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協同組合報vol.51

「実践と自流」を訪ねて
(5)

公認会計士木村隆一事務所


反骨精神と希望と

●「ぼくは死んだ?」

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左から、岡村さん、木村さん、山崎さん
 「ぼくのこと、死んじゃったと思ってる人、多いんじゃないかな」

 取材開始直後に木村隆一さんはそう言って驚かせた。こちらは「現役でお仕事をされているんですから、それはないでしょう」と月並みな答え方をしたのだが、木村さんが言わんとしたのはそういうことではなかった。

 落合広一。木村さんはこのペンネームで民医連の医療経営についての執筆を行い、民医連の医療経営における理論的支柱の一人となってきた。ペンネームを使ったのは、「当時、日本公認会計士協会の理事をしていたし、大蔵省の仕事や大企業の監査もしていましたから」。それが最近は民医連での執筆活動をしておらず、従って「落合広一は死んだと思われているのではないか」、あるいは「木村隆一と落合広一が同一人物だと知らない民医連職員が多いのではないか」ということなのだ。

 木村さんの危惧は当たっているのだろうか。そもそも落合広一氏にはどんな著作があり、それが民医連の医療経営においてどういう役割を担ったのだろうか。

 木村さんが民医連と出会ったのは前月号で紹介した「協働」の坂根利幸さんと同じく、1983年の山梨勤医協の倒産のときだった。民医連の経営に関与するのは初めだったため、「何か会計の基準はあるか」と聞いた。「何もない」という答えが返ってきて、驚いたという。「民医連はすばらしい医療実践をしている。なのになぜ山梨では大きな誤りを犯したのか。他の所でも経営についての共通の弱点があるのではないか」というのが再建に携わった会計士たちの共通する思いだった。

 その山梨の経験から、木村さんたちは1985年の「民医連医療」誌に「統一会計基準の必要性」を提案し、続いて、同誌に「民主的経営の基礎」と題した連載を開始した。これによって経営の議論が活発になり、民医連の院所から相談を受けたり、学習会の講師に呼ばれたりする機会が増えた。連載は大好評で、3年余にわたる長期連載となった。こうした動きの中で、89年の「民医連統一会計基準」が誕生した。「民医連医療」誌での連載は1991年からまた始まり、合計10年余にわたる大連載となった。

●民主的医療経営とは何か

 この「民医連医療」誌での連載をまとめた本が『民主的医療経営の基礎』(監査研究会編著、1990年、同時代社)である。巻末の座談会を読むと、当時の民医連経営の実情が手に取るようにわかる。その中で、落合氏はこう指摘している。

 「(民医連は)一般企業とくらべて、経営管理面でたいへん遅れているという問題があります。(中略)経営を船にたとえると、小船を運転する免許で数万トンの船を動かしているのではないか、そういう感じがするのです。(中略)むしろ医療を行なうことが先にあって経営はあとからついてくるということがあったのでしょう。それは小船の時はあやつれたわけです。しかし相当大きな船になると、どこに暗礁があるか確かめながらいかないと難破する恐れがあると思います」

 いい医療をやっていれば、経営はあとからついてくる。こうした誤った認識が生じた一因に、一部の事務幹部しかわからない経営管理の仕方があった。木村さんたちの本をもとに各地で学習会が開かれ、「民主的医療経営とは何か」が明確になっていった。

 さらに、『民主的医療経営の基礎』の姉妹編ともいえる本が、今度は落合広一著で出版された。『民主的医療経営 入門編』と『実践編』である(1994年、同時代社)。これも「民医連医療」誌の連載をまとめたものだ。落合氏は第1章の冒頭で次のように書いている。

 「上からの経営計画、上からの経営管理という発想を根本的に変えて、全職員に依拠した経営を行なうことによって、展望が開かれてくる。展望や元気は上から与えられるものではなく、全職員の『やる気』によって作り出されてくるものである。そのためには経営管理構造の抜本的改善が必要であり、それには何をしたらよいか、それがこの書の全目的である」

 わずか数行だが、民医連に対する深い共感がにじみ出ている。木村さんは「落合は死んだと思われているのでは」と言うが、「経営への全職員の参加」という視点が当たり前のように言われるようになったことから見ても、木村さんたちの思想は確実に根づいているといえるのではないだろうか。

●東京大空襲の体験

 公認会計士木村隆一事務所は1961年に開設、半世紀近い歴史をもつ。現在のスタッフは木村さんのほかに税理士が二名(岡村弘子さん、山崎公子さん)。「とっくに引退する歳なんだけど、優秀な税理士二人に支えられて、何とか頑張っています」と木村さん。取材中も岡村さんと山崎さんのさりげないフォローと合の手が入り、事務所全体に優しい空気が流れていた。

 木村さんは1932年、東京・墨田区で生まれ育った。墨田区でわかるように、東京大空襲で被災した一人だ。「親戚を頼って茨城県に疎開していましたが、空襲の2、3日前に中学受験のために墨田区に帰ってきていたんです」。火の中を逃げまどった体験を前出の『民主的医療経営 入門編』にこう書いている。

 「死に直面する場面が三度はあった。火にまかれ防空壕に飛び込もうとしたが満員で入れず火の海を次の場所へと逃げた。あとでみると防空壕でも全員が蒸し焼きになって死んでいた。(中略)私のクラスメートは50人ぐらいいたと思うが、消息がわかっているのは10人余にすぎない」

