2000年9月1日(通巻126号)



目   次
巻頭言

 スペイン・セビーラで考えたこと……………………………内山 昭

論 文

 90年代の歴史見直しの「運動」をめぐって………………山田敬男

2000年度定例総会での発言など



スペイン・セビーラで考えたこと

内山 昭

 私はスペイン・セビーラ市(英語読みセビリア)で開催された第56回国際財政学会(IIPF、8/28〜31)に出席するため8月23日から9月3日までスペインに滞在した。出席者は35の国と地域から350名余、それに同行者が200名ほどいる。学会の共通テーマは「財政と人的資本」で、これに焦点をあてた理論的研究かつ各国事例について多くの発表と熱い議論がおこなわれた。E.ハニュシェック教授(アメリカ、スタンフォード大学)の「人的資本の質の重要性」という報告は特に私の関心をひいた。アメリカは教育政策の成功と財政措置によって中等教育、なかでも数学、理科、読解力に関する指標が改善され、それが90年代アメリカ経済活性化の一因となっているということである。これを可能にしたのは教師の質の改善とクラスの一層の小規模化にある。アメリカではクラスの標準サイズは30名であるから、さらにこれを小さくしたことになる。わが国でも小中高の学級規模を一日も早く30名以下にしたいものだ。単に人的資本の改善だけでなく人間らしくなるための教育をうけられるために。
 セビーラ市はスペイン南部アンダルシア地方にあり、グラナダ、コルドバとともに中心都市、そしてムスリム支配時代以来の歴史、文化を有している。アンダルシアの町を訪ねて改めて感じるのはヨーロッパ人の自己認識は自分の住む、あるいは育った地域、国民国家、ヨーロッパ、地球世界という四層構成をなしていることである。グローバリゼーションとヨーロッパ統合(EU)で国民国家の地位が低下し、地方分権、つまり都市や地域の自律性、独自性が高まっているが、その歴史、風土のせいか、ここではそれが特に感じられる。日本でもたとえば九州、東海、近畿という地域名に固有の香りがないわけではないが、あまりにも弱々しい。かっては決してそうでなかった。地方分権や地域の自治を人々の血肉と化していくには、制度改革の背骨となるべき地域の独立性が必要なのであろう。地域性に裏付けられて国際性ははじめて本物になる。大学についても、労働組合、民主団体にとっても県レベルで方針・戦術・組織形態を決定しうる独自性、能力を求められているのではないだろうか。

(理事・立命館大学教授)






90年代の歴史見直しの「運動」をめぐって

山田 敬男 


1 歴史認識が過去の問題にならない

 日本では、明治維新、日清・日露戦争から15年戦争に至る近現代史の評価が、単なる歴史解釈の問題でなく、今日の政治的争点になっている。とくに15年戦争やアジア太平洋戦争をどう見るかによって、戦後社会の評価が根本的に変わってくる。日本国憲法と戦後民主主義はこの戦争の歴史的反省を前提としている。したがって、15年戦争やアジア太平洋戦争を反省しないでそこに積極的意義をみるのであれば、日本国憲法と戦後民主主義の評価は否定的にならざるを得ない。そしてこの10年近くをみると、教科書攻撃と歴史見直しの動きが活発になり、15年戦争やアジア太平洋戦争を積極的に肯定しようとする動きが強まっている。

