臨時国会に向けて、教育基本法の「改正」の動きが急ピッチで始まっています。9月20日には自民党の総裁選、25日には民主党の代表選、30日には公明党の大会が前倒しで実施(当初10月予定)され、29日には臨時国会が始まって、教育基本法の「改正」が最重要課題になると報道されています。
医療改悪の時代に、なぜ教育基本法の「改正」がこのように狙われて来たのでしょうか。「教育も医療も共通しているのは『いのちの大切さ』」と語る、勤医会東葛看護専門学校の山田功校長に、先の通常国会を振り返りながら、秋の臨時国会に向けて重要な取組みのポイントなどを存分に語っていただきます。
[1]前国会で、現教育基本法の素晴らしさの再発見が
私は前国会を傍聴して、三つのことが見えて来たような気がします。
第一に政府の態度です。「なぜ改正か」を最後まで真っ当に語ろうとしなかったのです。小泉首相は「衣食足りて礼節を知る。しかし豊かな生活になり礼節はどうか」と倫理観の低下を理由に上げ、小坂文科相は「60年たって時代が変わり、教育に課題が生じている。不足部分の追加改正だ」と繰り返すだけでした。政府は、今回の改悪法が「国民のための教育」から「国家のための教育」に大転換をするところに本質があるので、その危険な本質を国民に知られたくなかったのでしょう。しかしこれでは逆に「なぜ急いで改正する必要があるのか」について、国民に対して説得力ある説明は出てきません。
そこで第二に、際立ってきたのが自民・民主のいわゆる「右派」議員の言動でした。改悪の狙いを乱暴に語る姿が、異様に目立つ国会になりました。教育基本法を改正して「戦争後遺症を教育界から取り除け(町村建夫)」とか、教育基本法改正をかつて主張した「鳩山一郎元首相は『大国民たる自信を取り戻せ』といった」(鳩山邦夫)等々の発言が続き、教育勅語を朗読する議員(麻生太郎)も出て、戦前教育への回帰の意思を露骨に現していました。政府のキレイ事を並べた提案に対しては「今回の改正理由には教育で大切な『不易』の部分が抜かれている。これを書いた役人がいたらぶん殴ってやりたい」(鳩山邦夫)と苛立ちを爆発させていました。これは「オオカミの手」に白い粉を塗るのか、黒い手のまま赤頭巾ちゃんを食べるのか、という次元の論争ですが、こんな所からも改悪案の持つ不気味な本性が、だんだん見えてきました。
第三に、論戦の中で見えてきたのは「改正されると、いかに子どもの教育がねじ曲げられるか」を、院外の人々と呼応しながら明らかにした、改悪反対議員の大奮闘でした(注・特別委員会の45議席中、わずかに共産党・社民党各1議席)。毎回たった10分とか20分の質疑時間しか与えられませんでしたが、これが国会審議の質を一変させ、問題の所在が明確になっていきました。例えば、志位和夫議員が「愛国心通知表」を小泉首相に示し、権力が子どもの心を評価するという問題の重大性を突き付けた時に、小泉首相が答弁に窮した姿は私の目に焼き付いています。小泉首相はやむなく「これはちょっと難しすぎる。あえてこんな項目(愛国心)を持たなくてもいい」と答えました。しかし小坂文科大臣の部下の銭谷局長は「心の評価は出来ないけど、態度の評価なら出来る」とあくまで評価に執着していました。この質疑は、改悪法成立後の教育支配の姿を、国民に事前にわからせてしまい、「文部科学省はこれでスケジュールが狂った(朝日、6月25日)」と報道されています。
[2]人間の尊厳を分け隔てなく大切にする――教育基本法の根幹
ここで少し説明をさせていただきますと、実は教育基本法というのは憲法と同じ年(1947年)に誕生しましたので“憲法と双子”とも言われていて「憲法の理想の実現を、教育の力に待つ」と言って作成されたものです。ですから憲法と同様に、「国が国民にこうしなさい」と求めるのではなく「国民が国にこうするように」と求めていく法律になっています。
例えば教育の機会均等や義務教育9年(授業料無償)、男女共学の保障などが、この法律の第3、4、5条に明記されています。また戦前の教育は、時の権力が人の心の中までドカドカ入り込んで「お国のため」と言って、教育を利用して悲惨な戦争に国民を巻き込んでいきましたので、その反省から今後は、教育は「国民に直接責任を負って行われるべき」という原則が、第10条に鮮明に盛り込まれました。
戦前教育を支配した行政の役割は、教育の「諸条件の整備確立」に限定されました。そしてこれからの教育は、何よりも人間の尊厳を大切にして、どの子もせいいっぱいに伸ばしてあげる「人格の完成」(言いかえれば「人間性の開花」)を目指す。それによって平和的な国家及び社会の形成者の育成をめざしていこう。人間の教育は、学問の自由が保障された自由な空間の中で、あらゆる場所・あらゆる機会に行われ、実際生活に則して、教える者と教えられる者が互いに敬愛しあう中で、協力しあって行われる時に、はじめて目的が達成されていく。このような教育の理念が前文や第1条、2条の中に生き生きと記されています。私は東葛看護専門学校に就任して、実習やフィールドワークを大切にする学生の学びを見て「教育基本法の理念がここでは生きている」という気がしてきました。
[3]「改正」案の狙いは――「お国のため」の教育へ転換
