労働総研ニュース No.262 2012年1月



目   次

年頭にあたって
「税制改革の日本的特質」について 安藤 実




年頭にあたって

日本社会転換の鍵は財界・アメリカ言いなり政治からの脱却に

春闘の要求闘争の実践を通じて政治への関心を

2012年1月

労働運動総合研究所

代表理事 小越洋之助

代表理事 熊谷 金道

代表理事 牧野 富夫

事務局長 大須 眞治

 昨年3月11日に発生した東日本大震災は大規模な地震と津波で東北地方を中心に死者と行方不明者が約2万人、建物の全壊・半壊が35万4千戸に及んだだけでなく、地域の産業・経済に甚大な犠牲と被害をもたらした。震災を引き金とした東京電力福島第1原発の事故は、86年のチェルノブイリ原発事故をはるかに上回る3基もの原子炉が炉心溶融に陥るという国際的にも未曾有の重大事故となり、福島県外への避難者だけでも6万人以上にも及んでいる。これらの事態は、災害時の住宅や生活の保障など国民生活の根底を支える基盤(ナショナルミニマム)の脆弱さ、原発の安全神話や産官学による排他的利益集団「原子力村」の反国民性などを誰の目にも明らかにした。同時にそれは、国民生活や地域経済を犠牲に大企業の利益を最優先にしてきたこれまでの政治や行政の結果による人災であることを明らかにしている。それだけに、大震災や原発事故の被災者への支援、被災地の復興や原発事故の真相究明と事後処理、原発に替わるエネルギー政策に政治や政党がどう立ち向かうのかが被災者のみならずわが国の労働者・国民から問われている。
 また、年末には自公から民主党への政権交代時の象徴でもあった「八ツ場ダム建設中止」が撤回され、抗議のために離党議員がでただけでなく、マスコミが「マニフェスト違反一覧」を報道するほど民主党政権の変質と国民への裏切りぶりが明らかにされた。

新自由主義的構造改革への国民的怒りと民主党政権

 日米同盟を基軸に戦後政治の中心を担ってきた自民党、とりわけ99年以降の自公政権は、日米財界の利益最優先で新自由主義的な構造改革路線を強引に推し進め、社会保障の連続改悪や増税、規制緩和の名による労働諸法制の改悪などにより労働者・国民の生活と雇用を破壊し、格差と貧困を拡大させ、労働者・国民の将来への不安をかつてなく増大させた。
 民主党はこうした悪政への国民的批判の広がりを背景に、「国民の生活が第一」を前面に構造改革路線からの脱却と後期高齢者医療制度や障害者自立支援法の廃止、最低保障年金制度や子ども手当の創設、高校授業料の無償化、改悪労働者派遣法の見直し、「コンクリートから人へ」と八ツ場ダムの「建設中止」を始めとした公共事業の見直し等々の国民受けの良い公約やマニフェストを掲げて09年9月の総選挙で圧勝して政権を獲得した。
 民主党政権最初の鳩山首相は、米軍普天間基地の「県外・国外移転」の公約実現をめぐって散々迷走した挙句のはてにその見通しを立てられずに退陣、代わって10年6月に登場した菅首相は公約違反の消費税10%への増税やTPP交渉への参加検討を打ち出し、国民の怒りや批判により直後の7月に行われた参議院選挙で惨敗し衆参のねじれ状態をつくりだした。そして、その後の東日本大震災や福島原発事故の対応への国民的批判、さらには個人的見解としながらも「原発依存の見直し」を表明して財界の「虎の尾」を踏んだことなどから退陣に追い込まれた。そして11年9月には民主党政権発足からわずか2年余で3人目となる野田首相が誕生している。まさに政権の末期症状のようである。

