労働総研ニュース:No.248 2010年11月



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「韓国併合」100年を釜山で迎えて考えたこと …勝村 誠
戦後・労働組合の社会保障運動の教訓……………公文昭夫




「韓国併合」100年を釜山で迎えて考えたこと

勝村  誠

 私は政治学領域の日本政治史を研究する者として、1920年代の無産運動が日本政治にいかなる影響を与えたかを追求してきました。大学院時代に加藤勘十のことを研究していましたので、中西伊之助という人物のことは、1937年に加藤を委員長として結成された日本無産党の主要メンバーとして名前ぐらいは知っていました。中西伊之助は日本交通労働組合創立時(1919年)の理事長として東京市電争議を指導したことで知られ、戦後は日本共産党の衆議院議員を2期つとめました。彼はまた1922年に日本で初めて朝鮮植民地支配を批判的に描いた長編小説『赭土(あかつち)に芽ぐむもの』で文壇に鮮烈なデビューをはたした小説家としても著名です。創作と闘いを結びつけて生きた人でした。

 8年ほど前に私はやっと『赭土に芽ぐむもの』を読むことができました。この小説は、植民地朝鮮における日本人たちの道義に反した行動ぶりを赤裸々に描きつつ、民族の差異の狭間で苦しんだ彼自身の苦悩に正面から向き合った作品です。小説の面白さに惹かれるにつれ、植民地宗主国時代の日本政治を研究していながら、植民地に目配りしなかった自分の歴史認識の脆弱さに気づかされました。私が朝鮮近現代史や日朝関係史を学び始めたきっかけです。

 今年は日本が朝鮮に「韓国併合条約」を強制した1910年から100年目にあたりますが、私は2月から9月まで、韓国・釜山の東亜大学校で勉強する機会を得ました。東亜大学では民族運動史研究者として著名な洪淳權教授のご指導の下で韓国近現代史の基礎を学びました。洪先生は近年は植民地時代の日本人社会についても研究されています。また、時間の許す限り、植民地支配や抗日民族運動にまつわる史跡地も見て回りました。強制併合100年をテーマにした学術大会にもできるだけ出席し、韓国語で日本政治史の研究動向について発表させていただく機会も何度かいただきました。

 日本は急速な近代化の過程で東アジアの諸地域に植民地支配と戦争による甚大な被害をもたらした加害国=震源地ですが、そのことが私たちのなかに充分に内面化されているとは言い難いでしょう。いや、全く不充分です。一方で、支配を受けた側の地域では数多くの史跡地が残され、支配と反抗をめぐる歴史の記憶が絶えず再生産され、大切にされています。私たちは近隣諸国との相互理解を深めようとする立場に立つならば、この歴史認識の非対称性をしっかり認識しておく必要があると思います。私自身、微力ではありますが、中西伊之助の生き方に学びつつ、一国史的な限界を乗り越え、東アジアの脈絡のなかで日本政治史や労働運動史を少しずつ見直していく作業に励まなければと考えています。そのためには、近年の韓国における研究成果も吸収しなければなりません。かなり回り道になりそうですが、韓国のアナキズム運動史研究の成果を翻訳する作業を始めました。

(かつむら まこと・理事・立命館大学政策科学部)


戦後・労働組合の社会保障運動の教訓

公文 昭夫

1 労働組合にとっての社会保障とは

 戦後日本の社会保障制度の構築と発展が、中央、地方を問わず、さらには規模の大・中・小を問わぬ労働組合、労働組合運動の中心的活動家たちの献身的な努力と知恵で支えられ、前進してきたことは、明白な歴史的事実である。歴史の経過のなかで、ときには政治信条、運動・組織方針上、または、制度改革の方法論などのちがいで対立し、反発しあうことがあっても、労働者、組合員の生活を守るという点で、社会保障改善の意思には一定の共通項があったと思う。

 それが国際的な労働組合の共通認識であることは、1953年にひらかれた国際社会保障会議(「社会保障綱領」採択)でのアンリー・レイノー(フランス労働総同盟)の報告に示されている(注)。すなわち、「質・量」ともに、労働者階級のなかの中心部隊である労働者・労働組合の社会保障運動こそ「改革」「改善」の礎石であり、必然的な任務であるということだ。この認識自体、すでに企業内労組、企業意識をこえるものである。

