残業代11.6兆円の横取りを法認する
ホワイトカラー・エグゼンプション

2006年11月8日
労働運動総合研究所
代表理事 牧野 富夫

 労働政策審議会をめぐる動きが緊迫の度を増している。労働政策審議会の議論は労使の意見対立の溝が埋まらないにもかかわらず、政府・厚生労働省は、本来中立であるべき公益委員を巻き込み、強引な審議運営を進め、11月中旬には「建議案」を、2007年2月には「法案」を提案するといわれている。労働政策審議会での論点は多々あるが、ここでは労働時間法制・「ホワイトカラー・エグゼンプション」問題に絞って検討を加えておきたい。
 日本経済団体連合会など財界は「年収400万円以上のホワイトカラーには、労働基準法の労働時間規制を適用除外せよ」と主張し、政府・厚生労働省は、この財界の要求に応えようとしているが、以下の3つの理由から、我々はこれを容認してはならないと考える。

 第1の理由は賃金横取りの法理だからである。「ホワイトカラー・エグゼンプション」の導入は、大企業による労働時間と賃金の大幅な横取りを、政府が法制度改悪によって支援するものであり、近代的労働契約を破壊することにつながる。われわれの試算では、「ホワイトカラー・エグゼンプション」の導入によって、年収400万円以上のホワイトカラー労働者1,013万人から横取りされる賃金(残業代)総額は11.6兆円に上る。内訳は、7.0兆円が不払い労働(サービス残業)代の横取り額、4.6兆円が所定外労働(支払い残業)代の横取り額である。これはホワイトカラー労働者1人当たり、年114万円になる。
 「ホワイトカラー・エグゼンプション」の導入は、ホワイトカラー労働者に無制限な長時間労働と賃金大幅削減を同時に強行する可能性が高く、労働者の生活と権利破壊を放任する法理である。「ホワイトカラー・エグゼンプション」の導入によって、「不払い残業」(サービス残業)の現実そのものが不在のものとされ、労働者は請求権を失う。さらに、新制度への移行にともなう賃金体系と水準がどうなるかは不明であるが、現在、支払われている残業代分の賃金も失われる可能性が高いと考える。

 第2の理由は健康破壊・過労死を急増させる法理だからである。過労死の遺族が主張しているように、「ホワイトカラー・エグゼンプション」の法認化は、過労死、過労自殺、精神破壊、疾病を激増させる危険性がきわめて大きい。現代の労働は、IT・コンピュータを技術的基礎にして遂行されており、ホワイトカラー層の増大は技術的必然性をもっている。IT・コンピュータを技術的基礎におく労働は、短時間労働と休息・休憩が十分に保障されることが絶対的に必要である。こうした前提条件を無視して、成果主義・能率主義労務管理の下で、「自律的労働時間制」という名目で長時間労働が強制されることになれば、超過密・長時間労働に起因する過労死、過労自殺、精神破壊を含む健康破壊を急激に増大させることにならざるを得ない。
 日本経団連も厚生労働省も、「自律的労働」とか「創造的・専門的能力を活かす」など美辞麗句を並べ、仕事の進め方や時間配分について自由に裁量できるかのように述べているが、肝心な仕事の内容、量、期限は使用者が決定する以上、「自律的労働」との表現は、まやかしでしかない。ホワイトカラー・エグゼンプションの対象労働者は、すでに労基法上の労働時間法制を適用除外されている「管理監督者」(労基法41条2号)の下で働くことになるが、裁量権がより大きいはずの「管理監督者」ですら、実質的な裁量権はないのが実態である。
 現在、日本の労働者は平均して、月の所定外労働(支払い残業)時間は13時間、月の不払い残業(サービス労働)は20時間、つまり月に33時間の残業をおこなっている。厚生労働省が年間の残業時間限度基準として規定している360時間を36時間も超過していることになる。大企業の研究・技術開発、営業・販売・サービス部門、中間管理職などは、月間100時間を超える残業を強要され、過労死予備軍は1万人を超えるといわれている。こうした状態は憲法や労働基準法が規定している「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」や「人たるに値する生活」とは全く異質のものである。「ホワイトカラー・エグゼンプション」の導入は、労働者の生活と権利破壊を進行させることになる危険がある。