「アメリカと財界が第一」路線をひた走る野田政権

 民主党三人目となった野田首相は、政権発足の組閣前に日本経団連会長を訪問・協力要請して財界から歓迎されるなど、歴代自民党政権にもない異例な行動からスタートしたように、民主党政権の延命を何よりも優先させることを鮮明にしてなりふり構わずの暴走を始めている。そして、小泉政権と同様の財界直結の「国家戦略会議」設置を皮切りに、政権発足直後の訪米で沖縄県議会の全会一致の決議など沖縄県民の声を全く無視して普天間基地の「辺野古移転」への手続き開始をオバマ大統領に約束、APEC首脳会議では国民が反対しているTPP交渉参加方針や消費税増税方針を表明するなど、「国民の生活が第一」を投げすて、「アメリカと財界が第一」へと基本的なスタンスを完全に変え、先に触れた国民向け公約やマニフェストをことごとく投げ捨てている。
 さらに重要なことは、野田政権はこうした反国民的な悪政をかつて国民が「NO!の審判」を下した自民・公明両党の協力による事実上の「大連立」で進めようとしていることである。財界の意を受けた労働者派遣法改定法案の骨抜き・大改悪や復興に名を借りた庶民増税、「税と社会保障の一体改悪」による消費税大増税法案の国会上程、さらには武器輸出3原則の緩和や普天間基地を辺野古に移転するための環境影響評価(アセスメント)の沖縄県への提出などが強引に推し進められようとしている。

国民本位の政治への転換が求められている

 この2年余のわが国の政治をめぐる動きは、政権政党の組み合わせが自民・公明から民主・国民新へと代わっても、アメリカ政府に米軍基地撤去・縮小など日本国民の要求を対等平等に言えない日米同盟最優先の政治や財界・大企業の利益最優先でその横暴にまともにものが言えない政治では、米軍基地の撤去・縮小や日米地位協定の見直しといういまや党派を超えた広範な沖縄県民の要求や生活と雇用不安の解消など労働者・国民の切実で当たり前の要求すら実現できないことを実体験的に多くの国民に明らかにしたといえる。
 また、民主党政権はいまや自公政権と何ら違いがないどころか、その後継者に身を落としているといっても過言ではないこと、それは同時に「自民か、民主か」という「二大政党制」なるものが完全に破綻したことをも明らかにしている。こうした経緯を踏まえ、改めて国民本位の政治の実現、日本社会の転換が求められている。その鍵は「財界やアメリカ言いなりの政治からの脱却」であり、労働者を犠牲に膨大な内部留保を貯め続ける大企業の横暴への批判や日米安保条約廃棄と日米関係の見直しへの国民世論を大きく形成することなどが決定的に重要になっている。直面している春闘では、労働者の最も切実な要求である賃上げ闘争に全力をつくすと同時に、脱原発や消費税増税・TPP反対、米軍基地撤去などの運動の実践を通じて労働者が政治的自覚を高めていくことが重要になっている。

「税制改革の日本的特質」について

安藤 実

はじめに

 民主党政権の下で、「税と社会保障制度の一体改革」が進められようとしている。もともと租税制度と社会保障制度は異なった制度であり、その目的も仕組みも異なり、それぞれが歴史的産物でもある。したがって何か問題があるとしても、それぞれの制度に固有な問題と見るべきである。それをあえて「一体」に取り扱おうとしているところに、ある種の政治的思惑がうかがわれる。果してその思惑が通るかといえば、それは疑わしいというほかない。
 ここでは今日までの「税制改革」の歴史を整理し、そこに現われている「日本的特質」について考えてみたい。

I シャウプ勧告税制(1949年)

(1)シャウプ税制使節団
 戦後日本の政治課題は、ポツダム宣言を実行すること、つまり天皇制から民主制への転換、軍国日本から平和日本への転換であった。そのため憲法改正に始まる一連の民主化政策が、占領軍総司令部の指令の下に推進されていた。
 税制改革も、その一環を占めた。その税制改革案の作成に当たったのが、最高司令官マッカ−サ−元帥の招きで来日した、コロンビア大学のカ−ル・S・シャウプ教授を団長とする7人の税制使節団であった。シャウプ教授は、この税制使節団長を受諾する条件として、(1)団員の人選、(2)作成した報告書を検閲なしに、そのまま英和対訳で公開することの二点を求めたという。
 このうち、報告書の公開にこだわったのはなぜだろうか。その理由は、シャウプが「自分達の仕事を、教育的な仕事と考えた」ためであった。誰に、何を「教育」するのかといえば、日本国民に対して、租税制度と民主主義との関連を示すことであった。

