以前は普通にやっていれば利益が出たのに、今は普通にやっていると赤字になる――調剤薬局は今、どうやって経営を守るかという厳しい時代に突入している。この難局の中で代表取締役に就任した平林さんは「責任を感じ過ぎると肩の荷が重いので」と言いつつ、自分の来し方と抱負を語ってくれた。

思うような仕事ができない
私は1976年に新卒で旧・中野勤労者医療協会に入職し、去年、勤続30年の表彰を受けました。30年……いろんなことがありました。実は大学時代は薬剤師になろうとは思ってませんでした。専門職といっても、医師の指示通りにハサミで切って調剤することから「ハサミ調剤」なんて言われていて、いいイメージを持っていなかったんです。
学生時代は自然保護の市民運動に参加したり、公害問題研究会に入って合成洗剤や食品添加物の問題を訴えたりしていて、研究所に入るのもいいかなと考えていました。それが大学3年の夏、先輩の紹介で中野共立病院に教育実習に来て、「こんな医療機関なら薬剤師になるのもいいかも」って。
ところが、すぐに「やっぱりね」という現実にぶつかりました。患者さんの立場に立つ医療といっても、薬剤師はどこか患者さんと離れたところにいました。特に病院の薬剤師はそうでした。当時は薬局に閉じこもって処方箋1枚で薬を調剤するだけで、患者さんに説明する場面もないし、行くとしたらナースステーションぐらい。入院患者さんの輸液や注射は箱ごとナースステーションに運んでいたんです。「薬の運び屋さん」でした。
グッときた先輩のアドバイス
薬剤師、やめちゃおうかな……入職して3年ぐらいは悶々と思い悩んでいました。あるとき、飲み会でそんな思いを吐露すると、一人の先輩からこう言われました。「どこに行ったってユートピアがあるわけじゃないよ。自分の思いをここで実現できないからって、他で実現できるなんて思わないほうがいい。ここで挑戦してみたらいいじゃない」。このアドバイスは今でも鮮明に覚えているぐらい、グっときました。私は「思うような仕事ができない」と不満を言うだけで、「変えていく」という発想が弱かったんです。
一つずつ実現していく
この病院で実現していこうという気持ちになってからは、仲間と力を合わせて様々な取り組みに挑戦しました。今は当たり前にやっていることでも、当時はそうでないことがいっぱいありました。
最初にやったのはカンファレンスに参加することでした。その次は「運び屋」をやめ、飲み薬も注射もオーダーが全部薬局に来て、患者さん個別にセットして病棟に払い出すというシステムをつくることでした。それまでは調剤しても、処方箋薬以外に患者さんがどういう薬物療法を受けているかわからなかったんです。薬物療法がトータルに把握できるようになると、それにもとづいて患者さんの薬の適正使用についてドクターとやりとりができるようになりました。カンファレンスも、こちらから情報を発信できるようになりました。
三つめは、ベッドサイドに行って患者さんに服薬説明をする取り組みです。今では当たり前にやっていることですが、当時はまだ薬剤師の服薬指導が診療報酬で認められていない時代でした。民医連が先進的に取り組んで、その成果を薬剤師会の学会などで発表して広めていきました。
今までできなかったことを仲間と話し合い、提案し、一つずつ実現していく……これは大きなやりがいでしたね。こうした私の経験を若い人によく話すんです。「不満を不満で終わらせないで。実現できることは必ずあるから」と。
今は大変厳しい時代ですが、基本は職員が働きやすい職場にすることだと思います。東医研は現在八つの薬局を展開していますが、小薬局が多く、相互支援をやりながら「大変さを分かち合い、協力しながらやっていく」という集団になっています。この集団の力を生かして、いきいきと元気に働ける職場をつくっていきたい、展望はそこから生まれると思っています。