(1)90年代の歴史見直しの「運動」
 90年代は、戦後50年を迎えることもあり、戦争のけじめをどうつけるのかをめぐってさまざまな議論が行われた。日本政府は、日本帝国主義の侵略戦争や植民地支配に「一定の反省」を示す動きを示した。たとえば92年7月、当時の河野洋平官房長官は、「従軍慰安婦」問題で政府として公式に軍の関与を認め、謝罪することを余儀なくされた。また93年8月、細川首相は所信表明演説のなかで「過去の我が国の侵略行為や植民地支配など」に関して「おわび」を表明した。こうした「一定の反省」は、アジア諸国への外交的配慮であり、その背景には、アジア展開を軸に本格的に多国籍企業化する日本独占資本内部の要求が存在していた。財界人のなかに、アジアにおける経済的利害の必要性から、過去のアジア侵略や植民地支配への「一定の反省」が不可欠という判断が生まれていたのである。もちろんこの「一定の反省」路線は、15年戦争の本質的性格が侵略戦争であるとは決して認めず、「行為」を反省するといっているにすぎない。
 しかし支配層はこの路線でまとまっているわけではない。この路線に反発して、偏狭な排外主義的なナショナリズムが勢いを増したのが90年代の特徴であった。細川発言に反発して、93年、自民党の靖国三団体(英霊にこたえる議員協議会、遺家族議員協議会、みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会)は「歴史・検討委員会」を設置した。その設立趣旨には「戦争に対する反省の名のもとに、一方的な、自虐的な史観の横行は看過できない。われわれは、公正な史実に基づく日本人自身の歴史観の確立が緊急課題」とあった。この「委員会」は、95年に戦後50年を期して『大東亜戦争の総括』(展転社)を刊行するが、このなかで「大東亜戦争」が自衛の戦争であり、アジアの解放をめざした戦争であることが強調され、露骨な「大東亜戦争肯定論」であった。96年6月、「大東亜戦争肯定論」の立場に立つ衆参議員によって「明るい日本国会議員連盟」が結成される。
 また民間で、95年1月、藤岡信勝氏らによって「自由主義史観研究会」が結成された。藤岡氏は94年から「近現代史の授業改革」運動を始めていたが、現在使われている歴史教科書が「東京裁判史観」と「コミンテルン史観」の影響のもとに、日本の近現代史を一方的に悪とする自虐的で暗黒的なものに描いていると攻撃する。そのうえで「日本人であることに誇りを持てるような歴史」叙述が必要と強調する。
 こうしたなかで、97年1月、「自由主義的史観研究会」グループや教科書攻撃を行ってきた諸勢力が合流して「新しい歴史教科書をつくる会」が結成される。「つくる会」は、歴史教科書を攻撃するだけでなく、自分たちの教科書をつくる準備をすすめているが、当初は歴史教科書のパイロット版といっていたが、会長の西尾幹二氏の『国民の歴史』(産経新聞ニュースサービス)を発刊している。

(2)「国家改革」・改憲と連動
 こうした歴史見直しや教科書攻撃の背景に90年代の「大国化」とそのための改憲の流れがあった。90年代の「大国化」は、湾岸戦争を画期に「国際貢献」と国連協力を口実に自衛隊の海外派遣体制を既成事実化させる働きとして具体化された。まさに憲法9条の空洞化であった。92年6月のPKO法(国連平和維持活動)等協力法の成立以来、国連協力を口実に自衛隊がカンボジア、モザンビーク、ザイール・ゴマなどに派遣されている。そして、99年5月、自民・自由・公明三党によってガイドライン関連法(周辺事態措置法など)が強行成立させられたのである。このことによって国連協力だけだなくアメリカがアジア太平洋地域で介入する地域紛争に自衛隊が軍事協力する体制ができあがったのである。日本は「戦争をしない国」から「戦争をする国」に大きく転換しつつある。
 こうした「国家改革」は、不可避的に改憲を日程にあげている。湾岸戦争以来、「国際貢献」の障害として改憲のキャンペーンが行われ、とくに第9条が「一国平和主義」といわれ、改憲の標的になってきた。藤岡信勝氏は、「湾岸戦争は、平和教育がよりどころとしてきた憲法9条の『平和主義』の理想が国際政治の現実の中で破綻したことを示す衝撃的な事件であった」とのべている(『汚辱の近現代史』)。藤岡氏は、「私の個人史の中で決定的な転換点」が「湾岸戦争体験」であるとのべ、アメリカの軍事的要請に日本政府が右往左往しているのをみて「日本は国家の態をなしていない」と感じたとのべ、さらに「なぜ日本は国家の態をなしていないのかを考えた。それは結局、歴史から何も教訓を学んでいないからではないか。もっぱら国家は悪だときめつけてひたすらそれを糾弾するような歴史だけを教わっていれば、日本人は世界に向かって絶えず謝り続けなければいけないことになる。」と主張した(「われを軍国主義者と呼ぶなかれ」『文藝春秋』97年2月号)。こうした危機感に基づき、彼は歴史教科書の見直しと「近現代史の授業改革」運動を始めたのである。このように今日の歴史見直しの運動と教科書攻撃は「国家の復権」をめざすきわめて政治的な性格を持っている。99年7月、国会法が改定され、衆議院と参議院に常設の憲法調査会が設置され具体的な憲法論議が開始された。