(2)シャウプ勧告税制の骨組み
 シャウプ使節団は、財閥による経済支配が日本軍国主義の土台になったと見ていた。「膨大な富の蓄積は、日本にとって特に危険…このような蓄積を税制によって阻止しなければ、かれらはいずれ再起するであろう。」
 シャウプ勧告のなかで、富裕税(純資産500万円超に対する累進課税)の新設を勧告した狙いも、ここにあった。そしてシャウプ使節団は、意識する税が民主主義を育てるという観点から、直接税中心の税制、つまり応能負担の公平理念と所得再配分機能をもつ累進所得税制を日本に定着させたいと考えていた。
 そういう立場からすれば、取引高税(当時の大型間接税)の廃止は、その反面であった。「間接税は政治を国民から遠ざける。しかも大衆負担になる」というのが、その理由であった。取引高税は、1948年に実施されたばかりだったが、シャウプ勧告を受けて廃止された。こういう大型間接税が、一旦実施されたあと廃止になるのは、世界の租税史でも珍しいことであった。
 このほかシャウプ勧告の特徴として、地方自治=民主主義の学校という観点から、地方自治体の財源確保を重視したことが上げられる。これら累進的な直接税、大型間接税廃止、地方自治の尊重という三本柱が、日本の民主化を目指すシャウプ税制改革の骨組みと見ることができる。
 そしてシャウプ勧告では、日本税制の全体構造を詳細に検討した結果、日本税制の特質が、利子、配当、譲渡所得(キャピタル・ゲイン)など金融資産所得の「合法的税逃れ」にあることが指摘されている。とりわけこの「合法的税逃れ」が、日本人の租税モラルを破壊する点では、「脱税」よりも有害であると断じているのが注目される。
 そのためシャウプ使節団が提示した改革案には、利子や配当等の総合課税や譲渡所得の全額課税が盛り込まれていた。これらを実施するために必要な税務行政上の改善措置として、偽名や無記名口座の禁止、債券等の登録制など「名寄せ措置」が勧告され、そのための具体策として、当時の日本家庭が皆持っていた米穀通帳の番号を利用する案も準備されていた。そして富裕税課税のために、資産申告書の提出を求めていた。

II シャウプ勧告税制の「修正」(1953年)

(1)政治的逆コ−ス
 シャウプ勧告税制は1950年に実施されたが、3年後の1953年には基本的な「修正」を受けている。これには歴史的事情が影響している。シャウプ使節団が来日した1949年は、戦後世界の覇権をめぐり米ソ対立が激化するなか、アジア情勢が大きく変化した年であった。この年10月、中華人民共和国が成立した。中国情勢の変化に対応し、アメリカの対日政策が従来の民主化方針から転換し、日本をアジアの戦略基地として利用すべく、「極東の工場」論や「日本再軍備」論が唱えられる。
 アメリカの政治が保守化するのに対応するかのように、日本ではいわゆる逆コ−スが始まる。折から大量の人員整理問題を抱える国鉄を舞台に、下山事件、三鷹事件、松川事件など奇怪な事件が続発した。後に松本清張はこれらの事件を『日本の黒い霧』(文藝春秋社)で取り上げ、占領軍内部の謀略組織が事件を仕組んだと推理している。
 当時の日本政府は、これらの事件をレッド・パ−ジに利用している。そして1950年6月に発生した朝鮮戦争を機に、総司令部が日本の再軍備を指令し、警察予備隊の発足となる。警察予備隊は、今日の自衛隊の前身である。憲法第9条の事実上の「修正」が始まった。

