東葛病院が事実上の倒産状態に陥ったのは1983年。斉藤さんは再建途上の1987年に東葛病院に入職し、以来、再建を担う一人として頑張ってきた。「日々に追われる中で、集団の強さ、優しさを知った」と言う斉藤さんに再建の思い出を語ってもらった。
「今日明日をどうするか」で必死だった
私が入職した87年当時は、東葛病院の別館が銀行とリース会社によって競売申し立てをされ、「医療の火を消すな」の大運動が巻き起こっていくという、めまぐるしい時期でした。
民医連の支援によって医療建設が始まり、病棟を少しずつ増やしていく時期でもあり、看護師は常時不足、「1週間でもいいから来てくれないか」と、機会あるごとに声をかけていました。「婦長さん、いなくなったんだけど、どこに行ったの?」と聞くと、「急に深夜に入ることになったので、一度自宅に戻りました」などということも日常茶飯事。とにかく「今日明日をどうするか」で必死でした。
物一つ買うにも悩んで、「テープを貼ればまだ使えるわよ」などと、できるだけ買わない工夫をしました。電気代を節約するために、職員はエレベーターに乗らない、1階の玄関の自動ドアから出入りしない。廊下の電気は一つおきに消しておく。電気代自体はともかく、節約の精神が大事なんだということでね。この精神は今も受け継がれているような気がします。
物はないし、看護基準なんかも不備だったりするんですが、でも、不思議なぐらい気持ちは熱かった。一人ひとりが「東葛病院の1本の柱」という気持ちを強くもっていたような気がします。だから、私自身も続いたんでしょうね。
それから、地域から支えられているという実感がとても強かった。「東葛病院に頑張ってほしい」という地域の人々の思いが伝わってくるんです。
500人の大集団
93年に旧勤医会と合同し、代々木病院から職員が移ってきました。組織も文化も違う集団が一緒に働くということは、お互いに善意であっても、思いもかけない軋轢が生まれたりします。それで、細かいことまでよく話し合いました。
看護計画、看護目標なども代々木病院から来た人たちはスムーズに立てられるんですが、私たちは、実践する力はそれほど差はなかったと思うんだけど、なにしろ日々に追われていたので、文書としてきちんと残すということでは不十分でした。いわば洗練されていないわけ(笑)。それで、代々木方式、東葛方式ではなく、新しい東葛病院のあり方を考えていこうよということで、少しずつ整備していきました。
95年には、それ以前から準備をすすめてきていた東葛看護専門学校が開校しました。合同直後で看護の中身もまだ十分でないところへ実習生を受け入れなければならないわけですから、それはもう大変でした。一刻も早くレベルを引き上げ、実習生を受け入れられるような病院にしようと頑張りました。現実が厳しいからこそ、一人ひとりの踏ん張りはすごかったと思います。
看護集団は法人全体の約半分、500人の大集団です。しかも、急速に若い集団になってきている。若い人とベテランが育ちあいをしながら、看護の質を上げていかなければなりません。若い看護師をひっぱっていく中堅をどう育てていくかも大きな課題です。
勤医会の看護集団は退職率が低い、特に1〜3年目の退職率は東京民医連の中でダントツに低いんです。東葛病院の再建、合同の困難を乗り切ってきた集団として、「お互いに助け合う」という精神をわりと持っている集団かなと思うんです。それから、看護学校があるお陰で、若い人を育てていく視点が優しいということもいえます。
こうした利点を活かしながら、法人全体の看護を考えていきたいと思っています。 |