医者になりたい……。社会人になっていた長谷川先生の胸の奥で、この思いが次第に膨らんでいき、ついに医大受験に踏み切る。そして数年かかって合格。強い意志力がなければできないことだが、「それを支え続けてくれたのが夫だった」そうだ。向井千秋、向井万起夫夫妻を彷彿させるような話に思わず聞きほれてしまった。
 医大めざして28歳で受験
――お聞きしたところによると、一度社会人を経験されてから、医大に入り直されたとか。
そうなんです。農学部林学科というちょっと特殊な科を卒業して、山の測量設計会社という、これまた特殊な会社に勤めました。林学科に入ったのは山が好きだったからです。ところが、働いてみると、女性採用は私が初めてという男性ばかりの会社でしたから、いろいろ我慢できないことがあって、壁にぶつかってしまって。
元々医者になりたいという思いはあったんです。でも、勉強しなかったので、あきらめた。医者への道を簡単にあきらめたのがいけなかったと思い直して、一念発起して28歳で受験しました。それで受かったのが32歳、4年かかりましたね。5年やってダメだったら、あきらめようと思っていたんですが、一歩手前でようやく受かった。
――すごい意志力ですね。
いえ、意志はそんなに強くないんです。追い詰められてという感じでしょうか。塾の講師をやりながら受験していたんですが、3回目に落ちたときはさすがに堪え、すごく落ち込みました。でも、これをクリアしないと、私の人生はこのままずっと塾の講師をやるか主婦になるかのどっちかしかない。それは嫌だ、ならば頑張るしかない、と。
一貫して支え続けてくれた夫の存在
――大学はどちらですか?
宮崎医大です。受験最中の30歳で結婚して東京に住んでいましたから、32歳で宮崎と東京とで別居生活になりました。
――別居になることがわかっていて、なぜ宮崎医大に?
宮崎医大は再受験者に対してフィルターがないことで知られている大学なんです。最高齢で60代の方もいましたし、30代40代はざらでした。国立しか行けないと考えていましたから、宮崎医大しかなかったわけです。もちろんアルバイトをしましたが、それでは足りず、夫から仕送りをしてもらいました。
――糟糠の妻というのはよくあるケースですが、夫が妻を何年も支えるというのはまだまだ少数のような気がします。そんなステキな彼をどうやって見つけたんでしょうか(笑)。
「そんな話、聞いたことがない。そんな男の人は1万人に一人もいないよ」(笑)と友達にも言われました。夫とは前の大学の同級生で、長いこと友人だったので、お互いをよく知っていました。私には「医師になりたい」という明確な目標があったので、結婚にさいして「それでもいいかな」と聞きました。結婚によって進路を変えるということは考えていませんでしたから。「それでもいいよ」と彼が言ってくれたので、結婚しました。
――お子さんについてはどう考えられましたか?
医者になったのが38歳でした。研修医として研修が始まるとさらに大変になるので、夫と話し合って、「子どもはなしでもいいかな」という方向になりました。1回で決めたわけではなく、何度か話し合いました。全部を手に入れることは不可能で、あきらめなければならないものもあります。
――大学生活はどうでしたか?
現役の学生と比べると14も違いますから、「ずっと年上のお姉さん」という感じで、同級生との人間関係で悩むことはなかったです。ただ、医学部の勉強はとても辛かった。試験に通らず、再試再試で、ついていくのが大変でした。それでも頑張れたのは、一貫して支え続けてくれる夫がいたからだと思います。
人と人とのつながりが心地いい
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| 2月1日のオープンを待つ新中野共立病院 |
――中野共立病院に入職されたきっかけは?
大学2年のときに、友達に誘われて福岡の千鳥橋病院に実習に行きました。それまで民医連を知らなかったんですが、医師や職員のお話を聞いて、「一生懸命の、いい病院だな」と思い、民医連に興味を持ちました。それで、東京で就職する予定でしたので、中野共立病院の医学対の担当者からお誘いの電話をもらったことがきっかけで、3年のときに実習に来ました。職場の雰囲気がとても良かったし、「あんな医者になりたい」と思える先生がたくさんおられましたので、ここに就職してもいいかなと。
――中小病院でやっていくことに不安はなかったですか?
ここでキャリアが積めるのか、専門がなくていいのか、という不安が全くなかったわけではありません。悩むたびに考え、「これでいいんだ」と思う。それを繰り返してきました。なぜ「これでいい」と思えるのか、自分でも不思議ですが、ひょっとすると、社会経験があったことが大きいのかもしれません。医師としての成長も大事ですが、それ以上に、人間として成長したいというのが私の中では重要なことなんです。自分の人生の目標は、医師として名声を得るとか成功したいということではない、人間として成長したいんだと。
ここにいると辛いこともあります。民医連というのは医者の世界では特殊ですから。それでも、民医連で仕事をするほうが、自分のなりたい人間像に近づけると思っています。
でも、医師としてみると、ダメな部分が多いのかなとも思う。優秀な医者になりたい、専門を極めたいという気持ちがないと、医師としてはやっていけないので、そういう気持ちがちょっと弱いのかなと思ったりもする。だけど、生き方としては「ここで頑張ろう」と思っています。
私は論理的にものを考える人間ではなく、感性で突っ走ってしまう人間なので、ピタッと来るものがあれば、それで突き進む。ここでは、人と人とのつながりがあります。患者さんとのつながり、医師や看護師さんや他職種の人たちとのつながり、そういうつながりが心地いい。仲間として一緒にやっていくということが心地いいんです。
いよいよ新病院がオープン
――2月1日に新病院がオープンします。いよいよですね。
私は新病院準備委員会の委員長をやらせてもらっています。機材や備品の配置、入院患者さんの誘導の仕方など、具体的な準備を進める委員会で、私が一番動きやすいというので委員長になっただけの話ですが。新病院の立ち上げに携わることなんてそうそう経験できることではありません。大変だけれど、やりがいがあります。
とはいえ、不安材料もたくさんあります。一番は経営的な面ですね。経営面を考えると職員をかなり減らさざるを得ない状況で、人的な面でも不安はあります。いろいろ大変だけれど、患者さんから「この病院でもいい」ではなく、「この病院がいい」と選んでもらえる病院にしたい、と皆で頑張っています。
――最後に、どういう医者になりたいと思っていらっしゃいますか。
ここに入職したときに、「患者さんから『先生に脈を取られながら死にたい』と言われるような医者になりたい」と言ったんです。その気持ちは今も変わりません。
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