(2)「修正」の仕掛人
 そういうなか、占領軍総司令部(経済科学局金融課)が、シャウプ勧告税制の「修正」に動いた。「修正」の意図は、銀行や株式市場への影響を考慮したものといわれるが、同時にそれは税制の民主化にチェックをかけることになった。具体的には、シャウプが用意していた「名寄せ措置」の実施に中止命令が出される。
 もともと日本側も、シャウプ税制の「修正」を求めていた。その黒幕は、池田勇人大蔵大臣と平田敬一郎主税局長など大蔵省中枢部であった。池田蔵相は、とくに株式の譲渡所得全額課税はできないという意見だった。また平田主税局長も、富裕税の実施に消極的な姿勢を取っていた。
 シャウプ勧告税制の「修正」論の舞台となったのは、日本租税研究協会の大会である。日本租税研究協会は、シャウプの提言を受け、租税問題を取り扱う民間の研究機関として1949年に発足したもので、今日まで60年余の歴史をもっている。
 その1949年の第1回大会から、1953年のシャウプ税制「修正」に到る初期の大会記録を見ると、シャウプ勧告に対する反対論が目立ち、「租税理論(公平論)より、資本蓄積優先」という論調が支配的であったことが知られる。
 特徴的なのは、この「修正」の仕掛人が、経営者に転身していた旧大蔵高級官僚だったことで、大矢半次郎、松隈秀雄、山田義見など、池田勇人蔵相の先輩格に当り、いずれも大蔵省主税局長や大蔵次官の経歴の持主が顔を揃えていた。その意味では、これらの人々のシャウプ勧告税制批判は、大蔵当局者の意にそうものだったと推定される。つまり旧大蔵官僚が現大蔵当局と連携して、シャウプ勧告税制の「修正」に動いたと見られる。
 まず、無記名定期預金についての大矢半次郎(農林中央金庫副理事長)の発言、「現在、大銀行の定期預金の50%以上が無記名預金。…いたずらに租税理論の見地のみを固執いたしまして、無記名預金廃止の結果、これだけの預金が引き出され退蔵されることになれば、資金不足は拍車をかけられる。…今しばらく資本蓄積を優先して、過渡的にそういう措置(無記名口座)が望ましいのであります。」
 また、山田義見(日本勧業銀行会長)の発言、「終戦後、日本的でないもの、全然違った社会に妥当しているところの原則を、そのまま適用された。その最後があのシャウプ勧告。…シャウプ勧告によってできた税は、御破算にしてもらいたい。一つは富裕税。やめていただく。」この発言には、民主化方針そのものに対する敵意が認められる。
 旧大蔵高級官僚のなかで、戦後も日本租税研究協会や政府税制調査会にあって指導的役割を演じたのが、松隈秀雄(中央酒類社長)であった。その発言、「富裕税の設置は理論的にはうなずけるが、僅か20億円程度の税収のために、複雑な財産調査を行うということになると、その得失が議論されます。…シャウプさんの言うことを聞いて、英米の税制をまねて直接税の比率を高めたのは、ばかなことをした。取引高税を改善して残せばよかった。広く軽く課税するのがよい。」
 こういう旧大蔵高級官僚の発言に力を得て、財界人も「シャウプ勧告税制修正」を大合唱している。かれらは、とりわけ大型間接税の導入に執念を燃やしていた。「欧州諸国の売上税、あれが一番よけいとれる。一番公平だ。」(原安三郎、日本化薬社長。)

 そういうわけで実施から3年後、シャウプ勧告税制は「修正」される。富裕税が廃止され、その代りに所得税の最高税率が引上げられる。55%→65%。キャピタル・ゲイン課税が廃止され、利子所得は分離課税となる。総じて総合累進税制の骨抜きがはかられたということができる。そのなかで大型間接税の導入だけは、積み残されたことになる。

