政党選択
大学3年生の息子が就職活動に入った。「まだ3年生なのに」が親の感覚。しかし当人は必死である。内定を得るために、せっせと願書を書きつらねている。
「景気は上昇傾向」と政府は言う。けれども、そんな声はどこからも聞かれない。商店街の歳末大売出しは10数年前に姿を消し、街のイルミネーションも今年はさらに影が薄い。折からの寒気で、フトコロはいっそう冷え上がってしまった。
大企業の溜め込み金が320兆円に達したという。景気が悪いために、使う先が見つからないらしい。正社員の首を切り、派遣やパート、アルバイトに置き換え、下請け業者をいじめたあげくの巨財である。
320兆円といってもピンとこない。触ったことがなければ、見たこともない。日本の人口1億2千万人で割ると、一人あたり266万円になる。その額でさえ、私は触ったことも見たこともない。
国民に還元を!。そのことが言える政党こそ、いま必要である。
(「しんぶん小金井」2014年12月14日付から)
周年行事
今年は、東京オリンピックから50年を迎える。50年前の4月、小金井市では前原小学校と東中学校が誕生し、その10年前には第二中学校が産声をあげた。そのことから小金井市では今年度、小中学校3校で周年行事が行なわれる。
50年前の小金井市は、それ以外でも新たなスタートがあった。市営競技場の完成(4月)、都立武蔵野公園の開園(8月)、東小金井駅開業(9月)、そして第三小学校と東小学校で小金井市初の学童保育所開設(12月)である。様々な面で今年は、節目の年となっている。
6年後に東京オリンピックがやってくる。過日、周年行事を迎えた東中学校の在校生は、その頃に20歳前後の時を迎える。私は思う。その時、日本はどんな国になっているのかと。
1943年10月21日、それから21年後に東京オリンピックメイン会場となる同じ地で、出陣学徒壮行会が行なわれた。東中学校の卒業生が、あの時のように再び出陣することのないようにと、私は「9条守れ」の声をあげる。
(「しんぶん小金井」2014年11月16日付から)
学童保育所の委託料
来年4月から、学童保育所4カ所の委託化を狙う小金井市は、現在、委託業者の選定作業に入っている。委託上限額は「さわらび」「まえはら」がそれぞれ年間3,050万円、「あかね」「みどり」は一括で6,800万円となっている。
「この金額を見れば、働く人の人件費は一定、保障されることがわかる」と市は述べるが、人件費にどれだけ充てるかは、業者まかせとなっている。
他自治体で学童保育業務を受託している業者の求人広告によると、有資格者の正社員でさえ「年間250万円前後」。アルバイトにいたっては、最低賃金をわずかに超える程度となっている。結局は、業者が利益を吸い上げるのである。
「委託すれば人件費の削減になり、そのぶん、サービス向上につながる」と主張する議員がいるが、低賃金労働者をつくりだしていることは眼中にない。
若者の6割が貧困層だという。日本の未来はどうなるのか。社会の在り方が問われている。
(「しんぶん小金井」2014年10月26日付から)
異常行政運営
「涼しくなりましたね」の言葉が、ひんぱんに交わされるようになった。気がつけばキンモクセイや彼岸花が咲き誇り、季節はすっかり秋もよう。寝苦しい季節は、はるか遠くに消え失せた。
今年の夏ほど異常気象が叫ばれたことはなかった。全国各地で集中豪雨が発生し、9月に入ってからは都心でも大きな被害に見舞われた。幸いにして小金井市では被害の声は聞かれなかったが、いつ災害が襲うかは予測不能というのが現実だという。
その小金井市。異常気象ならぬ「異常な行政運営」が、9月議会に激震を走らせている。土地開発公社評議員会が「ダメ」と言った事業を勝手に執行し、今度はリース庁舎の買収方針である。しかも短期間のうちに議決しろと市長は言う。市民無視、議会軽視の暴走政治そのものである。
猛暑はかなたに去ったが、熱き闘いは真っ只中。熟睡できる幸せを感じながら、今日も細身の体にカツを入れている。
(「しんぶん小金井」2014年9月21日付から)
盆話陳述
過日の厚生文教委員会で、手話による陳述が行なわれた。議会に陳情書を提出した聴覚障がいを持つ人が、陳情の趣旨を議会側に説明するためである。
議員側は手話を会得していない。そのため手話通訳者が同席し、陳述者の手話を言葉に変えて、議員側に伝えていた。
陳述者は訴える。「手話の活用や認識は十分とはなっていない。『手話は言語』という法的位置付けが必要」と。聴覚障がいを持つことでこうむる不利益や不都合、そして社会的偏見など、必死に訴えるその姿からは、聴覚障がい者の長い苦難の歴史を見る思いがした。
小金井市では259人が聴覚障がいの認定を受けている。バリアフリーをうたう小金井市において、聴覚障がいを持つ人も不自由なく暮らせるまちづくりが求められる。
今回の手話による陳述は、様々なことを考えさせられるとともに、時折、手話の練習をする我が娘の見方も改めなければと思うところである。
(「しんぶん小金井」2014年8月24日付から)
新盆
16日のこと。近所を歩いていると、玄関先にナスとキュウリに割り箸をさしたものを置いている家がいくつか見られた。「新盆」とのこと。8月中旬の旧盆に供養を行なう家々が増えるなかで、代々引き継がれてきた月日を大事にする光景に、地域の姿をかいま見た思いがする。
貫井南町では7月末日から8月初めを「お盆」と呼ぶ家庭が多い。養蚕農家の多かったこの地では、養蚕繁忙期とぶつかる時期を避けて、7月末からの数日を盆供養に充てていたからである。そのため、貫井南町では「新盆」「7月末日」「旧盆」と、墓参りの姿がその都度、見られる。
今年の仏様は怒っている。軍国主義復活を企む安倍政権が、日本を戦前へと引きずり込もうとしているからである。戦時中、米軍の機銃掃射から逃げ回り、兄を戦場で亡くしている親父も、郷里の墓の下で、こぶしをあげていることだろう。
梅雨明けは秒読み段階。熱き闘いはこれからが本番である。
(「しんぶん小金井」2014年7月20日付から)
親父の言葉
「二度と戦争をしてはならない」。6年前に他界した親父がいつも言っていた言葉。8人兄弟の5番目に生まれ、兄が戦死。自身も米軍の機銃掃射で負傷し、膨れ上がった左足の傷跡をいつも私に見せていた。
その親父の意志を受け継ぎ、過去の歴史に学ぶべく、我が家の本棚には戦争に関する書物が数多く並んでいる。その本棚を見ながら数年前のある日、息子が言った。「なんでうちには、戦争の本ばかりあるんだ」。
政府は他国に軍隊を送り出す時に「戦争をするため」とはけっして言わない。「国際社会の一員として」とか「邦人の生命と財産を守るため」などとオブラートに包む。そして国民が気付いた時には、もう手遅れになっていた────。これが69年前までの歴史の教訓である。大学3年生になった我が息子。新聞記事にも少しずつ、目を向けるようになってきた。
平和憲法をないがしろにする政府自民党。国会会期末の22日は、親父の命日である。
(「しんぶん小金井」2014年6月22日付から)
集団的自衛権の行使容認
憲法9条があるもとで「戦争に加わるため」とは、タカ派の安倍首相でも公然とは言えない。だから「在外邦人の救出」「お母さんや子どもたちを守るため」を前面に押し出して、米軍と一体の武力行使を「集団的自衛権」の名で正当化しようとしている。
しかし、武力を携えた自衛隊が紛争地域に行くこと自体、相手側の標的となり、「在外邦人の救出」どころか、かえって危険な状況に置かれることは、専門家の常識となっている。それでも自衛隊を派遣し武力行使を認めようという根底には、日米軍事同盟を背景に、意に沿わない国々を押さえ込みたいという狙いがあるからではないだろうか。安倍首相は血を流さず、日本の若者が血を流すことになる。
69年前まで日本では、20歳に達した青年に召集令状が届けられた。我が子と同年代の若者が戦場に追いやられたかと思うと、時の政権の勝手な解釈で憲法をゆがめる在り方に、憤りをおぼえる。
(「しんぶん小金井」2014年5月25日付から)
武生工業高校ミュージックバンド部同窓会
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第3回コンサートのパンフレット |
親父の七回忌が行なわれた5月の連休中に、母校のミュージックバンド部OBの同窓会が開かれた。対象者は、1974年度卒業生から1980年度卒業生までの範囲で、「最後まで部活を続けていた者」となっている。範囲が7年間に限定された理由は、74年度卒の人が3年生の時にミュージックバンド部が初めてコンサートを開き、80年度卒のあたりまでは、まがりなりにも「部」として活動していたからである。その後、ミュージックバンド部は衰退の道を歩み続け、同窓会の案内が届いた折に母校のホームページを開いてみると、2013年度に「廃部」と記されていた。
部の正式名称は「ブラスバンド部」。しかし対外的には「ミュージックバンド部」を名のり、コンサートの案内ポスターやパンフレットにも「ミュージックバンド部」を使用。演奏曲目がポップスや歌謡曲であったことと、ドラム、ギター、ベース、キーボードが配置され、一方で、木管楽器はただの一つも存在しないからである。しかし部員の日常会話では「ブラスバンド部」が飛び交っていた。部員数は常時15人はいたように思われる。
ミュージックバンド部OBの同窓会は初めてである。第1回コンサートを開いた時の部長(1974年度卒業生)と2年後の部長(1976年度卒業生、私と同期)が協議して、今回の同窓会を企画したとのこと。案内対象者は33人。しかし1人がこの世を去り、実質は32人が対象。居所がつかめずに案内状が届かない人もおり、同窓会当日(5月3日)は18人が出席した。私のように遠方から来たのは4人。実家に泊まる人もいれば、ホテルを市内に確保して駆け付けた人もいた。