 いうまでもないことだが、社会保障は雇用労働者だけの生活保障システムではない。在日の外国人も含めたすべての人たちに共通する制度課題である。この点については、アンリー・レイノーの基調報告でも、「労働者」ではなく全階層を含む「労働者階級」という表現を前提にして、制度改善の行動を提唱している。すなわち「この行動は、自治体議員や国会議員……(労働組合以外の…筆者注)社会的グループ、婦人団体、老齢年金団体、ならびに傷病者団体などとともに、この種の行動に参加する必要がある」と指摘している。

 したがって「戦後日本の労働組合の社会保障運動」も、とうぜんのことながら農民組織、農業団体、自営業者団体(たとえば全商連など)、生活と健康を守る会(全生連)、全日本民医連、保険医協会(保団連)、母親大会や新婦人をはじめとした女性団体、障害者団体など、多くの大衆団体、市民との数限りない協力、共同の運動なくして語ることはできないし、成果をあげることもできなかったといえる。それは、これからの運動のなかでも共通する視点である。

 この小論では、そうした大前提をおいたうえで、日本の労働者、労働組合が、どのような契機や条件のもとに「社会保障運動」に接近し、みずからの課題として吸収し、発展していったかを、主として、ナショナル・センターの立ち位置から考えてみようと思う。


(注)「社会保障憲章」「社会保障綱領」およびアンリー・レイノーの「基調報告」の全文は、1987年臨時増刊「資料と解説・社会保障(中央社会保障推進協議会)」に掲載されている。

2 労働組合の視点から見た社会保障運動

(1)労組中央組織(ナショナル・センター)の役割と制度整備の背景

 とりあえずは、労働組合の視点からみた社会保障運動の歴史的区分を概観しながら、話をすすめようと思う。この区分も学問的根拠にもとづくものではなく、私個人の体感的、経験的なものであることをおことわりしておく。

 第一期は終戦の年の1945年から54年頃までの、社会保障運動「模索」の時期である。それも前段は、全国民の総飢餓、総貧困という深刻な現実にたいして、アメリカ占領軍の民主化政策(その一環として45年12月に労働組合法公布。同時期に、社会保障制度の整備へむけての契機となった「救済ならびに福祉計画に関する件」というGHQの覚書が出ている)ともあいまって、労働組合の組織化が爆発的に進み(45年に509組合、49年には3万4688組合、組織率53%となる)、産別会議、総同盟(両者とも46年結成)の中央労働組織が、失業反対、雇用拡大、日本の民主化をもとめて指導的役割をはたした時期である。いうまでもないことだが、その時期は、革新政党とよばれた日本社会党、日本共産党なども含めて、思想、システム(制度体系)の両面で総合的な社会保障政策や要求があったわけではない。いや、むしろなかったといったほうが正しいかも知れない。二つのナショナル・センター、二つの政党の社会保障要求の共通項は、ただ一点「失業保険」の確立であり、それとあわせて、その他の「社会保険」の整備という抽象的なスローガンにすぎなかった。

 同時に、その後の運動にもすくなからぬ影響を与えたと思われる要求の違いも指摘しておく必要がある。それは、産別会議、共産党の要求が、戦前(1912年)のレーニンの「労働保険綱領」を軸としたこと、総同盟の要求の主軸が、企業内労働組合(企業内福祉)に力点をおいていた点である。しかし、それでも、終戦後数年間で、制度体系としては欧米なみの社会保障制度が構築された理由はなにか。

 第一に、それは飢餓からの脱出をめざした地域での労働者の生活実態、職場に根をおろした要求にもとづく労働組合の、企業主、自治体へむけてのたたかいであり、それを中央労働組織(産別会議、総同盟)、社会党、共産党などを通じて政治、国会へ反映させたということだと思う。このことは日本に限らないことだが、中央労働組織(ナショナル・センター)という組織形態をとることによって、企業内労組の弱点がカバーされ、必然的に経済的課題の底上げから政治課題への展望が可能となることを意味している。

