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ユニオン企画:被爆地広島で2014年原水爆弾禁止世界大会に参加して
被爆地広島で2014年原水爆弾禁止世界大会に参加して
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今年で原爆が投下されてから69年を迎えました。原水爆禁止世界大会は広島をメイン会場に8月4日〜6日に開催され初めて参加してきました。





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原水爆禁止世界大会とは
1945年8月6日、9日−広島・長崎に原爆が投下され、2つの街が一瞬にして、「地獄」に突き落とされました。その年のうちに約21万人もの尊い命が奪われました。1954年3月1日、アメリカが太平洋ビキニ環礁でおこなった水爆実験によって日本国民は三度の原水爆による被害を受けました。ビキニ水爆被災事件をきっかけに、広島・長崎の被害、放射能による惨禍を広範な国民が知り、核兵器の廃絶を求める「原水爆禁止署名」が全国でとりくまれ、1年余で当時の有権者の過半数3400万に達しました。こうした原水爆禁止を求める大きな国民の声を背景に、1955年8月、広島で第1回原水爆禁止世界大会が、翌年には、長崎で第2回目の大会が開かれました。以来毎年、世界の人々と連帯して世界大会が開催されてきまし
いまや核兵器廃絶は世界の大きな流れに発展しています。
日本原水協ホームページより抜粋
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この大会に初めて出席しましたが、実際に被爆場で参加する事で得る大切な意味がここにはあると感じました。

8月4日に開会式が行われ、その中のあいさつで一番印象に残っていますのは実際に被爆された坪井直さんのお話でした。89歳でありながら、檀上で力強くあいさつを述べる姿には感動しました。「原爆が投下され、私の友人は次々となくなっていった。なぜ、私だけが生き残ったのかと自責の念にずいぶんと悩まされたが、なくなった友人の為にも核兵器の恐ろしさを伝え続ける事が彼らの死に報いられる」と話されていました。他の誰かを想って行動しているからこそ、高齢になられてもなお堂々と主張できる力の源を知りました。
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 8月5日には遺跡巡りに行ってきました。原爆ドームをはじめ、原爆の標的となった“相生橋”、爆心に最も近い“本川小学校”、千羽鶴が広まるきっかけとなった“原爆の子の像”などを見て周りました。本川小学校は爆心地から350m離れていて、当時では珍しい鉄筋コンクリートで建造されており、被爆後も倒壊を免れたようです。しかし当時200人以上が学校にいたが生き残ったのが2人だったと知りました。今は小学校としての姿を取り戻し、その一角に資料館が設けられてもいます。そこに行く途中、現在相川小学校に通う小学生が元気よく挨拶してくれました。原爆投下から69年経ちますが、学校に子供が戻ってきた平和を感じ、過去を忘れない為にずっと小学校としてあり続けて欲しいなと感じました。広島平和資料館にも行きました。修学旅行生や外国の方もたくさんきており熱心に学んでいました。私が特に印象に残ったのは原爆後の広島がパノラマ写真で綺麗に保存されていた事です。これはアメリカ軍が原爆投下後に実験の様子を観察しにきた証拠だと思い、真相を間の当たりにした気分でした。実験によって人生が一瞬で終わってしまった人、生き残ったが苦しみ続けてきた人がいると思うと核兵器は人間が作りだした脅威であると思い知らされました。

 最終日、8月6日は早朝から「平和祈念式典」が行われました。
厳かな音楽とともに平和公園に灯る火が強く燃え出して、安倍首相をはじめ、広島市長などがあいさつを述べました。式典に参加した事は原爆で亡くなった方に哀悼の意を示すとともに核兵器廃絶の夢を実現しなければいけないなとよりいっそう感じました。

 閉会式を終えて、3日間の原水禁世界大会は幕を閉じました。3日間とも雨が降り続いていましたが、そんな中でたくさんの人が参加していました。大会に限らず核兵器廃絶の為に地道な反対運動を続けてきた方が多くいらっしゃいます。核兵器が人の未来にとっては必要のないものだと知っているからでしょう。
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当時、被爆した人の平均年齢が79歳になるそうです。その方達がいなくなってしまった時に原爆の被害を忘れてしまう危険性があります。その中でこの大会の意義とはやはり、参加した方達が被爆者の話を聞いて核兵器の脅威を後世に伝えていく事ができる事なのではないかなと感じました。平和について改めて考えるよいきっかけになりました。

本部学生担当 島脇

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