2007年2月15日発行 第96号


許せない柳沢厚生労働相の発言

―――  女性は子どもを「産む機械」 ―――


 柳沢厚生労働大臣は「子どもを産む機械」と発言し、さらに「2人以上産みたいと思っている若者はきわめて健全」と重ねての発言に、「産みたくても産めない人がいる、2人以下は健全ではないのか、厚生労働大臣としての資格にかける、辞任すべき」と怒りの声が大きく広がっています。
 最近では産婦人科の過重労働による医師不足や看護士、助産婦さんの不足で安心して子どもを産める環境ではありません。
 また子どもを産みたくても仕事と両立できない・・超長時間労働の夫には育児を頼れない・・低賃金で子どもも産めない・・保育所に入りたくても入れない・・小児医療費の無料化年齢引き上げがすすまない・・など子育てしにくさや子どもを産めない環境が増幅しています。
 子育て支援策を充実させなければならない立場にある国は、生活保護費の母子加算を廃止するなどで、子育て支援を悪化させています。
 柳沢厚生労働大臣は、自らの責任を放置し、女性になすりつけるのはもってのほかです。大臣を辞任すべきです。
 日本共産党は今回の柳沢厚生労働大臣の発言に対し、女性の人格尊厳を根本から踏みにじる重大な発言であり、当然罷免すべき」と主張しています。




座間で・横浜でつどい開催

鴨居ひろこさんを県知事に!


座間のつどい
 1月22日座間市ふれあい会館食堂で「鴨居ひろこさんをはげますつどい」が開かれました。鴨居洋子さんは、立候補を決意されたいきさつを「キャンプ座間に米陸軍新司令部来るな!の旗を掲げて運動してきたこと、住みにくい神奈川を変えたい」と話され参加した人々に感動を与えました。予想を上回る参加者があり、参加者から一言メッセージや、素敵なコーラス(替え歌・神奈川変えよう)などでおおいに盛り上がりました。

県民のつどい
 2月9日横浜文化体育館で「私たちの知事をつくる県民のつどい」が開かれました。ライトグリーンと赤でコーディネートされた舞台では、リレートークで鴨居ひろこさん(日本共産党推薦)に託する思いが語られ、それに応えるように鴨居さんから「 高校が統廃合され進学率が90%にまで落ち込み昭和35年ごろの進学率にまで下がってしまった。インベスト神奈川と称し、県民が納めた大事な税金を大企業へばらまき、一方で小児医療制度を改悪し子育て真っ最中の家庭に負担増を押し付けるような県政を変え、横須賀に原子力空母の母港を作らせず、キャンプ座間への新司令部移転に反対し平和な神奈川を実現させます。」などなど穏やかでありながらも力のこもった訴えでした。

 最後にかもいさんとともに、参加者が願いや心のこもったことばを書いたタベストリーやのぼりを持って壇上に上がりきたがわてつさんのギターとうたに合わせ、会場と一体となり3月22日告示、4月8日投票の県知事選挙に支持の輪を大きく広げようと,決意をかためあいました。

 座間からも新婦人の会員さんをはじめ大勢参加しました。



70年に及ぶ基地の犠牲と負担

その歴史的事実とは ―その3―


士官学校から米軍基地に
米軍犯罪多発し治安悪化

 終戦になって座間の人たちが、平和になると思う間もなく、1945年8月30日マッカーサーが厚木飛行場に到着すると、9月2日に陸軍士官学校が米軍基地として接収される。そして、9月5日に第一騎兵師団第4兵站(たん)廠となり、米軍第4補充部隊(師団長キング少将)が進駐してきました。それ以後、基地の町となり米軍犯罪が多発し、治安が悪化してきています。「'46(昭和21)年5月進駐軍将兵による事故防止と損害賠償について」という当時の役場庶務書類によると「進駐軍将兵による犯罪は大分少なくなりつつありますが、未だ強盗や強姦等の悪質な事件が度々起こりますから、1、夜間の一人歩きをしない。2、戸締りを厳重にする。3、お互町を明るくする。等各自が被害に罹らない様充分用心して下さい」と注意を呼びかけていることから当時の実情を伺い知ることができます。

米兵が柵を乗り越え
「女を出せ」と人家に出没

 基地周辺の人に直接聞いた話では「米兵が夕方になると集団で柵を乗り越えて、どんどん人家に入ってきて『女を出せ』と言うものだから、婦女子を抱えた家庭では夕方から戸締りをせざるをえないなど大変な思いをした」ということでした。また、戸締りをしていると今度は家宅捜査と称して、米兵が勝手に入ってきて困ったとのことでした。このことを裏づけるように町役場から号外が出されていました。それは'46年5月30日付で相模原町座間出張所長から各部落長宛にだされたもので、その内容は「M・P(連合軍憲兵)の家宅捜査について」と題して「今般元陸軍士官学校駐屯の第4補充部隊憲兵隊長より、M・Pが家宅捜査をする時には、必らず日本の警官が同行することになっているので、もし同行していない時には必らずすぐ警察に知らせるようにとの注意がありましたので至急部落各位にお知らせ下さるようお願い致します」('46年役場庶務書類より)

1949年7月から'50年5月にかけて
黒人部隊の駐留で暗黒街に

 '51年の警察沿革史(抄)には、座間署の特殊事情について記述している。それによると「'49年7月米第70高射砲集団(黒人部隊)がそれまでの米第4補充部隊と交代駐屯するに至り、時を経ずして町民に対する不法行為が頻発し、町の平和を撹乱し、町民は不安のままの日夜を送り暗黒街と化する惨状を呈するに至った」というものです。
 '49年7月より同年12月までの進駐軍による不法行為は81件、その内訳は強姦及同未遂3件、暴行傷害21件(内死に至ったもの2人)、強奪14件、窃盗21件、器物段損11件、窃盗未遂2件などとなっています。

「米兵に対する特別警戒費」
36万185円県に要請

 当時は自治体警察でしたので、公安委員会が'49年11月初旬、町の治安上由々しいとして町議会に実情説明、その結果、議会の代表が各方面に陳情。そして、'50年3月25日から同年5月27日にかけて、武装将校3名以下下士官兵73名、ジープ7台による町内パトロールが実施された。消防団員の応援出動のべ277人、警察吏員も昼夜出動した。そのための経費が雑手当214,475円、食糧費129,910円、燃料費15,800円計360,185円掛かったとして'50年8月21日稲垣俊夫座間町長から、神奈川県議会治安常任委員長あてに「米兵に対する特別警戒費」の要請が出されています。
 '50年6月25日朝鮮勃発、同年6月に米陸軍第8軍司令部が設置され、司令官は大将、施設名「キャンプ座間」になる。駐屯する人員や人の出入りも多くなり、極東各地に往来する米陸軍部隊が船待ちをする一時的駐留基地となり、治安が一層悪化したと言われています。(次号につづく)

追記:'52(昭和27)年2月キャンプ座間南地区で、当直米兵の不始末から旧士官学校校舎5棟を消失、この罹災跡地に米本国ワシントンにある国防総省の建築(通称ペンタゴン)を模造した司令部施設を建設した。




よろず相談
日時 3月16日(金) 午前10時〜12時

場所 市役所6階 日本共産党議員控え室

お気軽にお出かけください