III 消費税導入前史

(1)1960年代までの政府税制調査会の方針
 1960年代までは、経済の高成長による自然増収の好調に支えられたこともあり、この時期の税調答申は、租税理論に即した客観的な議論を展開していたように思われる。そういう立場から出された結論が、一般消費税の導入を不可としていたのは注目される。
 (1) そこではむしろ、一般消費税の短所が多く指摘されていた。たとえば、物価の上昇を招く。税負担感が小さい代わり、負担の公平を損なう。逆進性については、どのような緩和策も及ばない。所得税免税点以下の低所得者層は、深刻な影響を受ける。
 理論上は消費者が税負担をするわけだが、実際のところ弱小業者の場合、税を転嫁しきれず、みずから負担する破目になる。
 (2) したがって直接税(所得税や法人税など)に個別消費税(物品税)を配する現行税制を維持していくというのが、この時期の政府税制調査会の基本方針となる。
 しかもなお、一般消費税の研究は続けられて行く。それは「特段の財政需要」、「よほどの理由」が生じる場合を想定し、あらかじめ備えるためだという。

(2)1970年代の方針転換
 1970年代に入って、政府税制調査会は従来の論調を一変させる。1971年の答申では、EECで実施されている付加価値税を高く評価し、「わが国の実態に合致するような付加価値税の仕組みを工夫する」という方針を打ち出している。 いったい1970年前後に、何があったのだろうか?
 1970年は日米安保条約の固定期限が切れる年である。日米両国政府のあいだでは、いわゆる70年代防衛構想の策定をめぐって協議が行われた。そして、1969年11月、佐藤首相は、70年代の日本の軍事的役割を、アメリカに約束して、米当局者から大いに歓迎された。「日本は世界第三の工業国家となった。日本はアジアの問題で、そうした地位にふさわしい役割を演じる用意がある。米政府は、こうした事実を認識し、1972年に沖縄を日本に返還することを決定した。」(ロジャ−ズ米国務長官)
 70年代、日本の軍事的役割の増大は、経費増加を予想させ、増税準備を必要とした。当時の吉国二郎国税庁長官は、「売上税としての付加価値税に注目している」と述べ、経済審議会も1970年の「新経済社会発展計画」に、「長期的な課題として、…一般売上税ないし付加価値税創設の適否について検討する」という方針を盛り込んだ。
 同じく1970年、自民党や大蔵省が付加価値税の本格的調査を開始し、欧州諸国に調査団を派遣した。これら調査団は、「一般消費税のなかで、EEC型の付加価値税が最もすぐれた制度であり、これをわが国の実情に合致するよう工夫すべき」と報告している。

(3)大平内閣による一般消費税導入の試み
 1977年の政府税調中期答申は、1980年度に予測される財源不足の対策として、増税の必要を主張し、その場合、所得税増税は負担感が重いという意味で実現が困難なので、最終的には一般消費税の導入とならざるを得ない、との結論を出している。小倉武一税調会長の説明、「財政の重点が社会保障に移っていこうという時なので、所得税の納税者・非納税者にかかわらず、広く国民に負担をお願いする消費税導入は当然である。」
 1978年9月、政府税制調査会から一般消費税の試案が公表された。税調の説明では、EC型付加価値税を日本の実情に適合するよう工夫したとあるが、その工夫がインボイス方式ではなく、課税期間中の総売上高から総仕入高を除く仕入控除方式であった。
 この後、一般消費税の導入は、一挙に政治の舞台に移され、1980年度実施の方針が閣議決定される。その主役は大平正芳首相で、見せ場は1979年9月の総選挙であった。
 大蔵官僚は自民党が安定多数を握れば、一挙に増税という期待をもっていたが、自民党の敗北によって、その期待は断たれてしまい、「しばらくは、大型増税は言い出せない」という結末になった。これが一般消費税導入劇第一幕の幕切れであった。

