1998年11月1日(通巻104号)

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巻頭言

 明快な政治選択のとき……………山崎 豊

論 文

 子ども・教育の危機と国民的な共同の課題………三上 満

10月の研究活動ほか

明快な政治選択のとき

山崎 豊


 ここ数カ月というもの、永田町を徘徊する妖怪どもに悩まされ続け、すっかり体調を崩してしまった。その高い代償の末に得た結論は、アメリカ大リーグでのマグアイア選手のホームラン大記録ではないが、「明快な一振り」が必要だということであった。
 多くの国民の苦しみや困難を打開し、21世紀を展望ある時代にするには、「人民による、人民のための、人民の政府」、いま流にいえば、民主的連合政権を早くつくらなければならないということである。いま国民は、とりわけ労働者はこの「明快な政治選択」の先頭に立って奮闘する時期に際会している。政治を変えなければ駄目なのである。
 金融・保険の業界用語に「モラル・リスク」「モラル・ハザード」という言葉がある。今年起きたできごとの共通する特徴に、この「道徳的危険」、しかも限度を超えたモラルの崩壊がある。個人的犯罪も凶悪化しているが、それにもまして腹に据えかねるのは国権の最高機関である国会の場で、公的論議を装いながら、密室的やりとりで国家予算に匹敵する、60兆円という莫大な税金の銀行投入と銀行救済の仕組みをきめたことである。これは国家的「モラル・ハザード」であり、許すことのできない暴挙である。
 膨大な銀行の「不良債権」は、自然に生まれたものではなく、バブル経済に中心的役割りをはたした、銀行自身のなりふり構わぬ利益の追及とその破綻、「モラル・ハザード」に起因している。そして、こうした結果をまねいた自己責任を大蔵、日銀も銀行経営者も一切とろうとしない。それどころか、大手をふって、金融再生の救世主のごとくふるまっている。国民無視の、新たな政・官・財癒着の悪徳はここにきわまれりである。
 堺屋太一経済企画庁長官の月例経済報告をまつまでもなく、「景気の低迷状態は長引き極めて厳しい状況」である。98年上期の倒産は14年ぶりに1万件を突破し、負債総額は最悪の7兆9365億円に達した。うち不況型倒産は71.9%をしめた。こうしたなかで、労働省・総務庁が27日発表した9月の有効求人倍率は最悪の0.49倍、完全失業率4.3%、完全失業者数も前年同月より59万人増の295万人、このうち倒産や解雇など企業の都合による離職者が87万人に達した。この他、統計にあらわれない潜在的失業者が大量に増えていることは周知の事実である。大和総研が最近出した2000年1−3月の予測では、完全失業率5.7%、完全失業者385万人、やがてサラリーマン家庭の7軒に1軒、失業者がいることになると予測している。
 企業のリストラ合理化・賃下げ、労働強化、そして、年金、医療・老人介護など社会保障制度の改悪もすでに折り込みずみである。小渕内閣と財界の基本戦略の先に見えてくるものは、国民多数にとってなにを意味しているだろうか。まさに地獄絵である。
 自民党・財界流、国民犠牲の政策、政治を打破する各分野のたたかい、プロセスは多様で、しかもきわめてじみちなものであろう。しかし、同時に分野別の要求闘争の前進をはかりつつ、諸問題の諸悪の根源にある自民党政治の打破に向けて、まさに広範な諸階層の大結集をはかるため全力をあげるときである。労働組合と労働者はもっと「明快な政治選択」の展望について声高かに語り、要求を主張し、行動するときにきている。

(会員・銀行問題調査会)