2 歪められた歴史認識とその問題点

 こうして改憲による「国家改革」をめざす運動が活発になるにつれて、排外主義的なナショナリズムが強調されるようになる。「つくる会」は「創設にあたっての声明」のなかで「他国との安易な歴史認識の共有などあり得ない。ことに幼いナショナリズムを卒業しているわが国と、いま丁度初期ナショナリズムの爆発期を迎えている近隣アジア諸国とが歴史認識で相互に歩み寄るとしたら、わが国の屈服という結果をもたらすほかはないだろう」とのべている。アジア諸国を「初期ナショナリズム」と決めつけ、歴史認識で歩み寄ったら「わが国の屈服」ときわめて大国主義的で、アジア蔑視の閉鎖的な自己中心主義の態度である。ここには日清・日露戦争から15年戦争までの植民地主義と侵略主義についてのひとかけらの反省もない。こうした発想から、彼らは教科書攻撃を行い、教科書づくりを開始しているが、そのねらいは、「国民的一体感の育成」をはかるために「国民形成の物語」を構築することにある。したがって90年代のナショナリズムの運動は、独特の歴史観をつくりあげる運動を伴っていた。様々な問題が議論されているが、紙数の関係でいくつかの問題に限定してのべてみたい。

(1)東京裁判をめぐって
 彼らは、日本帝国主義の侵略を指摘すると、一方的に日本を悪玉とする「東京裁判史観」だと論難する。日本の進歩的歴史家は東京裁判の判決を鵜呑みにして、日本の近現代史を暗黒に描く「自虐史観」に陥っているという。しかしこれまでの東京裁判研究をみると、東京裁判を全面的に肯定したり、全面的に否定するものはほとんどない。東京裁判は、ポツダム宣言第10項をうけ、主要戦争犯罪人(A級戦犯)を裁くために設置された。連合国はファシズム諸国の戦争犯罪と戦争指導者を裁くために、45年8月、ロンドン協定を締結し、従来の「通例の戦争犯罪」に加えて、侵略戦争の計画、準備、開始、遂行などの「平和に対する罪」、平時における自国民虐殺などの「人道に対する罪」を新たな戦争犯罪とした。ここで大事なことは、従来の「戦争犯罪」では解決できない現実が第二次世界大戦で生み出され、それに対応するために、国際社会の合意として新たな戦争犯罪のカテゴリーが確定されたことである。
 東京裁判がアメリカ主導の「勝者の裁き」の性格を持っていたことは事実である。判事、検事の任命、裁判の運営などにそれが露骨に示されていた。またアメリカの政治判断で昭和天皇が不起訴になり、国際法に違反する原爆の投下や都市への無差別爆撃の問題が問われることはなかった。さらに731部隊の中国人捕虜に対する人体実験、中国戦線における細菌戦や毒ガス使用などの問題も審理されなかったのである。
 しかしながら、こうした限界を持ちながら、日本軍国主義が国際法に違反して侵略戦争を行ったことを明らかにし、その指導者を裁くという歴史的意義を持っていた。さらに「満州某重大事件」とのみ報じられてきた張作霖爆殺事件、「柳条湖事件」をめぐる関東軍の謀略、バターン死の行進、泰緬鉄道などにおける連合軍捕虜の虐待など「聖戦」と教えられてきた侵略戦争の衝撃的実態が明らかにされたのである。こうして日本国民に15年戦争の意味を考えるきっかけを与えたのであり、大変な教育的意義を持っていたといえる。東京裁判の意味を全面的に否定するのは誤りである。