弟に車で案内してもらい、会場の料亭に入る。店の人に案内されて辿り着いた部屋の戸を開けると、十数人の中年男性が壁を背にして座っていた。卒業して37年、月日は流れている。誰が誰だかさっぱりわからない。「おっ、板倉。タカダです」と受付役の白髪まじりの男性が声をかけてきた。「タカダ」と自己紹介してくれなかったならば、誰だかはわからなかったであろう。会費を払い、私も壁を背にして座り、居並ぶ中年男性を一人一人眺める。同じように、向こう側でも私を見ている。同窓会は年代に7年の差がある。1年生の時には2年上の先輩までが同じ釜の飯を食べ、私が3年生の時には2年下までが顔見知りとなる。よって、私がまったくわからない年代は、1979年度卒業生と1980年度卒業生の2年間のみである。参加者名簿が配られた。名簿を見るかぎり、知っている人間はたくさんいるはずである。しかし、「タカダ」と途中から入ってきた「ヤスダ」以外は、誰が誰だかわからない。そうこうしているうちに、別室の会食会場へと全員が移った。
会食会場では、卒業年代順に座ることとなった。そのため、同期、あるいは同時期にアンサンブルをつくりあげた者同士が固まることとなり、一気に37年間の空白期間は縮まった。お互いに名を名乗り、体型や髪の毛の変貌を指摘しあい、仕事の内容や家庭のこと、ミュージックバンド部時代のことなどで話ははずんだ。
18人の当時の受け持ち部署は「テナーサックス」が3人、「アルトサックス」が2人、「トロンボーン」が3人、「トランペット」が2人、「ドラム」が2人、「ギター」が2人、「ベース」が3人、「キーボード」が1人である。それぞれが順に自己紹介し、当時の受け持ち部署を述べたのだが、「あれ、そうだっけ?」の声が何回か飛び交うほどに、記憶というものは曖昧なもの。しかしそこには理由がある。途中で受け持ち部署が変わる場合があり、最初のイメージがそのまま残っていることもあるのである。受け持ち部署が変わった理由や、「ホントは○○○をやりたかったんだけれど」の話を聞くと、当時の情景が昨日のように浮かび上がってくる。部活の同窓会は実に楽しいものである。
同窓会では、私の知らない話題が多く聞かれた。私が2年生の時の、生徒会が配分するミュージックバンド部の年間活動費は野球部に次いで多く、ミュージックバンド部の年間活動費を増やさせるために、親友を生徒会長に立候補させたこと。コンサートは6〜7回くらいまで続いたこと。野球部の地区予選大会に応援演奏で行っているにもかかわらず、野球部からは「ブラスバンド部が来ると負けるから、来るな」と言われたこと。1980年頃になると、ドラムやギターなどのバンド部門以外はほとんど部員がおらず、管楽器担当者は2人程度になってしまい、野球部の地区予選大会ではギターやベースが加わらないと音楽にならないにもかかわらず、球場側が電源用のコンセントを使わせてくれなかったこと、などなど。それぞれが話す一言一言に、あの頃の記憶が走馬灯のようによみがえってくる。ところが、なぜか私の記憶からすっぽりと抜け落ちているものがあった。それは、合宿の記憶である。
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あの頃の写真 |
ミュージックバンド部は毎年7月末あたりに、県内の海沿いで合宿を行なう。2泊程度はしていたと思う。ところが、年に1回の合宿の記憶が在学中の3年間分、ほとんど失せているのである。友は言う。「午前中は練習。午後は海水浴。夜は星空を見ながら話し込んだ」「宿泊の寺から練習会場の学校までは、実に遠かった」。「夕食は?」の問いには「自炊」の答え。「風呂にも入った」とのこと。しかし、これらのことが記憶にない。かろうじて、夜の砂浜で花火を打ち上げたり星空を見ていたこと。お寺に宿泊し、寝る前にテレビを観ていたこと。学校から合宿会場までの遠い道のりをみんなで自転車で向かっていたこと、くらい。合宿でのエピソードめいたいろんな話も「カワイ」や「ワタナベ」は語ってくれたが、思い出せない。同窓会を終えて以降、あのころの写真を引っ張りだして記憶を呼び起こそうとするのだが、合宿の記憶がいっこうにかえってこない。二次会でも当時の思い出は楽しく語られたものの、なぜか合宿の記憶はそれ以上によみがえってこないのである。同窓会から1週間近く経ったいまでも、布団のなかであれこれ考えている。
同窓会は実に楽しかった。けれども同窓会を終えて以降、私の心の中はポツンと穴が開いたままになっている。この1週間、その理由を探している。同窓会があまりにも楽しかったからなのか?、合宿の記憶が抜け落ちていたからなのか?、もう一度、旧友に会いたいからなのか?・・・。いや、違う。ミュージックバンド部でワイワイやっていたあの頃に、もう一度戻りたいと思っているからではないのか?。
高校の授業は別に楽しくもなかった。けれども「カワイ」が言っていたように、学校を休んだ時でも、部活には行ったことがある。中庭に建てられていた小さなプレハブ小屋で、バンドと管楽器の総勢15人前後が実に賑やかに音をたてていたことが、懐かしく呼び覚まされてくる。あの頃に戻れるなら戻りたい。そして、もう一度、同じ顔ぶれでミュージックバンド部をやってみたい。そう思うのである。
「板倉、またトランペットを始めろよ」と「カワイ」が隣で私に呼びかける。「カワイ」も「ワタナベ」も「ウッチャン」も「ナカニシ」も、ミュージックバンド部の時と同じように、37年経ったいまでも楽器を握っているという。高校を卒業して半月後に上京し、東京都内の印刷会社に就職。トランペットのマウスピースを買ってはみたけれど練習するまでにはいかず、それ以降、机の引き出しの奥深くに隠れたままである。もう一度、ひっぱりだしてみようか。しかし・・・。
もう一度、当時の顔ぶれで音楽をやれるのならば、と思う。「ヤスダ」がキーボードを弾き、「カワイ」がドラムをたたき、「ワタナベ」や「ナカニシ」がベースを弾き、「タカダ」がテナーサックスを奏で、「オクダ」や「アカザワ」、そして同窓会には見えなかった「ソウマ」がトロンボーンを握ってくれれば、私もトランペットを吹いてみたい。でも、それは叶わぬ夢である。
37年ぶりに集合した旧友たち。同じ部で楽しみ過ごした仲間たち。同窓会はホントに楽しかった。けれども東京へ離れ、東京の雑踏のなかで過ごし、慌ただしい日々を送っている私にとっては、37年間の月日は長いものとなっていた。後先を考えることなく日々を迎えていたあの頃が楽しかっただけに、戻らない日々を思い出すのは辛いのである。
アルバムのなかでは、37年前の高校時代のみんなが生き生きと写っていた。その中には、記憶には残っていない合宿の海水浴の写真や、部室の前での集合写真、甘い記憶が残るあの子とのツーショットもあった。でも、なるだけ見るのはよそう。前を向いて歩くしかないのだから。友よ、また会おう。私は東京の地で、これからも根を張って頑張っていくから。
(2014年5月9日付)
無料塾
大学3年の息子が声をかけてきた。「ヒダカが、生活保護家庭の子どもたちの学習支援を行ないたいと言っている。そのためには、生活保護家庭の子どもたちを市から紹介してもらわないといけないし、市の施設を勉強を教えるために使えるようにしてもらうことが必要。小金井市では、そのような対応をとってはくれないのか?」。
「ヒダカ」くんは、息子の中学時代の同級生。高校、大学は別々となっても、いまなお何かにつけて互いに協力し影響し合う、ライバル的な存在。そのヒダカくんが、経済的理由で進学塾に行くことのできない中学・高校生に、ボランティアで勉強を教えたいというのだ。息子も、その活動に加わりたいと言う。
息子が言うには、小金井市には、経済的理由で進学塾などに通えない子どもたちに勉強を教えるグループが2組あるとのこと。しかし、そこで学ぶ子どもたちの家庭の経済状況は、生活保護世帯よりは上のランクに位置しており、そのような機会すら遠い存在となっている生活保護受給世帯の子どもたちに、勉強を教えたいというのである。そのためには、小金井市の協力がなんとしても必要だと息子は述べる。
今日、家庭の経済状況は子どもたちの進学にも影響を及ぼしている。学歴と家庭の所得状況は関連するとの研究結果も出ているほどである。「貧困の連鎖」という言葉も生まれており、貧困から抜け出すためにも、知識を高めることは欠かせないものとなっている。
彼らが接したいと願っている生活保護受給世帯の子どもたちへは、家庭の所得状況を把握している小金井市の協力なしには、近づくことはできない。ではどうすれば良いのだろうか。私なりに考えてみると、(1)小金井市が生活保護受給世帯にアンケートを行ない、進学のための「無料塾」(仮称)が行なわれる日時・場所を伝え、参加の意思をうかがう。(2)
「無料塾」(仮称)の日時ごとの参加予定人数を把握し、ヒダカくんなどの教える側へ伝える。(3)場所は、市が確保する これで、どうだろうか。もちろん、それまでに市の担当部署とヒダカくんなど教える側との、綿密な協議は必要となる。
具体化するには、さらに複雑でややこしい事柄も出てくることではあろうが、問題は、小金井市が学生たちの思い、意気に応えようとする意思があるかどうかである。やる気になれば、そのためのレールは敷かれていくものと私は思う。
あと一つ、課題がある。教える側、大学生側の体制づくりである。ヒダカくんと私の息子だけでは、サークルやバイト、就職活動などもあり、無理である。よって、ヒダカくんや我が息子に求めなければならないものがある。中学校時代の人脈も生かして、教える側の体制づくりを確保すること。市の事業として息づかせるためにも、後輩たちにもその体制に加わってもらうこと、を。
さて、小金井市は学生たちのこの熱意、思いに応えることのできる自治体であるのか、それとも「ムリ」と判断し、あっさりと葬ってしまう自治体となってしまうのか・・・。息子から相談を受けた4月30日の夕方、息子からの要請を記したファックスを小金井市の地域福祉課あてに送った。小金井市の対応に注目したい。
