千葉先生は「周伸」という名前からもうかがえるように、千葉周作とご先祖様のどこかでつながっているらしいが詳細は不明とのこと。その影響もあってか、中学・高校時代は剣道一筋。先生をよく知るある民医連職員の千葉評は「大胆だが、実際にやることは緻密。綿密な作戦を立てて、こうと決めたら貫く」というもの。かなりの体育会系のようだ。
そういえば先生は一見怖そうだ。でも、恥ずかしげに笑ったときの表情は何とも言えない。大胆さと繊細さが同居しているような先生に「民医連運動と私」というテーマで語ってもらった。
島に行くか、診療所に行くか
――民医連に入るきっかけは何だったのでしょうか?
ぼくは1969年卒で、当時は東大闘争はじめ全国で学園民主化闘争が真っ盛りの時代でした。鹿児島大学医学部でも自治会を作ろうということになり、2年がかりで66年頃に結成しました。68年からはインタ−ン闘争の山場になり、鹿大医学部でもクラス全員で卒業試験をボイコットして、研修要求書を大学当局に提出しそれを実現、インターン制度廃止後の卒後研修を大学や市内の病院で行うことになりました。ぼくは医学部自治会の書記長をやっていて、当然、民医連を知っていました。
とはいえ、当時の鹿児島民医連(1967年結成)は、県連といっても診療所が鹿児島市内に南地区診療所一つしかなく、あとは奄美大島に二つ、徳之島に一つあるだけ。離島の医療を守ることが最大の課題でした。当時は鹿児島から船で、丸々一晩かかって翌朝島に着く。ぼくは民医連でやっていこうとは思っていたけど、島に行くか、市内の診療所に行くか、選択肢は非常に狭いわけで、同期生と1学年上の活動家仲間が、所長として卒後1年目から奄美に赴任した実情を見て、「民医連という所は大変な所だ」というのが正直な気持ちでした。
卒業の年に新しい卒後研修制度になり、1年目は行きがかり上大学に残るしかなく、2年目は自由になって、みんなは大学医局に入ったけど、ぼくは民医連でやっていこうと。でも、研修病院がないから、鹿児島市立病院の循環器科に無給で入れてもらい、民医連の南地区診療所でアルバイトさせてもらいました。そのときにはすでに診療所の理事になっていたと思います。
民医連に入る医者を大学でつかまえよう!
3年目は大学の医局に入りました。その一番の理由は、島の医師体制を確保するために、民医連に入る医者を大学でつかまえようというものでした。
当時、鹿児島大卒の青年医師が二人、離島の所長になりましたが、それまでは東京や福岡の民医連の協力で、“外人部隊”のベテランの3人の先生が県連を発足させ、事務局を鹿児島市に設置して学生対策を行っていました。その先生たちはおのおのの役割を終えられて、県連は青年医師で担うしかない状態が迫っていたのです。
そんなわけで、とにかく精力的に学生対策をやりました。学生たちにわたりをつけて、定期的に会議を持って、「医療の民主化を実現するためには大学より地域だよ、民医連だよ。自分たちの手でつくっていこうじゃないか!」と訴えた。それで、72年卒は民医連に9人入りましたし、73、74年も数人ずつ民医連に入りましたね。ちなみに73年卒の園田先生は代々木病院で研修され、東京で結婚されて、現在、はたがや協立診療所の所長をされています。
――1学年9人とはすごいですね!
もっと多かったのが50年卒で、18人ぐらい入りました。1学年が80人〜100人ですから、その2割ぐらいが民医連に入った勘定です。このあとも鹿大から民医連に入る医者が続き、総勢で100人は越えています。
鹿児島の地で医学生運動が広がっただけでなく、民医連に活動家の多数が結集したのは、離島に三つの民医連診療所があり、僻地医療への貢献と医師としての研修実現を両立させるには、仲間を増やして集団で協力し合う以外に手がなかったこと、そして、自分たちの力で自前の研修病院を作りたいという夢を共有できたことが最大の理由だと思います。
センター病院の立ち上げ
――先生たちが尽力して民医連医師を獲得しても、自前の研修ができませんよね。どうされたんですか?
