労働総研ニュース296 2014年11月



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 ブラック企業の法則的認識と対抗戦略 朝日吉太郎
 国連・人権「指導原則」と労働運動 大木 一訓




ブラック企業の法則的認識と対抗戦略

朝日 吉太郎

 先の労働総研「ブラック企業調査」での実感は、地域労連への相談事例が青年層に限定されず各年齢層に広く存在し、日本企業社会全体がブラックであることであった。なぜそうなのか。その解答には、日本の労働市場構造が本来そのような関係を内包しているという法則的認識が必要であり、そこから真の対策が生まれる、と私は考えている。
 戦後直後の労働運動の活性期に形成された電算型賃金は、若年期の低位の賃金・中高年層になるにつれて上昇する右肩上がりの生涯賃金モデルとして定着した。これが賃金=初任給+賃金上昇率×勤続年数という定式を基礎とする、年功賃金モデルである。ここで生涯賃金を最大化するためには、(1)初任給が最大で昇給率が高い有名企業の正社員となること、(2)年齢ではなく勤続年数によって昇給される仕組みであるため、転職を避けることが必要である。そのため、この賃金は、企業別に労働市場を分断し、企業内に労働者のサバイバル競争、職場専制とビジネスユニオニズムを生みだし、二重三重に日本の企業社会の非人間的な体質を規定してきた。また、この賃金は大企業男子基幹労働者に限定的で、周辺労働者の手の届くことのない賃金モデルとされ、非正規雇用者や中小企業労働者の低賃金を生みだし、独占企業の収奪余地を生み出してきた。この賃金制度下では、中高年の「高コスト」への攻撃、能力給の職務給化による生活給的性格の払拭要求が常に存在したが、日本財界は労働者を統合する社会的労務管理費としてその継続を擁護し聖域化してきた。
 ところが、ベルリンの壁以降の国際的な階級運動の弱体化を背景に、日本財界は日本企業のグローバル化戦略としてこの聖域を投げ出し、労働者への総攻撃を始めた。労働市場の企業別分断はそのまま、総賃金コスト削減のための新自由主義的人事を展開し、また、財界・政府が一体で、労働基準の緩和・不安定就業層の増大を通じて労働者間の格差を広げサバイバル競争を激化させた。そして、この競争を利用して労働組合運動の空白地帯でブラック企業現象が生み出されている。
 したがって一部で主張される社会保障充実による企業からの労働者の保護=自立という緊急対抗手段だけでは不十分である。企業横断的労働運動を軸とした企業を越える労働市場の構築と管理、労働者の企業からの相対的自立化こそがブラック企業規制のための法則的な要請であり、壮大な課題であるにせよ真の代替戦略であろう。

(あさひ きちたろう・会員・鹿児島県立短大教授)