(2014年5月1日付)
捨て猫騒動
20日の日曜日、我が家は捨て猫に振り回された。生後間もない子猫2匹が近くの路上に置き去りにされ、娘が「かわいそう」と引き取ったからである。
これまで我が家に猫が入り込んだことはない。しかも相手は、寒さで衰弱した子猫である。右往左往する私に娘が命令する。「子猫用のミルクと哺乳器具を買ってきて!」。かくして娘は、子猫につきっきりとなった。
捨て猫の問題はいたるところで耳にする。専門家からは「動物愛護の観点からも不妊処置を行なうべき」との声が。しかし小金井市は、犬猫の去勢不妊手術への補助制度を8年前に廃止。増える野良猫へも何ら対応しようとはしていない。
我が家に来た子猫。幸いにしてその夜、日野市に住む娘の友人が引き取ってくれたおかげで、娘は寝ずの番をすることなく、爆睡することができた。
我が子を育てるだけでも四苦八苦。猫までは勘弁を。爆睡できたのは私のほうかもしれない
(「しんぶん小金井」2014年4月27日付から)
卒業式
東京では「三寒四温」は季語にならず。一気に春がやってきた。見上げればソメイヨシノが花開き、満開のハクレンが咲き誇っている。
春到来の19日は中学校で、25日は小学校で卒業式を迎え、「門出のことば」に感動と涙をおぼえる。親を見向きもしなくなった我が子も、かつてはこんな時があったと、瞳を輝かせている卒業生を眺める。
中学校の卒業生は4月から高校に進学する。「学事報告」によると、進学先は国公立が私立を上回るものの、その差はないに等しい。これまでは高校授業料の無償化が行なわれていたが、今年4月からは所得制限が設けられ、一定額の所得があるとの理由で、高い授業料を納めなければならない家庭も生まれる。親の瞳は曇りがちである。
我が家の娘は4月から大学生。6年前に来賓席で、小学校を卒業していく姿をまぶしいばかりに見ていたかと思うと、お金の欲しい時にだけ近寄ってくる娘に涙が出る。
(「しんぶん小金井」2014年3月30日付から)
下水道料金未徴収問題
3月7日付の「読売新聞」に「下水料金未徴収」の記事が掲載された。東久留米市で「市内の一部の世帯と事業所で下水道使用料が未徴収だったことが判明」というもの。未徴収となった原因として「排水設備の工事会社から市への届け出がないまま下水道管の接続工事が行なわれていた」「工事会社が手続きを遅延していた」「工事会社からの届け出があったものの市の事務処理が滞っていた」の3ケースを記載。そのうえで「徴収漏れについては既に該当する市民や事業所に説明しており、今後、納付を求めていく」としている。この記事を目にして私は、なぜ、このような問題が起きたのだろうかと疑問を抱いた。なぜなら一般的には水道水を使用すれば、水道水の使用量に応じて下水道料金が算定される仕組みになっているからである。
釈迦に説法であるが、おさらいをしたい。一般家庭における下水道料金(下水道使用料)の算定の仕組みは以下のようになっている。台所や洗濯機、お風呂場、トイレ、勝手口などで水道水を使えば、排水口から配管を伝って下水管へと流れていく。この下水管へと流れていく水量は水道水の使用量と同じと見なして、水道水の使用量をもとに下水道料金を算定する。小金井市の下水道条例では次のように記している。「水道汚水の排水量は、水道の使用水量により算定する」(汚水排水量の認定等)。そのため、水道水の使用量を把握するための計測装置(水道メーター)が取り付けられているのである。
では、なぜ「下水料金未徴収」が起きたのだろうか。新聞記事は3ケースを上げているが、私は「排水設備の工事会社から市への届け出がないまま下水道管の接続工事が行なわれていた」に注目した。これが事実であれば、工事会社の責任は大きいと感じる。
小金井市の下水道条例を見てみよう。「排水設備の新設等をしようとする者は、あらかじめ、市長の定めるところにより、その計画を市長に届け出なければならない」となっている。「排水設備の新設等」とは何か。「屋内の排水管、これに接続する洗面器及び水洗便所のタンク並びに便器を含む」を「新設、増設又は改築」することとなっている。この「新設、増設又は改築」を求めるのは建物の所有者であるが、工事を行なうのは事業者となる。小金井市においては「市長が指定した者(小金井市排水設備指定工事店。以下「指定工事店」という。)でなければ行なってはならない」と明記しており、排水設備の新設、増設、改築は「指定工事店」以外は認められないものとなっている。そのことから、市役所の担当部署へ工事計画を提出するのは、事業者である「指定工事店」となる。東久留米市においても、同様の規定になっていると思われる。
その「指定工事店」には、「下水道に関する法令、条例、規則等が定めるところに従い、適切な排水設備等の新設等の工事の施行に努めなければならない」の規定が課せられ、法令順守と責務がうたわれている。今回の「未徴収」は、「排水設備の工事会社から市への届け出がないまま下水道管の接続工事が行なわれていた」が主流を占めており、「指定工事店」の取り消しにもなりうる事案である。
水道水を使用すれば、水道メーターによって使用量が把握される。よって、少なくとも水道料金は発生する。しかし、市への届け出がないまま下水道管への接続工事が行なわれていれば、下水道料金へ連動させる手続きは果たされず、「未徴収」となる。市の責任を問うことは難しい。
小金井市の下水道条例では次のような規定がある。「使用者が公共下水道の使用を開始し、休止し、廃止し、又は再開したときは、当該使用者は市長の定めるところにより、遅滞なくその旨、市長に届け出なければならない」(使用開始等の届出)。この規定に違反した者や前述の「市への届け出がないまま下水道管への接続工事を行なった」者は「5万円以下の過料を科す」とされ、「偽りその他不正な手段による使用料の徴収を免れた者に対して、その徴収を免れた金額の5倍に相当する金額以下の過料を科することができる」と記している。しかし、下水道管への接続工事の届出が行なわれているかどうかは、建物所有者である一般市民にはわからない。よって今回の場合、一般市民にまでこの規定が適用できるかどうかは難しいところである。
新聞記事は「徴収漏れについては既に該当する市民や事業所に説明しており、今後、納付を求めていく」と東久留米市のコメントを記しているが、前途多難な感が否めない。なぜなら、下水管への接続工事は事業者が行なっており、工事を依頼した市民の側が市役所に工事計画書を提出するわけではないからである。当該の市民にとっては青天の霹靂である。
この記事を見た時にふと思ったのは「我が家の下水道料金は、ちゃんと徴収されているのだろうか」。さっそく「水道料金・下水道料金請求書」を注視した。たしかに我が家の分も事務所の分も、下水道料金は課せられていた。カッコ書きで「消費税相当額」まで明記されて。4月から消費税が8%へとアップする。公共料金の値上げが4月から押し寄せてくる。しかし小遣いは増えない。
残雪
45年ぶりの大雪に2週続けて見舞われた東京地方は、半月近く経た今もなお、あちらこちらにかたまりが残る。春というにはまだ早く、いましばらくは雪と過ごす日々が続きそう。
積雪のたびに感じるのは、雪に弱い都会の姿。緩やかな坂道にもかかわらず車は立ち往生し、電車は走ることをやめてしまう。路線バスもココバスもバンザイとなり、ゴミ収集車も来なくなった。郷里の福井では到底、考えられないことである。
大雪で物資の輸送が滞ったことから、店頭のパンが品薄になった。不安になった消費者が買いに走ったことも要因の一つだという。震災後を思い出させる光景であった。
その3・11から3年。原発の重大事故を経てもなお、安倍政権は原発再稼働にしがみつく。教訓を「学ぶ」のではなく「捨て去る」が、この政権の信条の様子。
4年前の4月17日、東京で積雪を観測した。政治も季節も過去を忘れることがあってはならない。
2週連続の大雪
降り出した雪は徐々に路面を白く覆い、夜遅くには40p近くの積雪となった。この日が雪になるという報道は3日前あたりから流され、それまでの「雨」の報道から、いきなりの「雪」への変更、しかも2週連続の積雪には困惑した人が多かったに違いない。加えて、1週間前の積雪よりも多くなるとは、どれくらいの人が想定していただろうか。ご丁寧に、空から降る大量の雪は、水分を多く含んだ「ベタ雪」であった。
降った14日(金)は、夜になるにつれ交通網がマヒしはじめ、路線バスも小金井市のコミュニティバスも、思うようには走れない事態に立ち至った。それでも一般車両は走り続け、まさか翌日が、これほどまでに混乱を引き起こすとは頭の片隅にもよぎるものではなかった。
15日(土)、私は朝6時に玄関のドアを開けた。雨である。しかし、道が消えている。近所の夫婦が汗だくになって路地内の除雪に励んでいた。出勤するご主人の車が通りに出られるようにするためである。雨具に身をまといスコップを持って私も加勢。ようやく車体が通れるくらいの幅を確保し、チェーンを装着したご主人の軽自動車が車体を左右に揺らしながら路地から出ようと必死にもがく。しかし、通りも走れるような状況ではなかったために、ご主人は出勤を断念。次に、路地内の別のお宅の屈強そうな車が出勤に挑戦。なんとか出て行ったが、その後の情報では、途中で断念し自宅に引き返したとのこと。よくぞ戻って来られたと思う。
15日(土)朝の積雪は尋常ではなかった。40p近くの「ベタ雪」は出勤の足を止め、宅配の牛乳屋さんも早朝配達の新聞屋さんも、大幅に遅れる事態を余儀なくされた。私も「朝刊」とは呼べない時間帯に「しんぶん赤旗」を徒歩で1時間30分かけて配り、沿道で除雪する人々と気恥ずかしい挨拶を交わすこととなった。