彼らは全国各地の民医連に散らばりました。72年は秋田、福岡・千鳥橋、東京・代々木、73年は千鳥橋、代々木、75年は神戸協同、岡山・水島、大阪・耳原、千鳥橋と北九州・健和会など西日本各地に行きました。だけど、行きっぱなしになると困るから、年に2、3回は東京に集まって会議を開きました。中心議題は、@島の青年医師を研修に出すために、どうサポートするか。代わりに誰が行くか。A自前で研修できるようにセンター病院をつくる。この2点でした。
ぼくはセンター病院づくりのために少しは勉強しなければいけないと思い、卒後4年目に当時大塚にあった癌研病院に入れてもらい、消化器の勉強をしました。無給でしたから、立川相互病院でアルバイトをさせてもらいました。
全国に散らばった後輩たちが「センター病院、早くつくってよ」とせっつくものだから、鹿児島に帰って準備をすすめ、大学や地域生協の協力で京都生協から経営幹部の熊原嘉昭氏を招聘(しょうへい)、その力も大きくあずかって1975年に市民病院をオープンできました。
医師3人のスタートで、院長は代々木病院で研修した1年先輩の野島、一人は72年卒の今和泉、もう一人は75年卒の中村。ぼくは南地区診療所の所長をやりながら、県連の会長としてとくに離島医師の配置と、医学生対策、研修課題の設定と医療構想などを受け持ちました。
みんな若くてやる気満々
当時は本当によく働きました。救急はやるし往診はやるし、昼間の診療を7、8時間やって、夜間診療をやって、さらに当直と。病院を長く開けておかないと患者さんを獲得できないからと、それこそ朝の9時から夜の9時まで診療時間を標榜し、年中無休状態でした。みんな若くてやる気満々だった。それで、開院の翌年に50床に増床、3年後に126床、80年代の半ばには226床へと比較的短期間で大きくすることができました。
ぼくは1980年に院長になりましたが、そのときに医師会加盟の話を再度持ち込み、医師会から「入れてもいい。ただし市民病院という名前は変えてほしい」と言われました。鹿児島市立病院の手紙がよく誤配されていましたので、鹿児島生協病院と名称変更し、5年越しでやっと医師会に入会できました。
80年代は自前で鹿大の卒業生を研修受け入れし、病院の規模がどんどん大きくなり、ピーク時の医師体制は120床規模で28人、200床規模で40人ほどになりました。病院建て替えの見通しがついて総合病院となった89年に院長を退任、90年からは2年間代々木病院へ出向し、東葛病院との合併の時期に貴重な経験をさせてもらいました。
また、82年に全日本の理事になり、主に医師委員会関係の任務が多くなりました。80年代は医学生対策や各県連医師委員長を対象とする会議で、全国各地を訪問して回るとともに、専門医法制化反対、保険医インターン反対運動などを行い、厚労省の医師官僚統制を打ち破ることができました。
剣道とロマン・ロランと
――そもそも、なぜ医者に?
父が医者ですが、だからというわけでもなく、何となくというところかな。父の長兄も義兄も医者で、3人は満州の奉天でそれぞれ開業していました。
父が満州へ行くというとき、ぼくは1歳でした。それで危険だからというので祖父母に預けられ、母は父についていき、弟は満州で生まれました。父は敗戦直前に召集されて捕虜となり、帰国したのが1950年でした。ぼくは7歳で、「この人、誰だろう?」と。その後もいろいろな事情でぼくは祖父母の元で暮らしたので、父母とは縁の薄い子でした。
中学、高校と剣道に熱中していました。剣道部は強くて、福岡市の中学の大会では個人・団体ともに優勝、高校のときもその世界ではちょっとした有名人でした。
一方で、トルストイやロマン・ロランなどをよく読みました。とくにロマン・ロランは好きで、左翼に傾く下地がつくられたように思います。
――今の若い職員に一番伝えたいことは?
問題は常に起きるわけだけど、その一つひとつの局面で、ああでもないこうでもないと議論しながら深めてほしいと思う。問題点を感じる直観力というのはみんな持っているんだけど、大事なのはその問題点を議論の中で深めていくこと。ぼくは議論のタイミングを逃すと大変だから、「これは変だな」と思ったら、何でもいいから一言言って、次の議論に向けて時間を稼ぐようにします。だから、全日本の理事会でも発言は多いほうです。
何事も議論しなければ深まりません。集団の智恵というのは大したものだと、これまで何度思ったかしれません。民医連の魅力は自由な議論ができるところですが、思うことを言えない組織になったら、つまらん組織になるだろうなと思います。
【略歴】
| 1943年3月 |
福岡県福岡市に生まれる
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| 1969年3月 |
鹿児島大学医学部卒業。1年間、大学医局で研修
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| 1970年4月 |
市立病院循環器科で研修し、鹿児島県連の南地区診療所で働く
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| 1971年4月 |
鹿児島大学の第一内科に入局
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| 1972年9月 |
東京・大塚の癌研内科に入局。立川相互病院でアルバイト
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| 1973年10月 |
鹿児島県民医連の南地区診療所所長、県連センター病院づくりと医学生対策、離島医師の体制づくりを担当
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| 1974年2月 |
鹿児島医療生活協同組合として認可
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| 1975年10月 |
鹿児島医療生協・市民病院が開院(27床)。76年に56床、79年に126床、86年226床、87年総合病院となる
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1975年
〜80年 |
鹿児島・宮崎民医連会長
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| 1980年4月 |
市民病院院長に就任、鹿児島生協病院に改称
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| 1989年5月 |
鹿児島生協病院院長を退任、鹿児島医療生協副理事長に就任
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| 1990年4月 |
代々木病院に出向、副院長として東葛病院との合併に取り組む
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| 1992年4月 |
鹿児島に帰任
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| 1996年10月 |
九州全体で北九州健和会を経営再建するため、九州民医連連絡会議を立ち上げ、97年から00年まで大手町病院を支援
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| 1997年4月 |
鹿児島医療生協理事長就任
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| 2000年6月 |
鹿児島医療生協を退職、財団法人健和会に移籍
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2002年4月
〜06年6月 |
財団法人筑豊医療団 直方(のうがた)診療所所長
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| 2006年6月 |
北九州健和会を退職、東京勤医会に移籍
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| 同年 10月 |
代々木診療所所長
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[全日本民医連での仕事]
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1982年2月
〜1990年2月 |
全日本民医連理事
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| 1990年2月〜 |
全日本民医連副会長
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