ところが今回の政府の「改正」案では、この国民が主人公となる現行法の理念が逆転されてしまいました。まず「国が国民に求めていく資質」について、「国を愛する態度を養う」(第2条)などと法律の条文で定めておいて、学校や教師には「教育はこの法律にもとづいて行われるべきもの」(第16条)と決めて、行政が上から強制や命令が出来る仕組みを作ったのです。国のいう通りにやっているかどうかの査察と命令が「改正」案では出来るようになり、教師には命令、子どもには評価が持ち込まれます。これを抑制する文言が皆無の法律になるのです。現行法にあった「教育は国民に直接責任を負って行われるべきもの」という大切な言葉は、真っ先に削除されました。
国会では、参考人の市川昭午さん(元国立教育研究所次長)や堀尾輝久さん(東大名誉教授)、石井郁子議員、笠井亮議員、保坂展人議員の発言などで、「人の心を法律で律して良いのか」「道徳と法律の違い」「現行法の誕生の経過」、教育基本法の精神を生かした「フィンランドの教育と少人数学級の利点」などが、次々に明らかにされて、現行教育基本法の大切さと、改悪法の問題点が明確にされていきました。
私はこの国会を見ていて、国民の中に「教育基本法の本当の値打ちが再発見されていくこと」が改正促進者には一番困ることで、これが「改正」推進の最大の障害になっていくと感じて、新たな確信が生まれて来ました。
[4]法案「改正」の背景には――新自由主義の「改革」と、新国家主義の教育の、相乗り
先ほど臨時国会に向けて「改正」促進の動きが強まっていると申しましたが、文部科学省は9月早々から八戸、宇都宮、岡山など各地で教育フォーラムを開き、自民党は安部晋三氏が総裁選挙に向けて「臨時国会で教育基本法を成立させる」などの公約を9月早々に発表し、民主党は「教育のススメ、JAPANマニフェスト」という冊子を作成配布しました。しかしこれらはいずれも「上からの宣伝」の強化です。
これに対して「改正」反対の側は、国会の閉会後も「自分達の問題として教育基本法の大切さを考えていく」地域や職場からの様々な取組みが、多彩に進んでいるところに特徴があります。勤医会東葛看護専門学校でも7月末に公開講座「戦争と教育」が開かれました。講師は地元の千葉大の三宅晶子さんです。ここにはご近所の医療や保育の関係者、学生や教職員などが、約50人参加してくださいました。三宅晶子さんのお話は「心のノート」の問題を明らかにすると同時に、「新自由主義の改革」と教育基本法改悪の関連を明らかにしてくれるものでした。
新自由主義の改革というのは、競争と選択をあらゆる分野に持ち込み、結果は「自己責任だ」と言って、勝ち組、負け組づくりを当然とする「改革」です。三宅晶子さんは「新自由主義の『自由』とは誰にとっての自由か」を問い掛け、「これは資本の規制を緩和するという意味での自由であって」「その改革の名で、本当は利潤に相応しくない『福祉や教育』の世界にも、市場の論理をどんどん導入していく。そしてお金が支払えない人や競争で負けた人は『自己責任』の名で切り捨てていく」と話されました。このやり方は、人間を「生きていく価値を持つ人間と、生きる価値を持たない人間」に分けてしまうものになっていくのです。三宅晶子さんは「いったん人間が『命』に優劣をつけた時、それはどこまで行くのか」という点に触れて、かつての「優生思想」の苦い教訓も示され、さらに現在の医療改革とも重ねて、とても説得力のあるお話をしてくださいました。
会場からは、内申書を気にする高校生の気持ちや、我が子の未来を心配する母親の気持ちが率直に出され、もっと「子どもが生きる喜びにつながっていく教育」を求めていきたいという切実な願いも交流されました。この秋は一人ひとりが自分の言葉で「改正」反対の気持ちを伝えて行こうと、熱く話し合われました。
[5]何層もの取組みをつなぎあって、未来を拓く秋に
90年代から強まった新自由主義の「改革」は、教育だけではなく、社会全般で格差拡大を招き、国民生活の破壊(人間性の破壊)がとてつもない所まで行き着こうとしています。例えば「フリーター417万人の衝撃」とか「ワーキング・プア」のNHK報道番組は、まさに人々に衝撃を与えています。「アメリカ弱者革命」(海鳴社)を書かれた堤未果さんは、貧しい若者がアメリカでも増えて大学進学や医療保険に釣られて軍隊に入り、貧しい人がさらに貧しいイラクの人々を戦争で苦しめている、という様子を鮮明に描き出しています。貧しさと戦争が実は重なっているのです。この新自由主義の「改革」が、憲法改悪の新国家主義の「改革」と合流した形で、まさに日本でも本格化してきたのが教育基本法の「改正」です。
かつて「人間は生まれた時は何も持たないで生まれる。大人になって必要とされるものは、すべて教育によって与えられる」と語ったフランスのルソーの言葉が思い出されます。人間が人間になるために欠かせない教育が、政治の力でとんでもない代物にすり替えられようとしているのですから、気がつけばみんなが立ち上がらない訳がありません。いま教職員を中心に、全労連、民医連、農民連、民主商工会、自由法曹団、新婦人、などが、各界連絡会を結成し、研究者や元校長・教頭が動き始め、各種の市民運動と重なって「何層もの、人々の運動」として繋がっていく姿が見えてきました。私はここに日本のもう一つの未来を見る気がしています。
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