路線バスは1台も見かけなかった。小金井市のコミュニティバスも見られなかった。15日(土)は貫井南町の燃やすゴミの収集日であったが、収集車も一切、見ることはなかった。そのため出会う方々からは「今日はゴミ収集はあるんですか」「収集車が来るのか来ないのかの、市役所からの防災放送を使ってのお知らせはないんですか」などの問い合わせを受けた。夕方には近所の人から電話があり「市役所に問い合わせをしたところ『ゴミの担当課の職員が一人も出勤していないので、わからない』との説明があった」と述べ、「小金井市の危機管理体制が全く機能していない」とお叱りを受けた。夕方になっても、燃やすゴミが玄関先に出されている家庭がいくつも見うけられた。路線バスやコミュニティバスは運休となっていた。バス会社の職員が出勤できず、運転手の確保ができなかったようである。
そんな中、予定どおりに決行されたものがあった。国保税増税の見直しを求める駅頭署名行動である。前日の夕方、担当者に「明日はどうしますか」と尋ねたところ、「降っていなければ行ないます」との返事。たしかに降ってはいない。しかし、足元にはドカ雪。道路事情も良くない。もしかすると中止かも、などと甘い思いを抱きつつ、バイクにハンドマイクを積んで、道路事情のすこぶる良くない車道を前後・左右に揺さぶられながら武蔵小金井駅へ。果たして、そこには4人の若くはない勇士が私を待ち受けていた。
漏れ聞くところでは、19日の水曜日あたりにも雪になるそうな。20日には55歳の節目を迎えてしまう私にとっては、ありがたくない情報である。福井の弟から15日の朝、メールが届いた。「こっちは、今朝、久しぶりにうっすらと雪景色になった。今年の冬は、北陸と関東が逆になっている」。当分、東京の雪は続きそうである。
ギブミー、チョコレート
今年の冬は、よく雪が降る。「暑い夏を経た冬は寒くなる」と言うが、今年の冬は、まさしく言葉どおり。先週の8日(土)は明け方近くから雪が降り出し、夜中には30pの積雪を記録。一週間後の14日(金)には、朝6時頃から降りだした雪が夜中には40p弱に達し、こちらも記録的な積雪となった。雪国に暮らした私はたいして驚くほどでもないが、小金井市で2週続けてこれほどまでに積雪を見ることはなかったことから、「いいかげんにしておくれ」と言いたい。2度ともに帰宅の足に影響を受けたカミさんは、うんざりの様子であった。
私の住む貫井南町には、幹線道路にトンネルがある。「貫井トンネル」と呼ばれるもので、そのトンネルの南側手前から北側に向かってなだらかな坂道が続き、先週の大雪の時にはそのトンネルへとさしかかる手前で、何台かのトラックがスリップを起こして立ち往生。はるか南側まで長い渋滞をつくっていた。しかし今回は先週の教訓を経たからなのか、準備万端整えた車がスイスイと坂を走り、路線バスもしっかりと走っていた。混乱は先週ほどではなかったようである。
積雪の恐れがある場合、私は車を出さないことにしている。過去に、降り積もった雪にタイヤをとられて、ちょっとした坂道で難渋した経験をもっているからである。一応、チェーンは持っている。しかし使ったことはない。付け方も知らない。付けてまで走らせたいとも思わない。だから14日(金)の朝は、まだ道路に雪が積もる段階ではなかったが、車を諦めて徒歩で市役所へと向かった。結果的に、チェーンを付けていない我が家の車においては、その判断は正しかったことになる。
東京の場合、雪が何日も降り続くことはなく、降った翌日の午後には、たいていの場合、普通のタイヤであっても街にくりだすことは可能となる。だから私はチェーンを付ける気にもならず、チェーンは買ったままの状態でいまだに物置に眠っている。
14日(金)といえば、あこがれの「チョコの日」である。昔は14日を迎える前には歯ブラシを何本も買ったものであるが、「青年」と誰も呼んでくれなくなった今日においては、歯に付いたチョコを落とすくらいならば普段使っている歯ブラシでも構わないと思うようになり、加えて、昨年買っておいた歯ブラシの在庫がまだあることから、あえて新品の歯ブラシを用意するまでには至っていない。
しかし待てど暮らせど、肝心のチョコが来ない。郵便受けを何度のぞいても、チョコはおろか郵便物さえも来ていない。娘もカミさんも、今日が14日だということを知らないとでも言うように、なんの音沙汰もない。ついに、ついにこの日がやってきてしまったのか?。誰からも相手にされない「この日」が!。鏡を見る。けっして悪くない風貌である。往年の美貌は少々色あせたが、まだイケル。どこからみても捨てられるはずがない、と思う。
少々気になることはある。たまたま「チョコの日」の14日(金)の夕方、雪の降りしきるなかを近所のスーパーで普通のチョコレートを買ったのだが、レジの若い女性が、実に気の毒そうな目で私を見たのである。私は叫びたい。「雪はいらん。チョコをくれ!。それが叶わないのであれば、2月14日のチョコの日はこの地球上から抹殺すべきだ」。
私は認めない。誰からも相手にされない「この日」が到来したなどということは。そうだ、うん、そうに決まっている。この大雪で、郵便局の人は私宛の大量のチョコを運ぶことができなくなっているのだ。きっとそうに決まっている。そうであるに決まっている。そうであってほしい。郵便屋さん、そうでしょう?。
行き場のない自転車
小金井市は2月から、自転車等の放置禁止区域を、従来の駅周辺「300m範囲」から「500m範囲」に拡大し、拡大された区域内の無料自転車置場を撤去する準備に入った。「自転車等放置禁止区域内の駐輪場は『有料』とする」が市の方針だからである。撤去後、有料の駐輪場に整備しなおすという。
では、これまで無料の自転車置場に自転車を置いていた人たちはどうすればよいのか。
小金井工業高校東側の無料自転車置場には、新たに開設される中央線高架下の有料駐輪場の案内チラシが置かれ、往復はがきで申込みするよう明記されている。しかし有料駐輪場は台数に限りがあるため、抽選になるとのこと。つまり、行き場のない自転車が出てくることになる。
駐輪場の有料化に対しては賛否ある。しかし、行き場のない自転車が生まれる事態だけは避けるべきという点は共通の思い。小金井市はそのことを自覚すべきである。
文化香る今年の正月
正月を東京で迎えることが常態化した。高校受験や大学受験を控えた子どもが東京に残るため、あるいは私自身が市議選を直前に控えていたりと、その時々で状況は異なるが、今回で連続4年、東京で過ごすこととなった。一方、カミさんは欠かさず正月を実家で迎えている。そのため、この4年間、カミさん不在の年末年始を私は東京で迎えているのである。
今年の正月は、息子と私が東京に残った。息子は昨年同様、進学塾のアルバイトが正月にもかかわらず入っており、息子の昼食や夕食づくりを私が担当するのである。もちろん洗濯も行なう。今年の元旦と正月2日は快晴となり、しかも暖かく、洗濯物がじつによく乾いた。朝食はつくらない。2人とも前夜の酒に酔いつぶれ、爆睡中だからである。昼食は雑煮。夕食は年末に買っておいたおせちセットをオカズにして食べる。当然に、大晦日の夜は年越し蕎麦である。昼間、コープとうきょうで蕎麦を買い、「ゆく年くる年」が始まる前に作る。大掃除も、大晦日までには終える。もちろん、私一人で行なう。なんとも甲斐甲斐しいダンナではないか。だからカミさんは後ろ髪引かれることなく、娘を連れて悠々と実家に帰るのである。
寝正月の人も多いと聞くが、私の場合はそうはならない。前述のように、炊事洗濯を抱えているからである。加えて今年の正月は、どうしても行きたいところがあった。2日から両国の江戸東京博物館で「大浮世絵展」が開催されるからである。12月初めに地域の公民館で案内チラシを手にして以降、正月のうちに出かけたいと思い続けていたのである。
正月2日、天気は快晴。しかも暖かい。この日の息子は午前中からアルバイトがあり、昼食は「いらない」と言う。絶好のタイミングである。この日をおいて、観に行くことはなかなか難しいであろう。洗濯物をベランダに干し、朝9時、電車に乗車。10時前に両国に到着し、10時10分には会場の入口に立っていた。入口に掲げられている大きなポスターには、お馴染みの浮世絵が踊っている。チケット購入の列に並んだだけで、心はわくわくし始めた。
浮世絵展の初日、しかも正月ということもあってか、会場は多くの人で賑わった。歌麿や写楽はもとより、葛飾北斎、歌川広重などそうそうたる面々の浮世絵が数多く展示されている。私をはじめ、来場者は食い入るように説明文と浮世絵に見入った。なかなか次の浮世絵へとすすまない。そのため、浮世絵展会場に2時間30分も滞在することとなった。
江戸東京博物館に来て知ったのだが、別室の常設展示室では歌川広重の「東海道五拾三次」の浮世絵も展示していた。こちらの方は入場者がそんなに多くはなく、時間をとられることなく、しかもじっくりと観ることができた。北斎や広重、写楽、歌麿など、テレビや雑誌でお馴染みの実物の浮世絵を間近に目にし、しかもじっくりと見ることができる。こんな幸せなことはないと、つくづく思うのである。大満足であった。ちなみに入館料は1,200円である(100円割引券を利用)。
遅めの昼食をJR両国駅近くの居酒屋で食べた。店内には相撲甚句のBGMが流れ、両国国技館を近場に抱える場所であることを実感した。その後、回向院を横目にしながら両国橋を渡り、柳橋を過ぎ、鳥越神社を見学して、秋葉原からJRに乗車。武蔵小金井駅に戻ってきたのは、午後4時であった。
翌3日は、雲は多いが天候に心配はない。前日に比べると若干気温が低いものの、お出かけ日和。息子は午前10時に府中駅待ち合わせで、中学時代の友人と高尾山に行くと言う。「昼食はいらん」とのことで、この日もグッドタイミング。前夜に映画館情報を確認し、立川で映画を見る計画をたてておいた。例によって洗濯物を干し、9時30分、家を出発。「武士の献立」を観るのである。
