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わたしの「おいたち」シリーズ

その10「共産党員の父」
 日の丸や君が代、天皇制のことについて、父から話をきいたのは中学生の時だと思います。その頃の私は、テレビに映し出される戦争映画や、マンガ雑誌に書かれた軍艦、戦闘機のイラストに見入っていた時期で、日本共産党の一員だった父は、そんな息子をかたわらで見ていて、戦争の恐ろしさや悲惨さ、その裏で戦争をあやつっている人がいることを、なんとしても伝えたかったのでしょう。
 父が党員だということを特別意識したことはありませんでした。茶の間での日常会話の中でごく自然に日本社会の問題などを父は話し、「赤旗」日曜版を配達し、月末には集金に出歩く後ろ姿が、あたりまえの光景だったからです。
 中学生のときのこと。お昼に弁当箱の包みを開いていたら、弁当箱を包んでいた新聞「赤旗」を担任の先生が手にして、くいいるように見ていました。今でもあの時の先生の横顔を鮮明におぼえています。1972年12月、日本共産党は総選挙で39議席に大躍進。父の笑顔がとてもステキでした。
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その11「高校受験」
 中学3年生の季節は、高校受験を数カ月後に控えた重要な時期。先生は3年生が夏休みに入るやすぐに補習授業を開始し、クラスメイトも参考書を広げて、単語や数字を追い求めていました。
 一方、私は補習は受けながらもクラブや遊びにとびまわり、担任の先生の心配顔をよそ目に、いつもどおりの生活。自信があったわけではなく、高校受験がその後の私の人生にどんな結果をもたらすかを、まったく考えていなかっただけでした。
 しかし担任の先生の真剣なまなざし、そして父親の「高校だけは出ておかなければいけない」の言葉が、しだいしだいに心を揺さぶり、まがりなりにも受験勉強を始めたのは晩秋に入ってから。志望校があるわけではなく、金のかからない県立で、家から近ければそれにこしたことはない、というくらい。
 そして春、「受験勉強をした」という思いもほとんどない中、先生が指名した県立武生工業高校へ入学。入学金が500円だったのを今でもおぼえています。
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その12「県立武生工業高校」
 県立武生工業高校は、家から13km。武生市街の南はずれに位置し、全校生徒は700名余。土木科、建築科、電気科、工業化学科の4学科があり、私は工業化学科に在籍。
 なにしろ、工業高校のために女生徒がほとんどおらず(1学年1〜2名)、一歩校門をくぐれば男の世界。かといって、テレビやマンガ雑誌で表現されているような荒々しさはなく、授業は真面目で、クラブ活動も盛んでした。ただ、上級生に対する恐れは誰もが持っていたようで、上級生のクラスの前を通る時は目を伏せ、背を丸めて歩くのが常でした。
 中学時代にブラスバンドに入っていた私は、今度もちゅうちょなくブラスバンド部へ。ただし、ここのクラブは演奏曲が歌謡曲やポップスで、木管楽器がなく、かわりに、エレキギター、エレキベース、ドラムセット、キーボードがあり、さしずめ「ミュージックバンド」。私は3年間、トランペットを担当しました。
 大学をめざす生徒は稀なためか、学校全体がのんびりしており、勉強がわからなくても安心。赤点をとっても仲間が大勢いるため、すこしも悲観はしませんでした。
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