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《随想》 父法要で故郷に帰る

(故郷・写真の奥、空とついて霞む山々が奥羽山脈)
(故郷・写真の奥、空とついて霞む山々が奥羽山脈)
 先週末、親父の3周忌法要のため、故郷・秋田県にとんぼ返りしてきた。

 先週の金曜日、市議会で午前中、9月定例市議会の会期・日程を決める議会運営委員会に出席。会議終了後、ただちに故郷・秋田県に向かって、東北道を北上した。

 私の生家までは、加須市から片道530キロメートル。高速道の途中、食事やトイレ休憩などを含め、自動車で9時間を要するドライブ旅行である。これでようやく夜中に着くことができた。高速道は、大震災の被災地へ資材などを運ぶトラックなどで交通量が多かった。

 翌日が法要である。菩提寺の住職が生家に来て、ねんごろに御経を上げてくれた。読経の最中、私の脳裏には、子ども時代の親父との思い出が走馬灯のように流れていった。

 私が今日あるのは、健康な体を授けてくれた両親のおかげ。鬼籍に入った、親父に対する感謝の念と悲しみが改めて込み上げてきた。墓前にも出向き、親戚の人が唱える念仏にあわせ、彼岸へと旅立った親父を鎮魂した。

 親父は、軍隊に22歳の時に招集され、6年間を軍隊で過ごし、中国大陸の戦争に動員された。終戦時、陸軍衛生伍長が親父の階級だった。

 衛生兵だったことから、子どもの頃、我が家には注射器などがあった。私が多分4歳頃、小児ぜんそくなど病気になると、親父が家の奥から緑色の大きな注射器を取り出してきた。それを見て、私は怖くて泣き喚いたのを、今でもよく覚えている。

 その大きな注射器で、父は私の尻にブスッと刺すのであった。今でも注射が苦手なのは、子どもの頃、父の注射でとても怖い思いをしたトラウマが原因しているのだろう。勿論、親父とすれば、息子の病を治したい、その一心で行ったことだった。その後は、母親が遠くの病院まで連れて行き、適正な治療を受けてきた。

 子ども時代の親父は頑固一徹。息子がいたずらをすると、すごく怒って、きびしい人であった。しかし、今ではすべてが懐かしい、思い出となっている。親父に感謝、感謝!―この言葉にすべてが尽きる。


 さて、母親は健在である。

 今年1月が米寿であった。「町からお祝いを貰った」と弟が話していた。母は要介護4で、歩くことができない。弟夫婦と孫娘(私の姪)2人が、介護サービスのデーサービスとショートステイ、ホームヘルパーによる日中2回の訪問介護を活用し、母を自宅で介護している。

特に心強いのは、姪の一人が介護福祉士で、特養ホームで働いている介護の専門家であること。姪は、祖母を介護する必要性から、介護の職を選択したらしい…。心やさしい姪である。私は、自宅で介護している、この家族に本当に心から感謝している。

 法要の準備などで、家族が母の介護まで手がまわらないことから、母は介護施設でショートステイを利用していた。

 法要の合間をぬって、介護施設まで母親に会いに行った。1年前より、加齢に伴う衰弱がすすんでいた。母は以前よりも会話をしなくなっていた。それでも、私の顔をみると「難儀をかけた」と息子をねぎらった。

 1年前は、体が不自由なのに、加須市に戻る息子を見送るため、玄関まで連れて行くよう大声で呼んでいた。いまは、その元気がすっかりなくなっている。私が帰る際に、手を振って別れを告げたら、しっかり手を振っていた。その母のしぐさを見て、私は部屋を出て、施設を後にした。

 母がもっと元気な頃、私の選挙ポスターを、母は居場所にいつも貼っていた。きっと息子が心配だったのではないか。しかし、いまはその気力がない…。
(鳥海山・標高2236叩2009年6月)
(鳥海山・標高2236叩2009年6月)



 故郷の山々は、今回も私をあたたかく迎えてくれた。心残りは、私が加須市に帰る日曜日、故郷の霊峰=鳥海山に雲がかかって見えなかったことである。

 すでに、翌日には市議会の会議が待っていた(2011/08/30)。

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