「武士の献立」という映画があることは知っていた。しかし、どのようなストーリーで、俳優は誰が登場するかは一切、知ってはいない。インターネットの映画館情報では、話題の「かぐや姫の物語」や少々気になる「清須会議」もあったが、藤沢周平の小説に惹かれている私は「武士の献立」というタイトルに大いなる興味を持ち、いつも利用する立川シネマで上映しているということから、「かぐや姫の物語」を振り払い、「清須会議」を蹴倒し、まっしぐらに「武士の献立」に突き進んだ。
100人余入る映画会場に8割くらいの入場者であろうか。男女比は3対7くらいで、女性が多数を占めている。しかも年配者が多い。正直、こんなに入場者が多くなるとは思ってもいなかった。しかも女性が多く、なぜか年配者が多い。「武士の献立」というからには時代背景は江戸時代。中心は武士であろう。武士というからには、登場人物はチョンマゲを結った二本差しの男性となる。そんな映画であろうに、なぜ、このような観客層になるのか。いったい「武士の献立」とは、なんなのか。そんななかで、映画は始まった。
最初のシーンでいきなり上戸彩が登場した。その時点で「エッ・・・」となり、西田敏行が現れた段階で「オオ・・・」となった。先述のように、どんな俳優が登場するかは一切、知らないで映画館に来ている。ホウ、この面々が登場する映画なのか。だとすると、けっこう見応えがあるかもしれないぞ。などと、考えはじめた。
2時間余の映画であった。予想外の、なかなかの作品であった。「武士の献立」というタイトルからは、地味な映画というイメージしか浮かばないが、なかなかどうして、見応えのある映画であった。とくに上戸彩がいい!。この作品の質を彼女の演技が高めていると言ってもいいくらいである。似たようなタイトルの映画に「武士の家計簿」というのがある。こちらも俳優は一流であるが、「武士の家計簿」はじつに地味であった。そのイメージがあったために、似たようなタイトルの「武士の献立」も「地味」という先入観を抱いてしまっていた。映画を見終わった帰路は、前日に続く大満足である。手には700円で購入した「武士の献立」パンフレットが握られていた。
正月の2日、3日と、じつに文化的な生活を送った。近年にない高尚な正月であった。鬼のいぬまに・・・いや違う、カミさんのいない間の、じつに愉快な正月であった。正月はやっばりこうでなくっちゃ・・・。え?元旦はどうしたのかって?。えっと・・・元旦は年賀状作成でまる一日、追われておりました。いいじゃないの、そんな細かいこと。終わりよければ全てよし。以下、今年、知人に送った年賀状をご紹介いたします。
■68年前まで続いていた日本の侵略戦争は、マスコミの報道の自由を奪い、国民に真実を隠すなかで、日本を暗黒の時代へと導いた。安倍政権のもとで強行された秘密保護法は、12月末の靖国神社参拝にみられるように、軍靴のきな臭い足音が聞こえてくる。
■国民はいま怒りの声を上げている。原発再稼働や普天間基地の移設問題、TPP、消費税増税、ブラック企業、秘密保護法など。そこにはかつての「政治不信」ではなく、自らの手で政治を変えるという力強いメッセージが。そのエネルギーを得て、日本共産党は都議選、参院選で躍進を果たした。戦前とは異なる社会がここにはある。
■「危機的財政状況」を叫ぶ小金井市は、民間委託化をしゃにむにすすめる。なのに莫大な財源を費やす駅前開発や都市計画道路建設は「聖域」扱い。財政が厳しいからと、4月には国保税を値上げするという。市民のくらしよりも開発が大事だという市政に未来はない。
■我が家の娘は今春から大学生。早々に合格を決めたにもかかわらず、進学塾でアルバイトをしている兄の監視のもと、いまだに受験生同様の生活を強いられている。大学生2人を抱える家計は火の車。気のせいか、おかずが一品減ったような。
■議員の仕事と地域の活動で走り回り、一年は光陰矢の如し。体重は増えず腹は出る。今年も全力で頑張ります。
都知事選挙
昨年12月からの1年間は、例年になく忙しかった。都知事選・衆院選で2012年が幕を閉じたかと思う間もなく、3月には自身の選挙となる市議選。そして6月には都議選、7月には参院選と続き、この1年の間に市長選以外の選挙が一気に押し寄せた。
選挙は、いましばらくはお休みと思っていた矢先に、5千万円疑惑で猪瀬都知事が辞職。1月後半には選挙本番に突入するという。
一国の国家予算に匹敵する年間予算を抱えるのが東京都。1300万人の願いを花咲かせることもできれば、開発にお金をつぎ込んで、都民の暮らしを犠牲にすることさえもできる。どちらの都政を選ぶのか。その選択の機会をわずか1年余で与えてくれた、都民の力に感謝したい。
とはいえ、歳を重ねるごとにせりだしてくる腹と細身の身体にしみ入る寒さは、今一度の奮起を私に求めている。
新年はウマ年。細身の身体にムチ打って、いざ新春の街なかへ。
(「しんぶん小金井」2013年12月29日付から)
秘密保護法案は廃案に!
近年、異常気象が取り沙汰されるようになった。猛暑、豪雨、台風、竜巻など。そのたびに多くの被害が起き、悲しみがきかれる。
異常なのは自然界だけではない。国会でも異常な事態が繰り広げられている。消費税の増税は国民の多数が「反対」「いま行なうべきではない」と述べているのに、4月実施を表明。社会保障制度改悪のプログラム法案は、国民に内容が知らされるまもなく、衆院を通過。そして今度は、特定秘密保護法案の衆院での採決強行である。
「国民主権」。これは誰もが否定しえない侵すことのできない真理。国民が情報を掌握し、国民がものごとを決めていく、これが国民主権の在り方だと、私は思う。ところが自民党、公明党、みんなの党は、政府が勝手に情報を隠すことも、隠された情報を知ろうとする行為を処罰することも、当然だという。きな臭い軍靴の足音が聞こえてくる。
12月。寒さを吹き飛ばす熱き闘いで、廃案に追い込もう。
最低賃金
10月19日から、東京都の最低賃金が時間あたり869円に改定された。とはいえ、年間2千時間働いても年収170万円余にしかならず、依然として「ワーキングプア」状態である。
そのこともあり、新聞に折り込まれる求人広告に注目するようになった。驚いたことに、いくつかの事業所で最低賃金と同額の「時給869円」が記され、「870円」という記載もあちこちに見受けられた。このなかには、小金井市の学校給食調理業務を受託している事業所の名も見られ、そこで働く人たちの暮らしぶりが懸念されるところ。
政府は来年4月から消費税を8%に引き上げるという。円安誘導策も加わって物価は4%余アップすると述べる経済学者もおり、最低賃金引上げ分をはるかに上回る事態である。
3日は文化の日。映画や演劇を見るにしても、財布と相談しながらの毎日は「文化」とはかけ離れた暮らし。せめて自宅でビデオでもと思ったら、息子に先を越されていた。
元 統一劇場メンバーズ
東日本大震災から2年7カ月目を迎えた10月11日(金)の午後と夜、「ノーモアフクシマ! 東北復興支援!」と銘うった「ピース&チャリティーコンサート」が小金井市内で開かれた。この取り組みは、1985年7月まで小金井市内を拠点に活動していた「統一劇場」の当時のメンバーが集まって行なわれたもので、その頃は若かったであろう面々が、経過した年月にふさわしい容姿で立ち現れた。
2時間の舞台の中心は「歌」である。第1部は被災地・東北と、米軍基地に占領された沖縄への思いを寄せたもの。第2部は前半と後半とで構成が分かれ、前半は、彼らがこれまで培ってきた得意分野の披露。後半は、憲法9条を守れ!のメッセージを込めた構成となっていた。
この2時間、私は時には歌に身体を揺らせながらも、いろいろに思いをめぐらしていた。その中心は「歳月」である。舞台上のメンバーは今日、別々の場所で暮らし、それぞれの道をあゆんでいるはずである。それが今日の舞台のために、仕事の合間をやりくりしながら準備と稽古を重ね、一つの舞台を必死になって造り上げている。その過程はいかほどであったろうか。元は「統一劇場」と言っても、あれから30年。生活するために本業とは異なる道を経験し、少なからぬ苦労も重ねてきたはずである。そんなことを考えると、彼らの歳月を映し出した若くない容姿が、いとおしくなるのである。気がつけば前のめりになって、舞台上のメンバーを食い入るように見つめていた。
「統一劇場創立当時は平均年齢22歳。しかし半世紀たった今は・・・・」と、顔見知りのメンバーが舞台上で挨拶をするが、私には舞台上に並んだメンバーがとてもステキに見えた。歌は粗削りである。しかし温かい。そして、穏やかなのである。そこには「気心知れた仲間」「苦労をともに重ねた同士」という絆が横たわっているかのように。
不思議である。舞台上のメンバーの何人かは知人であるが、普段は「どこにでもいるような『おじさん』『おばさん』」と言える人たちが、舞台に立つと「プロ」に変わっていた。日頃見たことのない知人が、そこには立っていた。
1965年3月に統一劇場が創立され、以後20年間、小金井市を拠点に全国各地で演劇活動を展開。当時若かった面々は、いまでは誰が見ても立派な「おじさん」「おばさん」に変貌していても、イザ、舞台に上がると、そこには元統一劇場のプロ意識が沸き上がり、観客を十分に楽しませてくれる。さすがは「プロ」である。
私は「歳月」と記してきたが、ここまで記してきた段階で、「年輪」という言葉が正確だと考えるようになった。若かったころには出せなかった人生の「味」、喜怒哀楽を踏みしめた、これまで歩んできた「味」を、今回の舞台で彼らは見せてくれた、と私は感じるのである。それが「歌は粗削り」「しかし温かい」「そして、穏やか」と感じたゆえんだと思うのである。