子ども・教育の危機と国民的な共同の課題

三上 満

子どもの危機は将来に向けての重大問題

 あいついで起る衝撃的な少年事件のなかで、いま子どもと教育をめぐる問題が、国民的な関心事になっています。時あたかも二十一世紀を目前にする今にあって、それは私たちの社会の明日を展望する上で、核兵器の問題、環境や食糧の問題などとともにもっとも基本的な問題になっていると言っていいでしょう。子どもたちの心が荒み、将来への希望が失われ、人の生命の尊さや人間愛などを知らない子どもたちが育っていったのでは、社会は未来を明るく展望することはできないからです。今の子どもと教育・子育ての問題は、それほど根源的な問題を、今の社会につきつけているのです。私たちはまずそのことの重大さをあらためて知らなければなりません。
 ファシズムの精神的温床はニヒリズムだといいます。未来の幸せを展望できず、人々とともに手をつないで幸せを求めて生きる喜びを知らず、希望を失えば、その荒涼とした心の中に、他人への支配欲、暴力や力への肯定などがしのびこみ、ファシズムの土壤となることは、今までの歴史が示していることです。私も最前線でその克服にとりくんだ80年代の非行の嵐の中で、多くの子どもが軍国主義やナチスに憧れ、右翼的な言動に走ることにぶつかり心を痛めました。
 いま、一部の学者やマスコミも加わって、日本のおこなった侵略戦争を美化し、真実と平和・民主主義に立とうとする教科書を“自虐史観”などと言って攻撃する動きが強まっています。そういう状況の中で、そのような言動を受け入れる青少年のことも、耳にするようになっています。心の荒廃がそういう傾向を呼び寄せることに、私たちはあらためて意を用いなければなりません。
 そればかりではなく、人間の尊さや民主的なモラルをしっかりと身につけ、明るく希望をもって生きる次世代を育てることは民主的な社会生活そのものを成り立たせる人間的な土台です。それが崩れれば、社会生活は、いたるところで危険をはらみ、生命や財産、生活をおびやかされる危険な社会になってしまうでしょう。それは逆に、管理や統制、抑圧をはびこらせ、自治や民主主義を、その側面から脅やかすものとなるでしょう。
 日本の今の子どもと教育の状況は、そういう危険を予感させる状況をすでにはらんでいることを直視しなければなりません。
 日本の子どもたちの状況を浮き彫りにするいくつかの国際比較があります。ひとつは1996年におこなわれた国際到達度学会の調査です。中学二年を対象にした数学と理科の学力比較調査ですが、それによると日本の子どもたちは、得点ではあきらかに最上位に入ります。しかしきわめて重大な二つの特長が浮き彫りになっているのです。ひとつは「考え方や多角的な見方」を答えさせる問題、記述式問題では、得点がぐんと低く、むしろ下位の部類に入っているということです。より重大なことは、数学や理科の勉強が「好きか嫌いか」の調査では、ほとんど最下位に入ってしまうことです。「成績はバツグンなんだけど勉強はイヤ」、当時の新聞はこのように報じています。
 もうひとつは、同じ年にベネッセ教育研究所という研究機関が行った世界6ヵ国の大都市の子どもたちを対象にした「幸せ度」調査です。これによると、日本の子どもたちは、幸せの度合い、将来への肯定感の度合いなどで、いずれも最下位であったと言うことです。(たとえば、「とても幸せ」は26.3%で最下位、「将来よい親になる」も21.1%で最下位)  いやいや勉強をつめこまれ、そこそこ点はとるが、毎日が幸せと実感できず、将来も展望できない、そういう流れが子どもたちの間に生れつつあることは明白です。そういう子どもたちのところに積るムカツキや苛だちが、他人への攻撃やいじめに向うことは、当然考えられることです。あの衝撃的な神戸の連続殺傷事件は、その集中的なあらわれであったとみることができるでしょう。