 第二に、欧米諸国にくらべて、戦前から日本には国家的政策としての社会保障制度が、ほとんどといってよいほどなかったということである。飢餓、貧困からの脱出にあたって、占領軍、政府とも、とにかく形だけでも社会保障制度の整備を進めざるを得なかったという背景があったと思う(戦前の日本には、周知のように1927年実施の健康保険法、42年実施の厚生年金保険法……制定当初の各称は労働者年金保険法……しかなかった)。

 そうした制度のその後の発展にとって、アメリカの「日本の社会保障制度に関する調査団報告」(ワンデル報告・48年)と社会保障制度審議会の「50年勧告」、53年の国際社会保障会議で採択された「社会保障綱領」などが積極的な役割をはたしたことを付記しておく。

 第三に、諸外国では例をみないほどに強力な大衆団体の存在と、課題別の運動があったということである。とくに、戦後日本のなかで、もっとも深刻に死線上をさまよわされた「医療」の現場と「失業者」の集団の自然発生的なたたかい、底辺からのたたかいが特徴的である。後に民医連、保団連として力強い日本民主化の役割をはたす医療関係団体と患者組織(日本患者同盟など)との共同闘争が、現場の医療労働者、医療労働組合との協力、共同の運動を通じて医療保障制度の基礎をつくった。失業反対の運動が、全日自労と生活と健康を守る会(のちの全生連など)の強いきずなをつくり、戦前にはなかった失業保険(現、雇用保険)、新生活保護法の制定、公共事業としての失業救済、雇用対策の事業を創造、後の国民健康保険充実の窓口をひらくことになった。

 第一期の後段になると、産別会議の停迷、指導力低下が鮮明となり、総評という新たなナショナル・センターが結成(1950年)される。広島・長崎への原爆投下、悲惨な沖縄戦などの歴史から、幅広い国民の反戦、平和のねがいと結合した民主化運動がつよまり、それと連動するかたちで社会保障要求や政策的提言が、かいま見られるようになる時期である。周知のように、占領軍の労働組合支配(おそらくアメリカ労働総同盟、AFL・CIOのような組織として育成する思惑があったのだろう)の先兵として総評はつくられたが、数ヵ月を経たずして占領軍、政府の思惑ははずれることになる。1950年の総評結成大会では「失業対策の完備と社会保障制度の確立」がスローガンだったが、52年の大会では「再軍備反対、企業組合克服」がメーン・スローガンとなり、53年大会では、「最低賃金の獲得」とあわせて「軍事予算粉砕・社会保障拡充」を中心課題にすえることとなる。54年の第5回大会には、はじめて、敵対関係(と思われていた)にあった産別会議議長(当時、吉田資治氏)と日本共産党(春日正一氏)が来賓として招待されている。いろんな考え方の違いをもちながらも、地域での労組、大衆団体との共闘が持続された背景には、日本国民の「戦争は嫌だ」(憲法九条)という他国民以上に強力な共通する意思があったと思う。あらためて要求の主軸を整理してみると「最賃」(労働者の賃金)、社会保障拡充(全国民の生活向上)「戦争反対・平和を守る」の三点セット、トロイカ・スタイルが常に根底にあったといえる。

 そうしたなかで、軍事費増額、再軍備強化のために、社会保障、教育予算などをなで切りにする「MSA予算」(54年)が社会問題化する。

 「MSA予算粉砕」をかかげて、総評傘下の労働組合、社会保障関係団体が「社会保障を守る会」をつくって国民的抵抗を示す。国民的共同の運動の象徴的指導指針として、総評内で高野実さんの「家族ぐるみ、町ぐるみ」の地域に軸をおいた方針と大田薫さんの産業別賃金闘争という論争があったが、運動の高揚は、そうした対立をこえた次元で労働組合の社会保障運動への急接近の土台を生みだしたといえる。感想的な指摘になるが、もう一点、初期の運動のなかで企業内労働組合でありながら、地域での社会保障、福祉運動にためらいなく参加できた要素として、「職・住」一体の生活様式を余儀なくされていた事情もあったと思う。