今回のこの企画。元統一劇場の彼らなしには実現しえなかったものである。庶民の暮らしに視点を置き、庶民の暮らしに根を張る演劇を追求してきた統一劇場の一員だったからこそ、政治への怒り、打ちひしがれた国民への思いを実現することができたのである。
私は求めたい。さらなる「年輪」をきざんだ舞台を。歳を重ねた彼らの舞台を。そして、人々の絆を育んでいく統一劇場の失われることのない魂を。
定期健康診断
みなさんは、定期健康診断をうけているでしょうか。小金井市議会議員は、市の職員と一緒に年1回、定期健康診断を受診している。市の職員と一緒ということは、服の上からでしか知らなかったその人の身体の「特徴」が、レントゲン検査を受ける時などは、腹の出具合などを中心に間近で知ることができるという事態を生み出す。「未知との遭遇」とでもいうべき瞬間である。
定期健診は年に1回といえども、重要である。医療機関で定期健診を受診している知人は今年、悪性腫瘍(ガン)が発見され、お腹を切ることなく、外部から医療器具を入れて切除するだけの治療で対応することができた。早期発見のたまものである。
私もできるだけ定期健診を受診するように心がけている。今年も8月下旬に市役所の定期健診が実施され、9月に入ってから、その結果が送付されてきた。市議会議員の会話が議場で流れる。「血圧が高くなった」「血糖値が上がった」「体脂肪率が恐るべき数字になっている」などなど。議場に居合わせる議員や対面に座る市の管理職が一様に頷くところを見れば、同じところを気にしていることがわかる。
しかし私は気にする部分がちょっと違う。もちろん、血圧や血糖値、体脂肪率、あるいは尿酸値など、注意しなければならない部分はあろうが、幸いに、私はその部分は今のところ気にするところではない。体脂肪率は数字を示すまでもなく、服の上から見ただけでも、議場にいる人々のなかでは、はるかに低いことがわかるし、血圧も今回は少々高かったが、定期健診が行なわれる前に、地域で150枚ばかりのチラシ配布を行なってきたことが影響しているところ。だから、気にする部分は異なる。ただ、今回、私は愕然としてしまった。ある数字が私に衝撃を走らせてしまったのである。
今回、私の体重は1年前より1kg減っていた。身長は伸びるわけがないので、肥満度は1%、さらに減少。当然に「−」が数字の頭に付いている。ところが「腹囲」が2cmも増加しているのである。いかに私が福井県出身で、同じ「フクイ」であるにしても、この数値はただごとではない。大飯原発の爆発を想起させる衝撃であった。
体重が減って腹囲が増えるということは、私の体型は逆ピラミット型に確実に変質していることになるではないか。恐るべき事態である。「板倉さん、この年になったら、誰もが同じですよ」と同僚の議員は言うが、なんの励ましにもなってはいない。たしかに、そういう同僚議員の腹囲は、私の腹囲よりもはるかに見事ではあるが。
仕事に追われ、なかなかスポーツをする余裕もなくなっている。筋力トレーニングなどをする人もいるらしいが、筋力を付けようと思って両腕を天井へと高く伸ばしただけで、筋を痛めてしまった。トレーニングどころか湿布薬のお世話になる始末である。
高校を卒業して36年と7カ月。この間に体重は7kgしか増えていない。年に190グラムしか増えていない計算である。1日に200グラム増加というのは、周囲で頻繁に聞かれる話。しかし年に190グラムは、あまり耳にしない。なのに、腹囲は1年の間に2cmも増加したのである。これはイカン!。すぐに腹筋の開始だ!。と、腹筋を久しぶりに行なったら、腰を痛めてしまった。54歳。歳には勝てん。
学校給食調理業務の受託業者
小金井市には市立小学校が9校ある。今年9月から、そのうちの5校の給食調理業務が民間事業者に委託された。「公募型プロポーザル方式」で選出されたもので、応募事業者12社が提出した書類にもとづき、書類による一次審査および、一次審査を経て選出された5社による公開プレゼンテーション・ヒアリングによる二次審査が行なわれ、上位3社が小学校給食調理業務を受託した。受託結果は以下のとおりである。
学校名 |
受託事業者 |
第二小学校 |
(株)グリーンハウス |
第四小学校 |
(株)東洋食品 |
前原小学校 |
一冨士フードサービス(株) |
緑小学校 |
(株)東洋食品 |
南小学校 |
(株)グリーンハウス |
一方、市立中学校はすでに2006年9月の2校を皮切りに民間委託が強行され、今年3月末で事業者の契約期間が満了。今年4月から新たな事業者による委託がスタートされている。中学校5校の受託事業者は以下のとおりである。
学校名 |
受託事業者 |
第一中学校 |
(株)メフォス |
第二中学校 |
一冨士フードサービス(株) |
東中学校 |
一冨士フードサービス(株) |
緑中学校 |
(株)東京天竜 |
南中学校 |
(株)メフォス |
小学校5校、中学校5校の受託事業者を見てわかるように、同じ事業者名がいくつか登場する。市の担当課の説明では「事業者は、小学校2校、中学校2校まで受託可能」とのこと。よって、1事業者あたり、最大で4校まで受託可能となる。小学校、中学校ともに単年度契約で、4回更新可能。そのことから、2018年3月末まで受託が可能となる。
ところで、給食調理業務の委託で懸念されるのは、調理業務が支障なく執り行なえ、加えて給食の味も品質も安定的に提供できるのか、という点である。委託を推進する小金井市は当然に「直営の時と変わらない」と述べる。はたして、そうであろうか。
給食調理業務を受託した業者は、受託決定を受けてただちに準備にかかる。喫緊の課題は、調理員の確保である。いそぎ、調理員確保に向けた取り組みを始めることとなる。
私の手元に、毎週日曜日に大手新聞(「読売」「朝日」など)に折り込まれる「求人広告」がある。この広告には人材を募集する事業者名とともに、どの地域やどの施設に就くことになるのかの情報が記載されている。もちろん、賃金などの労働条件も記載されている。手元にある「求人広告」は今年の8月18日号からのものであるが、拾い上げて簡単に紹介すると、以下のようになる。
事業者 |
該当する学校 |
記載された月日 |
仕事内容 |
一冨士フードサービス(株) |
前原小学校
第二中学校
東中学校 |
8月18日 |
調理補助スタッフ
調理スタッフ |
(株)東洋食品 |
第四小学校
緑小学校 |
8月18日
8月25日
9月1日
10月6日 |
調理補助パート
(給食の準備と後片付け)
調理師 |
(株)グリーンハウス |
第二小学校
南小学校 |
8月25日
9月8日
9月15日
|
調理補助 |
3社が「求人広告」に登場するが、驚くのは9月2日から調理業務がスタートするにもかかわらず、「(株)東洋食品」と「(株)グリーンハウス」が9月に入って以降も登場し、「(株)東洋食品」にいたっては、10月6日号でも「求人広告」を掲載していることである。しかも10月6日号では「正規職員の調理師」を募集し、「調理師免許もしくは栄養士免許を取得している人」となっている。調理業務を委託している第四小学校と緑小学校の調理現場は、はたして大丈夫であろうか。早急な検証が求められる。
秋風が立つ
「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもの。猛暑がウソのように去り、窓を開けておくには涼しすぎるくらいの夜を迎えている。
秋の到来を喜んでいたところへ、安倍首相の「消費税増税表明」が飛び込んだ。収入は増えず、年金支給額は減り、食欲の秋を迎えるという、その時に。
「持続可能な日本経済」とか「成長戦略」とか聞こえのよい言葉は述べるが、庶民の日々の暮らしを案じた言葉は聞かれない。透けて見えるのは、政治献金を提供してくれる大企業の顔色をうかがう姿勢ばかり。
消費税増税表明が行なわれた夜、知人から怒りの電話が届いた。「安倍さんは、私たちの暮らしをどう考えているのか!」。年収200万円以下で働く「ワーキングプア」と呼ばれる人が、1,000万人も存在する。賃上げはおろか雇用の維持すら、保障はないのである。
「嫌気がさす」ことを「秋風が立つ」と言う。こんな政治は秋の風に吹かれて消え去るのみである。
あまちゃん
「あまちゃん」に人気が集まっている。これまであまりNHKの連続テレビ小説を見て来なかった層をも、とりこにしているという。
私もその一人である。録画しておいた「あまちゃん」を寝る前に見るのが日課になり、気に入った場面は何度も見直したりしている。
9月から「震災」の場面へと入った。大震災そのものは再現しにくく、しかも心痛める情景が誰の目にも焼きついていることから、制作者は描き方に相当、気をつかっていることがうかがえる。「あまちゃん」は今後、被災地支援・復興へと展開していく。
一方、福島原発は「収束」どころか被害は拡大し、メドさえ見えない事態となっている。そんななか、大飯原発の2基の原子炉が定期検査で相次いで停止する。政府は検査を終えれば再稼働する意向だが、福島原発の現状を見れば「冗談じゃない」と誰もが思う。
「ジェジェジェ」は驚いた時に言うらしい。再稼働はまさしく「ジェジェジェ」である。
雷雨で異常発生
その知らせは、福井に帰省中の息子の携帯メールに届いた。「我が家のテレビが映らない」。一足先に小金井市に戻っていたカミさんからのメールである。福井で見るテレビニュースでは、東京方面の激しい雨と、夜空を幾度も駆けめぐる雷の閃光が映し出されている。どうやら、我が家のテレビは雷の被害を受けたようである。
翌日の13日の夜、私と息子も小金井市に戻ってきた。さっそく我が家のテレビの状態を確かめる。その結果、テレビではなく、ブルーレイディスクがやられていることがわかった。ブルーレイディスクの電源が入らなくなってしまったのである。「修理に出さざるをえないか・・・」と、財布の中身を見ながら暗い顔になった。