(4)中曽根内閣による売上税導入の試み
 一般消費税の導入に失敗した後、1980年代初期、第二臨調の「増税なき財政再建」路線が日本社会を風靡する。これは大型間接税導入へ向けての迂回作戦として位置づけられる。
 1985年秋の総選挙に際し、中曽根康弘首相を先頭に、多くの自民党候補者は「大型間接税は導入しない」と胸を叩いて見せ、善良な選挙民から票をかすめとり、自民党は衆議院で三百余議席という絶対多数を得た。それとばかり中曽根政権は、日本型付加価値税を売上税の名で導入しようとした。
 しかしその後に行われた一連の世論調査や各種の補欠選挙、そして1987年4月の統一地方選挙の結果は、売上税の導入をもくろんでいた中曽根政権に大きな打撃を与えた。
 強行はできない、さりとて撤回もしない。なんとか継続審議にもち込んで、再起を図ろうと出てきたのが、衆院議長あっせん案である。それは衆議院に直間比率の見直し等の税制改革協議機関を設置し、できるだけ早期に実現できるよう努力する、というものだった。
 1987年11月、竹下内閣が登場した。自民党税制調査会は、「税制の抜本的改革に関する方針」のなかに、衆院議長あっせんの「直間比率見直し」を推進すること、所得税や法人税の減税、物品税を廃止し一般消費税を導入すること等を盛り込んだ。これが消費税導入を使命とする竹下「税制改革」へつながっていく。

IV 消費税の導入と公平理念の「転換」(1989年)

 シャウプ勧告から40年後の1989年、消費税が導入された。消費税は、直間比率是正の名目で、減税財源として導入されている。減税されたのは、直接税の所得税と法人税。ともに税率が引下げられた。いわゆるフラット化が進み、法人税率が42%→37.5%、個人所得税の最高税率が70%→50%となった。そして個別間接税として、ぜいたく品や大企業製品に課税されていた物品税が廃止され、生活必需品も広く課税する消費税に代った。
 注目されるのは、消費税導入が租税構造の転換を意味しただけでなく、同時に税の公平理念の転換をともなっていたことである。それが、「応能負担(累進制)」の公平原則から、「国民皆が分かち合う」への転換である。
 この「分かち合う」という理念は、高所得者の減税(累進税率のフラット化)と大衆の負担増を公認するイデオロギ−である。それは最悪の大衆負担税である消費税の増税を意味するだけではない。人的控除の廃止などにより、個人所得税の課税最低限を引下げていくことをも意味している。
 加藤睦夫(立命館大教授)は、この「累進制」から「フラット化」への公平理念の「転換」を、「見るも無残な税制改革」と評した。(『日本の税制』、1989年)
 21世紀を迎えて、この「分かち合う」が、政府税制調査会公認の租税理念となる。
 2000年答申。「広く負担を分かち合う観点から」、消費税の増税と個人所得税の様々な人的控除の「縮小・廃止」…「課税最低限があまり高いことは望ましくない。」
 02年答申。「何よりも重要なのは、特定の人の税負担を重くするのではなく、できるだけ多くの人に何らかの形で負担してもらうことである。」
 03年税調答申に、消費税の税率「二桁」を書き込んだのが自慢の石会長、「どうせ税を支払わねばならないなら、痛みなく取ってもらいたいというのが、日本人の性癖」。
 04年、配偶者特別控除の廃止。
 05年、老年者控除(50万円)の廃止。「高齢者は決して社会的弱者でなくなってきている。」その一方、累進制強化については、「個人所得税の最高税率を上げると、高額所得者の海外逃避や勤労意欲の減退など、社会全体の活力が失われる。」(石会長)
 こういう方針の影響が、消費税導入後の国税収入の推移に現われている。国税収入のピ−クとなった1990年度の60兆円に対し、2010年度の税収は約3分の2の38兆円までに落ち込んでいる。その内訳を主要三税、すなわち所得税、法人税、消費税の税収推移について見ると、所得税が2分の1、法人税が3分の1と大きく減収となった一方、消費税は2倍となっている。

V 「政権交代」と税制(2009年)