国連・人権「指導原則」と労働運動

大木 一訓

はじめに

 いま世界では、多国籍企業の人権侵害に対するたたかいが新たな局面をむかえている。転機となったのは、2011年6月16日の国連人権理事会による、「ビジネスと人権に関する指導原則」(以下、「指導原則」と略)の採択である。全会一致の支持を得たこの「指導原則」は、多国籍企業の人権侵害に対し、それを実行可能な方法で効果的に防止・是正・救済していくための、画期的なガイドラインを提示するものであった。それは、多国籍企業の社会的責任を世界的な規模で確立していく道筋を示すものでもあった。
 「指導原則」はその後わずかな間に、各国政府、経済界、労働組合、人権団体などの間で広く支持されるようになった。多くの企業や政府が、自らの行動を「指導原則」に適合するように計画をたて実行しはじめている。ILO、OECD、EU、ASEAN、ISOといった他の国際組織でも、「指導原則」を前提にした国際基準の改定や運用改善などがすすめられるようになっている。
 しかし、わが国においては、「指導原則」の活用どころか、そうした新たな国際基準の登場自体がほとんど知られていない。日本政府も国連ではその採択を支持したのであるが、国内では放置して何の対応措置もとっていない。諸外国では「指導原則」の普及・具体化をはかる独立の人権問題推進機関を設置するなどの取り組みがすすんでいるが、日本では中央省庁の担当部署さえはっきりしていない状況である。わが国の大企業はその大半が多国籍企業であるが、企業レベルでの対応もほとんど見られない。財界は最近、企業倫理綱領やCSRの見直しを行っており、国際社会における「指導原則」の登場も承知しているはずであるが(注1)、そこで「指導原則」にそった人権尊重への取り組みがすすめられている気配はない。国際的な立ち後れは労働運動の分野にも陰を落としている。わが国のこうした「人権鎖国」的状況は早急に打破する必要があろう。
 この点で、本年5月に刊行されたジョン・ジェラルド・ラギー著・東沢靖訳『正しいビジネス』は、「指導原則」の意義を把握するうえで大変参考になる。ラギーは、前国連事務総長コフィー・アナンが1999年に提唱した「国連グローバル・コンパクト」の内容を中心になってまとめた人物である。彼は2005年に当時のアナン国連事務総長から事務総長特別代表に任命され、多国籍企業の人権侵害問題について実態を明らかにするよう依頼された。いらい6年間にわたる精力的な調査研究と各方面からの聞き取り・協議をへて、ラギーは2008年6月には人権の「保護・尊重・救済の枠組み」、2011年3月には「ビジネスと人権に関する指導原則」という報告書を国連人権理事会に提出して、当初の期待をはるかに超える画期的な提案をしたのであった。これらの「ラギー報告」は、国連内部だけでなく、奇跡的ともいえる各方面の全面的支持を得るのである。前出の著作でラギーは、その政策の形成過程がどのようなものであったか、その過程で克服されねばならなかった論点は何であったか、「指導原則」の提案にこめたラギーの真意はどこにあったのか、等を率直に語っている。それは世界的にも反響を呼んでいる著作であるが、日本に住むわれわれにとっては、本書を合わせ読むことで「指導原則」の意義をよりよく理解できる。
 そこで本稿では、ラギーの著書も参考にしながら、「指導原則」の意義を労働運動の視点から若干考えてみたいと思う。それは労働総研が先頃行なった「ブラック企業実態調査」を積極的に活かしていくうえでも役立つに違いない。