(2)『コミンテルン史観』とは
 藤岡氏らは、日本の進歩的歴史学に大きな影響を与えたマルクス主義歴史学を「コミンテルン史観」であると決めつけている。この「コミンテルン史観」が、日本の近現代史を暗黒に描き、日本を一方的に悪とする「自虐史観」を押し広めていると独断し、「日本人はいつまでも外国の国家利益に起源をもつ自国の歴史の見方に呪縛されていてはならない」という(「『近現代史』の授業をどう改造するのかB」(『社会科教育』94年6月号)。とくに「32年テーゼ」を根拠にソ連の国家的利益に従っていたという。
 確かに、1956年のスターリン批判まで「32年テーゼ」は科学的社会主義とマルクス主義歴史学に絶大な影響を与えていた。しかし、スターリン批判を画期に、マルクス主義歴史学は「27年テーゼ」「32年テーゼ」の批判的研究を開始する。そのなかで「27年テーゼ」の「社会民主主義主要打撃論」の問題や「32年テーゼ」の「社会ファシズム論」のセクト主義の誤り、「革命的決戦」の切迫という情勢の主観主義的判断の問題、などが明らかにされた。こうした「テーゼ」の批判的研究は、日本共産党にも反映し、『日本共産党の50年』(1972年)は、「27年テーゼ」「32年テーゼ」の積極面と同時にその問題点や欠点を指摘したのである。今日日本のマルクス主義歴史学は、コミンテルンの評価が異なっても、それを権威として絶対化などしていない。この意味でマルクス主義歴史学=「コミンテルン史観」という図式は成り立たない。
 また藤岡氏は、戦前の『日本資本主義発達史講座』(全7巻)が「32年テーゼ」の論証をめざしたもので「コミンテルン史観」そのものという。周知のように『講座』は32年5月から翌年の8月まで岩波書店から刊行され、野呂栄太郎の主導のもとで、羽仁五郎、服部之総、平野義太郎、山田盛太郎などの多数のマルクス主義研究者を結集していた。『講座』は日本資本主義の歴史と現状を分析し、寄生地主制の半封建的性質、君主制の絶対主義的性格などを本格的に解明したもので、日本の社会科学の歴史のなかで画期的な位置を占めている。
 藤岡氏のいう「32年テーゼ」の論証などという批判は、これまでも繰り返しいわれてきた俗論であるが、『講座』の第一回配本が、32年5月、第二回配本が同年6月であり、「32年テーゼ」が日本で発表されたのが、32年7月の『赤旗』特別号であるので、『講座』執筆者は前もって読むことができなかったのである。こうした簡単な事実をみても彼らの主張の誤りは明白である。
 『講座』の業績が生まれる背景には、1927年前後を節目とする日本におけるマルクス主義社会科学の学問的深化があったのである。たとえば、『社会問題講座』(1926〜27年)の野呂栄太郎の「日本資本主義発達史」や『マルクス主義講座』(1927〜29年)の発刊、さらにプロレタリア科学研究所(プロ科・1929年)の創立などはそのことを象徴している。プロ科に設立された日本資本主義研究会のメンバーが『日本資本主義講座』のなかで活躍している。藤岡氏らは、こうした日本のマルクス主義社会科学の自主的で自生的な努力をみることができないのである。

(3)アジア太平洋戦争の評価
 「新しい歴史教科書をつくる会」は公然とアジア太平洋戦争を肯定する。会長の西尾幹二氏の『国民の歴史』ではアジア太平洋戦争を日米人種戦争であり、主な責任はアメリカにあると断定する。日露戦争における日本の勝利以降の歴史は、アメリカが仕掛けた日米人種戦争であったという。しかしこの西尾氏の見解は歴史的事実を無視する暴論である。日露戦争後の日本の対外膨張主義は、主にロシア・ソ連を主敵にするものであった。「満蒙は日本の生命線」のスローガンにみられたように「北進政策」に重点があった。アメリカとの矛盾が強まるのは、日本が「南進政策」に転換したからである。
 彼らの戦争認識の特徴は、第一に、この戦争がアメリカの脅威や列強の包囲によって余儀なくされた「自衛のための戦争」ということにある。しかし問題は、なぜ戦争が始まったかである。この戦争は、1931年の「満州事変」、37年の日中戦争以降の日本帝国主義の中国侵略が長期化と行き詰まりのなかで、それを打開するために「南進政策」(東南アジアへの武力侵略)が推進されたために、米英との対立が激しくなり、その結果勃発したのである。日本の「南進政策」への転換を黙殺して、アメリカの脅威や列強の包囲だけをいうのは原因と結果をすり替えるものである。第二の特徴は、日本の戦争目的がアジアの解放をめざしたものという主張である。しかし、この問題は事実を確認すればはっきりする。たとえば、1941年11月の大本営政府連絡会議で決定された「南方占領地行政実施要領」や43年の御前会議で決定された「大東亜政略指導大綱」をみると日本の戦争目的が浮き彫りになる。前者では、占領地の軍政の目的を「重要国防資源ノ急速獲得」に置き、後者では「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」を帝国領土に編入し、重要資源の供給源として開発と民心の把握につとめることが決められている。「大東亜共栄圏」のねらいが日本の東南アジア支配の正当化にあることは明白であった。
 「つくる会」の中心メンバーの一人である坂本多加雄氏は、以上述べた事実関係を無視して日本の戦争が「ヨーロッパ諸国のアジア植民地支配を覆した」というだけだなく、「大東亜戦争は、結果としては」「従来の三極構造を破壊し、それを民主化し、真に法的に対等な主権国家によって構成される国際社会をもたらした」とのべ、これを「国際革命」と位置づけて「世界史への日本の貢献」を強調する。独善的な露骨な現代版の「大東亜戦争肯定論」である。