(2)「春闘」「社保協結成」による飛躍的転換

 第二期は、1955年から60年代半ばへかけての時期である。ひとことでいえば、労働組合の社会保障運動基盤の整備と拡大の時期といえる。中心軸となったのは、55年の「春闘」という闘争形態の創造(世界に前例のない)と58年の中央社会保障推進協議会の結成である。余談になるが、総評の本部機構のなかで、この年(55年)、はじめて社会保障、福祉を担当するポストがつくられた。初代部長は金属鉱山労組(全鉱)出身の塩谷信雄氏(総評退任後、革新首長・国分寺市長となる)、部員は筆者一人という貧弱な出発だった。ところが、部の名称は「福祉対策部」であった。おそらく加盟単産の意向として、企業内福祉の到達闘争(底上げの要求運動)への配慮も忘れるな、ということだったと思う。2年後の57年から「社会保障対策部」となり、解散(89年)直前に「局」へと昇格している。

 社会保障運動全体の歴史については、(1)82年に労働旬報社から刊行された「社会保障運動全史」、(2)中央社保協98年発行の「社保協結成と統一の運動40年」、(3)08年の大月書店刊「中央社保協50年史」に詳しく述べられているので参照してほしい。

 春闘共闘会議の結成とその運動の高揚と社保協結成は、中央レベルでの(主として最低賃金制確立と社会保障制度改善の結合による)対政府闘争を前進させると同時に、地域での労組と住民との共闘をひろげた。その具体的な運動のいくつかをあげてみる。

 まず特徴的な運動としては、中央、地方の社会保障推進協議会(以下社保協と呼ぶ)の結成とあいまって国民的課題となった「朝日訴訟」の運動がある。詳細は前掲の運動史を参照してもらいたい。春闘発足後の総評(加盟している民間、公務員労組の連合体……単産と呼んだ)、春闘共闘会議に参加するその他の労働組合(全建総連など総評、同盟などに加入しない中立の労働組合。中央労働組織としての中立労連・全国中立労組連絡会議が56年につくられた)の多くが、賛意を示してこの運動に参加した。その最大の理由は、この裁判闘争が、憲法25条の基本理念「すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む基本的権利を有する」という「生存権保障」をもとめる運動だったからである。いわば、戦後日本の社会保障運動の理論的支柱、象徴的な国民共闘であり、そこに多くの労働組合の共感をよぶ要素があったと思う。それでも切り口は、やはり日本の労働者の低賃金構造をいかにして乗りこえるか、労働者の生存権は、賃上げによって保障されるという、企業内の賃金、労働条件向上と結びつけて接近していったといえる。総評の場合も、低賃金構造打破(それはまた企業内労組、企業大切の意識からの脱皮を意図していた)のためのメーン・スローガンは、「全国一律最低賃金制の確立」であり、そのための「生活保護基準の引き上げ」、「朝日訴訟」への支援であったと思う。そんななかでキャッチ・コピー「最賃と社保(生活保護)は車の両輪」が、いろんな集会のなかでひろげられていった。日本のいたるところに「生活保護基準以下の賃金で働かされている労働者がたくさんいる」、その賃金(および全国民に共通する年金、医療制度の現金支給部分の水準)が、一貫して生活保護基準をもとにして設定され、抑制されている。人間らしい生活を保障するための賃上げ、その基礎となる「最賃」獲得のためにも「生活保護基準引き上げ」は必須の条件である、という視点から「朝日訴訟」「人間裁判」を全面的に支援するというのがスタート・ラインであった。物心両面という言葉があるが、その後結成された「朝日訴訟中央対策会議」の事務所を総評本部におき、経費のほぼ全額を総評財政で負担した。この視点は、企業意識(企業内従業員組合)から抜け出て、産業別の賃金引き上げを実現する、という春闘共闘の主要な目標とも合致するものであったといえよう。