1 「指導原則」という新しいアプローチ

 まず「指導原則」という新しい政策手段の性格について把握しておかねばならない。
ラギーが日本語版への序文で述べているように、「指導原則」は多国籍企業の責任ある行動を求める「最先端」の国際的な取り組みである。それは、条約でも勧告でもなく、また権利宣言でもない、まったく新しい国際的な取り組みなのである。その核心は、「政治的に権威ある解決策」を示し、そこに各界・地域からの世界的な支持を結集することによって、人権の尊重を企業の行動の中に効果的に埋め込んでいこうとする所にある。言いかえれば、世界的な社会的規範の力で、人権の尊重を多国籍企業の活動のなかにその不可欠な構成部分として組み込み、人権尊重が企業の「標準的」な行動となるよう企業経営を改革していこうというのである。そのためには、人権尊重の義務を負う国家が企業に対し、徹底して人権尊重の立場にたった行動をとるよう指導しなければならない、と言う。
 国連にとっても経験のない斬新な政策が登場した背景には、多国籍企業の人権侵害にかんする膨大・詳細な調査研究によって、次のような事実が明らかになったからである。
 (1)これまでビジネス社会は、CSRに見るような強制的でない自発的手段に固執して人権侵害を防止するとしてきたが、実際には「宣言」だけにおわり、多国籍企業による人権侵害はいぜんとして多発している。
 (2)他方で、国際法のもとで人権尊重義務を直接企業に課そうとする政策は、執行権限のない国連の下では無理があり、経済界や各国政府の支持が得られないまま、見るべき成果を挙げてこなかった。
 こうして、新自由主義的に企業の「自発性」に任せるのではなく、しかし同時に理念だけが一人歩きするのではない現実的な政策で、多国籍企業の人権侵害から個人や地域社会を守る必要が浮き彫りになった。その必要に応えようとするのが「指導原則」だというのである。
 「指導原則」は次のような基本的特徴をもっている。
 第一に、人権を守るうえでの国家の義務と企業の責任とを区別し、それぞれの独自の役割と相互補完関係を明らかにしながら、人権の「保護、尊重、救済」という全体の枠組みによって人権保護を強化していく道を示した。
 第二に、企業が遵守を求められる人権は、新たに付け加えられる人権ではなく、誰もが認めざるを得ない最低限の国際人権基準だとして、その内容を具体的に示した。
 第三に、人権尊重が口先だけのものにならないよう、人権デュー・ディリジェンス(適切な検証作業)の実施を企業に求めるという、画期的な政策を導入した。
 第四に、国連人権理事会は、これまでに例のないendorce(公認する)という言葉を使って、強力に「指導原則」を支持した。これによって「指導原則」は、すべての国と企業が尊重すべき新しい「世界標準」となった。
 (訳書ではendorceを「推奨する」=(良いものとして人にすすめること<広辞苑)と訳しているが、適切ではない。ラギーが説明しているように、endorceは「承認し支持する」という意味で使われているからである。)
 第五に、「指導原則」は完結した基準としてではなく、今後さらに発展し具体化されるべき出発点として位置づけられている。
 ラギー報告を根底で支えているのは、多国籍企業による人権侵害の実態調査である。あるいは、その背後にある世界各地の労働者・住民の抵抗であり、たたかいである。「指導原則」は、まさに労働運動をはじめとする社会運動や人権運動の発展によってこそ生命を与えられ、現実的な有効性を確保しうる政策だと言える。
 「指導原則」は冒頭の「一般原則」と全部で31の原則からなりたっているが、その内容は、I人権を保護する国家の義務(原則1〜10)、II人権を尊重する企業の責任(原則11〜24)、III救済へのアクセス(原則25〜31)の三つの部分から構成されている。ここでは紙幅の制約もあり、われわれの中心的な関心事である企業責任と国家義務の内容について、特徴的な点を見ておこう。

2 多国籍企業の人権尊重責任

 「指導原則」は、人権の尊重は世界中のすべての企業の責任だとしたうえで、「人権」や「尊重」の意味をさらに突っ込んで明らかにしている。(「企業」というなかには中小企業もふくむが、「指導原則」が主として念頭に置いているのは多国籍企業である。)
 (1)「指導原則」は「人権」の内容が企業や国家によって恣意的に捉えられることのないよう、それを国際的に認められた、最低限守られるべき基本的人権にしぼって確定している。具体的には、(1)世界人権宣言と、それを条約化した(2)市民的政治的権利に関する国際規約と、(3)経済的社会的文化的権利に関する国際規約、それに(4)ILOの中核8条約 (別表参照)に示された基本的権利であり、さらには(5)国連採択文書で特別に保護している先住民族、マイノリティ、女性、子ども、障害者、移住労働者などの人権である。いわば人権問題の「最低賃金制」とも言うべき政策を提示しているのである。

結社の自由及び団体交渉権

87号(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)

98号(団結権及び団体交渉権についての原則の適用に関する条約)

強制労働の禁止

29号(強制労働に関する条約)

105号(強制労働の廃止に関する条約)

児童労働の実効的な廃止

138号(就業の最低年齢に関する条約)

182号(最悪の形態の児童労働の禁止及び廃絶のための即時行動に関する条約)

雇用及び職業における差別の排除

100号(同一価値の労働についての男女労働者に対する同一報酬に関する条約)

111号(雇用及び職業についての差別待遇に関する条約)

