父が他界し、4半世紀 (その1)
私の父は1989年(平成元年)6月6日に亡くなり、今年(平成25年)で丸24年がたちました。約4半世紀です。
生まれは宮城
父は宮城県の生まれですが、農家出身ではなく、薬屋の丁稚をしていたようです。やはり宮城県の栗原郡若柳町(現 栗原市)の水田地帯の農家生まれの母と所帯を持ち、東京蒲田に新居を構えました。
ところが、戦争で父は戦地に行くことになり、母は、父が戦地に行った後に生まれた長男とともに、宮城の実家に身を寄せ、終戦。足を怪我し、あぐらをかくこともできなくなった父ですが、命はなくさずにすみ、宮城にいる母と初めて見る自分の子のもとに、戦後戻りました。初めて見る父の顔を確かめようと、長男は父の写真を持っていき、違う人だと言ったとのこと。父は髭面で帰ってきたそうです。
戦争で足を怪我。宮城に戻り開梱生活
父と母はその地から2里ほど離れた山に囲まれた開墾地(金成町字藤野 現栗原市)の開拓を始め、私たち兄(姉)弟4人を育てました。しかし父は農業の経験がなく、サラリーマンと水田の兼業をしていました。勤め先は、10`離れた岩手県一関、駅前の旅館兼布団やさんです。父は山あり谷ありの道10`を毎日自転車で通い、職場ではその自転車に載せて布団を運んでいたようです。
子育て、仕事苦から自殺を考えることも
私は末っ子ですが、私の出産の後、母は肺結核にかかり、一関病院に入院します。その時、父は4人の子供(私は乳飲み子)とともに、勤め先の布団屋の一角に掘っ立て小屋を建て、母の退院まで暮らします。仕事で疲れ、夜は乳を欲しがる私に泣かれ、おちおち眠ることもできず、外に出て私を背負い、あやします。何度か自殺を考えたと言います。
母が退院して、開墾の村に戻りますが、父は、私の記憶では2回、酔っ払って、帰りに息も絶え絶えで家に運び込まれました。通りがかりの人に助けられたのです。母の心配する姿と父の転がっている姿だけがうっすらと記憶にあります。今、思えば、滅多に飲むこともできなかったお酒が唯一の楽しみで、疲れを癒す術だったのかと思います。
苦手な農業では、水が溜まらず、溜池をブルトーザーで3ヶ所に造りました。2ヶ所が失敗し、3ヶ所目でやっと水の貯まる溜池ができたのです。相当に借金をしたようです。<私は、川で釣ってきた鮒をその池に放し、よく釣りをしました。>
出稼ぎから、東京へ転居
勤めた会社は倒産に
そんなようでしたから、お米作りも畑作もなかなか困難だったようです。それでも長男を高校に入れました。開墾のこの村では初めての出来事だったようです。
高校を卒業した兄は東京に就職、「勉強が嫌いだ」と言って、左官の丁稚で浅草に就職した次兄。そして、父もなかなか仕事がうまくいかず、東京へ出稼ぎ。東京オリンピックの前で、仕事がたくさんあったようです。
村に残った母と姉と私も東京オリンピックの年の4月、東京小岩で父と暮らすことになりました。父は飯場の仕事を終え、小岩の時計部品の町工場に勤めていました。
その工場も2年後に倒産し、私たちは安い家を探して引っ越すことになります。
<続きは、またいつか書きます。>