレビでは、ヘリコプターの中継映像が流れ始めた。神戸を中心に、あちこちで火災が発生し、煙がいたることろから立ち上っている映像である。消防車がかけつけて消火栓から放水しようとするが、肝心の水がほとんど出ない。地域住民が消防士に叫ぶ。「なぜ水を出さないのか!」。「水が出ないんだ」との消防士の悲痛な声がテレビから流れる。画面には、なすがままに燃え広がる街が映し出されていた。これが、20年前の1995年1月17日の明け方、関西を襲ったマグニチュード7.3の阪神淡路大震災当日の、いまも残る私の記憶である。
神戸はその後、復興がすすみ、三宮駅前もにぎわいを取り戻した。小金井市議会も神戸の復興状況や復興に向けた街づくりの在り方を学ぶために視察にも出かけた。街はにぎやかになったけれど、復興の過程で重い借財を抱えた人は多く、いまなお返済に追われる人も多数いるという。家族を失った人は、この20年間、心に負い目を抱えつづけ、この先もそのキズは消えないだろうという。20年の日を映し出したテレビを前に、大震災が人々におよぼした重みを私はかみしめる。
あの日、息子はまだ1歳、娘はまだ生まれてはいない。だから、二人とも遠い過去の話という感じでテレビを見つめる。だが、4年前の東日本大震災の記憶はしっかりと残っている。中学の卒業式の練習中に体育館で震度5弱に遭遇した娘は、首都直下型地震への不安を抱く。「断層は小金井市の地下を走っているのか?」「この家は大丈夫なのか?」と。天災は忘れたころにやってくる。20年前の映像を見ながら、あらためて災害への対応を問いかける日となった。
(2015年1月19日付)
新成人
小金井市の新成人は1,241人。昨年より20人、一昨年より52人多くなっている。12日の成人式に集まった多くの若者を前に、「若者に未来あれ」と願わずにはいられない。
非正規雇用で働く人が2千万人を超えた。政府はアベノミクスを盛んに持ち上げるが、非正規で働く人が前年に比べ48万人増える一方、正規雇用は29万人減少。働く人の4割、若者の半数が非正規雇用に置かれている。
彼らが20代の真ん中で迎える東京オリンピックをマスコミは華々しく宣伝するが、そのとき彼らはどのような暮らしをしているのであろうか。年金も健康保険料も払えない給料で、夢を語ることができるだろうか。世界で3番目の経済大国でありながら格差が拡大しつづける国でいいのか?と私は問いたい。
来年、成人式を迎える娘のもとに、振袖紹介のダイレクトメールがひんぱんに届く。それを見ながら夢見る我が子に、親はフトコロを心配する。
(「しんぶん小金井」2015年1月18日付から)
今年の正月
今年の正月も静かな日々を送ることができた。大晦日まで、地域回りや大掃除、賀状づくりなどに追われたためであろう。正月の穏やかな日々は、心身のリフレッシュにおいて、貴重な存在となっている。
今年の大晦日、元旦は、家族全員が東京で過ごした。とは言っても、娘は両日ともに夜遅くまでアルバイト、息子も大晦日はアルバイトに精を出している。だから、家族全員が家にそろっていたというわけではない。それでも、何か落ち着くものを感じる。
元旦は寒かった。早朝はそうでもなかったが、曇り空の下、次第に寒さが増し、昼前には小雪がチラついてさえいた。元旦の貫井南町地域は、地元の郷土芸能・貫井囃子が地域をねり歩くが、笛・鐘・太鼓の音が寒さに震えているのが伝わってくる。貫井神社への初詣の足音も、ほとんど聞かれない状況であった。
正月といえども、寝正月にはしない。普段よりは少しだけ布団の中にたたずむ時間が多くはなるが、家族のなかで一番早く私は起きる。起きたらまず、洗濯を行なう。次に雑煮づくり。新聞は普段の時よりも多くの紙面に目を通す。テレビはあまり観ない。興味ある番組が少ないからである。観るのはこの間、あたためていた録画番組。一気に観るだけの時間がとれないので、途切れ途切れで観る。酒は飲まない。飲んだら眠くなり、せっかくの正月が寝正月になってしまうからである。子どもはアルバイトをしていることもあり、お年玉を請求されることもない。雑煮ができあがった頃に、充分に寝足りた顔つきで、ようやく他の面々が顔を出す。こうして我が家の正月は幕を明けた。