子どもたちの中に今何が起っているか

 子どもたちの中に、今何が起っているのか、もう少し深く見てみましょう。
 8月6日に文部省は、1997年度間の「不登校」の児童生徒数を発表しました。文部省調査で言う・不登校・とは、年間に30日以上長期欠席した子どものことです。
 それによると“学校嫌い”を理由とした不登校の子どもは小学校2万750人、中学校8万4660人で、いずれも過去最高、小中合わせて初めて10万人をこえました。とくに中学校では実に50人に1人という割合になります。
 登校拒否・不登校は、学校に対する子どものひとつの態度ですから、当然のことですがこれを「問題」視するのは当を得ていません。しかし学校に行かない・行けない子の多くが、苦しみ、心を閉ざしがちになっていることは事実です。私たちは学校がしんどく、行きづらい場所になっていることに思いを到さなければなりません。不登校という形で表面には表われない学校嫌いは、おそらくその数倍にも達するでしょう。不登校の激増は、学校と教育が病んでいることの告発でもあります。
 同日に警察庁は、98年上期の「少年非行等の概要」調査を発表しました。それによると今年6月までの間に刑法犯で検挙された少年の数は、昨年同期より1.6%増加、8年ぶりに上半期7万人の大台を突破しました。これは大人をふくむ刑法犯全体の、じつに48.1%に達しています。日本の犯罪のほぼ半分は少年によるもの、これは衝撃的な数字と言わなければなりません。法を犯した14才未満の子どもは触法少年と呼ばれますが、これも1万3千60人で前年度上半期より8.3%も増加しています。
 この中には、大きな社会問題となった女子高校生の覚醒剤乱用事件、近年とくに増加している校内暴力事件などがもちろん含まれています。
 とくに衝撃的だったのは、1月から3月にかけて起った一連の中学生による、ナイフを使った殺傷事件でした。
 1月28日、栃木県黒磯市の中学校で中一男子生徒が、女性教師をナイフで刺殺、2月2日東京江東区の中三男子生徒がパトロール中の警察官をナイフで刺傷、3月10日埼玉県東松山の中学校々内で中一男子が同級生を刺殺。そして3月14日の夕刊は、まるで連鎖反応でも起ったように、名古屋、沖縄の中学生のナイフによる傷害事件、神奈川の16才の少年の殺人未遂、京都の高校1年生の警官襲撃事件を報じています。
 これらの少年たちの多くが、学校では目立たない子、おとなしく問題のない子、いわゆる「普通の子」とみられ、「普通の子がなぜ?」などと、「問題児ならいざしらず」と言わんばかりの皮相な見方さえ広がりました。そして所持品検査の奨励や「ナイフを持ち歩くのはもうやめよう」という文相のアピールなど、問題の根本を見ない対応があらわれました。文部省の初中局長などは「受験競争やそれを背景とした学校生活ばかりを子どもたちのストレスの元凶と決めつける風潮はいかがなものか、例えば最近の教師は生徒の人権によく気を配るようになったが、その反面、一部の子どもが『大事にされて当然』と思い違いをしてしまうことはないだろうか」(読売・2・21日付)などと、子どもの“心得違い”に責任をおしつける全く無責任、見当違いの発言をしています。ちょうどそのころ、「良識の府」といわれた参議院の文教委員会では、文相も交えて、サッカーくじ推進論議にあけくれていたことも、そうした無責任さの象徴的な姿です。
 各地でひん発した小学校のウサギやチャボ殺し、始業式前日の学校放火、知的障害をもつ小学生への集団暴行、時に自殺に至らしめるいじめ、教師の給食への毒物混入など、新聞に報道されたかずかずの事件、それこそ何でもありの子どもたちの状況は、ほんとうにただならぬものを、私たちの社会につきつけていると言わなければなりません。