 第3の理由は労働法制を掘り崩す法理だからである。「ホワイトカラー・エグゼンプション」を労働法体系に組み込むことは、資本主義社会の下での時間法制を根本的に否定することにつながる。「ホワイトカラー・エグゼンプション」の導入は、労働者が使用者に労働力を時間決めで売るという、近代的労働法体系の根幹を破壊し、無制限の超過密・長労働時間を野放しにすることになる。
 日本政府は、日本の長時間労働はソシアル・ダンピングであり、Fair Trade(公正貿易)を破壊するという国際的批判に応える形で、年間実労働時間1,800時間(所定内労働1,653時間、所定外労働147時間)を実現すると1986年に国際公約した。日本政府の国際公約は「小泉構造改革」の下で破棄された。欧州に進出した日本企業はEU(欧州連合)と各国の労働時間規制に従い経営をおこなっている。日本政府が「ホワイトカラー・エグゼンプション」を導入することにより、事実上の長時間労働を放置・拡大しながら、統計上の労働時間を「短縮」し、国際的批判を回避しようとするのであれば、グローバリゼーションの下で、企業の社会的責任が強調されていく今日、日本政府は再びより厳しい国際批判を浴びることになることは間違いない。
 このような「ホワイトカラー・エグゼンプション」の導入は中止する以外にない。

以上


<試算結果>

「自律的な働き方を可能とする制度」の導入で労働者は残業代11.6兆円を失う

1.推計の前提
 厚生労働省が検討している新しい労働時間制度、「ホワイトカラー労働者が自律的な働き方を可能とする制度」は、労基法の労働時間規制の適用除外対象となる労働者を拡大しようとするものである。この政策が実行された場合にもたらされる重要な政策効果のひとつに、“労働者から使用者への残業代分の価値移転”がある。はたしてその金額はどの程度のものとなるのか。以下の仮定のもとに推計してみた。
 まず、制度の対象範囲についてである。審議途上で未確定であるが、日本経団連は05年6月に発表した「ホワイトカラー・エグゼンプションに関する提言」の中で、労使委員会の決議を要件としつつ、年収400万円以上というラインを提示している。そこで、推計にあたっては、年収400万円以上のホワイトカラー労働者が新制度の対象とされた場合を想定した。さらに、「自律的労働時間制度」の適用対象となったホワイトカラー労働者の仕事量が制度導入前よりも減り、実労働時間が短縮される可能性は少ないと仮定した。
 つまり、対象となった労働者は、現在不払いのままとされている残業代の請求権分を失い、使用者に手渡すことになると仮定した。さらに、新制度のもとでの賃金体系がどうなるかは不明だが、現在支払われている残業代分も、制度移行当初はともかく、ゆくゆくは削られることになると仮定した。なお、推計に利用した統計は、できるだけ厚労省が労働政策審議会・労働条件分科会に提供しているデータを使うこととした。

2.推計の結果
 推計の結果、年収400万円以上のホワイトカラーで、すでに管理・監督者になっている人を除いた層の残業代(支払い済み分と未払い残業代)の試算額は11兆5,851億円であった。
 換言すれば、労働時間規制をエクゼンプトされることによって、年収400万円以上のホワイトカラー労働者が失い、使用者に「横取り」される総金額は、11兆5,851億円(内訳:不払い残業代の総額7兆0,213億円、支払い残業代の総額4兆5,638億円)ということになる。これは1人あたりの年平均額にすると、114万3,965円(内訳:不払い残業代69万3,312円、支払い残業代45万0,653円)となる。

3.推計のプロセス(試算詳細は別表)
1)年収400万円以上で、労働時間規制の適用対象となっているホワイトカラーの人数は1,013万人と推計した。国税庁の民間給与実態調査によれば年収400万円以上の労働者は2,031万人であり、この人員から労働時間規制の適用除外とされている管理監督者を除外すると1,835万人となる(管理監督者の範囲については、厚労省「裁量労働制の施行状況等に関する調査」結果を用いた)。次に、この数字をもとに、総務省「労働力調査」をもとに厚生労働省が公表しているホワイトカラー比率55.2%を掛けて求めた。

2)年収400万円以上のホワイトカラー労働者の総年収額から管理監督者の年収総額(厚労省所「賃金構造基本統計調査」結果を用いた)を除き、その金額にホワイトカラー比率を掛けて求めた額について、賞与分を除くと48兆1,325億円となる(賞与月数については日本経団連調査結果を用いたい)。これをもとに、厚労省の毎月勤労統計より、残業時間と所定内労働時間の比率から、所定内賃金と残業代との構成比を得て、残業代を算出した。