 (2)重要な事は、これらの「最低限守られるべき基本的人権」は、国内法令の如何に関わらず、すべての企業が世界中のどこでも普遍的に遵守しなければならない人権だとしていることである。いいかえれば、それぞれの国内法令の遵守だけでは不十分であって、企業は人権の「世界標準」の遵守に最優先で取り組むべきだという。たとえば、わが国はILOの中核8条約のうち、105号(強制労働の廃止に関する条約)と111号(雇用および職業についての差別待遇に関する条約)を批准していないが、その場合でも企業は両条約の内容を遵守すべきだということになる。あるいは多国籍企業は、しばしば進出先途上国の法制度が未成熟なのにつけこんで「合法的」に人権侵害しているが、今後それは許されない、というのである。
 (3)注意すべきは、「指導原則」が企業による「人権侵害」の範囲を広く捉えていることである。一方では、企業がほとんどすべての領域にわたって人権侵害をひきおこしている実態から、その人権侵害はあらゆる領域の人権について点検されなければならない、と言う。他方では、企業の人権侵害のなかには、企業が自らの活動を通じて人権侵害をひきおこしているものだけでなく、人権侵害への加担の問題(他社の侵害から利益を得ていると見られる場合や、企業の事業活動や製品・サービスと直接結びついている人権への負の影響など)も含まれる、という。多国籍企業は子会社や関連・下請企業における人権侵害についても責任があるのであり、その防止・軽減に努めなければならないと。
 (4)人権の「尊重」とは、具体的には人権侵害をひきおこさないことであり、人権侵害を犯した場合にはそれに適切に対処する行動をとることだ、と「指導原則」は言う。「尊重」は実際の行動で示されねばならない、というのが「指導原則」の強調している点である。人権尊重を謳いながら実際には「行動を変えることなく単にイメージを高めるためにそれを利用」するようなことは許されない、いくら慈善活動や社会奉仕活動をしても、それで人権侵害が帳消しになるわけではない、と念を押している。
 (5)この点に関わって「指導原則」の一つの大きな特徴となっているのが、「人権デュー・ディリジェンス」という企業活動の人権への影響評価制度を企業が導入するよう提起したことである。「デュー・ディリジェンスDue Diligence」というのは、もともと経営用語で、企業買収などの投資を行う際、投資対象の価値が本当はどれだけか、リスクはないのか等を詳細に調査する作業のことであるが、人権への影響についてもそうした調査・分析と評価を定期的におこなう必要がある、というのである。しかもこの場合には、(1)人権侵害に対して適切な対処がなされたかどうか、その後の経過はどうであったかを、継続的に追跡調査すること、(2)調査・評価の結果を情報提供し、関係者と必要な協議をすること、を求めているのである。とくに企業の合併・買収や新たな事業・取引の開始に際しては人権侵害のリスクが大きくなるので、できるだけ早く人権デュー・ディリジェンスを実施して対処すべきだ、としている。そして、人権侵害やそれへの加担が明らかとなった場合には、企業はその是正に積極的に取り組まなければならない、と。
 (6)さらに、企業活動の中に人権尊重をしっかり根付かせるためには、企業はその経営方針で人権尊重責任を果たすことを誓約し、その意志を関係者に積極的に広く知らせるべきである、その場合その経営方針は企業トップの承認を得たものでなければならない、と言う。また、人権デュー・ディリジェンスの結果など人権侵害に関する情報を公開するとともに、労働組合や人権団体をふくむ「利害関係者」との協議にも応じる必要がある、と言う。「指導原則」をグローバルな社会的規範として確立していくうえで、これらの点が重要だと考えられているのである。