むかつき苛だつ子どもたち

 これらの事件についての、ひとつの大きな特長は、数多くの同世代の子どもたちが、こうした行為を「許せないこと」としながらも、それをひとごと、特異な子のしわざと考えていないということです。多くの中・高生は、神戸の連続殺傷事件についても「気持はわかる」といい、「透明なボク」というメッセージに、「自分も同じだ」という感じすら抱いているのです。
「この事件が起きたことで、やっと私の気持が公に表せる時が来たと思う。子どもならだれでも思うのは、内申書制度の廃止。大人たちは内申書で、成績だけでなく、内面も見ようとしたのでしょうが、大人がよかれと思うことが、必ずしも子どもにとってプラスになるとは限らない。
 性格も点になり、反抗する者は点が低い。言葉づかいが悪い者は点も低い。だったら学校にいる時は仮面をかぶればよい。本当の自分はいらない。自分の行動にはすべて点がある。」
 「事件はショックでしたが、今の社会では起っても変じゃないと思う。同世代の大半はそう思っている。」
 「一歩まちがえれば、少年のようなことをしていたかも知れない。壁を殴り、こぶしが内出血し、はれてくると気持ちよくなって、何度も殴った。対象は違えど、私も少しおかしくなりかけていたと思う。」
 これらはいずれも、あの神戸の事件後の新聞にのった中・高生の投書です。これらは、こんなに特異とも思える事件でさえ、ひとごとと思えなかった子どもたちの気持ちを伝えています。机をけったり叩いたりするので注意したら「人にあたらないように物にあたっているんや」と言い返してきた子ども、学童保育所にくるなり何に対してともなく「チョームカツク、ダイッキライ」をしばらく連発する小学校5年生、こういう子どものことを聞くことも少くありません。
 「私の部屋にはやつあたり専用の大きなぬいぐるみがあって、母におこられたときとかムカついたらそのぬいぐるみを殴ったり蹴ったりしていますが、でもムカつくのはなかなかおさまりません。最近母に怒られてやつあたりしているのを見られたとき『そんなことする子はうちの子じゃありません。出ていきなさい』と言われたときは自殺しようとも思いました。ハッキリ言って私は、おとなが大 Y1000キライなのです。」
 栃木の教師刺殺事件直後に、東京のある中学校で書かせた作文の中のひとつです。こうしたムカツキや苛だち、自己否定感、そしてときに自己への制御がきかなくなる、いわゆる「キレル」状況は、小学校にもひろがっています。
 「気にいらないことがあると、しばしば教室を飛び出した。学校から遠くへは行かない。カッとなったら自分を押えられなくなり、机や椅子をけちらす、悪態をつく。低学年からこの繰り返し。」
 大阪のある教師のレポートに出てくる小学校5年生A君の姿です。ストレスからしきりに髪をひきぬき小さなはげを作ったり血が出るまでかきむしったりする子、「ストレスがたまる」を口ぐせのように言う子、勝ち負けに極端にこだわり遊びでも負けそうになると物をけとばして八ツ当りする子、プリントでできない問題にぶつかると「どうせボク、アホやもん」と投げ出す子、自分の思いが通らないと「どうせ僕はみんなに嫌われているんだ」と真っ赤になって怒り出す子、など、多くの教師に“とまどい”を感じさせるさまざまな子どもの姿もレポートされています。
 成長過程にある子どもが自分の感情をコントロールできなくなったりすることは、いつの時代にもあったことです。むしろ子どもはそうした体験をふみこえ、ふみこえして、自立していくものです。しかし、これらの子どもの姿がそうした子どもらしいあたりまえの姿を見せているとは考えられません。子どもの世界に、もっと異常なものが入りこみ、子どもに大きな重荷を負わせ、子どもたちをゆがませているのです。
 その重荷の中でゆがみ、苛立つ子ども、むかつきあたりちらす子ども、その子どもたちがほんとうに求めているものは何か、どういう重荷をとり除いて欲しいと願っているのか、それを私たちは深く考えなければなりません。