終わりに

 こうした歴史見直しの「運動」や教科書攻撃と90年代の支配イデオロギーとの関係をどう見たらいいのだろうか。
 90年代の基本的な支配イデオロギーは、「国際貢献論」である。「大国化」と改憲を「国際貢献」を口実に正当化しようとする傾向が顕著であった。たとえば、日本で最大の発行部数を誇り、改憲試案を発表している『読売新聞』は、「80年代までの改正論議が『戦前への回帰』的な印象を払拭(ふっしょく)できなかったのに対し、湾岸戦争を契機として登場した90年代の憲法見直し論は、むしろ国際社会における日本の役割を十分果たすためというまったく違う発想に基づいている」(92年12月10日付)とのべていた。「戦前への回帰」というよりも「国際社会における日本の役割」という視点が重視されているのである。さらに中曽根康弘、佐藤誠三郎氏らの『共同研究「冷戦以後」』(文藝春秋)では「武力行使を一義的に悪とみなすのではなく、国際秩序と日本の国益を維持するという観点からして、どういう武力行使が必要なのかを理解し判断する態度が日本には欠けている。」「『責任ある平和主義』とは、平和のための国際ルールを形成し維持することについて、必要とあらば武力行使(もしくはその警告)をも辞さず、また、武力衝突の危険を回避するための経済的犠牲をも覚悟すること」が強調されていた。「国際貢献」のための「武力行使」が公然と主張されたのである。このように「国際貢献」イデオロギーを推進力にして、90年代の「大国化」と改憲の策動が進められたのである。
 しかし、こうした「大国化」と軍事貢献に国民を動員するには、「国際貢献論」だけでは不十分である。国民の積極的な動員をすすめるにはナショナリズムの浸透が不可欠である。このナショナリズムによって民族的一体感を育てなければ国民の能動的な動員を組織できない。したがって今後の方向として考えられるのは、「国際貢献論」を基軸としながら、それと大国主義的なナショナリズムを結合することであろう。
 このナショナリズム形成を目的意識的に追求しているのが「つくる会」を中心とする歴史見直しの「運動」である。とくに日本の近現代史を見直し、15年戦争やアジア太平洋戦争を積極的に肯定することによって排他的なナショナリズムを構築しようとしている。重要なことは、こうしたナショナリズムを受容する一定の社会的基盤がつくられていることである。経済大国日本のなかで大国主義的なナショナリズムを受け入れる一定の層が形成されていることを忘れてはいけない。小林よしのり氏の『戦争論』が若者のなかで読まれたり、「三国人」発言で朝鮮人への差別意識を露骨に表明している石原都知事の人気が高いという問題はこのことを抜きに理解できないであろう。
 しかし、こうした露骨な排他的なナショナリズムを日本の支配層主流が直ちに受け入れることはできない。アジアとの協調関係の障害になるからである。ここで考えなければならないのは、現段階における彼らの目的は、直ちに支配層主流との合意よりも、排外的なナショナリズムを受け入れる国民的基盤の拡大にあるといえよう。従って、彼らは民族的一体感を構築するために、排外的なナショナリズムを受け入れる歴史観を国民のなかに必死になって浸透させようとしている。
 その意味で日清・日露戦争以後の近現代史を、とくに15年戦争とアジア太平洋戦争をどう見るかは、現代の民主主義の問題といえるのである。