 ふたつめが、59年にとり組まれた総評・社保協共催による「貧困打破」と戦争反対を結合した「戦争と失業に反対し、社会保障を拡充する大行進」である。総評に加入していた全日自労の当初の提案(総評への申し入れ)では、「失業対策と戦争反対」にしぼる、というものだったが、総評の要請で「社会保障拡充」が追加された。このこと自体、総評というナショナル・センターの社会保障運動への問題意識の前進を示すものである。総評解散後の93年に刊行(第一書林刊)された「総評40年史」のなかでも「(総評が…筆者注)社会保障闘争を国民運動として本格的なとり組みが行われるようになったのは社保協結成を契機とする」「“戦争と失業に反対し、社会保障を確立する大行進”には全国で500万人が参加し、……労組の社会保障闘争の意義(重要性…筆者注)を全国にひろげた」(「総評40年史」第二巻・国民運動とカンカンパニア組織、399頁)といった評価がされている。もっともこの「40年史」は、いろんな学者の寄せ集めでの執筆だったためか、別の頁の部分では、総評の社会保障運動が本格化、整備されるのは「総評の後期、終わり(解散)に近くなってからである」などと訳のわからない評価(おそらく「社・公合意」以降、労働戦線統一の流れが加速していく過程と展望?にもとづくものと思われる)をしている。この大行進運動は、「総評40年史」のなかでの評価とあわせて、今日、全労連の地域労働運動の柱のひとつとなっている「キャラバン運動」の原型となったし、地域での社会保障運動の組織化にも大きな示唆を与えるものであった。

 紙数がないので割愛するが、このほかの特徴的な運動としては、(1)56年の健康保険法改悪反対のなかで医師会、歯科医師会、薬剤師会と労働組合が共同闘争をおこなった「労医共闘」運動、(2)60年安保闘争のさなかにたたかわれた「子どもを小児マヒから守る運動」(日本母親大会などの女性団体と中央、地方での、地区労、教員組合などが大きな役割をはたした)、(3)62年の「最賃獲得、社会保障拡充、朝日訴訟を勝ちぬく大行進」などがある。いずれも飛躍的に労働組合の社会保障運動の拡大に結びつく要素になったといえる。このころ(56年〜)から、総評では全単産参加の「社会保障担当部長会議」を常設することになった。

3 労働組合の「生活闘争」と73年 年金ストの意義

 第三期は、労働組合の社会保障運動の高揚と全国民的運動の構築が、目に見えるかたちであらわれた時期、すなわち1965年から74年へかけての10年間である。

 この時期の大きな特徴は、高度経済成長政策の破綻にともなう、さまざまなひずみが、労働者・国民の生活破壊を顕在化させるという背景のなかから生まれる。それは、健康とくらしに壊滅的打撃を与える「公害」のひろがりからはじまり、農、漁業の崩壊による核家族化の進行(家族のきずな断裂の序章)、ひとりぐらし老人をはじめとした高齢者の低年金による貧困の加速、医療危機の深刻化(負担増大と医療現場のマンパワー不足、低賃金など)などなど、社会保障の全分野にわたる政治の貧しさが告発される結果となった。

 (1) そうした政治不信のあらわれのひとつが、主要な都道府県、市町村での革新自治体の誕生である。多くの労働組合、春闘共闘を支えるナショナル・センターとしての総評、中立労連、新産別などが、さまざまな矛盾点や対立点をかかえながらも、中央、地方で「政治の革新」に取り組んだといえる。そのなかから地方独自の「老人医療無料化」が実現(73年から国の制度となる)、地方独自の「敬老年金」の制度化、保育所増設など社会福祉制度の拡充が進行する。反公害闘争も全国的な規模でひろがる。

 (2) 生活全般にわたっての「ひずみ」は、とうぜん労働組合内部にも大きな変化をもたらすことになる。すなわち「要求」の多様化である。ひらたくいえば、個別企業の「賃金・労働条件」「賃上げ」だけでは、総合的で多様な「貧困」と対応できなくなってきた。財界もコスト削減のため、企業内福祉費の抑制に手をつけざるを得ない。そうした変化のなかから医療、年金、社会福祉(児童福祉、老人福祉、障害者福祉など)など社会保障の充実が、労働者個々人の春闘要求アンケートのなかでも示されるようになる。