「国際法廷」で警告受けた日本の教育・メディア

 日本の子どもたちが、たくさんの重層的な重荷のために、その健やかな発達が阻害されていること、そのことへの重大な懸念と警告が今年になって国際社会から表明されたのです。
 5月27・28日の2日間にわたって、ジュネーブで国連「子どもの権利委員会」の日本についての審査が行われました。日本が「子どもの権利条約」を批准し、その締約国となったことで、条約に義務づけられた批准後2年の第1回の審査を受けたのです。この審査はひにつづき5年めごとに行われ、「子どもの最善の利益」をめざす施策が前進しているかどうかを検証されることになります。
 この審査は、日本の教育と子どもの権利全般にわたる全面的なものとなり、またこれまで審査を受けた国(70数ヵ国)と比べて、きわめて異例のきびしいものになりました。その審査にNGO代表の一人として参加した松村全教副委員長は「さながら国際法廷の観を呈するものだった」と書いています。
 各委員からの政治に対する質問も
 「学校指導要領と厳しい受験競争は、子どもの最善の利益に反するのでは」
 「子どもの課外のすごし方まで、内申書という形で評価するのは、子どもの権利と独立性を尊重することにならない。子どもたちがストレスをかかえているのでは。」
 「カリキュラム編成と教育活動に、教師の自由と子ども参加が保障されているのか、政府がそれを抑制しているのでは」
 「政府が子どもの市民的権利である集会・結社の自由を制限しているのでは」  など、日本の実情をふまえた鋭いものでした。こうした審査をへて6月5日に、まさに適確かつ異例の厳しさをもつ勧告が日本政府によせられたのです。その中で日本の教育について、「極度に競争的な教育制度によるストレスのため、子どもが発達上の障害にさらされている」と指摘し、そのために子どもから余暇、身体的活動、休息、遊びなど子どもの成長に必須なものが奪われていることへの重大な懸念を表明し、政府にその是正を迫っています。「極度に競争的」(highly competitive=これを日本政府は「高度に競争的)」と訳し、厳しい印象をうすめようとしている)、この指摘は、日本の教育の問題の本質をずばりついたものです。
 日本の子どもたちの日常には、ほんとうにむりな詰めこみと競争がみちあふれていると言っていいでしょう。小学校1年生の習う漢字が80字、それにひらがなとカタカナ全部が加わります。これひとつとっても、子どもにとっていかに重荷かが察せられます。ちなみに私の年代が習った「サイタサイタ」教科書では、1年はカタカナのみで漢字は21字、ひらがなは2年生からでした。21字の漢字といってもそのうち10字は一〜十の漢数字で、残りは大、小、上、下などのやさしい文字ばかりです。
 小学校低学年から重い学習負担をしいられ、高校受験をひとつの境に、成績によって進路をふり分けられる「極度に競争的」な教育制度、ここに子どもから明るさを奪い、落ちこぼされることへの恐怖感、苛だち、落ちこぼれされていく子のむかつき、その発散の場としてのいじめ、子どもを追いつめる親たちの焦りなどを生む元凶があることは明らかです。さらにいま政府は、中高一貫のエリート校をつくるなど、その競争をいっそう助長する「教育改革」をたくらんでいるのです。
 「子どもの権利委員会」が警告しているもうひとつの重大問題は、日本の子どもたちが「印刷物、電子メディア、および映像メディアの有害な影響、特に暴力およびポルノ」に無防備にさらされ、その人格の発達に重大な影響が生れているということです。この点でも日本ほど子どもたちが悪還境にさらされている国は他にないでしょう。
 とりわけ男子に愛好者の多いTVゲームは、近年まさに暴力、ポルノ、ギャンブル、何でもありの世界になり、激しい競争によって、各社が競い合って刺激や残酷性や露出度をエスカレートさせているありさまです。相手を徹底的に倒し、殺し、支配する快感がゲームを通して養われていくことと、自分の実生活の中で、むかつくことが多く他人に攻撃的になることが結びつくことの危険も、早くから指摘されてきました。これまでの“いじめ”自殺事件などにその影響の実際的なあらわれを指摘する識者もいます。
 「子どもたちが『殺せ』『死ね』と口汚くののしりながら、ドラゴンに大きなダメージを与え、自分の経験値を上げるのにイベントにうち興じている姿を観察して、背筋が寒くなることがあります。
 これらは『単独または複数の特定人に対し、身体に対する物理的攻撃または言動による脅し、いやがらせ、無視などの心理的圧迫を反復継続して加える』(警視庁)と定義される『いじめ』の構造を、そのまま内包しています」
 これは映像文化批評家の四方繁利氏の指摘ですが、それが現実のものになっていると考えないわけにはいきません。
 いま日本の社会は、21世紀の社会の維持・発展のための基本問題のひとつとして、子どもたちの健やかな成長のために、社会全体の共同の努力が切実に求められる段階にきているのです。