3 多国籍企業の人権侵害と国家の「人権保護」義務

 ところで「指導原則」の大きな特徴は、多国籍企業の人権侵害に対処するうえで国家がもっと積極的な役割を果たすべきだ、企業の社会的責任の問題を企業の自主性に任せていてはいけない、としているところにある。国際人権法のうえで、国家は人権保護の義務を負っており、企業による人権侵害からも個人を保護する義務を負っているのだ、と強調するのである。
 この原則から出発して、国家はその人権保護義務を果たすために次のような行動をとるべきだと言う。
 (1)国家は、企業などによる人権侵害から人びとを守るうえで実際に役立つような政策や法規制を行う必要がある。国は企業による人権侵害に直接責任を負っているわけではないが、人びとの人権を守る措置を怠る場合には国際人権法の義務に違反していると見なされうる。
 (2)国家は企業に対し、人権を尊重する行動をとるよう明確に要請すべきである。国内企業に対してだけでなく、海外進出して国外で事業する企業に対しても、人権侵害を犯さないように求めるべきである。
 (3)企業の人権侵害を規制する現行法令が執行されない事態について、国はなぜそのような事態が生れているかを明らかにし、必要な改善措置や法律制定を行うべきである。
 (4)企業の設立や事業活動を規制する会社法や証券法を、企業が人権尊重に尻込みするのではなく積極的に取り組むことができるように改善すべきである。また、パリ原則 (注2)に基づいた国内人権機関を設け、企業に対し、どのように人権を尊重するかについての指導をすすめるべきである。
 (5)国は、企業が人権の尊重にいかに取り組んでいるかについて情報提供を求めるべきである。企業の財務報告では、人権侵害問題が企業業績に大きな影響をあたえるリスクについて明示される必要がある。
 (6)国家が支配している企業や国家から支援・サービスをうけている企業の人権侵害は、国家自体の国際法上の義務違反となりうる。そうならないよう、国はそれら企業について、人権デュー・ディリジェンスの実施を求め、人権侵害を予防していくべきである。
 (7)公的サービスの民営化をすすめる場合、国は民営化企業の人権尊重責任を明確にし、実質的にその企業活動の監督ができるようにすべきである。また、国は公契約企業についてもその人権尊重を促進すべきである。
 (8)国家は、国際的な投資条約や通商協定を締結する際にも、人権保護のための国内政策を実施できるような余地を残しておくべきである。人権保護の観点からも、TPPのIDS条項などは許されないことになる。