年収400万円以上のホワイトカラーにエクゼンプションが法認された場合の残業代の横取り額の試算

表1 年収400万円以上の労働者数と年間総収入
区分(万円)
平均年収(円)
人員
年収総額(円)
400〜500
4,500,000
6,389,000
28,750,500,000,000
500〜600
5,500,000
4,520,000
24,860,000,000,000
600〜700
6,500,000
2,875,000
18,687,500,000,000
700〜800
7,500,000
2,085,000
15,637,500,000,000
800〜900
8,500,000
1,365,000
11,602,500,000,000
900〜1,000
9,500,000
924,000
8,778,000,000,000
1,000〜1,500
12,500,000
1,602,000
20,025,000,000,000
1,500〜2,000
17,500,000
335,000
5,862,500,000,000
2,000〜
25,000,000
210,000
5,250,000,000,000
20,305,000
139,453,500,000,000
資料:出典:民間給与実態調査報告(国税庁) 2005年

表2 現行法規における労働時間規制の適用者と適用除外者の構成
構成比
人数
非役職
0.8485
11149850
係長
0.0550
722550
平均年収
課長
0.0675
887340
11,443,987,910,937
834.6
部長級
0.0289
380220
5,934,242,395,715
1,010.0
1.0000
13139960
17,378,230,306,652
資料:厚労省「裁量労働制の施行状況等に関する調査」よりH17年
厚労省「賃金構造基本統計調査」H16年

表3 現行法で労働時間規制の適用除外者を除く
人数
給与総額
表1の計
20,305,000
139,453,500,000,000
適用除外者(課長+部長級)
1,958,743
17,378,230,306,652
400万円以上非管理職
18,346,257
122,075,269,693,348

非管理職の賞与月数(05年)
夏季 2.4月
冬季 2.4月
4.8月
日本経団連(2006年5月)

表3 賞与を除いた給与総額
表2の非管理職
18,346,257
122,075,269,693,348
賞与を除いた給与総額
18,346,257
87,196,621,209,534

表4 年収400万円以上のホワイトカラー数と総収入(賞与を除く)
表3の給与総額
18,346,257
87,196,621,209,534
ホワイトカラー比重(0.552)
10,127,134
48,132,534,907,663
資料出典:第63回労働政策審議会労働条件分科会(06年9月29日)

表5 ホワイトカラー・エクゼンプション導入によって
    年収400万円以上のホワイトカラーからの横取り額
表4のホワイトカラー
10,127,134
48,132,534,907,663
支払い残業代
10,127,134
4,563,822,612,879
不払い残業代
10,127,134
7,021,265,558,275
総横取り額
10,127,134
11,585,088,171,154

試算の経過
総実労働時間
169.0
所定内労働時間
156.0
所定外労働時間
13.0
所定内換算13.0×1.257
16.3
賃金に占める残業代の割合算出のため
総実労働時間2*
172.3
総実労働時間2=所定内労働時間+所定外労働時間×1.257
(年間総実労働時間2=所定内労働時間+所定外労働時間×1.257)×12
所定外比率
(16.3H/172.3H)
0.09481783

時間当たり賃金額=年間給与÷総実労働時間2
  23,273,884,773 48,132,534,907,663÷(172.3*12)

支払い残業代=時間当たり賃金×所定外労働時間×1.257
  4,563,822,612,879 23,273,884,773×13.0×1.257×12

不払い残業代=時間当たり賃金額×不払い残業時間×割り増し賃率
  7,021,265,558,275 23,273,884,773×20.0×1.257×12

ホワイトカラー全体からの総横取り額
総横取り額
11,585,088,171,154
支払い残業代
4,563,822,612,879
不払い残業代
7,021,265,558,275

ホワイトカラー1人当たり
総横取り額
1,143,965
支払い残業代
450,653
不払い残業代
693,312

毎月勤労統計報告に見る
月間労働時間
所定内
156.0
所定外
13.0
総実労働時間
169.0

労働力調査報告に見る
月間労働時間
平均就労時間
189.0
総実労働時間
169.0
不払い労働時間
20.0