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協同組合法vol.15

トピックス/民医連運動に期待されているものは何だろう?

全日本民医連名誉会長 高柳 新

大田病院時代と技術建設

 ――高柳先生は6月20日付で東京勤医会を定年退職されました。引き続き、代々木診療所や南葛勤医協の診療所で診療にあたられますので、勤医会や民医連との縁が切れるわけではありませんが、それにしても定年は人生の大きな節目です。今日は、これまでの先生の民医連人生を振り返っていただきながら、東葛病院の倒産、旧東京勤医会と東葛病院の合同から学ぶもの、これからの民医連運動に求められるものなど、大いに語っていただきたいと思います。
 まず、先生と民医連との出会いからお話しください。

★「出会い」なんて上品なものじゃないけどね(笑)。正式には1968年に大田病院に入職してからですが、それ以前の学生時代から、氷川下病院、小豆沢病院などで夜間の事務のアルバイトやセツルメント活動をしていました。僕が東京医科歯科大学に入学したのが1961年、60年安保闘争の余韻もあって学生たちが政治や社会問題に非常に関心を寄せていた時代で、当然ながら僕も学生運動に熱中しました。当時はインターン闘争真っ盛りの時代でした。
 僕が大田病院に入った60年代の終わりから70年代初めにかけては、「高度経済成長」に伴って医療技術が大きな転換を迎える時期でした。たとえばレントゲンですが、それまでは鉛の服を着て暗闇でガチャンガチャンとやっていた。それがその頃にレントゲンテレビに置き換わっていきます。ファイバースコープもその頃に導入されたものです。
 民医連は戦前の無産者診療所から出発し、戦後の貧困と混乱の中で、朝鮮や部落の人々、生活保護を受けている人々など、根本的に貧しい人々のために垢にまみれて頑張ってきました。ところが、この路線は高度経済成長時代になると行き詰まっていきます。まず医者が来てくれないし、金もない。この限界を打開するためには、その時代の要求に技術的に対応し、医学生が来るような医療機関に変わっていかなければいけませんでした。この「技術建設」という時期を託された世代として僕たちが登場することになった。戦前の無産者診療所から戦後の復興期を担った世代の中に、僕たちが若手として、いわば世代交代のハシリみたいな形で加わったわけです。
 1974、5年頃、医学生を結集することを主たるテーマに、僕は東京民医連の「青年医師の会」を結成し、これ以降、東京民医連の活動にのめりこんでいきます。1978年には全日本民医連の理事になりました。

東葛病院の再建運動から学ぶ

 ――80年代に入り、83年3月に山梨勤医協が倒産し、民医連全体に激震が走ります。

★山梨勤医協の倒産は、民医連の歴史にとって1つの段階を画した重大事でした。それまでは医療力量の水準をあげようと頑張ってきたわけですが、山梨倒産で激しいリアクションを受けた。つまり、技術建設、巨大病院化の失敗が突きつけられたわけで、これ以降、それをどう乗り越えていくかが主要な関心になった。それは同時に経営問題を真剣に考える契機にもなりました。

 ――続いて83年9月に東葛病院が倒産するわけですが、東葛病院は民医連加盟の病院ではありませんでした。それなのにまず東京民医連が支援を決定し、次に全日本民医連も支援を決め、支援の輪が次々と広がっていく中で再建運動が進んでいきます(詳細は東京勤医会発行『支えられ、明日に希望つないで――東葛病院再建運動の歩み』参照)。その立役者の1人が高柳先生であったことは周知の事実ですが、先生の中には展望があったのですか。

★全くなかった。山梨勤医協の再建の目鼻がついていない必死の時期ですから、「東葛には手を出すな」が合い言葉だった。さらに、東葛病院は「民医連とは一線を画す」ことをウリにした市民運動でつくられた病院でしたから、「民医連ではないのに、なぜ支援するのか」という疑問の声も大きかった。
 たしかに、市民運動の失敗、大学医局依存の医療の失敗は明らかでした。しかし、「民主的な医療機関が欲しい」と切望した地域住民がお金を出して支えてきたわけですから、東葛が破綻したら、住民の人たちは甚大な被害を蒙るし、民主的医療機関全体も激しい攻撃にさらされます。これは全力をあげて防衛するしかないと思った。僕は「民医連という枠組だけで考えず、民主的医療運動の大同団結ということで支援に踏み切ろうじゃないか」と訴えました。そして、ムチャクチャ走り回って1週間単位のような短期の医療支援活動を組織しながら、少しずつ前へ進んでいったわけです。時間を稼ぐんだ、そのうちにチャンスの芽が出てくるという思いだった。
 経営危機、あるいは医局の崩壊現象など、民医連の中では今も危機は生まれています。自分の法人の暖簾だけを守ろうとするやり方ではこれからも危機は生まれるでしょう。そういう点でも、東葛病院の再建運動から学ぶものは大きいと思います。