4 国連「指導原則」をどう評価するか

 さて、企業の「責任」や国家の「義務」に関する「指導原則」の内容を見てきたが、われわれは労働運動の見地からこれをどう評価すべきであろうか。
 安倍政権下の日本で傍若無人な大企業の人権侵害とたたかっている労働者・労働組合にとって、「指導原則」が大きな武器となるのは疑いない。たとえば次のような点である。
 (1)企業の人権尊重責任をはっきりさせ、「責任」の具体的内容を国際人権法に結びつけて明確にしていることから、労働運動は企業の人権尊重状況を具体的に点検できる。 
 (2)大企業の責任の範囲を広くとらえ、日本の運動が背景資本の責任として追求してきたことを世界標準として認めている。ホールディングスのもとに多数の子会社、別会社、関連会社、下請企業、等々をかかえるようになった今日の大企業とのたたかいで、「指導原則」は大いに活用できよう。
 (3)人権尊重を言葉ではなく事実で示す必要を強調し、人権デュー・ディリジェンスの導入で人権侵害の事実と可能性を特定できるようにしていることから、労働運動の側からも、人権デュー・ディリジェンスの実施とその結果公表を要求してたたかうことができる。
 (4)経営方針や財務報告の内容にまで立ち入って、大企業経営のあり方を見直すよう迫っていることから、株主総会などを新たな視角でたたかいの場にすることができる。
 (5)人権保護の義務を負う国家が、企業の人権尊重責任についても積極的に指導する義務を負うことが明確になったことから、人権侵害企業に対する政府の是正勧告をこれまで以上に強く要求できる。また、パリ原則にもとづく独立した人権推進機関の設置や、人権の見地からの会社法、証券法の見直しなど、政府に企業の人権尊重を推進する施策を要求していくことができる。
 (6)人権侵害問題を取り扱う際には、労働組合や人権擁護団体をふくむステークホールダー(利害関係者)との協議が重要なことが繰り返し指摘されていることから、企業による労働組合との面談・協議の拒否などは、「指導原則」の面からも国際的に問題としうる。「指導原則」は2011年に採択されてから今日までのわずかな期間に、国連だけでなく各種の国際的基準設定機関やEU、OECDなどによって一致して支持され、世界基準としての地位を不動のものとしているからである。
 だが労働運動の中には、「指導原則」の実効性について懐疑的な人びともいる。悪質な経営者に企業倫理を説いたり、強制力のない国際的合意で社会的責任を担うようその行動を改めさせようとしても、それは無いものねだりではないか、というのである。労働者や地域住民の権利をまずしっかり確立し、罰則のある法令の強制力で企業の行動を規制しないかぎり、期待する変化は生れないであろう。また、人権侵害評価によって企業体質を改善するといっても、評価をするのは企業自身であり、自ら裁判官も兼ねるお手盛り評価ではさしたる進展を期待することは出来ない、と。これらの主張や疑念はいずれも正当なものである。実際、厚顔無恥で二枚舌の使用に熟達したわが国大企業経営者の手にかかると、「指導原則」も暗黒の人権侵害を覆いかくす隠れ蓑に変えられてしまう可能性がないとは言えない。しかし、それでは日本の労働運動は、「指導原則」を危険な幻想をふりまく政策として排除したり無視したりすべきなのであろうか。その場合には、「指導原則」はたんに企業がトラブルを回避するための手段となってしまうであろう。しかし、ラギーが言うように、「指導原則」はもともとステークホールダーの人権を尊重し支援するために策定されたのであって、企業のリスク・マネージメントを助けるためにつくられたものではない。それを本来の目的にそって活かすかどうかは労働運動をはじめとする社会運動の力量にかかっているのである。
 「指導原則」はいわば人権問題でのグローバルな最低賃金制のようなものであるが、ラギーはこれを土台としてさらなる人権の発展・確立を展望している。この点でわれわれは「指導原則」の形成とそれへの大きな支持の背後に、21世紀に入ってからの国際世論の変化と、そのなかで生れた新しい政策理念の登場があることに留意する必要がある。
 一つは、人権の尊重はすべてに優先して守られるべき価値であり、利潤生産を目的とする資本主義的企業といえども人権を尊重する社会的責任がある、という考え方が急速に広まってきたことである。市場経済のもとでは企業は収益拡大をすべてに優先して追求するのが当然だ、とする一般に流布されてきた考え方はもはや通用しなくなった。企業経営者たちの間からも、人権への害悪を取り除き人権尊重をすすめることが社会的に持続可能な企業活動をつくりだしていくことになる、という自覚が高まってきた。そこでは、「生存を基礎とする人格権こそ最高の価値を持つ」とする大飯原発福井地裁判決にも共通する理念が形成されている。
 二つには、しかし企業による人権の尊重を企業の自主性に任せていてはならない、企業にその尊重責任を果たさせていくには、国家や利害関係者による民主的規制が必要だという考え方である。従来ビジネス社会はCSR(企業の社会的責任)について、強制的でない自発的手段をとることを支持してきたし、国連や各国政府もそれを容認してきた。1999年に人権の尊重を冒頭にかかげてはじまった国連の「グローバル・コンパクト」も、企業が国連事務局長に自主的に誓約書を提出するもので、CSRは企業活動に十分組み込まれてこなかった。「十分な制裁や賠償もないままに企業の悪行を許してしまう環境を作り出していることが、ビジネスと人権を巡る懸念の中心的な焦点となっていた。」そこから「多国籍企業の人権侵害に対して、それを効果的に防止・救済する、普遍的で実行可能な指導原則を確立しようというグローバルな運動」がおこった、とラギーは著書で書いている。ここには新自由主義的な政策に対する明確な批判が示されていると言ってよい。
 三つには、多国籍企業に人権を尊重させていくうえでも、21世紀の社会ではソフト・パワーといわれる社会的規範の力(あるいは国際社会の世論の力)が大きな役割をはたすことへの信頼であり確信である。「指導原則」は企業に直接に人権尊重の法的義務を課すものではない。逆に言えば、法令を遵守すればよいという問題ではないのである。「企業は操業のためには法的認可だけでなく社会的認可を必要とする」とラギーは言う。「指導原則」は、企業が積極的に人権尊重の行動を取るよう求める世界的な期待の表明であり、「社会的認可」の条件なのである。それは、企業が国家の政策的指導のもと、人権侵害に関する情報を公開し、利害関係者との協議に応じるなかで、自らの事業活動をその隅々まで人権を尊重する体質に変えていくよう、誘導する政策なのである。急速なコミュニケーション革命が進展する今日では、個人としても組織としても、人びとの世論形成力がますます大きく強くなっているという事実に、その政策は依拠している。
 四つには、言葉では明確に語られていないが、「指導原則」登場の背景には、かけがえのない地球上に生存する人類は一つ、というミレニアム以来の人類社会の自覚の高まりがある。アメリカのように「経済的社会的および文化的権利に関する国際人権規約」さえも批准していない国があっても、企業の人権尊重責任は国内の法令・規則の遵守を超えるものだとして、アメリカをふくむすべての国の企業に「国際人権規約」等に定められた基本的人権の尊重を要求するのは、広く地球市民に対する社会的責任を企業に求めているのである。世界貿易の大半が多国籍企業の「対内的」取引でしめられるようになり、多国籍企業による人権侵害が多発し、それに対する労働者・住民の抗議運動も世界各地で多発するという20世紀末いらいの状況からしても、多国籍企業にそうした人類社会全体に対する社会的責任を求めるようになるのは必然的であった。問題は人権問題に限られないであろう。
 「指導原則」は至極プラグマチックなガイドラインという形式をとっているが、内容的には上記のような革新的理念を内包した指針なのである。ラギーは、「指導原則」はなお発展途上にあるものであり、「問題解決のためには、国家や企業を関与させるだけでなく、市場関係者や市民社会の関心、能力、関与と、人権自体の理念がもつ本質的な力に依拠しなければならない」と言っている。労働運動は「指導原則」をたたかいの武器に変え活用しつつ、21世紀の革新的諸理念を大いに花開かせるような運動を発展させていく必要があるのではなかろうか。求められているのは、人権尊重を軸に、第一インターナショナルでマルクスが推し進めたような、壮大な国際連帯の運動を発展させることである。