(会員・現代史研究者)




 8月の研究活動

8月7日  不安定就業・雇用失業問題研究部会=報告・討論/「失業の国際比較ー日本、フランス、ブラジル」及び「今後の出版計画について」
  10日  政治経済動向研究部会=報告・討論/「今日の投機資本について」及び「全労連第19回定期大会運動方針について」
  21日  中小企業問題研究部会=報告・討論/「日本の産業別労働協約の特徴と可能性について」



2000年度定例総会での発言趣旨

 去る7月28日に開催された労働総研定例総会での発言(趣旨)を掲載しました。

春山明会員
 80年代後半に、新しい階級的ナショナルセンターを確立した際の、付属の研究所設立準備をと、提起しお願いした、統一労組懇の端にいた一人として、たくさんの困難を克服して井戸を掘って今日の労働総研をつくりあげてこられた、退任する黒川・戸木田さん、内山さんに、敬意を込めて心からのお礼を申し上げます(内容省略)。
 総会方針にかかわる意見を一つに絞って述べます。労働「運動」総合研究所として今後、重要さを増す課題である「共同」について、原理・原則(一致する要求での共同、対等・平等などの)とともに、是非、国内外の歴史的な「共同」活動についての研究をつよめてほしい。たとえば、60年代後半に仏・伊で活発化したナショナルセンターを超えた大統一行動、70年代わが国での四野党・労働四団体の最賃法共同提案や雇用保障法論議、その生成・失敗などの教訓を、最近の共同の事例と併せて、くみ取る研究活動を是非すすめてほしい。

下山房雄会員
 提案されている文章に即しての意見は既に7月1日の理事会で述べたので、この総会ではそれとは別に、情勢にかかわって一点、問題提起をしたい。一つは政治情勢。今回の衆院選評価だが、保守=右翼意識の強い山口県で共産が健闘(私の住む下関を含む選挙区では自共一騎打ちで12万対5万)、続いた鹿児島・山口県知事選でもかなり類似の投票結果。21世紀の展望の上で重視すべき傾向だ。第二は産業の労使関係。戦後民主主義の重要な柱を成す団結権を踏みにじった国鉄分割民営化。それを是認の上、JRに法的責任無しとの態度をとっての国労の「解決」方針は到底容認できない。全労連=全動労がそのような「解決」に流れぬことを期待する。
 ILOは、パンフ「ILO What it is? What it does?」の中で、ポーランドの共産党独裁が倒れたのは、自主労組=連帯の交渉権を擁護したILOの行動によると述べている。日本でも団結権蹂躙の政府が倒れる因果が働くように尽力を続けたいと思う。

佐々木昭三会員
 全労連との連携・共同について発言します。先の全労連大会を3日間傍聴参加して、日本を代表するナショナルセンターの立場からの発言と報告・討論を聞かせてもらい、21世紀に向けての日本の労働運動発展への確かな手ごたえを実感しています。この間、私は労働総研日産問題プロジェクトのメンバーとして全労連のリストラ・日産対策委員会、現地闘争本部と連携・共同して活動してきました。それらは、「多国籍企業ルノーによる日産大リストラ」(『前衛』1月号)や季刊『労働総研クォータリー』夏季号特集で共同してまとめてきました。これまで大企業への民主的規制の立場からトヨタ問題を調査・研究したこともあり、今回の日産問題と合わせて「労務理論学会総会」、大阪の学術研究交流集会などで要請されて報告をしました。「職場の変化」や「たたかいと運動」について、中堅・若手や外国(特に中国・韓国)の研究者から大きな反応が返ってきました。こうした全労連の運動と連携・共同した調査・政策、研究活動の重要性を感じています。

橘英実会員
 現在、私は日弁連の司法改革100万人署名運動の労働組合向けオルグのアルバイトをしています。定年退職後7年になり、現場の事情にも疎くなつていますが、センターの違いよりも、組合幹部の様変わりに驚いています。それは、労働運動の歴史を知らなすぎるということ、他の単産の事情を知ろうとしないことということです。私自身、現役時代に経験の継承に失敗したのではないかと反省させられました。「幹部の経験の継承」とはまた組合員・労働者一般の意識の継承でもあります。(署名自体は8月3日、120万を突破し、継続中です。)
 職場からの研究者の育成、ルポルタージュ集団、機関紙活動の改善も急務でしょう。
 また、国鉄問題、郵政の公社化問題など、「公共性」についての探求か望まれます。

