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協同組合法vol.32

この人に聞きたい(27)
生き方の軸をずらさない

10月から東葛看護専門学校長に着任した
山田 功さん(67)

 山田功さんは、三上満さんからバトンを受けて東葛看護専門学校3代目校長に着任した。大学4年の時に60年安保と聞けば、熱い時代に熱く生きてきただろうことは想像できるが、山田さんはその想像をはるかに超えた闘志の人だった。都立高校の教員になり、都高教(東京都高等学校教職員組合)の役員になり、42歳から58歳で退職するまで「プロ専従」の書記長として時代と格闘してきたのだそうだ。その筋金入りが、人なつっこそうな温もりのある笑顔をしているところがまたいい。

定時制の教員になりたい

 わたしは数学の教師になろうと思い、東京教育大学理学部数学科に入学しました。大学時代に友人に誘われ、氷川下セツルメントに参加したことが、その後の自分の人生の原点になりました。文京区氷川下町は戦前、小説『太陽の無い町』の舞台になった谷間の街で、台風のたびに大洪水になり、病人が出ても医者が少なくて大変な所でした。それに親が共働きや生活に追われ、子どもがほったらかしになっていた。それを見かねた医学生たちや教育学部の学生たちがセツルメント活動に入ったんです。1950〜60年代のことです。
 子どもたちは小学生の頃はやんちゃで可愛いのに、中学生になると途端に荒れて、神社の賽銭どろぼうやカツ上げなんかをするワルになる。これはどうしたことかと思って、子どもたちに「中学校で信頼できる先生はいないの?」と聞くと、「一人だけいる」と。「誰? その先生は」「マンさん」……ということで、文京区立第一中学校に行き、三上満先生と出会ったというわけです。
 中学校で荒れていた子どもたちも、定時制高校に入ると、なぜかいい子になる。定時制にはそういう力がある、教員になるなら定時制がいいと考え、都立農林高校定時制の教員になりました。

人生の岐路に立たされたとき

 組合活動に飛び込んで、青年部を立て直す活動を始めました。たとえば、それまでの教研(教育研修会)は成功例だけを発表する会だったんですが、失敗例も持ち寄ってみんなで考えよう、そういう実践の出せる会をつくろうということで「実践記録報告会」というのをつくったりとか、次々に新しいことに挑戦していきました。
 定時制には定時制ならではの楽しい「生徒が主体となる学校づくり」の日々がありました。でも、当時は校庭に照明がついていなくて、体育でバレーボールもできなかったんです。「定時制に光を!」と要求し続け、美濃部都政になったら1年でつきました。グラウンドに初めて電灯がともった時は嬉しくてね、生徒も職員も一緒になってフォークダンスを踊ったのを覚えています。様々な団体と手をつなぎ、美濃部革新都政を実現させたのが1967年。力を合わせれば実現できるということを強く実感しました。
 都高教の青年部長を5年やり、79年に書記長に当選しました。折りしも鈴木都政になって保守の巻き返しが始まる年で、「ここは踏ん張るしかない」と、81年、「プロ専従」になりました。プロということは教員を退職するわけで、教員には二度と戻れないのです。しかも役員選挙が毎年あって、その結果で職を失うのも覚悟しなければならず、大変な人生の岐路でした。
 それでもプロ専従の道を選んだのは、「人間の尊厳とは何か」と考えてこれまで頑張ってきた自分の生き方の軸をずらさないで進みたいと思ったからです。以降、97年まで通算17年間、書記長としてやってきました。組合の分裂などもあって相当いばらの道でしたが、「大変な経験をする時にこそ、次の前進が始まっている」と思ってやってきました。
 この経験がいま生かされて、憲法や教育の危機にあたり、私は一方で「教育基本法全国ネットワーク」の事務局長となり、幅広い運動の組織に務めているところです。
 東葛看護学校に着任してまだ1ヶ月ちょっとですが、「人間を大切にする」医療と教育の重なりの大切さを、早速学んでいます。


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