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猪股嘉直
没後10年、母のこと(その三)
  じゃがいもの行商の話


「じゃがいもの蒸した(ふかした)ものをおやつにしていた」という話を先月号で書きましたが、こうした自家のオヤツ、まさに産直のオヤツはいろいろありました。
トウモロコシ。私達は「とみぎ」と言っていました。とみぎを畑からもいでくると、実を囲っている皮をはがします。すると実には所々に、青や紫などの色づいた実が混じっているものがあります。私たち兄弟は、そのとみぎを見つけると、争って「自分のもの」と宣言し、茹でるのです。熱い、茹で上がったとみぎは最高です。
畑のものは他に人参、きゅーり、トマトなどがありました。人参は調理をし、火を加えると、私には苦手な味でしたが、洗っただけのそのまんまの人参は甘くて美味しい、おやつでした。
キューリももちろん洗っただけで、自家製の味噌をつけて食べます。父と母が丹精込めてつくった新鮮野菜は、小遣いを持てず、店は一里も歩かないと無い、山の暮らしには何よりのオヤツでした。
母は曲がったままの腰で歩き、手ぬぐいでホッかぶり(頬かぶり)をして、そうした野菜を育て、自給自足の生活を支えていました。
母が育てたじゃがいもを一度だけ行商に出て売り歩いた記憶があります。母は幾度か行商をしたのかもしれませんが、私の記憶では一度だけです。もちろん、戦争直後にお米を東京まで運び、行商したことは、後に母から聞きましたが(「父のこと)で以前書きました)、私が生まれ、そして物心をついてからは一度だけです。私も小学生の4年生頃で同行させられたのです。
宮城県の最北に位置する栗原郡金成町字藤渡戸というバス停留所(私の家から1里歩く、小学校の傍のバス停)から一ノ関行き(岩手県南端の駅)のバスに乗り、一ノ関駅より前のバス停で下車し、そこから行商を始めるのですが、私と母、姉の3人でした。兄たち2人と父はそれぞれ別々に東京方面に就職、出稼ぎをしていましたから山の家は、母と姉と私だけだったのです。
そんな着た事も無い場所でバスを降り、3人が別々に見ず知らずの家を訪ねて、闇雲にじゃがいもを売る。母は切羽詰っていたのだと思います。4年生の子供に、どこでもいいから戸をたたき、「物を売ってこい」と言うような母ではありませんでした。相当にお金に困っていたのでしょう。父の出稼ぎによる収入が厳しかったのか、今になっては、母に尋ねることもできないのですが、優しい母からは想像のできない事件でした。私と姉はとうとうひとつも売れず、母だけが1軒で買っていただいたようでした。
今思うと、このことを書きながら、目頭が熱くなるのですが、一番辛かったのは、「じゃがいも売」を命じた母だったのではないかと思います。



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