父が他界して四半世紀(その5)
患者の立場に立つ診療所
飯島邦男さんに紹介された所沢医療生協について、私は「父に反対されるから」と一度は断りました。その後、新聞の就職案内などを頼りに仕事探しを行いました。高校時代にアルバイトで世話になった証券会社の、当時の課長さんも尋ねました。結果的にはうまくいかず、「これではしょうがない。いつまでもダラダラしてられない。父と母も夏には狭山に来る。何とかしなければ」と、結局、飯島さん紹介の医療生協に行きました。
所沢医療生協は当時、所沢市内に二つの診療所(富岡・所沢診療所)を持っていました。私が医療生協の事務所から紹介されたのは富岡診療所(現 埼玉西協同病院)です。
富岡診療所(「富診」という)は、所沢市下富(富岡地域の一つ)という茶畑など野菜畑が広がる地帯で、農民運動のメッカでした。そもそもこの地域に「患者の立場に立つ医療を行う」とスローガンを掲げた富診があるのも、農民たちが無医村だった富岡に診療所をつくったからです。
私は富診の事務長に面接し、富診が一年後に有床の診療所(19以下のベッドを持つ医療機関)にする計画であることを話され、「事務として採用したい」と言われました。
当時の富診の陣容は、常勤の医師(所長)、事務長、看護婦さん数人、3人の事務職員は全員が50歳台の方たちでした。当時19歳だった私は、貴重だったのかもしれません。
浪人時代から赤旗新聞を読んでいた私は、「弱者の立場に立って活動する日本共産党」に共感していました。富診の伊藤淳所長先生は、そのことを日常診療の中で体現した先生でした。農村の人たちが、無医村だった富岡に「是非来てくれ」と慶応大学の医学部あがりで、労働者クラブ生協で働いていた伊藤先生を熱意で引っ張ってきたのです。診療所の建物も農村の人々が建てたのです。
赤ひげ先生から、共産党に入らないか?
伊藤先生は外来、往診、夜間診療、急患対応と、一人医師で3〜4人分の仕事をこなしました。どんなに疲れていても、決して嫌な顔一つせず、夜中でも患者さんを診ました。富岡地域では「富岡の赤ひげ先生」と呼ばれていました。
その伊藤先生が、私が勤め始めて1ヶ月ほどたった日、「共産党に入らないか」と勧めてくださったのです。私は恐らく即答で「はい」と言いました。その時、父のことは頭に浮かびませんでした。そして2ヶ月ほどたった夏に、葛飾に最後まで居た、父と母が狭山に来ました。家ができたのです。
父は「飯塚さんか?」と
選挙の投票日になると、私は免許取りたての運転で父と母を乗せて投票所に行ったのですが、母には「共産党の誰々に投票してね」と依頼できましたが、父にはなかなかできませんでした。診療所に勤めて3〜4年たったある参議院選挙の投票日、いつものように父と母を乗せて投票所(奥富公民館)に行こうとすると、父がやおら、「飯塚博之さんだっけ?」と、共産党参議院埼玉地方区の候補者の名を言うのです。私は、びっくりして、何と反応していいか分からず、ただ「ハイ」とだけ言って、車を走らせました。