 そこから1969年の「総評15大生活要求」が提唱され、大会決定となる(15大要求は賃上げ、最賃制確立などとならんで年金、医療、保育などの社会保障要求、ベトナム戦争反対、沖縄基地反対、日米安保条約の廃棄といった高度な政治課題までもが盛りこまれた)。要求実現のための運動論、組織論として総評、春闘共闘会議などが提唱したのが「生活闘争」方針(71年)である。ひとことでいえば、経済的要求、課題であっても、その実現のためには国の予算、地方自治体の予算、法律を変えねばならない。一企業、一産業の経営者との交渉で対応できるものではない。「団体交渉の領域を政府、自治体にまで拡大する」という運動論であった。その主要な背景として、地域における医療関係団体、高齢者団体による国の制度としての老人医療無料化運動があり(71年には、22都道府県で実施)、高齢者の一万人大集会(71年)があった。

 ここから73年春闘での「年金統一ストライキ」の方針が決定される。「年金」と銘うった背景には、賃上げ、労働基本権を取りもどそう、保育所の内容改善、医療改革など、さまざまな要求で「スト権」を立て、対企業、対当局交渉と同時並行で対政府団体交渉をやる。ただし社会的アピールのネーミングは「年金スト」でいこうというのが、当時の総評指導部の決断であったと思われる。交渉の過程では、局長、課長レベルの事前交渉から、交渉決裂時点での厚生大臣交渉までがおこなわれ、「年金統一スト」(73年4月17日)が実施された。結果は、年金額の2.2倍引き上げ、年金スライド制の法制化から国の制度としての老人医療無料化の実現、児童手当法制定、高額療養費制度の確立など多岐にわたる制度改革が実現している。この成果をうけて74年からは「国民春闘共闘会議」という名称となった。

 (3) また、こうした国民的運動の構築を背景にして70年代初期には、社会、共産、公明、民社の四野党が、年金その他の課題で共同の法案をつくり、国会に提案するという動きも活発化した。

 (4) 産業別統一闘争として、この時期活発におこなわれた運動に、健保、年金など社会保険料の負担割合を「労三、使七」とするという「三・七闘争」がある。これも、対企業交渉とあわせて、厚生省局長(当時の交渉相手は年金局長)と春闘共闘代表との交渉が実施され、法律の解釈として「使用者が半分をこえて余分に負担しても法違反にはならない」という回答をひき出し、運動の前進に役立った。

4 新自由主義「改革」のもとでの運動の変化

 紙数がなくなったので、第四期の石油危機にはじまる財政危機を口実とした労働組合、民主勢力にたいする反動攻勢の強まり、第二臨調を起点とする新自由主義「改革」の助走と全面的な社会保障・福祉「見直し」と対抗する社会保障運動の時期(1974年から80年代末まで)、第五期の90年代から今日へかけての大企業・財界主導による社会保障の理念とシステム改編とのたたかいの時期については、申し訳ないがほとんど箇条書き程度に記すしかない。

 さて第四期だが、田中角栄元首相をして「福祉元年」(73年)と言わしめたように、社会保障制度改善の成果は、戦後の「頂点」を示すものであった。同時に、この時期を起点にスタートした世界規模での財政危機、同時不況が国民生活を直撃し、大企業・財界と政府の危機感をつのらせる。

 そのなかで猛威をふるったのが、国民に「あきらめ」「がまん」を強い、団結・結束にくさびをうちこみ、分裂をうながす思想攻撃としての「高齢化社会危機論」であった。70年代後半へかけての世論誘導を通じて、80年代の「第二臨調答申」の連発、80年代半ばへかけて老人無料医療つぶし(82年 老人保健法)から、健保・国保の改悪(84年)、年金改悪(85年)など社会保障制度の全面的な後退、改悪が始動する。中曽根「臨調・行政改革」の政治は、社会保障の国の負担を大幅に「仕分け」(削減)することとあわせて、「日本はアメリカの不沈空母」(日米安保の強化、軍拡)の路線をつよめ、財界と一体での「民営化」(国鉄解体など)による労働組合つぶしを進めた。

 とうぜん、労働組合の社会保障運動分野にも大きな変化が生まれる。

 (1) この時期、総評内の一部単産から公然と「共産党よりの社保協は解散すべし」という声が出てくる(80年の「社・公合意」「公・民連合政権構想」など社・共革新統一戦線の消滅などが背景にあった)。

