日本共産党座間市議団
日本共産党座間市議団の実績
 
 日本共産党市議団は、くらし、福祉、教育、水と緑、公園・広場、地震対策、ごみ問題、環境問題、基地、平和、農・商・工業問題など、市民生活のあらゆる問題について、市民の立場をつらぬいて奮闘してきました。
 日本共産党市議団は、市民の願い実現の先頭に立って、市民の運動と力を合わせ、議会でも条例提案など先駆的な建設的提案で市政をリードし、かずかずの成果・実績を生み出してきました。不正追及をはじめ市政をチェックし、議会運営の民主化をすすめ、市民の声の反映に力をつくしてきました。国の悪政から市民生活をまもり地方自治の力を発揮するため、国への意見書・決議の採択に力をつくしてきました。
 1972年の選挙以後、日本共産党が、条例提案などの議案提案権を日本共産党単独で持つ要件を満たし(2000年3月までは議案提案権の要件は4名以上、現在は3名以上)、また市議会の4つの常任委員会すべてに委員を配置(現在は3常任委員会に配置)して、市民生活のあらゆる分野にわたって市政をチェックし、市民の声を反映する確かな保障となりました。議会運営においてもイニシアチブを発揮して民主化をすすめる力にもなりました。
 こんどの選挙で日本共産党は、ひきつづき議案提案権を確保して、市民の願い実現のために、いっそう力をつくして奮闘する決意です。
 市民と力を合わせた日本共産党市議団の活動の成果・実績はかずかずありますが、そのなかでも特徴的なものをいくつかあげてみると、次のとおりです。

1.先駆的な提案と27年にわたるねばりづよいとりくみが実を結び、地下水保全条例を制定
 
 市議会全会一致の中心的役割を果たす
 市民と日本共産党の地下水保全運動は、1971年の水道危機が始まりました。これは、主に日産自動車の大量取水が原因で、町営(当時)水道が断水一歩手前の状況に陥りました。このとき、日本共産党は「水道を守れ」を重要施策として打ち出しました。翌72年の市議会選挙では「地下水保全条例制定」を公約に掲げた日本共産党が4議席に躍進し、議案提案権を獲得して、73年に公約どおり「地下水資源保全条例」を議会に提案しました。この条例案は2年間継続審議となり、審議未了で廃案になりましたが、地下水保全の世論を高め、保全のとりくみが実際におこなわれることに貢献しました。日産は水の再利用施設をつくり、市は地下水大量利用者から協力金(日産から5年間にわたって年間800万円)をとって地下水調査に乗り出し、水道拡張事業にもとりくむことになりました。以来、96年の再度の条例提案を含め、日本共産党は常に地下水問題を取り上げ、(保守系議員に)「水問題は日本共産党の独壇場」と言われるようになりました。
 97年3月、議会に3度目の地下水保全条例を提案し、市民運動の高まりのなか、9月議会で「総員賛成」(賛成15、政和会、公明、市政クラブの12名が退場)により可決され、成立しました。しかし市長が「条例でなく指針でよい」という立場に固執して拒否権を発動し、10月に議会を招集して条例を再議にかけました。差し戻し審議で条例が成立するためには、3分の2以上の賛成が必要となるため、市長の意向を受けた政和会、公明、市政クラブが条例に反対したことにより、条例は廃案となりました。
 しかしその後も条例制定を求める多くの市民の陳情が出され、日本共産党は、97年12月議会には他会派とも共同して条例案を再提案しました。これにたいして、条例を廃案にした政和会、公明、市政クラブも市長の指針や県条例と大差ない内容の条例を提案してきました。こうした状況のなかで、市民に公開されたなかでの長時間におよぶ議論の末、2つの条例案が一本化され、98年の4月3日、ついに全会一致で地下水保全条例が可決・成立し、98年12月1日に施行されたのです。27年におよぶ市民の運動が、日本共産党の最初の条例提案から25年後に、ついに実ったのです。この可決された条例の提案説明は日本共産党市議団の団長がおこないましたが、日本共産党は長年蓄積した資料なども駆使して論戦をリードし、条例案の一本化と全会一致による条例案可決に大きく貢献しました。
 この地下水保全条例の制定にいたる経過は、市民の願いをいち早く建設的な提案にし、市民運動と力を合わせ、議会の内外でねばりづよくとりくんできた日本共産党4議席の真価を物語っています。

2.市民の利益をまもるため、問題をいち早く取り上げて住民運動と団結、環境破壊の火力発電所建設計画を断念させる

 耐火物メーカーの品川白レンガ?は99年10月、すすめていた火力発電所の建設計画を断念すると発表しました。この火力発電所は、市内小松原の同社相模工場跡地に計画されていたもので、この計画にたいしては大気汚染、騒音、振動、電磁波、地下水の大量くみ上げによる市営水道への影響などを心配して、自治会ぐるみの反対運動がおこり、広がりました。
 日本共産党は、この火力発電所の建設計画を市議会で最初に取り上げ(1995年12月)、1996年9月の市議会選挙のなかで、日本共産党が唯一建設反対を重要な争点・公約としてかかげ、革新市長候補とともに訴えました。議会でもくり返し取り上げ、市長に「建設反対、計画の白紙撤回を求める意思表示をするべき」と迫りました。また日本共産党市議団は国会議員団とも連携してとりくみを強め、99年には日本共産党国会議員団が現地調査をおこないました。
 これにたいして市長は住民の立場に立たずに終始傍観者的態度をとり、実質的には事業者寄りの立場に立ち続けました。議会の保守派や公明の議員は、99年9月議会において住民の建設反対陳情に反対や退場の態度をとり、陳情を不採択にしてしまいました。
 しかし市民の運動はいっそう高まり、ついに99年10月7日、品川白レンガ社が建設計画を断念することを発表しました。反対運動や環境対策のための大幅な追加投資の増大による採算割れ、などが計画断念の理由でした。
 このことは、いかに当初の計画が周辺環境への影響をかえりみないズサンなものであったか、それを容認した市長や議会各派議員の無責任さをあらわすとともに、自ら立ち上がって運動を広げた住民の力の大きさと、住民の立場をつらぬき、住民の利益をまもるためにいち早く問題を提起して議会内外で奮闘する日本共産党の存在価値を示しています。

3.米軍にも市民の立場できっぱり主張、29年間一貫して水道水源の返還を要求

 米軍基地「キャンプ座間」では、水道水として、1日に4000tをこえる地下水をくみ上げてきました。この基地の水源地が市営水道の水源地に近く、同一帯水層からのくみ上げとなっているため、「米軍は金を払って県営水道を使え。市民の地下水を勝手に使わせるな」との市民の声があがり、1971年、自衛隊のキャンプ座間共同使用に対して市民ぐるみの反対運動のなかで締結された覚え書き第5条で「米軍水道施設の返還」がうたわれました。以来、日本共産党市議団は米軍水道施設の返還を強く求め、会派として唯一議会で取り上げるとともに防衛施設庁にも交渉を重ね、覚え書きの履行を迫ってきました。
 ついに1999年、国と県企業庁との間で協議が整い、2002年に米軍が県営水道に切り替えました。しかし水源地はいまだ返還はされていません。日本共産党は、引き続き市民とともにねばりづよく返還を求め、その活用をはかっていきます。