しかし、雷にやられたのは、それだけではなかった。15日の朝、眠っている私をたたき起こして、カミさんが言った。「電話が使えない」。15日の夕方には、テレビのもう一つの録画用ディスクも電源が入らなくなっていることが判明した。仕事に使用するパソコンに被害がなかったことは幸いであったが、子どもたちの教育費に金が消えていく今日、大きな痛手である。
滑稽なのは、電話が使えないことを15日の朝になるまで気がつかなかったことである。激しい雷雨は12日の夕方である。その時点で、ディスクも電話もイカレタと思うのだが、15日の朝、気がつくまでの間に、電話やファックスがどこからも来ないことを不思議に感じず、こちらからも使用することがなかったということが、滑稽である。「お盆だから世間もお休み。だから静かなのだ」くらいにしか思っていなかったのであろう。「あの激しい雷雨のあと、家電製品の修理を依頼する人が続出している」と電気屋さんは話してくれた。
帰省は2泊3日。帰省客が混み合うお盆の時期を避けて帰省した。骨休みのつもりで実家へ帰ったものの、何をするでもなく、一日中、家の中でゴロゴロ。退屈しのぎにテレビを見たり小説を読んだりしたが、逆に疲れてしまった。大学2年の息子は、授業に関する調べものをするつもりでパソコンを持参したが、実家の小学生と中学1年生に「遊ぼう」と言い寄られ、ほとんどパソコンを開くこともなく、小学生・中学生とともに、実家周辺の山沿いを汗を垂らして自転車で駆け回ることとなった。オフクロは「あと一日くらいは実家で過ごすべき」と言ったが、これ以上ここにいては、身体が持つものではないと思った。
高校3年の娘は大学受験を控えている。そのため小金井に残ることとなったが、我が家は「座敷わらし」が棲む家である。「音がするから一人では怖い」ことから、娘がとった手段は「我が家に仲間を呼ぶ」こと。娘が一人となった11日の夜、小金井の我が家には娘の友達が5人も泊まりに来た。当然に、どんちゃん騒ぎである。なんのために小金井に残ったのであろうか。
もうすぐ帰省
梅雨明けと並走するようにアツイ参院選が戦われ、日焼けの顔に応えるような、うれしい結果。「水分はこまめに補給を」の報道を錦の御旗に、カミさんの睨む目を横目に、泡の出る飲み物にしがみつく。
などと言いつつ、帰省予定の郷里に電話をすると、「ようやく梅雨が明けた」の返事。東京よりも一カ月遅い梅雨明け。しかも集中豪雨が襲ったというから、大変な夏である。
郷里は「原発銀座」を抱える福井。政府は大飯原発に続き、他の原発も再稼働させようとしている。しかし、活断層上の原発の再稼働ともなれば、放射能の豪雨に身を委ねることにもなりかねない。大企業の利益のために再稼働されるのはゴメンである。
親父が亡くなり母親も年々衰え、年に一度の帰省では申し訳ないが、それでも墓前に「共産党は頑張ったぞ」と言える今夏は、多くの土産を持って帰れそう。カミさんの目を気にせずに飲めるのも、帰省の楽しみである。
猛暑のなか、21日めざして
平年より10日以上も早く梅雨明けとなった6日以降、猛暑が容赦なく細身の我が身を襲う。
炎天下の街を歩くと「円安で、溶剤や包装用ビニールの価格が上がって大変」とクリーニング屋さん。板金加工業の人からは「まったく仕事がない」と怒りの声が。「アベノミクス」は株を持つ大金持ちや大企業に顔を向け、日々の売り上げで生きている人々や庶民の暮らしは眼中にない。
経済大国と言いながら、10年以上も前から「学校を卒業しても、まともな仕事がない」状態が続き、低賃金・長時間労働で、身体を壊す若者が続出している。
「お前が大人になるまでには、この国をまともな社会にしなければ」と、常々語っていた頃の父親の年代に私も到達した。大学2年と高校3年の子どもを抱えるいま、平和憲法を変えようとする動きには、とくに敏感になっている。
21日は、政治を庶民の側に立たせるための大切な日。真っ黒な細身は、今日も元気です。
手が出ない! 有料老人ホーム
貫井南町に住宅型有料老人ホームが建てられた。デイサービスセンターが併設され、介護サービス完備である。入居者募集のチラシには「『あたり前の生活』をたいせつに」と記され、すでに全室完売とのこと。
食事も介護サービスも完備という有料老人ホームは、誰の目からも「あたり前の生活」にふさわしい。近くにはスーパーもあり、生活する場としては申し分ない。
しかし料金額を見て、目が点になった。498万円の前払金の他に、月々26万5千円の利用料金が必要とのこと。私などには到底、手の届かない場所である。
小金井市では、特別養護老人ホームへの入所待ちが400人を超えている。施設が増えない理由は、「土地を運営法人が購入、または長期借用すること」を小金井市が条件としているためである。「市には、施設誘致のために土地を買う余裕はない」と市長は言う。なのに、開発にはお金を惜しむことはしない。政治を変えるべし。まずは都政から。
給食委託説明会
平日夜7時からの説明会に来られる市民は、どれくらいいるだろうか。説明会日時が示された時に、真っ先に浮かんだのはこのことである。案の定、人数は少なかった。
中学校給食の委託化が打ち出された7年前は、金曜夜が1校、残り4つの中学校は土曜・日曜に行なわれた。今回の小学校給食説明会の時間設定は異常である。
なぜ平日夜になったのか。それは「9月委託ありき」だからである。小金井市は、委託予算を5月21日の臨時市議会に提案する考えをもち、それまでに市民説明会を終わらせなければならないことから、平日夜の説明会開催となった。
だが、説明会最終日翌日の臨時議会に委託予算提案では「説明会は形だけのもの」とならざるをえない。しかも会期は一日である。最終的に市は、予算提案を6月議会に変更した。
しかし小学校9校中、平日夜の説明会は6校。これで「説明会終了」となれば、結局は「形だけのもの」となる。
市指定有形文化財『閻魔様』
正式名称は「閻魔堂木造閻魔王坐像」。地元では「閻魔様」と呼ばれる市指定の有形文化財が、貫井南町4丁目に存在する。像高75cmの閻魔王坐像を中心とする10王(1体欠)や阿弥陀如来、地蔵菩薩などの小像および諸像・仏具が一括して現存し、1977年に市の文化財となった。
1835年頃に造られた閻魔様はこの間、傷みが見られ、地元の依頼を受けて昨年11月の市文化財保護審議会は「専門家の調査が必要」と判断。しかし市は「急ぐべきものではない」と述べ、いまだに調査費を組んではいない。そのため地元からは不信の声が上がっている。
先人の歴史的遺産は、後世に残す取り組みを行なわないかぎり消滅する。すでに宅地開発や地域の変化のなかで、庚申塔は数えるほどになり、学芸大学周辺にあった陸軍技術研究所の遺構も完全に消えはてた。
駅前の変化に目は奪われがちになる。しかし地域の文化にこそ、目を向けるべきであろう。
座敷わらし その2
「板倉議員、その後、座敷わらしはどうですか?」と、小金井市役所の課長さんが私に問う。2年前の4月にホームページに掲載した「座敷わらし」以降、課長さんは我が家の動向に関心がある様子。よって、その後について記すことにしよう。
築40年近くとなった我が家は、あいもかわらず“音”が健在である。それも何故か私が日中、2階で仕事をしている時に聞こえる。玄関を開ける音、そして玄関ホールや1階の居間に人が入ってくる音である。“隣の家の物音だろうか?”と、注意して聞き耳を立てる。“いや・・・・、これは我が家の1階の音だ”と確信して1階へ下りる。しかし誰もいない。だから近頃では、“やはり座敷わらしがいるのかな?”などと、半分本気で思ったりする。けれども怖いわけではない。むしろほのぼのとした気分になる。座敷わらしがいる家なんて、なかなかないではないか、などと。しかし、そんなことを言っていられるのも、実物にお目にかかっていないからである。もし家のなかで出くわしたならば、一人で家の中にはいられなくなるのではないだろうか。
家の中の怪奇現象を撮影して不可思議なモノが映っていた、という番組をテレビで放映しているが、「板倉さん、家の中を撮影したら」などと、興味本位で私に投げかける者もいる。ならば問う。「もし映っていたらどうするのか?」と。不可思議なモノが本当に我が家にいるとわかった段階で、板倉一家は、この家に住むことを拒否することになるのではないか。
地域の共産党の年配の女性陣に、我が家の「座敷わらし」の話をしたことがある。その方々はとくに、その道にくわしい方ではないと思うが、「やっぱり!」「いると思った」などと、その方々は言う。その方々が根拠とするものは、我が家の前身が教会だということにすぎないのだが。
我が家には3階部分に屋根裏部屋があり、我が娘がこの部屋で寝泊まりをしていたことがある。しかし、それは短期間で終わってしまった。なぜやめたのか。その理由を最近、娘が明らかにした。「3階の部屋で手鏡を見ていたら、突然、鏡にメチャクチャにヒビが入った。だから怖くなって、その部屋で寝るのをやめた」。
その部屋で私は市議選前から寝泊まりをしているが、この話を娘から聞かされて以降、寝泊まりが少々、怖くなってきている。だから、ぜったいに撮影だけはしたくないのである。映ってしまっても、金がない我が一族は、この家に住み続けなければならないのである。
6期目
「6期目」の表示が新聞紙上に記され、その数字に戸惑う自分がいる。6期目をめざして立候補し、当選すれば当然にその数字が表紙されるのだが、数字が自分の名前の横に記されるのを見ると、その数字の重さが身に迫る。6期目は他に2人、その上には7期目と8期目が、それぞれ1人ずつしかいないのである。つまり、当選した24人中、私は上から5番目以内に位置することになる。
3月24日(日)投・開票の小金井市議選には35人が立候補した。定数24人に対して11人がはみ出す文字通りの多数激戦である。この激戦を勝ち抜いたのは現職17人、元職2人、そして新人が5人である。一方で、現職5人が落選し、そのなかには8期目をめざした者、7期目をめざした者、6期目をめざした者が含まれている。ベテランといえども、けっして安泰といえる選挙ではなかった。