貫井囃子が我が家の路地に姿を現したのは、元旦の夜6時頃である。笛と鐘、太鼓の音が近づくなかで、近所の家々から人々が顔を出しはじめる。貫井囃子はそれぞれの玄関先で獅子舞を披露し、かわりに駄賃をもらう。それが彼らのお年玉になっているのであろう。「明けましておめでとうございます」と顔を見せる貫井囃子は、いずれも見知った顔ぶれ。「今年も頑張ろう」と交わす言葉に、貫井囃子も笑顔で応える。これが貫井南町地域の元旦の光景である。寒空の下、夜の闇の中へ、貫井囃子は笛と鐘の音を静かに奏でながら遠ざかって行った。
正月2日。午前中は寒かったものの午後から太陽が顔を出し、寒さはようやく和らいできた。カミさんと娘がカミさんの実家に帰省をするので、午前の早い時間帯に2人を駅へと送り、そのあと洗濯を2回実施。息子はアルバイトのため昼食は私一人となり、前夜の残り物で済ませることとなった。
初詣は地元の貫井神社へ出かける。昨年は長蛇の列をつくっていたが、今年の正月2日は人出が少ない。社務所の人に話しを聞くと、元旦も人出は少なかったとのこと。寒さが人の足を遠のけている様子。「家族全員が健康でありますように」。わずかのお賽銭で贅沢な願いだと、神様はきっと思っていることだろう。
夜にならないと息子は帰らない。つまり、昼間は私一人。何かおもしろい映画はやっていないだろうかとインターネットで上映中の映画を探してみたが、魅力的なモノには出会えなかった。そのため、あたためていた録画番組を観て一人の時間を過ごした。
正月3日は快晴の時を迎えた。昼になって起きてきた息子と2人で雑煮を食べる。息子は完全休日だというので、どこかへ行こうか?と誘ったが、テレビを観るとのこと。午後になって暖かくなってきたので、単身、小金井公園内の「江戸東京たてもの園」へ出かけた。快晴、しかも暖かい。加えてこの日は入場無料ということもあってか、実に多くの人々が繰り出していた。駐車場の車のナンバーには他県のものもちらほら見受けられ、近隣の実家や親戚宅に来ている人たちも訪れている様子。1時間のつもりが、気がついたら2時間も、たてもの園で過ごしていた。
私の正月休みは翌日の4日(日)で終了することとなったが、日頃、あわただしい日々を送る者にとっては、とても有意義な時間となった。連日届く友人からの年賀状に目を細め、写真が印刷されている場合は容姿の変貌ぶりに月日の流れをふりかえり、「会いたいなぁ」などとあの頃を思い出す。そんな穏やかな正月も足早に過ぎ、今年もまた、喧騒のなかに身を置こうとしている。もうすぐ56歳。世間はまだまだ私をラクにさせてはくれない。
(2015年1月7日付)
以下、知人・友人に宛てた賀状を掲載します。
■働く人の4割が非正規雇用、若者の6割が年収200万円以下。一方で320兆円ものお金を溜め込む大企業は、円安や株の売買でさらに利益をあげるという。暮らしの先行きを奪う政治のなかで、自民党と真正面から対決できる日本共産党に注目が集まっている。
■衆院選挙で共産党は8議席から21議席へと大躍進。市総合体育館で開票立会人をする私の携帯メールに議席到達状況がひんぱんに飛び込み、思わずガッツポーズ。21議席の重みと期待を、ひしひしと感じている。
■「危機的財政状況」を叫ぶ小金井市は、今春から西之台会館や上之原会館を有料化。胃ガン・肺ガン検診も有料化するという。なのに莫大な財源を費やす駅前開発や道路建設は「聖域」扱い。財政が厳しいからと、4月にまたもや国保税を値上げするという。
■私立大学生2人(息子は3年、娘は1年)を抱える家計は火の車。爪の先を灯す思いで蓄えたお金が、滝壺に落ちるがごとく消えていく。なのに子ども2人はアルバイトで得たお金でデパート巡り。私とカミさんはバザー会場をはしごする。
■議員の仕事と地域の活動で走り回り、光陰矢の如し。年末に風邪を引き、55歳の体力を思い知る。家族で出かけることもなく、カミさんは連日、風呂敷残業。子どもは自分の世界を謳歌し、私はポツンと賀状を作る。
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