芹沢寿良会員
 労働総研と全労連を中心とした労働組合組織との協力共同の在り方の問題として、例えば、今年の全労連大会は、「21世紀初頭の目標と展望」を採択したが、総合的な情勢分析と長期的展望において、労働組合組織や産業別的な労使関係の在り方など拡充される必要のある部分がかなりある「提言」である。そのために労働総研は、研究者集団としての10年間の蓄積と能力を発揮して、もっと積極的に協力していくべきではないか。
 この1年間の私の地域政策研究プロジェクトの活動経験からも、全労連や産業別組織が労働総研の諸活動へ、とくに今後、政策立案能力のアップを期待している若手の幹部、書記、活動家を積極的に派遣、参加させることを検討し、実施してもらいたいと思う。この点の問題性を強く感じている。
 昨年も要望したが、全労連のみでなく、労働組合運動の動向の情報、資料の収集と的確な分析を系統的に行なうことを引き続き努力し、強めてもらいたい。

大木一訓会員
 今回の総選挙結果から、労働組合運動の重要性があらためて浮き彫りになってきた。政策が破綻しようと有罪になろうと、権力や特権のためにはあらゆる汚いことをやってのける連中に対しては、大衆的な運動の力で対抗するしかない。そのことを、多くの人々が痛感している。
 今後の労働総研活動では、社会的に要請されることと現実の力量とのギャップが大きな問題になろう。黒川・戸木田代表理事が21世紀にむけての大きな課題を提起して退任されたせいもあるが、なによりも研究所の提携する全労連が、その社会的役割を内外で飛躍的に高めようとしているからだ。私たちも成長しなければならないし、これまで以上に広範な活動家、研究者・専門家との協力がもとめられていると思う。

儀我壮一郎会員

 労働総研の「嵐の中の10年間」のすばらしい活動に深く感銘。今回現職から退かれる黒川・戸木田両代表理事と内山・宇和川・田沼・春山4常任理事の不滅の功績に感謝。
 労働運動史研究、労働法研究と国際的連帯の強化などにより、「ルールなき資本主義」ではなく、内外の大企業に対する民主的規制が必要かつ可能。IMFやWTOの横暴の面にも、すでにきびしい国際的批判が高揚中。
 米国国防省などの偵察衛星とエシュロンによる盗撮・盗聴網には、厳重注意必要。
 「空財布 合併しても 空財布」。会計制度の大変化にまどわされず、政府・自治体・企業の真の情報公開要求がますます大切。
 21世紀は女性と「社会的弱者」大活躍の世紀。



寄贈・入手図書資料コーナー

  • 労働省編「平成12年版/労働白書―高齢化社会の下での若年と中高年のベストミックス―」(日本労働研究機構・2000年6月)
  • 小越洋之助監修・労働運動総合研究所編「今日の賃金―財界の戦略と矛盾」(新日本出版社・2000年7月)
  • 森岡孝二著「日本経済の選択―企業のあり方を問う―」(桜井書店・2000年9月)
  • 全国保育団体連絡会・保育研究所編「保育白書2000」(草土文化・2000年8月)
  • 山本潔著「論文集/労資関係・生産構造」(ノンブル社・2000年7月)
  • 大野勇夫著「利用者のためのケアマネージメント―その基本的な考え方から具体的な手順まで―」(あけび書房・2000年6月)
  • 細川汀著「かけがえのない生命よ―労災職業病・日本縦断」(文理閣・99年12月)
  • 全国紙パルプ産業労働組合協議会「機関紙でつづる紙パのあゆみ―紙パ協議会13年史(1988年2月〜2000年7月)」(2000年7月)
  • 兵庫県震災復興研究センター編集・発行「大震災いまだ終わらず」(2000年5月)



 8月の事務局日誌

8月11日 故田沼肇理事葬儀(黒川俊雄顧問、内山昂、藤吉信博両理事)
  18日 自治労連第22回定期大会へメッセージ
  25日 全労連・全国一般第12回定期大会へメッセージ
  26日 建交労第2回定期大会へメッセージ
  28日 国公労連第46回定期大会へメッセージ