子どもと教育の危機打開を国民の共同で

 こういう問題意識の高まりの中で、全労連は今年度の定期大会で、運動方針の中に特別に「未来を担う子どもの教育問題」の一項を起し、次の方針をかかげました。
 「未来を担う子どもと教育をめぐる最近の深刻な事態は、積年の能力主義・管理主義の文教政策、性や暴力が氾濫する退廃的文化状況、リストラ「合理化」、長時間労働などによる家庭の崩壊、地域社会の変容、さらには大人社会の道徳的退廃など複合的要因によってもたらされたものである。
 したがって、これらの問題解決には国民的・社会的な運動を巻き起こしていく必要がある。全労連はこうした視点に立って子どもをとりまく深刻な事態についての国民的討議を行政機関を含むあらゆる団体に呼びかけるとともに、『21世紀の日本を担う、子どもたちとの国民的対話運動』を提唱し、これにとりくむ。」
 この方針は、子どもたちの健やかな成長をくらしと労働条件の改善と結びつけて提起している点、教育のたたかいを全教など教職員組合だけの問題とせずナショナルセンターとして取りくんでいく気概を示した点、労働組合のナショナルセンターとして、立場や考えの違いをこえた国民的な論議と共同を提唱している点などで、画期的な方針です。
 今日の子どもの危機の原因のひとつに、政治や社会全般にわたる「大人社会への不信」があります。子どもたちの目に、「社会を少しでもよくしようと努力している大人たちがいる」ことが見えるようになること、これが子どもが明日への希望を持つ条件です。それは労働運動の大きな課題です。全労連を先頭に、教職員、父母、国民、子どもの共同がひろがれば、政治の革新とあい呼応して、子どもたちの心に希望をはぐくむ展望を開くことができるでしょう。最後に、私のインタビューに答えて石川武男JMIU委員長が語ってくれた言葉を引用して結びとします。(教育文化国民会議ニュース9・30発行)
 「子どもが明るく元気に育って欲しい。これは労働者の切実な要求だ。子どもも、強制されずのびのびと生きたいと願っている。先生たちも、よくわかる楽しい教育をしたいと願っている。こうした共通の要求に立って力を合わせることだ。全労連も、『教育のことは全教で』というのでなく、活動の裾野をひろげる役割を果すことだ、職場と一体となって無数のこんだん会をひらくことから始めよう。」

(会員・全労連顧問)