 (2) 右翼再編とよばれた労働戦線統一の思惑とあわせて、財界の意思を代弁する「同盟」指導部の圧力もあってか、76、77年頃から80年代へかけて、労働組合の社会保障運動は「労働四団体を主軸(総評、同盟、中立労連、新産別)にする」という方向が強まる。

 (3) 80年代初期の社会保障制度の改悪については、こうした動きと並行しながら、春闘共闘会議は、職場、地域の労働者の「貧困」とたたかう意思に支えられ、ときには「ストライキ」をかけて抵抗した。混迷を深めながらも、この時期、総評、春闘共闘会議は、大衆運動を中心とした社会保障運動は中央、地方の社保協で、という姿勢を保ちつづけたといえる。社保協も、総評解散にいたるまで、後に連合へと吸収される単産、総評本体も含めて統一が保たれたことは重視されるべきである。

 (4) この時期からはじまった労働者の意識変化も見落とせない。それは90年代から2000年代へと、より強化されていく雇用・賃金制度の破壊のなかで拡大されていった。すなわち、「先祖がえり」の企業内正規従業員労組の意識が強まる切り口が生まれたということだ。総評などは80年代の後半へかけて、パート労働者の組織化など、かつての「合同労組」の教訓を生かしての未組織対策の強化をはかったが、おそきに失したといえる。

 第五期については、総評解散、全労連、連合のスタートという大きな変化があり、比較的資料もととのっているし、記憶にも新しいので割愛する。

 ただ、この時点での特徴的な動きとして、2点ほど付加しておきたい。

 第一点は、労働者、労働組合の社会保障運動を理念的にも実践面でも本格化させる契機となった「春闘」(55年から73年へかけて)、「国民春闘」(74年〜89年)の路線を結成以来一貫して全労連が継承発展させてきたという点である。

 全労連結成大会の方針では「企業内労働組合運動の弱点を克服することが重要な課題」として「春闘勝利の展望は、個々の企業や産業での闘争力の強化とともに、全国的、国民的規模で、社会的な力関係を変えていくたたかいを発展させることによって開ける」ことが強調されている(大月書店「全労連20年史」)。その方針にもとづいて90年1月16日に「90年国民春闘共闘委員会(略称・国民春闘共闘)」が、全労連、国労、都労連など春闘懇談会の有志単産、純中立労組懇の参加で結成されている。これが、困難な90年代、2000年代へかけての労働者、労働組合の社会保障運動を支え、発展させる基軸となっているといえよう。具体的には、93年の年金改悪にたいする「21年ぶり」の年金改悪反対のストライキ行動(42単産、47地方組織、80万人が参加)の実施、2000年代以降の小泉「構造改革」にたいする国民的共同行動の展開などがあげられる。同時に、全労連結成直後、当時の熊谷事務局長のもとで「社会保障三年闘争」の方針が提起された。当面の要求課題と中期的展望を結びつけたものとして、大きな役割をはたしたと思う。

 第二点は、こうした運動が連合傘下の労働者・労働組合にも共感をよび、90年代半ば以降、労働法制、年金、医療、最賃、反貧困、平和といった諸課題で、連合、全労協などとの「協力・共同」の運動が進んだことである。「派遣村」の反貧困運動なども、そのひとつといってよい。労働「四団体共闘」の社会保障、福祉分野での協議体である中央労働者福祉協議会(中央労福協)などとの「共同」は、非正規労働者の地域での組織化、社会保障・福祉改善運動にも大きな影響を与えるものである。

(くもん てるお・会員・年金実務センター代表)

10月の研究活動

9月26日〜
10月8日
フランス・イギリス労働者生活まるごと調査
10月8日

労働時間・健康問題研究部会
中小企業問題研究部会

12日

女性労働研究部会
賃金最賃問題検討部会

19日 労働組合研究部会
22日

研究所プロジェクト社会保障作業部会
研究所プロジェクト学習会

10月の事務局日誌

10月15日 労働法制中央連絡会総会(牧野代表理事あいさつ)
20日 第2回企画委員会
23日 第1回労働総研クォータリー編集委員会
26日 自交総連大会へメッセージ
27日 国民春闘共闘委員会総会