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《随想》 母が彼岸へ旅立つ

(わが故郷・写真奥が奥羽山脈・今月2日)
(わが故郷・写真奥が奥羽山脈・今月2日)
 母親が先月27日、彼岸へと旅立った…。享年89歳。今年1月、米寿を迎えたばかりだった…。

 定例市議会が開会中の先月17日早朝、故郷の弟から連絡が入った。「病院から呼ばれ、いま向かっている途中だ」という。

母は先月9日、高熱が出て病院に救急搬送され、入院中だった。その後、断続的に連絡が入った。結論は「母、危篤」…身内が病室に集まっていた…。

 市議会は、ちょうど翌週から決算特別委員会が始まるところだった。私が委員だった。「母のもとに駆けつけなければ」との思いがつのった。一方、市議会で責任を果たさなければならない―2つの思いが交錯した…。

 母は、抗生物質の治療で何とか持ちこたえていた。市議会では、決算特別委員会の審査が始まった。私は、母の病状を確認しながら、審査に当たっていた。

 決算特別委の審査がすすみ、委員会最終日の総括質疑の通告を行って、担当課長のヒアリングに応じた。質疑通告の当日、ヒアリングは深夜の午後23時までおよんだ。まだ終わらず、その翌日もヒアリングに対応した。

 しかし故郷では、母の病状は最終段階を迎えていた。ヒアリングの途中で、「母死す」の連絡が入っていた。市議会の審査は、翌日が委員会最終日の総括質疑だった。これだけは、私が果たさなければならない最低限の責務だった。

 委員会最終日の審査は、時間を延長して午後6時30分まで行った。その後、残務処理を行って市役所を後にしたのは午後8時をまわっていた。

 翌朝、夜明けとともに、私は東北道をひたすら北に向かって走行していた。片道530舛竜離は遠い…。午後ようやく母と対面した…。

 母は、本当に心優しい穏やかな女性だった。私は子どものころ、母から怒られた記憶がまったくない…。いつも我が子の成長を温かく見守っている人だった。どんなときでも冷静で、決して感情を表に出すようなことはなかった。母から私は、このような性格の一部と背が高くなるDNAを受け継いでいる…。

 私が子ども時代、朝、通学するとき母は、雨の日も、雪が降る日も、毎日、自宅前から息子の姿が山影に隠れて見えなくなるまで見送っていた。いまでも目を閉じれば、その光景がまぶたに浮かぶ…。そして中学校を卒業し、15歳の息子が夜汽車の集団就職列車で故郷、JR奥羽線の湯沢駅から埼玉・加須市に旅立つとき、心配そうに見送ってくれた母親の姿。私は生涯決して忘れることはない…。

 加須市に住んでからも、母から毎年、故郷の味覚と香りが届いた。それには必ず、母の便りが入っていて、どんなに息子を勇気づけたことか…。こうした母の息子に対する愛情は、私の妻に受け継がれている…。
 
 母は加齢に伴って足が弱くなり、要介護4だった。その母を、弟夫婦と姪2人の家族が在宅で一日2回のホームヘルプサービス、デ―サービス、ショートステイを利用して介護してきた。母の介護は実に5年におよんだ。姪の一人は、祖母を介護する必要性から介護の職を選択した。そんな弟の家族に心から感謝している。

 2年前、父が他界してから母の衰弱がすすんだ。特に、今年5月、施設内で母は大腿骨を骨折した。認知症につながる懸念から、起きて生活ができるように母は手術した。

 私は8月下旬、親父の3回忌法要で故郷に戻った。そのとき私は、ショートステイ施設に母を訪ねた。加齢から母の反応は遅くなっていた。それでも母は「難儀をかけた」と息子を気遣った。私は帰る際に部屋のドアの前で、母に「帰るから」と手を振った。母はゆっくり手を振り返した。一瞬、「これが母と会う最後になるか」、という思いが脳裏をよぎった…。

(鳥海山・先月29日)
(鳥海山・先月29日)

 私は、いまの職に就いたときから、「両親の臨終には立ち会えない」と覚悟を決めていた。

それは距離的な問題もある。しかし、それ以上に、自らの職務を全うすることが社会的責任であり、何よりも重要だと判断したからに他ならない。それは親父のときもそうだった。

 彼岸へと旅立った母は、先に逝った父と再会しているだろう。そして、彼の地から二人で、最愛の子ども、孫たちを見守っていることだろう。母親には、感謝!感謝!そして感謝!―この思いに尽きる(2011/10/13)。

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