父が他界して四半世紀(その7)
父は戦争で中国に
以前にも触れましたが、父は戦争に行きました。1943年(昭和18)年から終戦後の46年にかけて。
父は衛生兵でした。何故衛生兵としての任務につかされたかは私には不明ですが、父の母方の実家が薬局店を営み(宮城県登米の伊新)、そこで丁稚奉公をしていた経験をかわれたのかもしれません。
ちなみに、伊新は明示・大正の看板や雑貨を展示している「アンティーク資料館 伊新」として旅行雑誌(るるぶ)などにも掲載をされている店です。
私も小学生の低学年頃に一度だけ父の働いていた伊新を姉とともに連れられ、訪ねたことがあります。
父の戦争時代の話はほとんど分からないのが実際です。私は父から戦争の話はほとんど聞かされませんでした。それでもいくつか話されたものを思い浮かべると、……
戦地で骨折とマラリア罹患
一つは、戦争に参加する中で足を怪我したことです。骨折だと思います。父はあぐらをかくのも苦手でした。無理してあぐらをかくと、しんどかったようです。
思い出すのは、私が家内と結婚するとき、そのご挨拶に家内のご両親に始めてお会いしたとき、行儀よく正座をすることもあぐらをかくこともできず、足を伸ばしていたことを覚えています。もちろん、相手にはお断りをしたように思いますが、隣に座るものとして恥ずかしかった事を思い出します。
もう一つはマラリアに罹患したことです。当時の様子を詳しく聞いたわけではないのでどのような症状だったとか、治療や、完治した状況等については何も知りません。ただ、1989年6月に父が亡くなった時、父は虫垂炎になったのに、自分の症状から「マラリアに違いない」と思い込み、入院した病院でもそのことを力説し、担当の医師もそれを信じたのか否かは分かりませんが、虫垂炎との判断をなかなかくだせず、検査、検査の繰り返しで日にちが過ぎ、腹膜炎を起こし、死亡に至ったという経緯があります。その医師は後日、私たち残された家族に陳謝したことを今でも覚えています。
父は戦争で直接、命を落としませんでしたが、43年後に自分の体験した戦地でのマラリアの印象が強過ぎて、医者に誤診(?)をさせるほど主張し、結局命を落としたのかと思ってしまいます。
平和憲法を世界に拡めるのは私たちの責務
日本が起こした戦争でアジアの人々2000万人、日本の国民も310万人が尊い命を亡くしました。私の父もその戦争に参加し、どのような経験を持っていたのか、既に亡くなった父から聞くことはできません。もしかしたら、人道的に許せないことがあったかもしれないのです。
こうした体験を、二度と持つ人が出ないようにするのは、あとを継ぐ私たちの責任です。平和憲法を守り、その思想を全世界に拡めていくのは我々の任務です。