 ――民医連に生まれている危機、これからも生まれるであろう危機に対して、旧勤医会と東葛病院の合同、そしてその後の10年の歩みの中から引き出せる教訓というものがあるとすれば、それは何だと思いますか。

★法人合同によってこそ、代々木病院の建て替えも、東葛病院の債務返済と医療活動の飛躍的前進も実現できたということです。
 一方で、歴史や文化の違う2つの法人の合同は、セクト主義、独善、官僚主義との闘争でもあったわけです。民医連だけがうまく行くなんていうけち臭いことを考えていると、いつか民医連は消失してしまう。
 民医連が期待されているのは、医療・福祉という枠だけではない期待だと思う。医師会の中にも、「民医連は嫌いだけど、つぶれないでくれ」と思っている人がたくさんいます。この客観的に期待されているものはいったい何か。これをつかまえないと、単なる「同業者連合会」になってしまう。そうなってしまっては、大きかろうと小さかろうとじつにつまらない集団になってしまいます。
 たとえば、「民医連は差額を取りません」というのは、僕らの清らかさをアピールするためではなく、国民の暗黙の期待を代弁しているからのはず。本来もっとも公共的に充実させなければならない医療や福祉が次々に撤退させられているときに、医療従事者が手を組んで、そういうものを部分的ながらも実現しているわけで、それは将来に対するメッセージでもあるわけです。

「人間、平等、平和」の旗を高く掲げて

 ――ズバリお聞きしますが、今、民医連に求められているものは何だと思いますか。

★自分たちのやろうとしていることを確認しながらも、他の人たちは民医連に何を期待しているんだろうということを、反対の立場の人たちとも大いに論争したり話し合ったりして、反対意見と共存しつつ進んでいくスタンスだろうと思います。
 医療や介護は極めて地域性が高く、生々しく現実の諸問題を議論することができる場所になっています。グローバリズムを最も根本的に批判する可能性のある特質みたいなものを持っている。そこで暮らしている人たち、そこで働いている人たちとの人間的つきあいの中で形成されてくる、えも言われぬ人間的要素。そこがこれから民医連が進んでいくうえの立脚点になると思います。
 たとえば、パート、アルバイトなど不安定雇用の青年たちが中心になって2000年に「首都圏青年ユニオン」という労働組合を結成しました。組合員は120名、まだ小さいけれども、希望を感じさせる組織です。青年の雇用問題は日本が今抱えている最も困難なテーマの1つです。僕も「支える会」の呼びかけ人の1人になっていますが、民医連もこういう団体を支援し、手を組んで、日本の諸問題をダイナミックにとらえていったらいいんじゃないか。これまでの「在庫」に頼っていてはだめで、外に出て、智恵やパワーを獲得しつづけることが重要です。

 ――高柳先生はよく「勤医会は1周遅れの1等賞だよ」と言われますが、勤医会はまだその位置にいますか。

 りっぱにいますね。というか、どうも3周遅れの1等賞になりたいらしい(笑)。遅れているすごさというものもあると思うんです。むやみやたらに追いつき追い越すということはせず、慎重に見ながら、問題を内外に提起しつづける。これは普遍的なものをきちんとやろうという思想でもあるわけです。
 ちょっと大きくなると、大きくなった嫌らしさみたいなものが出てきて、企業組織のノウハウみたいな、軽率な企業管理論みたいなものが出てくる。しかし僕はそこに本質的な焦点はないと思っています。たとえば、コンピュータは大いに活用すべきですが、思想は語りません。
 今の日本は大変な局面にあります。苦労しているなんていうレベルではなくて、世界の中の日本はとんでもない役割を果たそうとしている。世界中に暴力と貧しさを押し付けて、国民はそのあおりをくって追い込まれ、自分の世界に閉じ込められ、分断されていく。今、焦点は憲法です。憲法についてどれだけたくさんの人と論議したり手を組んだりできるかが非常に重要です。せっかく小泉内閣がグローバルな時代を提起してくれているわけだから、僕たちは狭い枠にとらわれず、「人間、平等、平和」の旗を高く掲げて挑みかかろうではありませんか。





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