 2009年の総選挙で、「消費税を増税しない」という公約を掲げて勝利し、「政権交代」した民主党政権の下でも、こういう税制の流れは変わらない。
 鳩山内閣の「税制改正大綱」(2009年12月)は、税の公平理念として、自公政権と同じ「分かち合う」を掲げている。新しい政府税調の下につくられた専門家委員会(神野直彦委員長)の「税制改革の課題と考え方」(2010年6月)も似たような考え方である。
 租税とは、「支え合う社会」の実現に必要な費用を、「国民が分かち合うもの」。
 勤労世代に偏って負担を求めるのは困難。社会で広く分かち合う消費税は重要。
 消費税の使途について、社会保障と関連付けて理解を求めることが重要である。
 そして2011年1月、「社会保障・税一体改革」を推進しようと、菅改造内閣では、野田佳彦財務相と並んで与謝野馨を経済財政相に登用し、社会保障改革検討本部議長補佐に据えた。その与謝野経済財政相のインタビュ−記事、「消費税を含む税制改革や財政再建への取り組みについて、『菅さんは本気だ』と思った。菅さんは昨年6月、参院選を前に消費税増税は必要だと言った。これは非常に勇気のいる発言だし、立派だと思いました。」(朝日新聞、2011年1月25日)
 菅内閣の後を継いだ野田首相も、「本気だ」そうである。

VI 社会保障・税一体改革案(2011年6月)の問題点

(a)「個人の自立・自助を、国民相互の共助・連帯で支援」とある。これは、社会保障の「公的責任」に触れないよう用心しながら、1980年代の第二臨調以来の「自立・自助」を、「共助・連帯で支援」するという構造の踏襲である。
(b)「給付の重点化、運営の効率化」という用語は、典型的な官庁用語であり、歴代の自民党政府がこれらを駆使して、「福祉抑制」に励んできたところである。
(c)「給付・負担両面で、世代間・世代内公平」では、消費税が主役とされ、その目的税化までうたっている。「社会保障の費用を、あらゆる世代が広く公平に分かち合うため、…公費負担の費用は、消費税収を主要な財源として確保する。」「消費税収はすべて国民に還元し、官の肥大化には使わない。」「消費税を社会保障の目的税とすることを、法律上、会計上も明確にする。」それにしても、なぜ消費税だけ増税なのか。他の有力な税は、問題にしない積りなのか。消費税を、わざわざ「国民に還元」するために増税すると言う。しかし消費税を「社会保障目的税」としている国など、どこにもない。
(d)「社会保障改革と財政健全化の同時達成」も、「将来的には、消費税収を主に…安定財源を確保することで、社会保障制度の安定・強化につなげていく」と消費税の増税頼みのようだ。また「現在、社会保障給付の財源の多くが、赤字公債、つまり将来世代の負担で賄われている。このような負担の先送りは、放置できない」と主張している。
 しかし1966年以来の公債発行の歴史は、「建設公債(公共事業の財源)」の乱発が、赤字公債発行に連なり、今日の財政窮状(大借金)をもたらしたことを示している。外圧や財界の要求のままに、歴代の自民党政権と連立政権が、とりわけ1990年代後半以降、節度のない景気対策を重ねてきた結果にほかならない。
 借金負担の方は、将来世代へ「先送り」を許されないと言うが、今、消費税を増税すれば、その増税された消費税の重い負担こそ、将来世代へ「先送り」されるであろう。
 むしろ消費税導入以後、大きく減税されてきた所得税や法人税を増税し、さらには金融所得に対する優遇措置の廃止など、従来の景気対策により恩恵を受けてきた、大法人や富裕層に負担増を求めるのが筋だと思う。
 日本国民は、消費税に抵抗してきた国民である。その抵抗の結果、導入して20年になるのに、3%から5%に上がっただけである。これは世界的にも稀有な例であるとともに、日本国民の民主主義的税金観の成長を示している。
 税制や経費の見直しのためには、政治の見直しが必要である。今こそ、戦後日本の原点に戻り、憲法を暮らしに活かすべきではないか。政官財癒着の各種のムダ遣い、平和に逆行する軍事費を大きく削り、憲法が指し示す平和で豊かな文化・福祉国家の実現を目指すのが、21世紀の世界で日本国民の果すべき役割と思う。
 (小論は、2011年11月5日、労働総研プロジェクト「財源保障」公開研究会での報告を、要約・整理したものである)

(あんどう みのる・会員・静岡大学名誉教授)