(注1)たとえば、経団連と経産省が協力して設立した企業活力研究所は、財界向けのレポート「新興国でのビジネス展開における人権尊重のあり方についての調査研究報告書」(2013年3月)を作成して、「指導原則」についてもかなり詳細に紹介している。しかし表題にもあるように、そこでの主たる関心は、日本企業が途上国に進出する場合にいかに国連の規制をクリアするか、企業リスクを回避するかというものであって、企業活動の中でいかに人権尊重を推進するかという問題ではない。

(注2) 1993年12月に国連総会で採択された「国家機関(国内人権機関)の地位に関する原則」のこと。それは、各国が人権を促進・保護する権限をもつ独立した国内機関を設立し、そこには労働組合や人権団体の代表も参加させるよう指示している。

参考文献
・UN Global Compact Principles on Human Rights
・Guiding Principles on Business and Human Rights (New York and Geneva, United Nations Human Rights Office 0f the High Comissioner, 2011 )
・人権と多国籍企業およびその他の企業の 問題に関する事務総長特別代表ジョン・ラギーの報告書『ビジネスと人権に関する指導原則:国連「保護、尊重および救済」枠組実施のために』、国連人権理事会、 2011年3月
・John Gerard Ruggie, Just Business (New York:: W.W..Norton & Copany, 2013)
・ジョン・ジェラルド・ラギー、東沢靖訳  『正しいビジネス』岩波書店、2014年5月
・江橋崇『企業の社会的責任経営―CSRと グローバル・コンパクトの可能性―』法政大学出版局、2009年3月
・部落解放・人権研究所企業部会編・菅原絵美著『人権CSRガイドライン―企業経営に人権を組み込むとは―』、解放出版社、2013年3月
・企業活力研究所「新興国等でのビジス展開における人権尊重のあり方についての調査研究報告書」2013年3月
(本稿は、労働総研・大企業問題研究会での報告を圧縮・整理したものである。)

(おおき かずのり・顧問・日本福祉大学名誉教授)