雪にまつわるいくつかの思い出
大変な雪でしたね…。まだ続くかも…。
雪といえば、私の生まれは宮城県栗原郡金成町字藤野(現・栗原市)という開墾地。太平洋側の内陸で秋田や山形のような豪雪地帯では無いものの、結構な雪になりました。特に吹雪になると、降った雪が集まり、小学生の私には、歩くたびに足が潜り、学校の登下校が重労働になったものでした。
学校までは林の中や水田に囲まれた地域を1里(約4q)歩きます。学校に遅刻をした記憶は、病気以外はなかったのですが、雪の季節は違います。水田に積もった雪が堅雪(かたゆき)になり、歩いても全然平気。でんぐり返しをしても、凹みません。同じ方向から通う2人と一緒に、堅雪の上を走ったり、ころんだり、ひっくり返ったりし
て。学校には遅々として進みません。今の子供たちのように、正式な通学班とかは無かったのです。3人は冬の期間、結構遅刻していました。次兄と姉と末っ子の私は家の田んぼにかまくらをつくりました。雪玉をいくつもつくり、集めて固めて、穴を掘る。夕方には立派なかまくら。餅を焼き、あまり飲まさせてもらえなかったインスタントコーヒーを入れてもらい、トランプをしたことを思い出します。
開墾地の藤野にはお店がありません。お店はやはり1里以上歩いた町、有壁(東北本線の宮城県内最北の駅)まで行かないと。だから、タンパク質は自然から調達です。野うさぎです。兄と夕方、林の中に入り、針金でつくった罠を仕掛けに行くのです。兄は戦争で父が使ったらしいゲートルという雪が長靴の中に入らないようにできるものを使って万全です。私はといえば、長靴だけ。兄はさっさと雪の林の中を歩きます。私は、歩くたびに雪が長靴に入り大変です。優しい兄ですが、その時は厳しい。「早く歩け」と。仕掛けた罠に野うさぎがかかっているか、次の日に見にいくのです。野うさぎが罠と格闘した跡があり、真っ白い雪の上に赤い血が散らばっているとき、小躍りしたことがあります。野うさぎは、冬の間の何日間か、私たち家族のタンパク質になりました。
田舎にはスケートリンクもスキー場もありません。私たちは、学校通学路にある曲がりくねった坂を、リュージュ競技よろしく、そり滑り。私はできませんでしたが、兄はスケートを水田用に水を貯めた池で。スキーは竹を割って火で炙り、曲げたインスタントスキーを開墾した山の上で滑らしていました。
正月前になると父が東京の出稼ぎから帰ってきます。父が帰るのが本当に楽しみでした。どんなお土産かと。大抵、古本屋の本でしたけど、何回も読みました。学校の通学路の途中迄迎えに行きます。吹雪いた雪に足を潜らせながら。夜空には大きな星がたくさんあって、月の明かりに照らされた雪がほのじろく見える中を、姉と一緒に歩きました。帰ったら、覚えたてのトランプで「おいちょかぶ」をしようとせがんだ事を思い出します。