18歳選挙権で思い出すこと
先日、何気なく見ていたテレビに瀬川栄子さんが出演して話していました。曰く「私は争い事がダメなんです」と。これまで、瀬川さんと言えば声の出し方が「ちょっと普通と違うなー」、笑点(日本テレビ)の林家たい平さんが物まねをしていますが、そのぐらいの印象しか持っていませんでした。ところが、この「争い事がダメなんです」という言葉に大変共感したんです。
実は私もそうです。今、こういう仕事をしているので、狭山市の執行部や他党派、他会派と議論をしあうことは必然的にあります。たまには声が大きくなることもあります。が、本来は「争い事が嫌い」なんです。できればやりたくない。
高校時代(18歳)に、自民党政治に疑問
私の高校時代(都立小岩高校7期生)、2年生ぐらいの頃までは、当時の自民党政権の政治に疑問も持たず、正確に言えばこれといった関心もなく、「自民党が政権を担当していれば、まず間違いはないのだろう」と思って過ごしていました。
深く政治のことを考えたことが無かったのです。ただ一つだけ強い思いがありました。それが、「争い事は嫌だ」「絶対に戦争には行きたくない」という思いです。当時はベトナム戦争の最中で、政治に無関心であった私も、「自らは戦争に行きたくない」「殺し、殺される所には絶対に参加したくない」と思いつつ過ごしていたことを覚えています。
私は高校3年の時、校内の図書の仕事をしていました。図書部と言っていました。図書部はその年の講演会で地元の作家、早乙女勝元さんを呼びました。一部の教師からは陰で図書司書の女性の先生に圧力があったようですが、頑張ってくださったようです。
早乙女さんは、東京大空襲を体験し、その記録を後世に残す仕事をされ、作品でも「下町の故郷」「ハモニカ工場」など若い労働者を描いた作家です。ベトナム戦争では空爆被害の救援をしながら、「ベトナムのダーちゃん」も発表しています。山田洋次さんを始めて葛飾柴又にお連れした方でもあります。
私はその早乙女さんの活動や高校の友人、先生などの影響を受けながらベトナム支援もしました。家にある古本を集め、中学時代の友達の家なども訪ね、いらない古本を仲間と共にダットサントラック一杯に集めバザーをし、集めたお金をベトナムに送りました。
その頃、私はこれまで大国で、素晴らしい国と思っていたアメリカが何故、ベトナムのような小さな国を攻めるのか、空から枯葉剤を撒くなどの非人道的なことを行うのか疑問を持ち始めました。
そうした中で、沖縄の日本本土復帰の問題が、世間で騒がれるようになりました。沖縄が本土に復帰したのは1972年5月。私は高校を卒業し、大学受験の浪人生活をしていた時です。
沖縄の屋良朝苗主席(本土復帰後 最初の沖縄県知事)など多くの県民は、沖縄の米軍基地の撤去と自衛隊の配備に反対して、沖縄返還協定に反対しました。当時、東京代々木公園でも沖縄の県民に呼応する集会があり、私も参加した記憶があります。間違いでなければ30万人が集まった集会です。
私は、「戦争」「ベトナム」「沖縄」の問題を考える中で、戦争に反対し、他国とはいえ、理不尽な攻撃を受けているベトナムを支援し、沖縄に平和を求める活動を自らの問題として進めている日本共産党に接近し、党に入りました。19歳の時です。
日本共産党の活動の精神は、私が知った時から一つもブレていません。私の選択は間違いのない、素晴らしい選択だったと、今でも思います。