★「なぜ反対してくれなかったの?」
“ピカドンはうつるけん”と、いじめられた幼少期。顔面ケロイドに覆われた姉を見て「どうして?」と尋ねる幼子に、「イタズラをするとなっちゃうんよ」と答える心無い母親。たった4歳だった女の子が、いったいどんなイタズラをすれば、こんな苦しい目にあうというのでしょうか。自分の体に赤紫色の斑点を見つけた日、母の胎内で被曝した里見さん自身もまた、被爆者であることを自覚しました。いつ白血病で死ぬかもわからない、先の見えない長いトンネルの始まり。“もはや戦後ではない”と高度経済成長に浮かれる大人たちの傍らで、苦しみに堪えながら“なぜ戦争に反対してくれなかったの?”と、里見さんは大人の代表として自分の父を責めることになります。
★父の思い
信じていた人との結婚が破談、もう起き上がりたくないと思っていた頃、それまで頑なに口を閉ざしていた父から、被爆当時のことを記した手紙を渡されました。学徒動員に出ていた姉を探し歩いた日々、倒れている少女たちは焼け焦げ、顔を見ても自分の娘なのかわからず、名前を呼んでもうめき声ばかり……。幼少期から責め続けてきた父は、娘を助け出せなかった負い目を一人で抱えながら生き続けていたのです。
★教師として、母として
「教育はすべての戦争を悪と思わない人間を作り出します」。大学卒業後、聾唖学校の教師となった里見さんは、教え子が石を投げられている姿に自分の子ども時代を重ね、聞こえなくても見えなくても人間の命の重みは皆同じであり、平和・平等・命の大切さを子どもたちとの手話で語りあいました。その後の結婚で授かった二人の子どものうち一人は、妊娠中の風疹による障害児でした。「僕の耳が聞こえないのは、お母さんが被爆者だからなの?」と問うていた息子。彼の「戦争は人がするものだから、平和をつくれるのも人だよね」と言う言葉が、里見さんを再び被爆者運動に向わせました。
原爆により背負うことになった人生を生き続けるということが、どういうことなのか理解などできないけれど、ただその理不尽さと共に、その中で生きてこられている里見さんの姿に、命の強さを感じました。
今も世界では戦争やテロによる犠牲者が絶えません。私たちの社会は、大勢の犠牲者が出るような事件の度に、数を追いかけることでその悲惨さを表し、そうしたマスコミ報道に満足してしまうのか、被害者や遺族の方の生活やその後生きていかなければならない永い人生について想像する力が弱いように思います。忙しく平凡な暮らしの中では、苦しみや悲しみを背負いながら、同じ時間を生きている人たちがいるということを想像するのは、そう簡単なことではありません。それでも、本当に大切なことは、亡くなられた方の“数”ではなく、同じ時代を生きている人たちのこととして、表には出てこない部分に心を寄せていくことだと思います。そうでなければ過ちは繰り返されるのではないでしょうか。
語り部として自らの体験を言葉に表現しておられる里見さんの生き方に、感謝せずにはいられない貴重な体験となりました。
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