前号でキャンプ座間の前進である士官学校の用地買収が菊と剣≠ノよる強制買収であったと書きましたが、これに後述談がありました。相模原市勝坂在住のS氏が「終戦後、父親が涙しながら国債を焼いていた姿が忘れられない」と語ってくれました。つまり、1反歩(3百坪)360円から712円で売却した土地代金が国債であったゝめ、戦後貨幣価値が大きく変わってしまい、紙クズ同然となった国債を悔しさの余り焼却したということです。結局、先祖伝来の土地がただ同然で軍に取りあげられた農家の無念さが伝わってきます。
―大軍都計画のために―
軍による相模原町への強制合併
一寒村であった座間が士官学校ができ、天皇が行幸するなどして、その名が新聞で報道され、日本中に知れわたったと住民を喜ばした座間の名が一瞬にして消えてしまう時がやってきました。軍都相模原町への吸収合併です。
合併の経緯は、1948(昭和23)年2月23日に衆議院治安及地方制度常任委員長坂東幸太郎宛に提出された「相模原町旧座間地区分立嘆願書」に記述されています。それによると、昭和16年4月29日(天皇誕生日)に、座間町、上滝町、新磯村、新戸村、田名村、大沢村の2町6村の大合併、人口4万人を超える本邦に類をみない尨大な町、高座郡相模原町が誕生したのです。
合併の理由は、戦争拡大を前提にした大軍都建設の計画推進のためでした。合併後は役場が上溝町に置かれ、町の中心が上溝に移り、地勢上不利不便の南端にあるため、座間地区住民は最後まで合併反対の意思であったと言われています。
しかし、昭和16年1月30日に県より要求され座間町会が開かれ、そこに、県官吏と共に陸軍士官学校付副官中尾少佐が隣席し、町への内政干渉が行われました。
それ以後同年4月まで再三要請され、半重圧的「慫慂(しょうよう)」(そばにいてそそのかされるの意味)により万止むえず賛成したと言われています。
合併当時の町役場は相模原町座間出張所としてのこされ、直接住民の生活に関する戸籍・住民票、物資の配給、納税事務、諸証明の発行などに限定され、職員の数もわずか二、三人でありました。当時は相模線が1時間半に1本しかなく、不便でしょうがなかった。一方で、水田面積の多かった座間地区は納税額が他地区より多かった。
したがって、座間町民は合併には納得していませんでした。合併は軍部の強行であり、軍部に戦いに勝つためと言われゝば反対できなかったというのが当時の状況でした。
因みに、合併当時の座間町の人口は7,607人、戸数は1,273戸。(昭和15年国勢調査)
〈戦後〉住民の心を一つにして
分立独立運動を展開!
昭和20年8月15日、日本が無条件降服し「軍都」として合併を続ける必要がなくなった以上、座間は当然分立独立すべきだということになりました。そして、座間地区住民の間に熱烈な分立独立の運動が終戦直後から燃え上がりました。
同年12月に第一次分町実行委員会が作られ、座間地区選出の5人の町議会議員と協力し相模原町議会の承認議決を得るべく働きかけが行われています。しかし、昭和21年11月30日、議員提案の座間の分立独立議案が否決されてしまいました。そこで、第一回座間町分立町民大会が、同年12月5日、座間国民学校講堂で開催され、満場一致で分町運動の継続強化の決議を採択し、実行委員を選出しています。
実行委員は国、県に対する働きかけと同時に、日本の軍国主義を徹底的に排除している占領軍(司令部)にも何回か陳情しています。
昭和22年3月21日、1戸から必ず1名の参加を呼びかけ、第二回町民大会を開き座間地区住民の総意により目的達成促進の方針を決定しています。
1948(昭和23)年9月1日
座間町分立独立
昭和23年6月8日相模原町議会に於いて、座間町分立の議案が可決され、同年9月1日をもって座間地区の分立独立することが承認されました。昭和16年の合併以来、約7年の間、この分立を待ち望んだ座間地区の人々は踊り上がって喜んだと言われています。地区の人々の心を一つにまとめての念願の成果であったのです。
そして、いよいよ分立独立が迫った同年8月29日第三回町民大会を開き、座間町建設委員会の設置とともに、理想郷座間町の発展を願う決議文を採択しています。
昭和23年10月1日、座間町の町長、町議会議員選挙が行われ、稲垣俊夫町長と26人の町議会議員が選出されています。
新生座間町の出発を祝う大祝賀会が同年10月に挙行され、「あれだけ多数の町民が座間小学校校庭に集まったのは見たことがない」と言われるほど、祝典は盛大で会場は喜びにあふれていたと言われています。(次号につづく)
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