トップページ もどる
議会報告
議員団紹介
議員団だより
猪股 嘉直
大沢えみ子
望月たかし
リンク集

議員だより
猪股嘉直
没後10年、母のこと(その7)
母と姉、私の3人は最後まで宮城の開墾地で暮らしました。長兄は高校を卒業し、後に狭山にできる自動車会社に就職し、当時は埼玉県和光市にあるその会社に勤めていました。次兄は中卒で、決まっていた会社に集団就職する予定だったそうですが、どうも、そこが嫌で浅草近辺の左官屋さんに住み込みで就職しました。父は、東京オリンピックを前にして、沢山の追い込み工事があったらしく、東京に出稼ぎに行っていたのです。そして最後には出稼ぎをやめて、江戸川区小岩にあった時計部品の町工場に勤めていました。
その時、父と母が相談し、残った私たち3人も東京に転居しました。1964年、東京オリンピックが開かれる年の3月31日、私は小学5年生になる直前に初めて東京の土を踏みました。

農地を売って東京へ

宮城の開墾した畑、田んぼは何平米あったのか私にはわかりませんが、結構ありました。今でも思い出す畑はじゃがいも、里芋、小豆、大豆、麦、菜の花、きゅうり、茄子、かぼちゃ、スイカ、などなどが採れたし、田んぼではコメも採れました。
それらの田畑は近所の方たちに売ったようですが、大きな収入にはならなかったようです。借金がそれでなくなったかどうかは分かりませんが、父と母は随分と苦労をしたようです。

長兄の高校受験、心配で精神的な病に

そうした中でも長兄を高校に入学させていました。当時(1958年 昭和33年頃)のその村で、高校に入学させるということは稀有で、母は、「もし、兄が高校受験に失敗したらどうしよう。金も無いのに無理して試験を受けさせた。村の笑いものになるのでは…」と考えすぎ、精神的にも異常をきたしたことがあったようです。
長兄は、夜なべをして受験勉強をしていましたが、母は途中からか最初から目をさましていたのか私には分かりませんが、夜中に兄のために、当時の田舎では珍しい、インスタントコーヒーを入れてあげていました。夜中に目が覚めた私も「飲んでみたいなー」と思ったものでした。

年に一度の映画でケンカ

借金と言えば、お金の苦労でこんなことがありました。母は、年に一度くらいは、私と姉を連れて一ノ関(いちのせき)に出かけ、映画を観せてくれました。年に一度ですから私と姉にとっては大変に貴重な一度です。ところが姉と私では映画の好みが合いません。姉は当時、植木等さんが出るような映画が観たい。私はと言えば、西部劇のようなものがいい。意見があわず、小学校4年の私と6年の姉は、最後は口喧嘩になります。
当時一ノ関にはいくつもの映画館があったようですが、どこに入ろうかと映画館を渡り歩きます。母も困り果て、きっとわけがわからなくなってしまったと思うのです。今でも覚えていますが、もうどこでもいいというふうになって、入ろうとした映画館が「18歳未満禁止」のいわゆる成人映画でした。母がさすがに気づき、ここは入れないよとなり、映画はおじゃんとなりました。
悔しくて、悲しかった思い出ですが、母が一番悲しかったのではないかと、今は思います。帰りに母は本屋さんに行って、私と姉に本を買ってくれました。何の本かは忘れました。


インデックス ページのトップ