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没後10年、母のこと(その六)
母は宮城県栗原郡若柳町字福岡谷地畑(現 栗原市若柳福岡谷地畑)の比較的大きな農家の生まれでした。兄弟は家督となる長兄の他に3人の兄、下には妹と弟が一人ずつの7人でした。「くりはら田園鉄道」という、1両編成だったと思いますが、電車(石越から栗駒方面に走る、その名のとおり田園地帯を縦断する)の無人駅「谷地畑」のすぐ北側に家がありました。今ではその電車は走っていません。その電車は、丁度母が誕生した1921年(大正10年)から(谷地畑駅の開業は1926年)2007年(平成19年)まで、母が亡くなったのが05年ですから母より、2年多く、運営会社の変更がありましたが営業していました。
父が戦争から戻るまで、母と兄は東京蒲田を引き上げ、母の実家に疎開していました。その実家から北の方向に水田地帯を通り登っていくと、若柳武鎗という村(母の弟が家族と共に暮らしていました)を抜けていきます。水田は道路とともに段々と高くなっていきますが、棚田になっているわけではありません。水田と堤(溜池)とが交互に並ぶように配置され、氷を保管する建物(氷室)もありました。真夏の暑い日でも、何故氷が溶けずにいるのかが子供ながらに不思議で、一度覗いた記憶がありますが、結果は覚えていません。道路は岩手県一関市の一角をなす花泉の農村地帯を通り抜け、一気に急坂を登ることになります。登りきったところが、宮城県栗原郡金成町字藤野という私たち兄弟が生まれ育った開墾地です。
両親の開梱と農作業の困難さと苦労は前に書きました。今回は私と母の実家についてのエピソードに触れたいと思います。母の実家の長兄には、結構きついお嫁さんが嫁いだようで、母は常々「意地悪な兄嫁」と言い、私たちにその方の話をするときは「姉(あね)さま」と言っていました。母の長兄には私の従姉妹にあたる子どもさんが数人いて、全て私より年上ですが、長男の2人の子供が私のひとつ上の男の子とひとつ下の女の子ということで、むしろこの二人が私や私の姉とよく遊んだ従兄弟のような存在でした。
のどかな田園地帯で、電車の走る線路があり、その向こうは迫川(はさまかわ)が流れる。水かさは少なかったと思いますが流れの激しい、透き通った川でした。私の住む村には1里も歩かなければ店1軒ありませんでしたが、谷地畑にはかき氷家さんと豆腐屋さんがありました。かき氷屋さんでは親からもらった小遣いで、赤いシロップをかけたかき氷を幾度か食べました。水色の鉄でできた氷かきの機械、手でぐるぐる回すあの機械で美味しい、上顎にツーンとくる、かき氷は何よりのご馳走でした。
あるとき、夏休みか何かだと思いますが私が一人で母の実家に遊びに行っていました。そのとき、母が「姉さま」と呼ぶ叔母さんが、私たちが暮らす「藤野」のことを「山だ、山だ」と何か見下すように言い、「山さ帰れ」と言うのです。色々言われましたが、もう正確には覚えていません<晩年には、そういう意地悪なところはなくなりましたが>。
私は、従姉妹にあたる方のお嫁さん、私がいつも一緒に遊んできた一つ上と下の従兄弟のような子たちの母親に、「家に帰る」と言って、帰りました。でもどうやって帰ったかは全くおぼえていません。小学校の恐らく3年か4年の頃ですので、普通では一人で帰れる距離ではありません。来る時はいつも大人と一緒に2時間ぐらいの歩きです。
太宰治の「メロスは激怒した」ではありませんが「母は激怒しました」。私に問いただすのです。「何故、せっかく行って、みんなと遊んでいたのに、予定より早く帰ったのか?何故、帰されたのか」。でも私には「叔母さんに帰れと言われたから」とは言えませんでした。母は、私を連れて実家に抗議をしに行ったのです。結末は知りません。覚えていないのかも知れません。ただ、母の甥のお嫁さん(私が親しく遊ぶ子らの母親)から、「申し訳なかった」と姑さんに代わって言われたことを聞きました。
今、母の実家に残っている人たちはその方とその方の娘さん(私のひとつ下の娘さん)だけです。



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