日本共産党は現職4人が立候補し、4人全員が当選した。しかし、前回に比べると合計で千票余も減らし、私自身も200票余減らす厳しい戦いであった。候補者数が多い、投票率が3.3%も下がったなど様々な要因はあろうが、票数を減らしたことは大いに反省すべき点だと受け止めている。
この選挙戦を経て、私なりの総括を述べるとすれば、第1に、存在感を示せ得なかった政党や候補者は沈んでしまった。逆に、はっきりと見える形で示していたところは、票数を増やし、あるいは高位で当選している。第2は、市議選の争点を明確にすること。わかりやすい表現で具体的に示し、市政をどうすべきなのかをはっきりと示すことが重要。第3に、継続は力なり。「いつも駅でビラを配っていますね」「スーパー前で宣伝していますね」などの声が選挙戦の最中に寄せられ、「見ている人は見てますよ」と励ましてくれた人も多かった。継続の結果が、私に12位当選を与えてくれたと確信している。第4は、議会においても地域においても全力を尽くすこと。議会だけでなく地域の信頼を得てこそ、役に立つ身近な存在となり得るのである。
4年前は息子の高校受験と重なり、息子が一足早く高校合格。今回は、実家の姪が大学受験。こちらの方も、一足早く大学合格となった。「子どもたちに負けないように」と、カミさんは今回も私の尻をたたいた。
「6期目」。その重さにどこまで応えきることができるだろうか。新しい顔ぶれでの議会は、今月10日(水)の初顔合わせからスタートする。
特養ホーム待機者400人
「お年寄りがお年寄りを介護する現実を変える」と銘打って、13年前にスタートした介護保険制度。保険料が徴収され利用料金も取られるのに、「現実」は変わったのか。
高齢者宅をノックすると、疲れ果てた顔つきで知人がドアを開ける。「介護度が下がったために、ヘルパーさんの来る日が少なくなった」「主人が痴呆になり、毎日、家の中で事件が起きる」。語る知人自身も、腰や足が痛むという。
小金井市の特養ホーム入居待機者は400人を超える。その間、ヘルパーの手を借りて自宅で介護し、ショートスティや入院で、しのいでいるのが実態である。
小金井市の計画では、新年度に100人規模の特養ホームを設置するという。しかし「法人が土地を購入あるいは借り受けて運用することが基本」のため、市自らは設置しない。一方、駅前開発は借金をしてでも推進するという。
だから私は訴える。「いまこそ市政を変えよう!」と。
2月14日
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今年の成果 |
昔は、この日になると、歯ブラシを何本も買ったものだと、2月14日の日付をしげしげと眺める。しかし今では、カミさんはおろか娘すらも、私の姿は眼中にない。
近所のスーパーの店頭には、かわいく飾った色とりどりのチョコが並び、若い男性も私のような中年も、憧れのまなざしで横を過ぎ行く。
物の本によると「バレンタインデー」は1958年頃から日本でも始まったという。つまり、私の青春時代は、すでにこの慣習にどっぷりとつかっていたことになる。そのため、買った歯ブラシがまったく役に立たなかった私は、この慣習をいまでも憎んでいる。男性を選別するために、この慣習があるのではないかと思うほどに。
政府は来年4月から消費税を8%にするという。しかしチョコはおろか全てのモノの値段が上がり、チョコをもらえる男性含めて、国民全体が不幸になる。だから、増税ストップへ。全力で頑張ります。
成人の日の大雪
7年ぶりの大雪となった成人の日の小金井市では、またたくまに10pの積雪となった。朝の時点では路面を薄くなぞる程度の雪が、午後には難渋する車を続出させるほどになった。
雪国出身の私にとって、10p程度の雪はなんでもないとタカをくっていたが、幾度となく転倒しそうになり、冷や汗をかくほどに。郷里を離れて36年弱。いまや私にとっても10pは「大雪」になりつつある。
小金井市の新成人は、5年前よりも184人少ない1,189人。大雪となった成人式の会場では、今年も、ありあまる元気をもてあました若者が見受けられた。しかし、行動を共にする仲間がいないと、注目を集める行為は起こせないらしい。
34年前、私は小金井市で成人を迎えた。式典の案内があったかどうかは定かではなく、知り合いもいないことから、式典には出席しなかった。
式典会場で目立とうとする若者を見ると、知り合いのいることがうらやましいと、ふと思う。
我が家の年末年始
昨年12月の「師走」は、先生やエライ人に加えて選挙カーや候補者が走り回り、その結果、新年を前にした特別国会では「過去の人」になったはずの人が首相の座に返り咲き、旧態依然の政治と古い歴史観をまたもや持ち込もうとしている。
そのことから、これからの国民の頭上には、大企業やゼネコンを潤わせるための大型公共事業の増による国の借金増と、国の財政支出を減らすための国民サービス切り捨てが容赦なく降り注ぐであろう。加えて、侵略戦争への反省をないがしろにする古い歴史観の持ち込みは、アジアや世界各国とのあつれきを生み、日本のさらなる孤立化を招くことになるだろう。
などと考えつつ、我が家の年末年始を総ざらいすると、カミさんが高校2年の娘を連れて里帰りしたために、残された私と大学1年の息子は、年越し蕎麦も正月の雑煮も、カミさん不在中の食事や洗濯も、すべて自分たちでまかなわざるをえない事態に直面した。なのに息子はいっさい手伝わず、アルバイトにも追われていたことから、すべてが私の肩にのしかかった。加えて、年末の大掃除と年賀状作成である。そのため、一服すべき大晦日でさえも、てんてこ舞いの状態となった。初めてである。紅白歌合戦をまったく見ずに年を越したのは。
穏やかな快晴の元旦は、しんぶん「赤旗」の早朝配達を終えてひと眠りし、9時30分におもむろに起き出して雑煮の支度。これぐらいは食べるだろうと、まだ寝ている息子と私の分の餅を鍋に入れて、雑煮はなんとか完成。しかし息子は昼になっても爆睡中。朝方までお笑い番組を見ていたことから、呼びかけても起きず。結局、昼過ぎになって起きた息子は、鍋底にへばりつき固くなった雑煮を食べる羽目になった。
元旦のこの日は、息子から一緒に行くように頼まれていた「柴又の帝釈天」に出かけることになっている。息子が雑煮を食べ終わり、帝釈天に行くために家を出たのは、太陽が傾いた午後1時40分頃。昼前には出たいと思っていたのだが。
「帝釈天」はご存じ、「男はつらいよ」の舞台である。帝釈天の先の「矢切りの渡し」には来たことがあるが、なぜか帝釈天には寄っていないので、東京に出て35年9カ月の私も、帝釈天は初めての地である。
やはり、すごい人出であった。露天商も多く、さしずめ第2の浅草。二天門も本堂も立派。しかし、ゆっくり見る余裕も与えられず、お賽銭を投げ入れて、なんとか願い事を伝え、足早に「とらや」のある参道へ。その参道もすごい人込みで、それぞれの店を物色することもままならない状況であった。
駆け足で過ぎた帝釈天を背に、次に向かったのは浅草。すでに夕闇を迎えた浅草は、帝釈天どころの騒ぎではなかった。浅草寺に向かう仲見世通りに一歩、足を踏み入れたとたん、長蛇の参拝の列。しかも、脇道に抜けられないように柵が設けられており、一度入り込むと、参拝するまで仲見世通りから出られない仕組みになっていた。
右手にスカイツリーを眺め、左手にライトアップされた五重の塔を仰ぎ、目の先のかなたに煌々と明かりをともす浅草寺を見つめつつ、ただひたすら賽銭箱の前に到着するのを待った。でも私は好きである。江戸の雰囲気をかもし出すこの浅草が。浅草で夕食を食べ、帰宅したのは夜8時40分頃であった。
翌2日。近所の貫井神社へ一人で参拝。大晦日から正月2日まで、実に穏やかで暖かい。これほどまでに暖かい正月は、これまでにあっただろうか────と喜んでいたら、翌3日は一転、いつもの1月になった。
友人・知人から年賀状が届いた。通りいっぺんの賀状もあれば、近況を記すもの、写真を載せているものなど、いろいろである。好みからいえば、近況を記し写真を載せたものがいい。その期待に応えたものもいくつかは届いたが、欲を言えば、自分の写真を載せていただきたい。しばらく会わないうちに、どのような変貌を遂げたのかを、私は知りたいのである。なのに自分の写真は載せずに、子どもを載せている場合がときたまある。はっきり言っておくが、子どもに関心はない。あんたに関心があるのである。
さて、私の書く年賀状には毎年、さまざまな感想が寄せられる。今年の年賀状にはどのような感想が届くだろうか。以下、今年の私の年賀状を紹介させていただく。感想をぜひ、お寄せくださりませ。
(2013年1月5日付)
■5月の連休、「被災地の現状を目に焼き付けたい」とのカミさんの願いに応え、高校2年の娘を連れて石巻へ。宿泊先の仙台では青葉城址の政宗像を仰ぎ、足を伸ばして平泉へ。目に焼き付いたのは、金色堂の金箔だった。
■家族そろって出かけることもなくなり、盆の帰省は息子と私、正月の帰省はカミさんと娘。大学1年の息子は都の西北で学ぶかたわらバイトに精を出し、高校2年の娘は食べ放題の店やファッション雑誌に興味津々。
■政党の離合集散の末に迎えた総選挙は、国民を裏切った政権党が転落し、票を減らした自民党が漁夫の利を得て小選挙区で大勝。民意は旧態依然政治を見限っているのに、大型公共事業復活と憲法9条改悪が狙われている。
■市議会議員に就いて20年、自治会活動も18年を迎え、いろんなことを学び続ける毎日。4年ごとに選挙ポスターをつくり、肌の衰え、白髪の増加、腹の出具合を気にする事態に。「紅顔の美少年」はいずこに去った?。
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