〔不況打開、生活危機突破〕での国民的共同実現を

  全労連・労働総研 第3回地域政策研究全国交流集会開く

 全労連と労働総研は10月9〜10日の2日間、北海道・札幌市内で「第3回地域政策研究全国交流集会−雇用・就業、くらしと地域経済を考える−」を開き、全国から単産・地方組織、学者・研究者など175人が参加した。集会では過去2回の集会の成果をふまえ、単産・地方における運動の交流とともに全労連が発表した「緊急雇用対策(案)」にもとづく産業版・地域版づくり、地域の切実な実態・要求にもとづく広範な労働組合・諸団体との共同追求にむけて意志統一をおこなった(全労連情報98年10月22日号から)。なお、集会アピールは下記参照。
(集会アピール)
  失業に反対し、不況打開、雇用、農林・漁業、中小企業の安定、
  くらしと地域経済発展のため全力をあげよう
 10月9日、10日の2日間、全労連と労働総研は、「雇用・就業、くらしと地域経済を考える」を共通テーマに、第3回地域政策研究全国交流集会を札幌・定山溪で開催した。
 この集会は、三つの意味で時宜に適したものとなった。  第一に、集会は、(1)失業反対、仕事よこせ、雇用を守る運動、(2)リストラ「合理化」に反対し、経営危機から職場を守る運動、(3)パートや派遣労働者の雇用と要求の実現をめざす運動、(4)地域経済の振興、住民本位の公共事業など住民要求実現の運動、(5)行革・規制緩和・自治体リストラに反対し、社会保障・福祉、介護、医療の充実をめざす運動、(6)農林・漁業、中小企業・地場産業を守る運動など、現在日本経済が陥っている深刻な不況打開の政策的方向について国民的立場から提起し、全国各地で取り組まれている運動がさまざまな角度からリアルに討議され、参加者相互に感銘と運動への確信を与えた。
 第二に、日本経済の主人公である労働者、農漁民と中小業者の深刻な失業・雇用不安、営農、経営の困難を救済する手だてをなにひとつ取ろうとせず、犠牲を国民に転嫁する一方で、銀行救援のためには数十兆円もの税金を投入する小渕内閣の政策に反対し、それを共同の力で転換させるためにも、国会開散・総選挙で国民が主人公となる政治の実現と結びつけてたたかうことの重要性が明らかにされた。
 第三に、失業反対、雇用を守り、不況打開の運動をすすめていくうえで、全労連第17回定期大会で提起した「緊急雇用対策(案)」を地方・地域の実情をふまえて具体化し、現行の運動を前進させることが重要であることが実践的に明らかにされた。
 10月8日には、農民連、新婦人、全商連、全労連が国民へのアピール「不況打開をめざし、ともに手をつなぎましょう」を発表し、@消費税の3%への引き下げ実現、A地域経済の振興で、雇用を守り、住民生活を向上させる、B安心してくらせる社会保障制度、子どもを大切にする学校の実現、C国民を戦争に巻き込むガイドライン反対などの共同の要求をかかげて、11月6日を中心に列島を揺るがす大運動を全国各地で取り組むことをよびかけた。
 本集会はこれらをふまえ、各単産、地方・地域組織にたいし、以下の課題での政策提起と運動強化の具体化を呼びかけるものである。

1.「緊急雇用対策(案)」の各地域・産業版の作成、地域の切実な実態・要求にもとづく具体的政策提起
2.広範な団体・労働組合との共同しての地方自治体、職安・通産局、経済・業界団体、政党などへの緊急失業対策、雇用・就業確保を求める要請行動
3.地域から目に見える大衆行動の追求、全国的な総行動と「11・6列島総行動」を軸とした創意ある運動
4.雇用不安を増大させる労働者派遣法改悪など労働法制改悪阻止のたたかいと改悪労基法を職場に持ち込ませない取り組
 雇用情勢は深刻であり、運動は緊急性が求められている。
 不況打開、失業反対、雇用確保、農林・漁業、中小企業、くらしと地域経済を守る政策確立、運動強化に全力をあげて取り組もう。

1998年10月10日
第3回地域政策研究全国交流集会


10月の研究活動

10月1日労働時間問題研究部会=報告・討論/98年度の研究計画について協議
12日賃金・最賃問題研究部会=報告・討論/最賃問題について
17日不安定就業と雇用・失業問題研究部会=報告・討論/「女子保護規定をめぐる論争について」「アメリカにおけるアンダークラス問題について」
19日国際労働研究部会=報告・討論/ニュージーランドの最近の経済情勢と労働組合運動
21日社会保障研究部会=報告・討論/介護保険施行をめぐる特別養護老人ホームの現状について
23日青年問題研究部会=報告・討論/民研中等教育問題研究委討議資料「中等教育における中・高接続と高校教育のあり方に関する広範な合意の確定とその早急な実現のために」
27日女性労働研究部会=報告・討論/「同一労働・同一価値労働同一賃金をめぐる議論」について
28日中小企業問題研究部会=報告・討論/「第2回中小企業のまち民間サミット」

寄贈・入手図書資料コーナー

10月の事務局日誌

10月2日全労連ビクトリーマップ作成打合せ(草島)
9〜10日労働総研・全労連共催「第3回地域政策研究全国交流集会」(黒川、大江両代表理事ほか8人参加)
13日自交総連第21回定期大会へメッセージ
22日鴨川前全労連副議長・岸本前全労連事務局次長を励ます会(草島、宇和川)
31日「労働総研クォータリー」編集会議
31〜11月1日働くもののいのちと健康を守る全国センター準備会主催
「全国交流集会」(西村)