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とげぬき地蔵での「リハビリを守る署名」行動
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6月30日、各新聞社は以下のようなニュースを報じました。
「4月の診療報酬改定によって、医療保険で受けられるリハビリに日数制限が設けられた問題で、『リハビリ診療報酬改定を考える会』は30日、日数制限撤廃を求める約44万人分の署名を厚生労働大臣あてに提出した。日数制限は、難病などを除き、脳卒中など脳血管疾患が180日、運動器が150日、呼吸器が90日。それ以上は、介護保険のサービスを利用することになるが、体制は整っていない。期限を見越して打ち切りを始めた病院があるほか、外来リハビリの閉鎖を検討する病院もあり、現場は混乱に陥っている。日数計算は4月から始まっており、今後、打ち切りが本格化する。署名は、脳卒中の後遺症を抱える多田富雄東大名誉教授や患者団体代表らが呼び掛け人となった。反響は大きく、当初目標十万人分を大きく上回る約44万人分がわずか42日間で集まった。 呼び掛け人の一人で署名を提出した兵庫医大の道免(どうめん)和久教授(リハビリテーション医学)は『このままでは、機能低下を起こす患者が増える。厚労省は、署名の重みをしっかりと受け止めてほしい』と話していた。」
この署名は、1ヶ月余の短期間でかつて経験のない爆発的な拡がりを見せました。運動の幅は広がり、さまざまな立場や考え方の人々が「必要なリハビリを打ち切らないで」という一点に力をあわせたのです。東京では、とげぬき地蔵の巣鴨で街頭署名が行われました。障害を持つ人とその家族、医学部や看護学校の学生、病院の若い職員が署名を訴える姿はいきいきとして、そして新鮮でした。
●東京自由病院の足跡
さて、ここで話がまったく変わることをお許し願いたいのです。しかも時は60年以上遡ってしまいます。
戦後最初につくられた民主的医療機関は板橋区清水町のアメリカ軍の基地施設内にあった東京自由病院で1946年に開設されました。地域の患者さんは基地のゲートを通っていかなければなりませんでしたが、開設4年目にして患者数は約7万に達し、たくさんの信頼を集めました。病院には「人民の人民による人民のための病院」という看板がでていたそうです。まずしい地域でしたので生活保護の受給を憲法25条の生存権としてひろめる活動も旺盛にとりくみました。医師は、中田友也、秋元寿恵夫、守屋茂義、片山茂などそうそうたる名前が並び、院長は新日本医師連盟の銘刈進であったということです。
しかし、大きな足跡を残した東京自由病院は、1950年6月、カービン銃を抱えたアメリカ兵が病院を包囲し、全職員に退去を命じたのです。さしものつわものも、銃剣の前には勝てず、涙を流しながらインターナショナルを歌って、病院を出ました。そして、近くの空き地にテントを張って診療を続けました。
その翌日、1950年6月25日、あの朝鮮戦争が勃発しました。朝鮮半島で戦争を準備する米軍にとっては、基地内の民主的医療機関が邪魔だったのです。
テント診療を続ける職員たちは、梅雨と猛暑に悩まされながらも、歯を食いしばって診療を続けました。テントには自由病院の患者がたくさん押し寄せました。しかし環境が悪すぎました。やがてさすがに矢つき刀折れテント診療を断念しました。そしてこの集団は役割分担から板橋区大和町の富士見診療所(院長:銘刈進)と板橋区小豆沢の小豆沢診療所(院長:守屋茂義)に別れ、それぞれに医療活動をすすめることになりました。住民のほとんどが食糧にことかき、栄養失調によるかいせん患者、結核患者、上下水道がなかったために、赤痢などの伝染病が蔓延する状況で、それぞれの診療所は地域のために頑張ったのです。
この二つの診療所は2キロ弱の距離ですが、その後、それぞれ病院となりました。富士見病院は民医連への参加はありませんでしたが、その違いはあっても今、両病院ともに地域に信頼される医療機関として存在感を輝かせています。
●思いがけない出会い
さて、時はまた現代に戻り、所は巣鴨とげぬき地蔵に移動します。ここで行われた「リハビリを守る署名」行動の写真撮影に行った私に話しかける人がありました。将来リハビリ医療を目指す医学部の6年生の学生さんだそうで、リハビリの日数制限に対して「いてもたってもいられない」ということで署名行動に参加したそうです。
しばらくお話ししていると、あの東京自由病院で活躍し、運命のいたずらで富士見病院に分流し、最後まで富士見病院の発展に尽力された著名な医師のご親戚であることがわかりました。その時、私は激しい衝撃とうちふるえる感動を覚えたものです。あの苦しい時代、民衆の命と健康を守るため、人生をかけて闘った民医連運動の先輩たち。弾圧にもめげず医療を守り抜いた医師たち。その過程で小豆沢病院と富士見病院の間には、民医連であるかどうかの道の違いで交流はほとんどなかったそうです。けれど、地域医療を守る気持ちはひとつだったはずです。
私には、この医学生さんとのとげぬき地蔵での出会いが、まるで民医連運動60年の時空と恩しゅうを超えた邂逅であるかのように思えたのです。また、他に例を見ないほどの勢いと拡がりをみせた「リハビリを守る署名」の運動を象徴するものだとも思いました。思いがけない人々が、この署名行動に参加していたのです。
そして、この「リハビリを守る署名」ですが、代々木病院リハビリ課の言語聴覚士樋口さんを中心に初期の段階から関わったことも付け加えておきましょう。
7月半ばのある日曜日、自宅からほど近い東京自由病院跡地を訪ねてみました。今はバス会社の営業所になっています。太陽がコンクリートの地面に照り返し、我慢できない暑さでした。ちょうど今と同じ季節、この蒸し暑い中で、蚊や暑さに苦しめられながら、テント診療で頑張った民医連運動の先輩たちを思い感慨にふけりました。そして、今回のリハビリ署名のような、今までの枠や概念にない新しい拡がりがたくさん芽生えれば、日本の医療制度をよくする兆しも見えてくるのかな、そんなことを思って跡地に立っていました。
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