 あのときの地獄絵を語るのは今でも辛いのだろう、それまでの笑顔が消え、口をへの字に結んだ。木村さんは疎開先に戻り、ご両親は川崎に移り住んだ。ところがそこも空襲で焼け出され、次に移った家でもまた空襲にあう。ご両親は3回焼け出されたそうだ。

 東京大空襲の体験は「何があっても戦争はしてはいけない」というその後の木村さんの生き方を決定づけた。ここで話は「今」に飛ぶが、国民投票法が成立し、憲法改正への手続きが進んでいることに危機感を抱く木村さんは、「憲法9条を守ろう」と書いた葉書を作成し、公認会計士などに当面2万枚を目標に出そうと計画中だ。

●菓子職人から会計士の道へ

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取材の日に税務相談で来られた園田さんと一緒に。菓子職人の頃からの50年来の付き合いになる
 ところで、木村さんはなぜ会計士の道に入ったのだろうか。「この話は大変なことになるよ」と前置きして、青春時代を語り始めた。この辺から俄然話に熱が入り、下町の「てやんでぇ」調になってきた。

 実家は和菓子屋を営んでいた。戦後、進学校で有名な両国高校を卒業した木村青年は「跡を継いでくれ」という父親の希望を無視できず、大学に行きたいという気持ちを胸の奥にしまい込んで菓子職人の道に入る。「けどさ、職人の考え方と自分の考え方は根っこから違うんだよ」。5年間辛抱したが、途中で芽生えてきた「会計士になりたい」という思いを抑えることができなくなった。父に話すと、「そんなやつは勘当だ! 出てけ!」とどなられ、結局、家を出る羽目に。

 会計士になりたいと思ったのは、「税務署よりもえらくなりたい」と思ったからだそうだ。その背景には税金不払いで差し押さえをされるという事件があった。

 戦前の税制は、今のような申告納税制度ではなく、税務署が査定して課税する賦課課税制度をとっていた。「戦前の税務署は国家権力によって査定し課税する権限を持ってたから、いばってたんだよ」。豆腐組合、菓子組合などの同業組合に税金の割り当てが来ると、それを組合の役員が各店に割り当てる。その税金のかけ方がおかしいと憤った木村さんは税金を払わないという手段に出た。それで差し押さえになったというわけだ。理不尽なことには真っ向から闘いを挑む反骨精神はすでにできあがっていたらしい。

●食うために思いついたのがアサリ売り

 家を出ると同時に結婚(もちろん恋愛結婚)、アパート一間の貧乏暮らしが始まった。何はともあれ食わなければならない。思いついたのがアサリ売りだった。当時は冷蔵庫などというシャレたものはないから、朝の味噌汁に入れるアサリや豆腐はその日の朝、買うのだ。「朝早く行徳でアサリを仕入れて、売り歩くんだよ。掛け声によって売れ方が違うわけ。うまい人が来ると逃げたもんだった。なにしろ朝の30分が勝負、モタモタしてられない」

 ここで素朴な疑問。アサリ売りって儲かるんですか?「儲かるんだね、これが。500円で仕入れて1500円で売ってごらん、1日分の飯代が出る」。会計士らしい明快な説明だが、それで本当に食っていけるものか、今一つ「?」の部分が残った。

 それはさておき、ある日、同じアパートで隣に住む学生がそばに寄ってきて、「どうしてもわからないことがある」と聞いてきた。「普通、女性が男性を選ぶときには、学歴、収入、健康を基準に考えるはずだけど、木村さんにはそのどれもない。何も持っていないのに、どうして結婚できたの?」

 たしかに当時の木村さんは学歴なし、アサリ売りでは間違っても高収入とはいえず、健康にも問題あり、だった。じつは高2で腸結核を発病、薬がない時代だったため、大変な思いをした。その後、デート中に今度は喀血、東京大空襲だけでなく、病気でも死にそうになった経験があるのだ。

 隣人の問いに木村さんは答えようがなかったという。「そのときに思ったね、世の中の人はそうやって考えるのかって。そんなことは考えもしなかったんだ」。学歴なし収入なし健康に自信なし。持っているものは希望だけ。それで十分だったのだ。

 それでもアサリ売りでは持たず(やっぱり!)、奥さんの教員免許を生かして、二人で学習塾を開いた。子どもも生まれた。「学習塾では最高時250人ぐらいの生徒がいました。会計士にならなければ学習塾を経営していたかもしれない」

 24歳で中央大学の夜間部に入学した。大学では特別研究生にしてくれ、教授たちが懇切丁寧に個人指導をしてくれ、お酒も飲ませてくれた。29歳で合格。「非常に人に恵まれて合格することができました」

 人間・木村隆一がどんなふうに形成されてきたのか、その一端を駆け足で教えてもらった。あまりの面白さに笑いっぱなしだったが、そこに流れる大切なものは胸に刻んでおきたいと思った。

<追記>

 私は「民医連医療」誌に「90年代を拓く民主経営」と題して、1991年10月号から1997年9月号まで53回にわたって連載しました。私の経営思想を吐き出したつもりです。最後に次のように書きました。

 「書くことが嫌いで、そのうえ不得意な経営問題をこれほど長く、これほどしつこく書いてきたのは、私が惚れた民医連医療が倒産によって無くなってしまうのではないかとの恐怖感からである」

 現在もまったく同じ危機感を持っています。私の力不足から、この連載の相当部分が単行本になっていません。再読いただければ幸いです。(木村)

名称 公認会計士木村隆一事務所
所在地 東京都中央区銀座2−11−5 横田ノイビル10階
主な業務先 会社、民医連、学校、農協、労働組合など


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